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18. 熊の子ども



 もう家まであと30分くらいで着くというころ、ガクがシンに耳打ちした。

「ちょっと気になることがあるから、先を見てきたいんだけど、なぎさんと一緒に歩いててくれる?」

 シンはすごーく嫌だった。ガクの話ばかりするなぎと歩いたところで、なぎはきっとガクの話を続けるだろう。

「どうしたんですか?」

 シンはとりあえずそんなことはおくびにも見せず、理由を聞いてみた。

「誰かが呼んでいる」

 ガクはそう言いながら、耳を傾けるようなしぐさをしている。何かが聞こえるらしい。

「誰かって、動物ですか?」

「うん、多分あれだ」

「・・・熊?」

「し!」

 ガクはシンの口を押えた。ガクには、なぎが必要以上に熊を怖がっていることがわかる。ここで、熊の話題を出して怖がらせたくない。

「なぎさんと二人の時に、遭遇したらどうする?」

 ガクが小声で言った。あくまでも「熊に」と言わない用心ぶりだ。

「後ろを向かず、逃げます」

「うん、まずはそれ。基本形。距離が近かったら、逃げ切れないから、意表をつかないとダメだよ」

「う」

 シンは困った。自分一人だったらいくらでも逃げようと思えばできるが、女の子と二人。放って行きたいが、ダメだろう。

「絶対になぎさんは守らなければならないから、威嚇は禁止」

「はい」

「方向違いの木で派手な音を立てて、注意をそらせて、ツツで木に上がる。あの人なら小さいから抱えられるだろ?あとは空渡りだ。今からツツを出しておいた方が良い」

「わかりました」

 ツツを出しながら、シンの顔に緊張が走る。

「ガクさん、僕が先を見てくるのはダメですか」

 なんだかその方が良いような気がしてきた。いくらなんでも、ガクがいない時になぎを守るのは荷が重い。

 ガクは少し考えたが

「うん、じゃあ、頼んだよ」

 と言って、シンを送り出してくれた。シンは少しホッとしながら、これからの帰り道に熊がいないかを探しに行った。



 シンは空渡りをして、家までの道のりを見に行った。なぎの歩く速度から考えると、シンが一度家のそばまで見に行って戻ってきてもまだまだなぎたちは歩いているはずだ。

 シンは慎重に暗くなり始めた地面を観察した。大きな熊の身体を見損なうことはないだろうが、熊の痕跡を探せれば、その姿がなくともそばに熊がいることがわかる。

 まだ家まで15分くらいのところで、シンは地面に降りた。探していたものを見つけたのだ。シンはそれをよく観察して、ガクのところへ飛んで戻った。

「ガクさん!」

「シン、どうだった?」

「ありました。竹藪から少し北の辺りです」

「うん、あそこだね」ガクが頷く。

「新しい糞が点々と繋がっていました。下痢をしています」

「上出来。シンありがとう!」

 ガクは少し進路を西側にとって歩きはじめた。大丈夫とは思うが、遭遇しないに越したことはない。

 ところが10分くらい歩いたところで、ガクは地面に熊の糞を見つけた。

「ああ、ここにもある」そう言ってしげしげと観察した。「これはタケノコを食べて下痢をしたな」

 観察していると、なぎも覗き込んできた。

「なんなの?」

「ああ、俺たちはこうやって糞の状態を見て、動物の健康を知ることがあるんだ」

「ふぅん」

 その時ガクはドキリとした。熊の声が聞こえたのだ。大きな熊が子熊を探している声だ。すぐ近くではないが、遠くはない。気を付けないと鉢合わせする。

「急ごう」

 ガクは小走りになりそこを出発した。どうも子熊の声も聞こえるような気がする。

 シンはツツを握りしめ後ろを気にしながら走っていた。ガクはなぎを気遣いながら道を踏みしめていた。

 ガクは誰よりも動物に詳しいが、さすがに素人を連れているときに、動物のことばかりを考えているわけではない。なぎが無事に走れることを考えていて、一瞬遅れをとった。なぎの方が先に気づいたのだ。

「わあ!かわいい!」

 こんもりと茂った熊笹の中にちょこんと顔を出している子熊になぎが気づいた。こんなに暗いところに静かにしている熊によくも気づいたものだ。

「近づかないでください」

 ガクが小声で言ってもなぎは熊の方へ近づこうとした。なぎは熊が怖いくせに、子熊はどういうわけか怖くないようなのだ。

「そっちに行かないで」

 ガクがなぎの腕を少し引くと「きゃ」となぎが驚いた声を出した。

 その声に、子熊が驚いた。



 ガクには分かった。今の子熊の反応に親熊が気づいたと。まだ距離はある。しかし、すぐにこの場を立ち去らなければならない。

「シン、彼女を連れて行って」

 ガクは子熊に近づいた。しかし、なぎはそこから離れようとしない。

「何なの?どうしたの?」

「下痢をしていたのはお前か」

 ガクは子熊に話しかけた。ガクはこの子熊が下痢をしていて腹痛を起こしているので可哀想になってしまった。とはいえ、今は案内の仕事中だ。

「なんでもありません。シンと一緒に行ってください」

 とにかくなぎをこの場から離さなければならない。ところが、困ったことになぎはこの場を離れようとしないし、子熊はガクに寄ってこようとしている。子熊だけが寄ってくるのは構わないが、親熊が今しもここにやってこようとしているのだ。ガクは気持ちが焦った。

 子熊は人間を怖がることなく近づいて来ようとしていた。もう、ガクと手を伸ばせば触れる距離だ。子熊とはいえ、熊なので近づけばかなりの重量感だ。

 しかし、なぎは子熊に触りたいのか、ガクがいるから大丈夫だと思っているからか、彼女も子熊に近づいてきた。

「お願いです、離れてください」

 頼み込むと言うことをきいてくれるので、なぎは子熊から少し離れた。でも、その場を離れようとはしない。ガクもなぎがそこにいては、子熊から離れるに離れられない。

「なぎさん、あっちに行きましょう」

 シンも危険を感じてそこから引き離そうとするのだが、なぎは小熊にくぎ付けで、シンの言うことなどこれっぽっちも聞こうとはしない。

 そしてついに、ガクの恐れている時が来てしまった。親熊が来たのだ。

 子熊を正面に、ガクが立っている右横の藪がざわざわと鳴っている。ガクにもシンにも子熊にも親熊が来たことがわかる。ただなぎだけが、それを理解していなかった。

 緊張が走るガクとシンの前に熊が現れた時、一番驚いたのは勿論なぎだった。

 人間、驚くと無表情になるらしい。それまでずっとにこやかにペラペラお喋りしていたのが、いきなり全く表情が動かなくなってしまった。



 シンとなぎは、全く動けなかった。しかし、動けるものは動ける。

 熊だ。

 子熊はなぜかガクに一歩近づいた。

 親熊もガクに近づいた。

 こんな時でも、ガクは冷静だった。

「シン、なぎさんを連れて下がれ、ゆっくり」

 シンはハッとした。そうだ、案内の仕事中だ。至近距離に熊がいても、やらなくてはならない。

 ガクは低い声で、何かを喋っている。子熊はガクから少し離れ、親熊に近寄った。親熊もそんなに興奮した様子はない。この分なら大丈夫だ、とシンが思った時、なぎが動いた。

「う、う」

 今まであまりにも驚きすぎて動けなかったのが、少し溶けたのだろう。声が出た。そして、腰の辺りをしきりに触っている。そう、腰には彼女の七つ道具がぶら下がっている。何かないか無意識に探しているのだ。

 その中になぜだか、ガクが禁止した唐辛子爆弾があった。なぎはその唐辛子爆弾を掴んだ。

「シンっ」

「はい」

 シンがなぎを後ろに下げようと肩に手をかけると、彼女は意識が戻ったような顔になり、唐辛子爆弾を腰から外した。

「なぎさん、やめてください」

 ガクの小さな声はなぎの耳には入らないようだ。親熊だけをジッと見ている。

 それでもガクは冷静さを失わないで、ガクとは思えないほど低い声で熊に語り続ける。

 ガクは横目になぎを見た。なぎの手は、唐辛子爆弾を投げようとしている。

「なぎさん、ダメです」

 シンがなぎの腕を抑えたが、なぎの腕は信じられないくらいの力で唐辛子爆弾を掴んでいた。

 ガクの低い声に、熊は一歩下がる。しかし、なぎの殺気を感じるのだろう。そこから去ろうとしない。

 そして、なぎは唐辛子爆弾を投げてしまった。

「だめだ!」

 ガクが叫んだが遅かった。いや、もう投げることは彼女の中では決まっていたのだから仕方がない。投げなければ終わらないのだ。

 しかし、それがどんなに危険なことかはなぎにはわからなかった。



 その瞬間に、熊は手を振り上げた。

 こうなっては最後の手段だ。

「シン、飛べ!」

 シンはハッと息を吸うと、ツツを木の上に放った。なぎの帯を掴み胴体を抱え込むと、左手の腕力で紐にぶら下がった。大きく反動をつけて蹴り上がり、一番近くの木の枝になんとか飛び乗る。いきなり身体を持っていかれて宙に浮いたなぎには自分に何が起こっているのかわからなかっただろう。シンは、そのまま次の木にツツを放り、なぎごと飛んで行った。そうなれば、熊はもう追ってこられない。

 しかし、ガクは熊の前にいた。熊が振り上げた手を、シンとなぎに当たらないようにするには、自分が盾になるしかない。とっさに両腕を顔の前に立て顔を守ると、その腕で熊の爪を受けた。

 ガクは熊の爪を手甲で受け、そのまま吹っ飛んだ。3メートルも飛ばされて、大きな木の幹に背中から激突した。

 あまりの衝撃に息ができない。ガクが喘ぐように息を整えていると、子熊の声が聞こえた。ガクにはそれが親熊をとりなしているかのように聞こえた。その声のおかげで、親熊はそれ以上ガクを襲ってこようとはしなかった。もともと、子熊さえ無事ならば、親熊とて人を襲おうとは思わないのだ。子熊の声で冷静になったのだろう。

 熊はすぐに姿を消した。

 それでも、ガクはしばらく静かにしていた。まだその辺にいるだろう。声を出したり気配をさらすのは、また熊を刺激してしまう。今はあまり機敏に動ける状態ではないのだから、苦しい息を殺して完全に熊がいなくなるのを待った。

 そしてもう良いと思ってから、ゆっくりと起きだし、ガクは音もなく一人家に向かって歩いて行った。


◇◇◇


 家の前には、シンとなぎ、それからワタルが待っていた。ワタルがガクに駆け寄った。

「大丈夫か?」

「うん」

 ガクは大した怪我をしてないようで、ワタルは安心した。

「どれ」

 と言って、ガクの手甲を見る。大きくて強い熊の爪の痕を、ワタルは複雑な顔で見ていた。

 玄関に着くと、なぎが神妙な顔をして謝った。

「本当にごめんなさい」

 なぎは今までからは考えられないほどしゅんとしてしまっていた。仕方がないだろう。森での危険を前に森守りの言うことを聞かなかったのだから。でも、反省しているのだ。

「いえ、大丈夫です。森守りですから」

 ガクが少し笑顔を見せるように答えたので、なぎはホッとした。

「それにしても」ガクが言った。「唐辛子爆弾、破裂しませんでしたね?」

 なぎが投げた唐辛子爆弾は、唐辛子が飛び散らなかった。

「ううん、ちゃんと破裂はしたんだけど、中身が抜かれてたのよ」

「抜かれてた?」ガクが聞いた。

 そこでワタルが顔を出して、話の中心に入ってきた。

「こんな危ない女が、唐辛子爆弾なんて持っててみろ、危険度10倍だぞ?それをわかってて、そのまま持たせる森守りがあるか?」

 ガクは言葉を失った。ガクにも唐辛子爆弾は危険だと分かっていた。それで、荷物の中にしまってもらったのだ。それでもう安全だと思っていたのだ。

 それなのに、どういうわけかあの時、唐辛子爆弾はなぎの腰に付いていた。

「だから、昨日の晩のうちに、こっそり中身を抜いといたんだよ」

 と、ワタルが腕組みをしながら威張って言った。

 なんとさすが、なぎのことを知っているワタルだ、とガクは思った。しかし、なぎのことを知っているからではない。森守りとしてやったことだ。そこまでやらなければ、危険は防げないことがあるのだ。

「まだまだだな」

 ワタルの言葉に、ガクは負けた、と思ったのだった。



◇◇◇


 なぎの案内はなんとか終えることができた。シンは初めての案内の仕事で、北の森と熊と素人の組み合わせがいかに危険であるかを実感した。

 当のなぎは、大変満足したようで、砂糖楓の木に新しいカラクリを作ることを森守りたちに約束し、そうしてワタルたちに連れられて、また町へと帰って行ったのだった。



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