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SSごった煮

旧校舎の女幽霊

作者: 2Bえんぴつ

旧校舎に、午後六時頃からオルゴールが流れ始める。

活発だった運動部の一部は片付けに入るだろうという時間帯。

吹奏楽部の奏でる楽器の音が小さくなる時間帯。

そんな時間帯に、耳を澄ませば聞こえてくるオルゴールの音。

その音を聴いたという生徒は何人もいるが、誰が流しているのかは誰も知らない。


「有りがちな話だね」

「おまっ....一言で片付けんなよ....」

各々が部活だったり自習だったりといった風に過ごす放課後。榊原飛鳥は購買で買ったジュースを飲みながら談笑していた。

「で?そこに行った人はいるの?」

飛鳥が促すと目の前で話しているクラスメート、早川友樹は楽しそうに笑った。オカルト好きにはたまらない話題なのだろうが、生憎飛鳥にはあまり興味がない。それでも一応促してやるのが礼儀だろうか、と飛鳥は話の続きを聞くことにした。

「日が落ちると、旧校舎の一室で灯りが点くらしいんだ」

「誰かいるってこと?」

「いや、それが見に行ってみたら灯りは消えているらしい」

「....へぇ」

「てわけでさ」

友樹は身を乗り出してにやりと笑う。悪戯を思いついた子どものように、無邪気な瞳で。

「行こうぜ、旧校舎」



「見つかっても知らないからな」

原則、旧校舎は立ち入り禁止である。理由は様々あるが、とにかく入ってはいけない。

「っし、開いたぜ」

「うわぁ....ほんとに開けてしまうとは思わなかった」

ギィ、と鈍い音をたてながら扉が開かれる。

「おじゃましまーす....。うわ、埃がすげぇ」

「そりゃあ、そうでしょ。廃校舎なんだから」

飛鳥は念のため、と持っていたハンカチを口に当てる。

ふと辺りを見回すと、暗い旧校舎に入ってくる光がどこか幻想的に廊下を照らしていた。人が入ったことによって舞っている埃が照らされ、目がチカチカする。

「....おい、耳澄ませてみろよ」

突然、前を歩いていた友樹が真剣な顔で飛鳥の方を振り返った。

「…オルゴールの音、聞こえるか?」

友樹の声に、飛鳥は息を飲んで耳を立てる。部活動の音も比較的静かではあるが鳴っていて、その中に明らかに違う音がひとつ。

「…鳴ってる」

ボロボロと、金属の音が飛鳥と友樹しかいない旧校舎に響く。

それは例えるなら無機質な廊下に浸透していくように。

すとんと心に落ちるような心地よい音が、飛鳥の中に広がって…

「おい!飛鳥!ぼーっとすんなよ!」

「っ、あごめん」

友樹の声に、何処かへ飛びそうになっていた意識が引き戻される。

「どうやらただの噂じゃないみたいだな」

少し青ざめた顔でそれでもなんとか余裕であると見せたいのか、友樹は背中に冷や汗が流れるのを感じながら引き攣った笑みを浮かべる。

「誰かが鳴らしてるだけじゃないのか?」

「それなら、なんで鍵は閉まってたんだよ」

「んー....中から閉めたとか?」

「怪談の噂があるところに閉じこもりたいとは思わねぇな」

「それもそうか....」

そうこうしている間にも、辺りは暗くなっていく。急がねば、いろいろと不味いだろう。友樹もそれを感じ取ったのか先程よりは余裕のない顔で飛鳥を促す。

「光は三階かららしい」

「....了解」

毒を喰らわば皿までと言うべきか、乗りかかった船と言うべきか。

どちらにせよここで反転して帰るという選択肢は、人並みの好奇心を持ち合わせた彼にはなかった。

二人は階段に足をかけて、ゆっくりと登り始めた。



「....光ってないな」

「おかしいな....毎回三階だから、今回も三階だと思うんだけど....」

三階に到着してみると、人の気配どころか光すらも感じない。その上オルゴールの音も消えている。やはり聞き間違えたのだろうか、と飛鳥は半信半疑に陥る。

「よし....ふた手に別れよう。俺が二階を見てくる」

「え、あっ、ちょっ」

止める間もなく友樹が階段の方へ駆け出す。

「....三階を探索するのが怖いだけだろ....」

ため息をついて、仕方が無いと歩き始める。ひとつひとつ覗いてみるも、人の気配はない。が、しかし

「ん....?なんだこれ」

ある部屋に入った時に違和感を感じた飛鳥は立ち止まった。

「なんでこの部屋だけ....綺麗なんだ」

埃が舞っていない部屋はここだけだった。飛鳥は息を呑んで中に入る。

中を歩いていると、何かを蹴った感触があった。飛鳥は下を向いてそれを見下ろす。

「オルゴール....?」

銀色の箱の小さなオルゴールが転がっていた。

「これが音を....」

と、その時だった。

「あっ....」

背後から聞こえる小さな、女の声。それは飛鳥の背筋に刺さるように部屋の中に響く。

「ッッ!?」

咄嗟のことで飛鳥は反応しきれない。否、反応『できない』。

頭を過るのは友樹に聞いた話。音を聴いた者はいれど....姿を見た者はいない。それはすなわち....


「ねぇ。それ、返して」


女の手が、飛鳥に触れた。














「....」

「もう少し待ってね」

暗い旧校舎の一室に光が灯り、心地よいオルゴールの音が響く。

「....」

「どうしたの?」

「いえ....特に」

「そう?はい、できたよ。あ....ココアは苦手....じゃないよね?」

「好きですよ。ありがとうございます」

女から可愛らしいマグカップを受け取って飛鳥はココアに視線を落とす。


....どうしてこうなったのか。

あの時飛鳥は殺されると思っていたのだが....どうしてかその女は今目の前でふわふわと笑っている。状況が状況でなければ、可愛らしいとさえ思ってしまうだろう。但し今は簡単に気を抜くことはできない。

「....こんなところで、何をしているんですか」

「何って?住んでるんだよ?」

「住むって、え....?廃校舎に....?」

「そうだよー。意外と居心地いいよ?ここ。廃棄されてても教室だから広いし。水とか通ってないのは不便だけど、机には困らないし、掃除用具もあるから掃除もできるよ」

「いや、そういう意味じゃなくて....家に帰らないんですか?」

「うーん....帰りたくはないかなぁ。帰ったら何されるかわかんないし」

女はまだふわふわと笑っている。それは逆に表情を隠しているようで、飛鳥は女の真意を掴めないでいた。

「そういえば、名前を聞いてなかったね。私は小鳥遊香代子って言うんだよ」

「俺は榊原飛鳥です」

「男の子なのに、可愛い名前なんだね」

ココアの入ったマグカップを見つめたまま、飛鳥は質問を考える。

「どうやって生活してるんですか?」

「んー、水まわりのことはこの学校のものを拝借してるよー。まだここの制服持ってるし」

「卒業生....なんですか?」

「そうだよー。多分君たちの二つ上くらいじゃないかなぁ」

相変わらずふわふわと笑ったままの香代子だが、どうにも飛鳥には彼女に見覚えがなかった。中高一貫校であるこの学校は、比較的に中高で交流が多いのだ。

「あんまり学校に来てなかったからねぇ」

「部活は....?」

「料理部。って言っても部員は私ともうひとりだけだったけどね」

「そうなんですか」

「そだよぉ。楽しかったけど、やっぱりもう少し部員欲しかったなぁ」

見つめていたココアからあがる湯気はなくなってしまい、そのうえ外は完全に暗くなっていた。帰らねば、と思う反面もう少しここにいたいとも思ってしまう。飛鳥は溜息を吐いて携帯を取り出した。

「あ、学校に携帯は持ってきちゃダメなんだよぉ」

「いいんですよ。バレなきゃ」

「それもそっかぁ」

親に帰りが遅くなる旨のメッセージを送って、飛鳥は冷めきったココアに口をつけた。

「俺たち以外にも、ここに乗り込んできたやつらっていないんですか?」

「たくさんいたよぉ」

ふわふわ笑っている香代子は二杯めのココアを淹れはじめた。

「どうやって隠れたんですか?」

「うーん、飛鳥くんが内緒にしてくれるって約束してくれるなら、教えてあげるけど....」

「バラしませんよ。バラしたら俺がここに来たこともバレますから」

「そっか。じゃあ、明日の放課後、六時にここにおいで。待ってるから」

「....わかりました。じゃあ、今日はもう帰ります」

「うん。おやすみ」

「おやすみなさい」



放課後、飛鳥はひとり教室に残っていた。教材を開いてはいるものの、頭の中は彼女、香代子のことで埋め尽くされていてまるで集中できない。

ちなみに、友樹はあの後ひとりで怖くなって帰ったらしい。全くもって薄情なやつだと飛鳥は冷めた目で溜息を吐いた。

「そろそろ....六時か」

一ページも進まなかった教材を仕舞い込み、飛鳥は席を立つ。荷物を全て持って向かう先は、旧校舎。

道中誰にも見つからなかったのは幸いだが、飛鳥は旧校舎の前まで来て首を傾げることになった。

なぜなら

(俺....鍵開けられないんだけど)

来たはいいものの、中に入るための手段を持ち合わせていなかった。どうしようかと悩みつつ首元を掻いていると、小さく声が聞こえてきた。

「飛鳥くん、こっちだよ」

それは紛れもなく香代子の声で、飛鳥は声がした方....旧校舎の裏側に回った。

「こっちこっち。ここだよ」

「....なにしてるんすか」

「何って....出てるんだよ?」

夕暮れ時で薄暗い学校の、さらに薄暗い校舎裏。その壁の一角に穴が空いていた。が、それは明らかに人が通るには小さくて、細身な香代子でさえつっかかりながらなんとか這出ることができる、というレベルである。

「ここ....使ってるんですか?」

「そうだよぉ。荷物があるときは先にそれを中に入れてから入るの」

「....汚れないんですか」

「ちゃんと掃除してるから大丈夫だよ。さ、入って入って」

「....そっすか」

恐る恐る入ってみると、引っかかりながらもなんとか中に入ることができた。後から香代子も入ってきて、よいしょ、と声をあげて立ち上がる。

「ふぅ。でももうすぐここも使えなくなっちゃうんだよねぇ」

「なんでですか?」

「んー、それは上で話すよぉ」

少し儚げに笑いながら香代子は歩みを進めた。飛鳥は香代子の笑みに少し鼓動を早めながら付いていく。

暗い部屋に明かりを灯し、オルゴールを鳴らす。昨日聴いたものとは違う音色だった。

「オルゴール、どれだけ持ってるんですか?」

「うーん。趣味だからねー。20くらいあるんじゃないかな?」

ロッカー開けたら出てくるよ、と促されて飛鳥が部屋にある建て付けの悪いロッカーを開くと、確かにたくさんの箱が出てきた。

「そういえばさ。なんでみんな私の所に来るのかな。ここって立ち入り禁止だよね?」

晩御飯だよー。と言いながら何処に仕舞いこんでいたのか、包丁を取り出して野菜を切る香代子が不思議そうに言った。

「小鳥遊さん、怪談になってるんですよ」

手伝いましょうか、というと大丈夫。と香代子は笑う。

「怪談?なんで?....あ、香代子でいいよ?」

「じゃあ香代子さんで。立ち入り禁止区域に、午後六時くらいから光が灯って、オルゴールの音が鳴る....っていう噂です」

「うわー、怖そう」

まるで他人事のように笑う香代子に対して飛鳥はため息を吐く。

「はい。できたー」

「ずいぶん大食いなんですね」

「え?私この半分だよ?」

「....え、俺も食べてくんすか」

両親には、晩御飯いらない。とメールを入れた。



「ごちそうさまでした。おいしかったです。ありがとうございました」

「はぁい、お粗末様でした」

「やっぱりよく食べますね」

「そうかな?」

使い捨てられる紙皿を重ねてゴミ袋に放り込みながら、香代子は首を傾げる。

「でも、そうだね。たくさん食べて栄養をつけておかないといけないから。....赤ちゃんのためにも」

そう言って香代子は自分の腹を撫でた。

「....え?」

あまりにも自然で唐突すぎる香代子の言葉に、飛鳥は反応するタイミングを逃す。ふわりと投下された爆弾が飛鳥の言葉を吹き飛ばしたようだった。

「赤ちゃん....って、香代子さん....」

「そうだよ。私妊婦さんなんだぁ。だから、もうすぐあの入り口も使えないの」

飛鳥は椅子に座って笑う香代子の左手を見た。だが、そこに本来あるべきはずの輝きは見られなかった。

「デキ婚ですか?」

「んーん。結婚してないよ」

「え、じゃあ相手は何を....」

「何してるんだろうね」

さらっとおかしなことを連発して言う香代子についていけなくなって、飛鳥はこめかみを抑えた。

「えっと....香代子さんはそれでいいんですか?」

「うーん、よくないけど....だって誰が父親かわからないんだもん」

さらに投下された核弾頭に、飛鳥はお手挙げだと天を仰いだ。



渡されたココアを飲んでひと息つき、頭を整理させる。

「ひとつ聞きますけど....」

風俗嬢ですか?という声は小さかった。

「そんなわけないよぉ。失礼だなぁ。誰かと付き合った覚えもないのにぃ」

「えっ」

次々と投下されていく爆弾たち。

「あでもね、多分だけど心当たりはあるんだぁ。確証はないんだけどね」

「誰ですか....?」

この後すぐに飛鳥は質問したことを後悔する。何故なら....

「私の父親」

予想の斜め上を行っていたからだ。

「....は?」

ぶっ飛んだ答えに飛鳥の頭が真っ白になった。

「だって私誰かと付き合ったことないし、抱かれた記憶もないし。お酒も呑んだことないから酔った勢いでー、っていうのもないでしょ?だったら寝てる間に....しか思いつかないもん。そんなのできるの、あの人くらいだろうし」

完全に停止した飛鳥を他所に、香代子はふわふわと続ける。

「まあでもよくやるよね。虐待してる自分の娘を襲うなんて」

「まって、待ってください香代子さん。俺の理解が追いついていませんから」

「あれ?大丈夫?ココア足りてる?」

「ココアは足りてます」

どこまでもマイペースな香代子は私は足りてないなー、と言いながらココアを注ぎ足す。

「頭の整理をさせてください」

「いーよ?」

飛鳥は手を開いて指を一本折り曲げる。

「まずひとつ....香代子さんは妊娠している」

「そうだね」

「ふたつめ....子の父親が誰か、明確には分かっていない」

「うん」

「みっつめ....予想では、香代子さんの父親である」

「いぐざくとりー」

「よっつめ....虐待を受けている」

「いえーす。あ、見る?」

「遠慮しておきます。いつつめ....香代子さんは学校に住んでいる」

「旧校舎にねー」

片手では足りず、飛鳥は左手を掲げた。

「むっつめ....帰るつもりはない」

「帰りたくないもん」

「....なるほど、だいたい繋がりました」

要するに、とココアを飲んで飛鳥は至った結論を口にする。

「虐待してた父親に子どもを妊娠させられ、その事実がバレたらただじゃ済まないだろうから家には帰りたくなくて、母校の旧校舎に住み始めた....と」

「はなまるだねぇ。そのとおりだよぉ」

香代子は楽しそうに手を叩く。飛鳥は何度目かわからないため息を吐いた。

「役所に虐待受けてることの相談は....?」

「したんだけどねぇ、なんかあんまり協力的じゃなかったなぁ」

「子どもはどうするんですか....?」

「産むつもりだよぉ」

香代子は優しく自分の腹を撫でる。

「どうして....?望まない妊娠なら、流産も認められているはずです」

「そうだねぇ....」

意味が分からないと首を振る飛鳥を眺めながら、それでいて何処か遠くを見つめているかのように、香代子は微笑んで言葉を続けた。

「確かに、あんな人の子どもなんて産みたくないよ?勝手に人のこと抱いておいて、勝手に孕ませて、知らんぷりして。最低な父親だよねぇ。死んじゃえばいいのに」

初めて香代子の口から出てきた罵倒の言葉は冷たく、とてもふわふわした人間の口から出るものではないと感じられるほど、殺意が篭っていた。

見た目や雰囲気とのギャップに、飛鳥は少したじろぐ。

「そ、それなら....」

「でも、子どもは親を選べないんだよね」

飛鳥の言葉を遮って少し悲しげに香代子は言葉を紡ぐ。

「親は産む子どもを選べるけど、子どもは産まれてくる親を選べないんだよ。それって不公平でしょう?」

飛鳥が小さく頷くと、香代子は階段で見せたように儚く笑った。

「それに、あの人の子どもは産みたくないけど、せっかく私に宿った命を殺してしまったら、私まであの人たちみたいになっちゃうから。それは、嫌だから」

エゴだけど、と香代子は言う。

「私はあの人たちみたいに子どもに接したくない。あんな風に扱われるのが嫌だっていうのは身に染みて分かっているから」

その優しい瞳には確かな決意が宿っていた。愛されざる者だからこそ分かる、愛されないことの痛み。飛鳥には理解し難い痛み。それを知っているからこそ思う、ひとつの決意。

「助産師さんともいろいろ話してるけど。やっぱり私はちゃんとこの子を産みたいから。誰がなんて言ったって私はこの子を産んで育ててみせる」

ふわふわとした笑顔が少しだけ真剣な表情を覗かせている。恐らく本当に誰が何と言おうとこの人は考えを改めないのだろう。と飛鳥は直感した。

「....そういえば今ってどうやって資金を賄っているんですか?」

「中学のときからしてたバイトで頑張って貯めたお金を崩してるよ。でも、もうすぐなくなっちゃうなぁ。どうしようか」

「これから子どもの世話とかでもっとお金がかかるでしょう。家もここじゃなくてちゃんとしたところじゃないと....」

「そうだねぇ。でも私の親だけは絶対に頼れないし....こんなことで数少ない友達の迷惑になりたくないし....」

うーん、と唸る香代子。それを見ながら、飛鳥はまだ出会って二日のこの女にここまで深く接している自分に驚いた。

所詮は他人。それも住んでいるセカイは違う。

親に愛され、友に恵まれ、学があり、自由がある飛鳥とは違い、この女は親の愛はなく、友も少なく、学もなければ自由もない。

そんな女に執着する必要などない。そもそもここは旧校舎。いることがバレれば香代子だけでなく飛鳥も叱られる。場合によっては停学なども喰らう。

「....とりあえず、今日はそろそろ帰ります」

「あ、そうだね。長い間引き止めてごめんねぇ」

「いえ....晩御飯ご馳走様でした」

これ以上ここにいると、精神衛生上よくない、と判断した飛鳥は立ち上がって荷物を持った。辺りはすっかり闇に覆われている。

「またいつでもおいで。あ、でも友達は連れてこないでね?」

「....わかりました」

今はふわふわと笑う香代子の笑顔が痛く苦しかった。



数日前に担任から渡された白紙の進路調査用紙を前にして、飛鳥の頭はやはり香代子のことでいっぱいだった。担任が言うには今週中に提出とのこと。それはつまり明後日だった。

特にやりたいことがあるわけでもないため、グズグズと考えていたのだ。

(なんで俺進路のこと考えながら香代子さんのこと考えていたんだろ....)

自分でも不思議で仕方がなかった。どうしてあの人にこうも掻き乱されているのかが....

(参ったな....)

そしてもう一つ厄介なことがあった。

(....なんで俺、ここにいるんだろう)

ぼうっと考え事をしながら放課後の廊下を歩いていたら、いつの間にか旧校舎の前まで来ていたのだ。

無意識というものは大層恐ろしいものだと、飛鳥は痛感してため息を吐いた。



「毎日来て大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないと思います」

「えー。じゃあ帰った方がいいんじゃない?私のことは気にしなくていいんだよぉ?」

さらりと自分のことを気にかけて毎日ここに来ていることを前提に話す香代子に、飛鳥はここ数日で一気に回数の増えたため息を吐く。

「....香代子さん、今から出会いとか探さないんですか?」

「うーん、探せるなら探したいけどー」

こんな女捕まえても何一つ利点なんてないでしょう?と香代子は言う。

「だって学もないし、お金もないし、家もないし、仕事できないし、そんなに可愛くもないし、胸だってぺったんこだし....何より子どもいるし」

香代子は一気に自分を卑下して笑う。その笑顔はやはり儚かった。

「喩え恋人になれても、良く言えば二人分の居候。普通に言えば二人分のただ飯喰らいだよ?多分こんな女拾いたいなんて言ってくれる人いないよ」

飛鳥くんだって嫌でしょう?と香代子は目で訴える。それを否定できないことが何故か悔しくて、飛鳥は握った手元を見つめた。

「....このままだと香代子さん、飢え死にますよ」

「うぅん、それもいいかもしれないねぇ。子ども産んで、子どもと二人で死んで....そしたら本当に怪談になれるかもね」

おどけて言う香代子がどこか滑稽で、それが腹立たしくて。

だけど怒りをぶつける相手はこの人じゃない、と飛鳥は握った拳を開いた。

「ありがとうね、気にかけてくれて。その気持ちだけで十分嬉しいよ。でも、きっとどうにかなると思ってるんだぁ」

「....今日は、もう帰ります。....親に心配されると、面倒なので」

飛鳥はそれだけを言って鞄を取って歩き始めた。

後ろで香代子がその瞳に涙を浮かべているとも知らずに。



「お前....本気か?」

「えぇ、本気です」

「そうか....なら、止めはしないが。ここまで一貫して県外に出たくないと言ってたのに....何かあったのか?」

「やりたいことが見つかったんです」

「そうか....頑張れよ」

「はい、ありがとうございます」


あの日、家に帰ってから飛鳥は久しぶりに親と口論した。

なんとか我侭を呑んでもらい、飛鳥は進路調査用紙に書き込んだ。その代わり中退だけはしないこと、と約束をして。

何故あの日あんなに腹立たしく思ってしまったのかというその理由はぼんやりとしか分からないが、わざわざ確かめなくてもよいだろう。と飛鳥は行動を起こした。

(まったく....全部友樹のせいだな)

あいつが旧校舎に行こうだなんて言わなければ、こんなことにはならなかった。と飛鳥は口元を歪めながらため息を吐く。友樹が旧校舎に行こうだなんて言わなければ、飛鳥は香代子に会うことはなかった。

友樹が旧校舎に行こうだなんて言わなければ....









(好きになんてならなかったな)











数ヶ月後、飛鳥は志望校の合格通知を片手に旧校舎に足を踏み入れた。


「あ....飛鳥くん。久しぶりだね」

「お久しぶりです、香代子さん。....お元気そうで」

「母子共に元気だよぉ」

「そうですか。それはよかった....ところで、大事な話があるんです」

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