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決意と旅立ち

日の光さえ立ち入らない森の中を少年は懸命に走った。時刻は寅の正刻の少し前。まだ日が昇っていないため辺りは暗かったのだが、少年はいても立ってもいられなくなり半刻ほど前にあばら家を飛び出したのだ。


「ボクは代償を支払ってくる。出発は明朝だ。キミは旅立ちの準備をしていてくれ。では、また会お――」


共に旅立つことを約束した道服の少女が、黒い鍔広帽子に身を沈めながらも最後に残した言葉が何度も頭の中を廻る。彼女の右腕から発せられたゴィゴィゴィゴィという、この世の不幸を具現化したかのような音も頭にこびりついて離れなかった。

 少年はぽつんと残された黒いとんがり帽子と竹と松脂で作った松明を手に、夜明け前の森の中を必死に走る。


「えへへ、本当にいいの、本当にいいんだね。よし、じゃあボクも覚悟を示そう。これからボクは禁を一つ破る。一度しか言えないからよく聞いておいて。これからよろしくね、……散」


道服の彼女ははにかみながら自分の名前を大切そうに呼んでくれた。思い返すだけで胸が高鳴ってしまうが、今重要なのはそんなことではない。

 “ボクはこれから禁を一つ破る”、彼女はそう言ってから自分の名を呼んだ。散、と。

(彼女の口から人の名前が出たのはあれが初めてだった気が……)

 少年がそう思い至ると、道服の少女の不自然だった喋り方がまざまざと思い起こされた。道服の少女が語る異国風情の物語には一度も固有名詞が出てこなかったのだ。彼女のどこか俯瞰しているかのような恬淡とした語り草に、その光景が手に取るように浮かんでくるほど聞き入っていたのだが、今思い直してみれば明らかにおかしい。町の名前も、国の名前も、人の名前すら一切出てこなかったのだ。

 たった一度、散と自分の名前を口にした直後に、ゴィゴィゴィゴィと彼女の右腕からおぞましい音が発せられたのだ。そして、ベコリ、ボコリと砂袋が押しつぶされるような音を残して、彼女は自分が今手にしている黒いとんがり帽子の中に沈んでいった。それを目の当たりにした少年の眠気と酒の酔いなんてものは完全に醒めてしまっていた。

 彼女がどうなってしまったのかと思うと、散は不安で押しつぶされそうになり動かずにはいられなかったのだ。だからこそ、道服の少女に再び会うために昨日の行動を繰り返すようにして、草木をかき分けながら懸命に前へ前へと足を動かす。

 革靴を緑に染め上げ手を擦り傷切傷で赤く腫らしたころ、揺らめく松明の火に照らされた粗末な庵が、細い獣道の中に見えた。一度通った道ということもあり、昨日よりは時間がかからなかったようだ。意外なことに、肩で息をつくほどには疲れていない。

 松脂を糧に燃え盛る松明の明かりでもってしても、吊るされた暖簾に遮られた庵の中はちっとも窺えず、その中はこの世界とは隔絶された場所のようにも見える。だが、少年の頭を占めているのは道服の少女の安否だけであり、松明を庵の五尺ほど手前に刺してから勢いよく暖簾をくぐった。


「――ッ! 大丈夫ですか! どうしたんですか!!」

 散が庵に入って最初に見たものは、椅子に座った姿の道服の少女だった。しかし、彼女の青空の一角を切り取ったかのような鮮やかな青の道服の所々は血で赤黒く染め上げられ、深い森を思わせる緑の髪も血が固着してしまい、三刻ほど前に見せていたツヤとハリが微塵も残っていなかった。道服の少女は体重の全てを預けるようにして椅子の背もたれにもたれかかり、腕はだらんと力なく垂れ下がっている。少年の必死の叫びにもかかわらず、彼女の目は開かなかった。

「大丈夫ですか、目を開けてください。……仙人様、大丈夫ですか! 」

 名前を呼ぶことができずにもどかしい思いをしながらも、少年は急いで駆けより彼女の肩をさすってみる。ところが、少年の手の傷が道服をさらに赤くするだけでぴくりとも反応はなかった。

 ふと、足に何かが当たったと思うと、カランカランと乾いた音が庵の中に響く。音源の方を見やると、赤黒い液体を僅かに残した硝子瓶が転がっていた。少年は辺りを見回し、同じような硝子瓶が数十個ほど散乱しているという異様な光景に遅ればせながら気づく。

(何があったのだろう。助ける手がかりはないだろうか……)

 と少年は注意深く部屋の壁や方形の机を見てみると、机上に粘度の高い墨と羽のついた筆が見つかった。さらに注視すると、机の上には五芒星と格子模様が重ね合わせに刻まれており、彼女が何かしらの術を施したのだと思い至る。が、だからといって少年に術の類が使えるわけではないので、何の助けにもならなかった。

 目を開けてくださいと声を絞り出しながら道服の少女の頬を優しく叩く。不意に親指の先の方にぬるりとした感触を覚えた。

「……ぅう、血が……、……血が欲しい」

 道服の少女は目をうっすらとあけ、うわごとのようにか細い声で呟く。目の焦点は定まってないらしく、意識も朦朧としているのかもしれない。道服の少女はそれが何なのかを確認もせず、少年の親指に舌を這わせた。

「……血、血ですね。わかりましたよ」

 少年は道服の少女が反応を示したことに目を輝かせる。そして短刀で深く切ったはずの自分の腕を見た。少女が塗ってくれた粘液のおかげで、その腕の傷は薄い線を残すのみといった回復具合であった。

 刃物が周囲に無いことを確認してから、躊躇なく犬歯で噛み千切る。焼けたのこぎりで削られるかのように痛んだが、少年は自らの肉を噛みながら歯を食いしばり、声を洩らさないように努めた。

 食いちぎられた傷口からどくどくと流れる血を、指に伝わせて彼女の口へと運ぶ。とくんとくんと少しずつ彼女の喉を自らの血が流れていく音がする。

 とくんと十回程音を立ててからごくりと一際大きな音が喉からなった直後、道服の少女の目の焦点が合い、少年の視線と交錯した。

目を見開かせて、少女の表情が撥ねる。

「――ッ! キ、キキ、キミは何をやってるんだ。」

「何って、血が欲しいって言うからですよ。ほら、大丈夫ですか」

 げほげほとむせ返ってしまった道服の少女の背を右手でさすり少年は答える。

「あ、ありがとう。ボ、ボクはもう大丈夫だ。キミも腕が痛むだろう、もう大丈夫だから」

「いえいえ、まだ顔に赤みが戻っていませんよ。自分のでよろしければどうぞ」

 少年は制された腕を再び少女の方へ突き出す。道服の少女は心配そうに少年の腕を見てから口を開く。

「腕の傷を見るに、噛み千切ったんだな。やっぱりキミは大胆なやつだね。ふふ」

「まあ、必死でしたからね」

「じゃあ、もう少しだけキミのをもらってもいいかい」

 ええ、どうぞと少年は微笑んだ。椅子に座っているおかげで必然的に上目づかいになる道服の少女のお願いを少年が断れるわけがなかった。

 流れる血の勢いが弱くなってから程なくして、

「あ、おっとと」

「わ、わああ」

 木と木がぶつかる椅子の倒れる音とびたんと人間が倒れる音がした。遅れて二人の悲鳴が上がった。

「さっきキミは大胆だと言ったが、こっちの方も大胆なのかい」

「ち、違います。ちょっとふらついてしまっただけですから」

 三寸もない先に自分が無事を願っていた少女の顔が見えたので、少年はどきまぎしながら答えざるをえなかった。少女の口元についている血もそれが自分のものだと考えたら余計に気をそそられてしまい、逃げるようにして首をそらす。

「へへ、わかっているって。キミのそういうところも気に入っているんだ。まずは傷の手当てをしよう。ほら手をだして」

 例のギラギラと光る黒い粘液を塗ってもらうと途端に出血はなくなり、焼きつくような痛みもぽかぽかとした温かさに変わっていた。結局、道服の少女は腕だけでなく草木でできた切り傷にも治療を施してくれた。ぺとりぺとりと両手で少年の腕に触れながら、ふと思いついたように呟いた。

「ふむ、キミの血を飲んでも副作用がなかったというのは、やはりそういうことなのだろう」

 血が足りなくて頭が働かず少女の言葉の意味を考えることも億劫だった少年は、寝ずに走り通した疲れも相俟って目蓋を落とした。

「ありがとう、キミが来なくても巳の正刻には目を覚ましていただろうけど、キミが来てくれて……、その、すごく嬉しかったよ」

 少年は若干の引っ掛かりを覚えたものの、心地よい声音と自分の手を握ってくれている柔らかな手を感じながら夢の世界へと意識を落とした。



「む、起きたか。とりあえずこれを飲むといい」

 道服の少女は起き抜けの少年に、温かい琥珀色の液体を杯に注いで手渡す。

「これは何ですか」

「たぶん疲れが取れる、それなりに美味しいはずだ」

 自分の問いに真っ直ぐに答えないことはよくあることなので、それほど気にせずに少年は杯に口をつけた。飲み干した後に礼を言った散は、その芳醇な香りと口の中に広がる上品な甘さにうっとりとなった。

「西の西のそのまた西でよく飲まれているお茶に、蓬莱の山でとれた蜂蜜を入れたんだ。茶葉はここで飲まれているのと同じものだが、発行具合が違うらしい」

 茶葉の出自よりも蓬莱の山でとれた蜂蜜の方がむしろ気になった少年だが、深くは突っ込まないことにした。これから、彼女自身について深く聞いておきたいことがあったからである。少年は彼女の顔を見ないようにして、杯の底に声を押し当てる。

「あ、あの、名前を忘れたって前に言ったじゃないですか、あれ嘘ですよね。自分は自分を助けてくれた人、自分を気にかけてくれている人の名前を呼びたいです。……散って呼んでくれたのはそういうことですよね」

「キミは当てのない旅となにか目的のある旅、どちらのほうが好きかい」

 少年は彼女の顔こそ見なかったが、年月を感じさせる凄みのある声に少しの間押し黙る。方形の部屋には音が鳴るものが一切なく、しばしの静寂に包まれた。

「この村だけで過ごしできた自分には全てが新鮮なはずです。どうせなら目的のある旅がしたいです」

「行きたい場所に行けないかもしれないが、大丈夫かい」

「一番いたい場所は名前を呼びたい人の隣ですから」

「キミはよくも恥ずかしげもなく、そんなことが言えるね。ボクの呪いは固有名詞にまつわるものだけじゃなくてそれなりに数があるけど、キミはそれでもついてきてくれる?」

「もちろんです、これからもよろしく」

「ああ、よろしくね」

 少年が揚々と差し出した手は、今度はしっかり握り返された。これからの旅が楽しく充実したものとなると予感させるには十分なほどに、互いは互いの手を固く取り合った。ふと少年は自分を握る手の握力が強まったのを感じる。痛みを覚える一歩手前くらいだろうか。

「目的のある旅だとこの世に収まりきらないけど、キミは大丈夫かい」

「この世意外と言いますと………た、例えば」

 努めて笑顔で返す少年だったが、自分の手を握る手の握力が強まるのを感じて表情が歪みそうになる。

「そうだね。幽界、冥界、蓬莱、常世、大羅天、崑崙(こんろん)……等々。むむ、知らぬ間に随分と敵を作ってきたかもしれないな」

「自分がそんなおそれ多い場所に足を踏み入れても大丈夫なんでしょうか」

 少年の笑顔は引きつり始めていたが、少女の見た目とはうらはらな握力で手を握られてしまった少年は逃げることが敵わない。

「ふむ、その点は大丈夫だ。幸いキミには素質があるようだからね。少しボクが鍛えてあげれば、難なく異界に入れるくらいにはなるだろう。そうだ、この武士(もののふ)の国は確か良い言葉があったな。……あれだ、男に二言はない、だったかね」

「安心してください。名前を呼ぶまではお供しますよ」

 語気を強めていった少年は少女に負けないように力を込めて握り返す。

「ふふ、そういえばキミが一番行ってみたい場所はこの島で一番高い山だったね。まずはそこに行ってみようか」

 そう言って少女はにこにこと笑った。



キミには妹に言うべきことがあるだろうから今日は帰って旅の準備をしろ、と少年は言い渡されていた。少年の手には金貨の入った皮袋と、窒素とリンを固形化した肥料の入った皮袋が握られていた。水面のように波を打つ机――道服の少女曰く門――から自力では出られないので、わざわざ道服の少女に送ってもらった。

立てつけの悪い引き戸からあばら家に入ると開口一番、

「兄さんのばか! ……それといってらっしゃい。私には烏のくーちゃんがいるから大丈夫ですよ。十日に一度は帰ってきてくださいね」

と妹の咲に言われ、ぴしゃりと玄関を閉められた。これには道服の少女も被っていたとんがり帽子がふっと浮き上がるほどに驚かされた。

お土産があるからと述べ、旅支度のために家の扉を開けてもらうと中では一つ目三本足の烏の羽を梳いている妹の姿があった。黒いからくーちゃんと安直に名づけられた烏は大きな一つ目を心地よさそうに細めて、ククと鳴いていいた。

 少年が着替えを麻袋につめていると、

「待って、一着だけ置いていって」

とよく分からないことを妹の咲が言っていたが、別段気にするでもなく言われた通りに従った。と言っても、麻袋に入りきらなかったからである。そして、最後にいつでも戻ってこられるからと妹の頭を撫でて、あばら家を後にした。

「もういいのかい」

「はい、咲は強いですし、自分よりもしっかりしてますから」

 散の声を聞いて、道服の少女はくるりと踵を返してあばら家の方に向き直った。

「妹さん!! ……あなたの兄の安全はボクが保障する。必ず土産を持たせて返すから、それまで僕の愛犬と仲良くやっていてくれ。お願いする」

「早く行ってください、ばか兄さん。それと兄をよろしくお願いします」

涙交じりの声だった。涙を浮かべた幼い少女と彼女を励ますクククという鳴き声を後にして、二人は地面に波を打つ門に消えていった。

黒いとんがり帽子まですっぽりとたゆたう地面に埋まってしまうと、夕日の赤だけがそこに残った。


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