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森の中の出会い

日の光さえ立ち入らない森の中を少年は懸命に走った。広葉樹、針葉樹関係なく群生しているこの森は昼なお暗く、空を仰いでも緑の枝葉が覆うだけであった。

 体が酸素を求めて大きく息を吸うが、もうもうと立ち込める草いきれが勢いよく肺の中に侵入し、思わずむせ返りそうになる。それでも少年は農作業用の革靴を勢いよくすり減らしながら、前へ前へと懸命に足を動かす。少年に聞こえるのは自分が草をかき分けて進むざわざわという音と、クケケケと不気味に笑う野鳥の鳴き声だけだった。うっそうと生い茂る木々や丈の長い植物が手足に無数の切り傷をつけるが、少年は母が最期に残した言葉にすがって必死に走る。

 "あなたか妹の咲に何かあったら、西の森へ向かいなさい。あなたが本当に必要としていれば仙人様が助けてくれるから"、とだけ残し病床に伏せた母は息を引き取った。少年が八才にも満たない童子だったころの出来事だ。

 少年にとって、まさに今がその時だった。先日、白羽の矢が文字通りに少年のあばら家につきささり、十三の身空の妹が土地神に捧げられるというのだ。原因はここ一月ほど続く日照り、旱魃(かんばつ)にある。魃の神を鎮める雨乞いのために、妹が人身御供(ひとみごくう)で捧げられるというのだ。身を清める必要がある、ときっぱり言った村長が目に涙を浮かべた妹を無理やり連れて行ったのが昨夜のことだった。

 早朝から森の中を走りとおすことは十六で迎える成人の儀を控えた少年には並大抵のことではなかった。

 ぜえぜえと肩で息をつく。革靴は草の緑で染まりきり、丈の長い硬い草をかき分けていた手は切り傷すり傷に覆われて、肌色よりも赤に近くなっていた。

 少年の腹時計からして昼時になろうかという頃、獣道から入ってしばらくのところでごく粗末な(いおり)を見つけた。

(やった、たどりつけた。あれがきっとそうだ)

 少年は無我夢中で細い獣道を走り、暖簾(のれん)がかかった庵の前で仙人様はいらっしゃいますか、と大きく声を出す。

「だれだい?」

 耳の中で瑠璃(るり)の器が転がるような音がした。

 人の気配などあるはずもない、と思っていた頭上から声がして少年はびくりと驚く。あわてて目線をあげると、その庵の前に到着したときには確かに誰もいなかった草葺(くさぶ)き屋根に何者かが座っている。

八橋散(やつはし さん) と言います。どうか妹を助けてください」

 少年は息を切らせながら、すがるように声をあげた。

「キミの恰好を見れば必死なのはわかる。とりあえず、入るといい」

 屋根に座っている人物はゆったりとした道士服を身に付けている。盛春の青空の一角を切り取ったような鮮やかな青。腰までありそうな長くてつややかな髪は、深い森を思わせる濃いめの緑。装いばかりに目がいってしまった少年が目にしたその姿は、まだ十台半ばほどにしか見えない少女そのものであった。

(これが、母が言っていた仙人様だろうか)

 と少年が訝しむと、道服の少女は少し切れ長の瞳を庵の方へ向け、無言で入れと促した。不気味に思い少しの間少年が躊躇していると、庵の中から高くもなく低くもなくすっと耳の奥に快く響いていくような声が聞こえてくる。

「入らないなら、ボクがキミにできることは何もないが」

 庵の屋根へと目をやると、既にそこに深い緑色の髪の少女はいなかった。

 おじゃましますと定型の挨拶を述べ、暖簾をくぐる。庵の中は少年のあばら家三つ分ほどあり、外から見るよりもあきらかに広い。方形に近い室内の中心には方形の机が置かれているだけで、あとは壁際に箪笥(たんす)があるのみの侘しい(たたず)まいだった。

「キミはとりあえずこれを書け。それで大体わかる」

 椅子の背もたれを覆い隠すほどに長い髪を豊かに垂らした少女は、紙と硝子瓶に入った粘度の高い墨、それから羽のついた筆を机の上に並べる。

 少年は硬いすわり心地の椅子に腰を下ろして、目の前に置かれた紙を見やる。自分の名前や年齢、家族構成、特技、好きな食べ物、行ってみたい場所、昨晩見た夢、苦手な食べ物、といったあたりさわりのないことを書くようにと、少年が渡された紙には指示があった。

 なれない羽のついた筆に苦戦しながらも必要事項を埋めていく少年の頭には、早く妹を助けなくてはと焦りが生まれる。九十度右に座っている道服の少女は横から紙片を覗きこみ、ふむふむ、やはりそうかとニヤニヤと表情を変えながら小さくこぼす。

 少年は最後に“ここに書かれた内容に嘘、偽りがないこと認める”という欄に少し迷いながらも自身の名を署名し、必要事項の全てを埋めた。

「書き終わりました。これで、妹を咲を助けてくれるんですね」

「大丈夫だ、安心してくれ。ボクがなんとかしよう。どうやらボクはキミの大分昔の祖先に少しの借りとやたら大きな貸しがあるようだからね」

 いま一つ要領を得ないことを言う少女は少年から渡された紙を手元に引き寄せた。

 雪のように白い指が紙の上で五芒星を描き始める。すると墨で書かれた文字は蛇のようにのたうち始め、それが細かくなりヤスデのように紙の上をカサカサと音をたてて動き回る。やがて文字で作られた黒いヤスデは指先に吸い上げられるようにして、袖口の広い道服の中へと消えていった。

「これで、紙が何回でも使えるだろう」

 またしても要領を得ないことをけろりと言ってのける少女であったが、眼前の摩訶不思議の光景を目にした少年の切り傷だらけの腕には、にわかに鳥肌が立ち始めていた。

「それにしても、この時代に生贄、人身御供とは…。言い訳にしても、もっとましなものがあるだろうに。そもそも、雨乞いのための生贄なんて全く効果がないんだ。我々と土地神との協定で、生贄を捧げられても干渉することは禁止されている。一度やってしまうと、ヒトは簡単に同族を捧げてしまうからね」

 道服の少女の言葉に色々とつっこんで聞きたくなった少年だが、村長の言った生贄が騙りだったという件が、少年の心に大きな不安と焦りを生み出した。

「キミの顔を今は傷で汚れているが、元は悪くない見てくれだと見える。妹もたいそう美人さんだろう。…もう、わかるな」

「そんな、…咲はまだ13ですよ」

「もの好きなやつもいるさ」

 細められた少女の冷ややかな目に見つめられ、少年は背筋が凍るような思いをした。

「早く、早くいかないと」

「落ち着け、先ほどキミの相を文字から覗いたが、キミとキミの妹の繋がりは薄くなってない」

「それでも、早くしないと。咲を助けてください、何でもします。お願いします」

 幼いころからずっと一緒だったの妹の笑顔が、少年の頭の中で浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。妹の笑顔がもう見れなくなってしまうと思うと、少年の心は動揺の限りで埋め尽くされてしまった。

「わかっている、キミはまず落ち着け。そして、村長の家を思い浮かべろ。今、門をつなぐ」

 少女は道服の裾をまくり、左腕を方形の机の上に差し出した。深緑の髪の少女の左腕には箸の先端ほどの直径の黒い点が八つほど打ってあった。少女は顔をしかめつつ、その黒点のうち一つを右手で引き抜くと、黒点が紐のようになってぷらんと垂れ下がる。左腕に空いた黒点の分の穴からはじょろじょろと赤黒い血が方形の机へと滴り落ちた。が、赤黒い血は机の上にたまるでなく、木造りの机に飲みこまれていった。机はまるで滴がしたたり落ちた水面のように波を打つ。その波が同心円状の広がりをみせると方形の机の端はのたうち始め、ぐらぐらと歪んでいった。

「門はととのった、キミはもっと具体的に想像してくれ」

 澄んだ声で檄が飛ぶ。

 少年は奇妙奇天烈な光景に身の毛がよだつのも忘れてしまっていた。妹の、咲のことを思い出し、目の前のことを訊くのを一旦後回しにする。少年は妹を助ける一心で村長の家の外見をできるだけ忠実に頭の中で再構成した。

 すると方形の机の端は歪むのをやめ、その中心だけが穏やかに波打つようになった。

「よし、繋がったぞ」

「早く、いきましょう」

「キミだけ先に行ってもよいが、なにぶん久しぶりの外出なもので準備を忘れていた。しばし待たれよ」

 そういって、道服の少女は先のとんがった鍔広(つばひろ)の黒い帽子を箪笥から取りだしぽんと頭にのせる。その後、折りたたんでいた道服の裾を伸ばして指の先まで覆い隠した。

「その帽子は何ですか」

「これは、西の西のそのまた西の友人からもらったものだ。いいだろう」

 語尾を上げて言った少女はふふんと鼻をならして、先端のとんがった黒い鍔広の帽子をくるりと頭の上で回す。少年は帽子の出自ではなく、何故その奇怪な帽子を身に付けるのかを聞きたかったのだが、期待した答えではなく少し肩を落とした。

「ほら、はじめては不安だろうからな」

 道服の少女は波打つ机に目線を向けながら、右手で左手の袖をたくし上げて少年に手を差し出す。自分へと向けられた雪のように白い手のひらに思わず見とれてしまった少年はおずおずと手を伸ばした。

「痛っ」

 興奮と焦りのあまりに自分の手が傷だらけなのを忘れていた少年は少女の手をとった瞬間に、情けない声をあげてしまう。

「ふむ、まっていろ。直すこともできるが、それは少々時間がかかる。化膿したら面倒だから、消毒だけ済ませよう」

 深緑の髪の少女は少年の四肢をねめまわしてから、タタッと再び箪笥の方に向かった。箪笥から取り出したものは、ぎらぎらと怪しく光る白い粉が入った硝子の瓶と小ぶりなすり鉢だった。

「キミはさっきの墨をボクに渡してくれ」

 道服の少女は先ほどの粘度の高い墨をぼとぼととすり鉢に入れ、続いて怪しく光る粉を少量まぶしてから、力を込めて混ぜはじめる。

「少し、沁みるぞ。我慢するように」

「な、何で、墨をつけるんですか」

「キミはキミの母からボクのことを何と聞いている」

「母は仙人様だとおっしゃっていました」

「そうだろう、ならキミは何も心配する必要はない。さあ、腕をだす」

 少女は怪しく輝く黒い粘液を両手につけてから、おっかなびっくり差し出された少年の腕に、やれやれとこぼしながらそれを塗りたくっていった。

 同年代の少女、それもとびきりの美人に自分の脚やら、首やら、顔やらを触られているので少年はむず痒い気分になり、内心気が気でなかった。少女の手に気を取られていた少年は、ふいにこの粘液の来歴が墨にあることを思い出してしまう。だが、不思議と傷口は少しも沁みることはなく、少女に触れられた場所はほのかに温かくなっていた。

「仙人様、手当をありがとうございます。失礼ですがお名前を聞いてもよろしいですか」

 こんな可憐な少女が仙人だとは信じられなかった少年もとうとう認めざるをえなくなり、恭しく頭を下げて尋ねる。

「よしてくれ、そのような態度をとるな。……それに自分の名など、とうに忘れてしまった。大体ボクにとって名前など何の意味もない。目の前にいるキミが僕のことを認識するのに何か特別な名前が必要かい」

「え? は、はい」

「呼びたいように呼んでかまわない、さあ、急ぐよ」

 少年は再び自分の方へと差し出された手を今度はしっかりと握った。手の傷が痛むことはまったくなく、少女の柔らかな手の感触が十分に伝わってきた。

「キミは目をつぶり、鼻を押さえておけ」

 道服の少女はそう言い残し、ぴょんと椅子から跳び上がった。少女とは思えない力強い手に引っ張られて、雨水が落ちる水面のように波を打つ方形の机へと少年は引きずり込まれる。


どぷりどぷりと田んぼのぬかるみの中に前身が包まれるような感覚。移動しているのか立ち止まっているのかすらわからない前後不覚のなか、つかんだ手だけが少年を導くものだった。

「目をあけろ。今、引っ張るから」

 言われた通りに目を見開いて辺りを見回せば、道服の裾と鍔広の帽子が作る影が見えるだけで、その他は土しか見えなかった。どうやら自分は首と腕だけが土の上に出ていて、残りの体は地面の下に埋まっているらしい。だが、その地面は普通の土ではなく、庵にあった方形の机のように波打っていた。自分を握っている柔らかな手に力が入るのを感じる。少女のえいや、というかけ声と共にどぷりと波打つ地面から引き抜かれた。

「ほう、これが村長の屋敷か。なかなかいいところに住んでいるじゃないか」

 地上へと釣りあげられた少年の目には、先刻頭の中に思い描いた通りの村長の家が映った。自分が三刻もかけて走った森を一瞬で移動してしまえたので、少しのやるせなさも覚える。

「どうやって、妹を、咲を助けるつもりなんですか」

「ボクがこの村に雨を降らせてみせよう」

「……さっき、干渉できないって言ってませんでしたか」

「ボクはいいんだよ。それにもう、お天道様に嫌われているからね」

 散は首を斜めに曲げて道服の少女を見たが、少女は少年の無言の問いかけに答えなかった。

「キミは村長を呼んできてくれ、できればキミの妹も連れてきたほうがいい。もしだめなら、泣き脅しでもなんでもするんだ。私はその間に準備をする」

 まかせてくださいと返事をして、少年は村長の家の玄関へ向かって駆けだした。

 少年が最期にどうか一目だけでも妹に合わせてくださいと涙ながらに懇願すると、村長はしぶしぶ了承してくれた。連れて行ってやるから外で待っていろ、と強く言われたので道服の少女の隣で待つことにする。

 少女は手にした棒切れでガリガリと成人ほどの大きさで五芒星と格子模様を描いていた。

「これは何ですか」

「ふりだよ、ふり。それっぽくしておかないと、向こうは信用しないだろう」

 鍔広のとんがり帽子と、腰まで届く艶やかな深緑の髪、青空の一角を切り取ったような青の道士服、これ以上何を飾りたてるのかと少年は疑問に思ったが口には出さなかった。

 四半刻ほどして村長の家の扉が開くと、村長と屈強な男二人と、その二人に担がれたあどけなさの残る少女が現れた。

「咲!」

 声を張り上げて少年は妹のもとへと走るが、目の前に突然杖を突き出されやむなく急停止をする。

 眉間に深いしわを表し、杖を突きだしたのは外見五十にほど近い村長だった。

「待て、土地神に捧げるために身を清めている最中だ。今は眠っておる」

 屈強な男二人は担いでいた少年の妹を村長の家の梁を背もたれにして座らせるが、あどけなさを残した少女は不自然なほどに微塵も目を覚ます気配がなかった。

「耳をかせ」道服の少女が散に言う。

「ボクは香りでわかるんだ。キミの妹は複数の薬を盛られている。一つは眠り薬と、あとは…、キミが劣情を催しそうなので言わない。怪しい薬は後で中和してあげよう」

 ごにょごにょと少女が少年に囁くように耳打ちをした。黒い鍔広の帽子の中で、少年も道服の少女へこそこそと話す。

「自分に何かできることはありませんか」

「キミはボクに空に浮かぶ雲の量を教えてくれ」

「それほど、多くはないです」

「それじゃわからない、割合でたのむ」

 自分で見ればいいだろと少年は思ったが、素直に少女に従ってもう一度空を見やった。

「大体二割程です」

「よし、二割だな。キミにはもう一働きしてもらうけど、今は見守っていてくれ」

 そう言って、道服の少女は怪しく微笑んで見せた。

 はたはたと道服を揺らしながら、深緑の髪の少女は村長がいる方へと歩き出した。彼女の歩く後には不思議と足音がなく、鍔広のとんがり帽子が大きな影を残すだけだった。

「これはこれは村長殿、私は旅の道士です。そこの少年に雨が降らなくて困っていると聞きました。私が雨を降らせましょう」

「やめておけ、土地神様を怒らせるだけだ」

 眉間に深い皺を作った村長は語気を荒げる。

「いえいえ、今日日(きょうび)、人身御供など流行りません。私が魃の姉さんに話をつけてきましょう。もし、雨が降ったらそこの少女を少年のもとへ返してもらってもよろしいですね。なんなら、薬のことを村中に言いふらしてもいいんですよ」

 諭すように少女は言い、両手を腹の前で組んでから慇懃無礼に深く礼をする。ぐっと言葉を飲みこんだ村長はさらに眉間の皺を深めて歯噛みをした。村長も二人の屈強な男もささっと踵を返した少女の前で二の句をつげずにいる。

「話はつけてきた、後は雨を降らせるだけだ。君にはこの短刀を渡しておこう」

 少女は懐から白刃の短刀を取り出し少年に手渡すと、さっきまで手にした棒切れを四つに折って格子を組む。そして、おもむろに道服の裾から取り出した火打ち石で棒切れに火をつけた。通常では考えられないほど早くに火は燃えあがり、ぱちぱちと木の中に含まれていた空気がはじけていく音がする。

 道服の少女は先ほどの棒切れで描いた五芒星と格子模様の間に、それらを繋ぐようにして指で∞の模様を刻む。すると、地に描かれた五芒星と格子模様は蛇のようにのたうち始め、ぐわぐわとのたうつ文字は次第に細かくなり、ヤスデのように姿を変えて辺りを蠢きまわった。数瞬後、ガサガサと這い回るヤスデは棒切れで起こした火の周りをぐるぐると回り始めた。周回する数百のヤスデは段々速度を速め、風切の音を発するようになり、遂に人間では発声不可能な高音域を発するようになる。

 深緑の髪の少女は道服の袖をまくり、八つの黒点が浮かぶ雪のように白い腕を露わにした。少女は顔をしかめながらも、そのうちの四本を勢いよく引き抜いた。右手には瞬刻前まで少女の左腕に入っていた黒い紐が握られている。左腕からは四本の赤黒い血がじょぼじょぼと滝のように勢いよく流れた。流れる赤黒い血は吸い込まれるようにして火の上に降りかかる。水分を多分に含んでいるはずの血を受けても、高速回転するヤスデに取り囲まれた火は勢いを弱めるどころか、禍々しい雰囲気を纏い始め不気味に揺らめくようになる。流れる血を飲みこんだ火の純色の赤は徐々に濁るように色を変え、文字で作られた高速回転するヤスデはとうとう自然界には存在しえない名状しがたき音をかなりたてる。

「ボクの血だけじゃ足りない。キミの矜持をみせてみろ」

 道服の少女は澄んだ瞳で少年に渡した短刀を見つめた。

 少年は短刀を迷いなく自らの左手首に当てる。動脈に狙いを定めて勢いよく縦に断ち切ってやった。枝葉で切れたのとは比べ物にならないほどに、腕がじんじんと焼けつくようにに痛む。その甲斐あってか、左腕から勢いよく飛び出した鮮血は濁り始めた火へ重力に従うように導かれていった。

「キミの本気の覚悟をしかと見届けた、ボクもそれに答えよう。できれば、ボクのこの顔を覚えておいてくれると嬉しい」

 少女から発せられる声は高くもなく低くもなく、すっと耳の奥に快く響いていくような甘さと、それとうらはらな有無を言わせない強さがあるような気がして、散は少女の方に目を向けた。散の瞳を見て微笑んだ少女は、きっと強く口元を結び燃え盛る火へ正対する。

 道服の少女はためらいなく自らの右手で自らの左目を抉り、一切の躊躇なく真っ黒に燃えさかる火に投げ入れた。じゅっと刹那の内にそれが焼け溶ける音。そして、仕上げにとばかりに少女は呟く。


「冥界が口を開けて追ってくる。お前を欲しがり口を開けて待っている」


「心臓を手のひらに乗せ、魂は樹の枝に、身体は羽根の上」


「残された血は火にくべて、両目のうち左目は焼いてつぶしなさい」


「忠実な犬は炎をあやつり、空はとけて海となる、砂漠は大気と混じり海となる」


少女が詠唱を終えると、空気そのものが焦げ付いたかのように黒い塵が燎原(りょうげん)の火の周辺に巻き上がった。数瞬後、黒い塵を地に残し、夜よりなお深き火は嘘のように消えた。

 村長と屈強そうな二人の男はぽかんと口を開けて目の前の不可思議な光景を見ていることしかできなかった。

「あと、四半刻もせずに雨が降り始めるだろうね」

 いつの間にか白い眼帯をつけた少女はこともなげに言う。少年が空を見上げると、まるで黒い火に誘われたかのように鈍黒い雲が上空に立ち込みはじめていた。

 土が水に溶ける匂いを伴わせて、(にび)黒い雲はやにわに雨を降らせはじめる。

「さあ、その子を返してもらおうか。もしも抵抗するなら、もう片方の目も空へ捧げる準備がある」

 背丈のある村長と男二人は黒い鍔広の帽子のせいで少女の表情を見ることはかなわなかった。けれども、少女の年月を感じさせる凄みのある声と先ほどまでに繰り広げられた光景は彼らを委縮させるに十分に過ぎた。

「それと、人身御供なんてくだらない真似は二度とするなよ。ボクの愛犬をここに置いていくからね」

 少女がぴゅういと口笛を吹くと、西の方角の森から一羽の烏が雨を弾きながら飛んできた。黒い羽に大きな一つ目、三本の鋭い脚。明らかに異形のものだった。

 よしよし、いい子にしていたかい、と道服の少女は異形の烏を撫でてやる。

「この八咫の烏は冥界の友達から譲り受けたものだ。特技は火を吐くことで、好きな食べ物はくだらないことをする人種の焦げた肉だ。せいぜい気を付けてくれよ、村長殿」

 少女の声に反応してか、三本足の烏は誇示するように翼を広げてクケケケと笑うように鳴いた。

「さあ、ぼさっとしているな。キミの妹だろう。風邪をひいてしまうから、早くキミの家に運べ」

 あまりの急展開に少年は言いたいことが山の数ほどあったが、とりあえずは無言で道服の少女が言うことに従った。


ひと段落ついたのは、顔立ちのよい兄妹がひしと抱き合ってひとしきり泣きあった後だった。

「どれ、傷が痛むだろう、見せてくれないか」

「あ、ありがとうございます」

 怪しく光る黒い粘液を手のひらに付けた少女に、少年は左腕を差し出した。

「キミもなかなか大胆だねえ。もう少し深くいっていたら一生この腕は動かなかっただろうね」

 骨にまで達しようかというところまで短刀は少年の肉を切り、その傷口の深さは一寸にまで及んでいた。少女の指から塗られる黒い粘液が少年の肉の隙間に入っていくも、感じるのは少しの違和感だけで僅かの痛みもなかった。少年は黒い粘液が塗られた部分がほのかに温かくなっていくのを感じる。

「妹をありがとうございました。目は大丈夫ですか」

 少年は道服の少女を心配げに見つめた。道服の少女はにかっと笑いながら、少年の頭をわしゃわしゃと撫でて口を開く。

「なあに、キミが気にすることではない。それに借りならこれから返してもらう予定だしね。とりあえず、今日はキミの家で一晩寝かせてもらってもいいかい。血を出しすぎて歩くのも億劫だよ」

「ええ、こんなぼろ家でよければ」

 その後三人は囲炉裏を中心に座って、夕食を共にした。

「待っていろ、キミが好きなものは確か鴨肉だったな。ボクの庵にまだあったはずだ」

 そう言い残した少女はどぷりと自らの体を鍔広のとんがり帽子に沈めた。ほどなくして黒いとんがり帽子から沸きあがるようにして彼女が現れると、その手には鴨肉の燻製とひょうたんが握られていた。

 ぐつぐつと煮えていく鴨鍋をつつきながらは三人はわいわいと話に花を咲かせる。

「雨を降らせてやっただろ、あれは西の西のそのまたの西のそれで少し南にいったところで教えてもらったんだ。そこは辺り一面砂しかないようなところでな、ああいった業が必要だったらしいんだよ」

 道服の少女が話す異国風情の話は、これまでの十六年弱をこの村だけで過ごしてきた散の気をこれでもかと引き寄せた。香辛料一粒が金貨ほどの値段で取引される国、見渡す限りに書物が収められているという砂の国の大図書館、馬を乗り継ぎながら日ごとに住む場所を変える草原の民、どんな和音でも容易く奏でるという白と黒の板で作られた楽器、信じる神の違いで百年間も争った国の話、背中にこぶのある生き物に乗って砂の海をわたることを生業にした人々の話。

 深緑の髪の少女が語る話の全てが少年の胸をこれまでないほどに高鳴らせた。夢中になって聞いている内にいつの間にか少年の妹はすやすやと眠りについていた。

「ふむ、キミはいけるクチかね」

「まあ、それなりには」

 道服の少女は手にしたひょうたんをかかげ、それを見た少年は杯を二つ用意した。

「おっとと、すまない。まだ片目には慣れなくてね」

 深緑の髪の少女は杯のふちの部分に注いでしまい、体の平衡を欠いて少しよろけてしまう。少女がよろけた拍子に道服が少しずれると、そこから覗かせた首筋から胸元への柔らかな曲線は、一瞬にして少年の目線をそこに引きつけた。この方は恩人だと慌ててぶるぶるとかぶりを振った少年は自分に酌をさせてくださいと言い、とくとくと杯に酒を注ぐ。

「ふふ、キミはやっぱりいいやつだね」

「いやいや、仙人様ほどじゃありませんよ」

「仙人様はやめてくれ。キミはボクの見てくれが仙人に見えるというのかい」

 酒を飲んで一杯かそこらだというのに、少年にはそう問うた少女の瞳がやたら扇情的に映った。そして先ほどちらりと見てしまった少女の白い肌が脳裏をよぎると、途端に意識してしまい返答に窮する。

「ふふん、まあいいだろう。酒も入ってきたようだし、今度は西の西のそのまた西から北に行ったところにある王宮の、愛憎渦巻くどろどろとした話を聞かせてあげよう」

 残った鴨鍋から作った雑炊と道服の少女の語りを酒の肴にして、二人の宴席はにぎわいだ。少女は杯を乾かしながら子供のような笑みを浮かべ楽しげに話し続ける。

 砂と石で作られた頭は人、体は獅子の動物、天にまでとどくほどに高く作られた石造りの塔、それからたくさんの言葉が生まれた理由の話、柑橘系の果物が船乗りの命を救った話、地球の真反対で行われた大遠距離恋愛の話。どの物語も少年の心をわくわくとさせる非常に刺激的な内容だった。

「こうして二人は無事結ばれて、めでたし、めでたしってわけだよ」

「時間も距離も乗り越えて、愛する人のもとへ向かうってとってもいいですね」

「キミもわかるやつだね、やっぱり結ばれてこそだよ。……でだ」

 顔を赤くしてほろ酔いになったかに見えた道服の少女は、言葉を切った後に一度首を横にふる。すると、途端に数刻前の色白の面立ちに戻った。少年はこれは何かあると思い、酒気を精一杯払って気を入れなおす。

「ふふ、キミと話すのが楽しくてなかなか切りだせなかったよ。ボクは本当にキミを気に入っているんだ。片目を失うのも惜しくないほどにね。だからね、言うよ。ボクの旅についてきてくれないかな、お願い」

 自分を真っ直ぐに見つめる少女の瞳に少年はドキンと胸が高鳴るのを感じた。確かに自分もこの可憐な少女と共に旅をしたい、片目という大きすぎて返せない恩もある。だけど、どうしても十三になって間もない妹の咲のことが心配だった。すやすやと寝息を立てる妹の方へ無意識のうちに目をやってしまうほどに。少年は葛藤の最中どうすればいいかわからず、返答をすることができなかった。

「妹さんのことが心配なんだね。それなら安心して、僕の八咫の烏を置いていくし、金貨もここに置いていこう。お願い、一年だけでもいいんだ。一年すれば僕の左目も完全に治るから」

「……妹の無事をしっかり確認できるなら、自分も旅のお供をしたいです」

 少年は迷いながらも、自分の本能に忠実になって答えを絞り出した。

「えへへ、本当にいいの、本当にいいんだね。よし、じゃあボクも覚悟を示そう。これからボクは禁を一つ破る。一度しか言えないからよく聞いておいて。これからよろしくね……散」

 今までキミと言われるだけで決して呼ばれることのなかった自分の名を、目の前の少女が大切そうに口にしたのを聞いて、少年の心臓が飛び跳ねた。

「こちらこそ、ありがとう。できる限りお供するね、これからもよろしく」

 少年は嬉しさでよくわからないほどに興奮していたが、何とか平静を保って言葉をつなぎ、よろしくの握手だと自分の手を少女へ差し出す。

 揚々と少年が差し出した手の先の方から唐突に、ゴィゴィゴィゴィと筆舌に尽くし難いこの世の不安の全てを混ぜ合わせた音がした。音は道服の少女の右腕から発せられていた。さらに、ベコリ、ボコリという人体から鳴っているとは到底思えない何かを力強く押しつぶす音も聞こえてくる。

「ボクは代償を支払ってくる。出発は明朝だ。キミは旅立ちの準備をしていてくれ。では、また会お――」

 

道服の少女は自身をどぷりどぷりと黒いとんがり帽子に沈めながら、言葉を残した。

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