【一】犬も歩けば棒に当たるらしい
忘れ去りたい黒歴史がある―――
人には、生きていれば多かれ少なかれひとつやふたつは掘り起こしたくない、されたくない過去というものがある。
俗に黒歴史と呼ばれるものだ。
人によるのだろう。気にしない人もいるだろう。自ら晒す人もいるだろう。
抱え込んだその爆弾は、いつ爆発するのか。
一生、不発に終わるとしても死ぬまで持っていなくてはならないものなのか。
忘れてしまえと、頭の中で処理しても。忘れたと笑っていても。
不意に思い出してはどうしようもないことなのに悔やむのだ。
どうしてあんなことをしたんだろう。
どうしてあんなことをしたんだろう。
幼かったとはいえ、それがいいことだとは思えなかったのに。
その場に流され、その気にさせられ。そうして残ったものは。
『 』
その時はそれが最善だと、正しいと思っていても。
時間が経って、自覚を持って。
はたと振り返ってよくよく考えてみて、それは本当にやってよかったことなのかと自問すればするほどに。
それは直視しがたい、残酷な現実をちらつかせ。
なにかをもって立ち塞がって。
きっとそれは、誰かを傷つけていた。
「夢見、わる…」
口にした言葉は掠れていた。水が飲みたい。うがいがしたい。
薄目を開ければあたりは真っ暗。何度かまばたきをしているとぼんやりと周囲がにじんで見えはじめた。
ピピピピピ…と鳴り続ける目覚まし時計を手探りで止めようとするが見つからない。
仕方がないので上半身だけ起き上がらせ、ベッドと壁の隙間に挟まっていた時計を引きずり出して潰すいきおいで止めた。
頑丈が取り柄の電子時計の黒の表面に蛍光色の電子文字が数秒浮かぶ。
06:30
今日は日曜日だ。
前髪を片手でかき上げつつ伸びをする。パキパキと音がしだしたので、そこでやめた。骨と筋肉が痛む。
土曜日だったら、このまま起きて寮の食堂で朝ごはんを食べて部活にでも行くが、本日は諸々の都合が重なって部活は休み。
いつもならこのまま二度寝をしたいところだが、久しぶりに見た『あの夢』のせいでもう寝ようとは思えない。確実に引きずられて似た夢を見てしまいそうだ。
さっさと起きて、身体を動かして脳を活発にさせて忘れよう。
「月曜代休の三連休だから…あー。祝日バスの時間は覚えてないから調べるか」
それに今日は今日で用事があったと思い出せた。ゆっくりしている時間が惜しい。
寝ぼけた頭を左右に振ると、仕切りのカーテンを開けてベッドから抜けた。
別にいまはひとりだから、カーテンを閉めなくてもいいのだけど。これはもう癖になっている。
寮のベッドは二段だが、自分は下段。上段は現在、空っぽ。
本来ならいるはずの、相部屋だった二年の先輩は夏休み前から海外へと行ってしまったので、あと半年は帰ってこない。姉妹校留学というやつだ。
窓のカーテンを開けて日光を浴び、髪を無造作にくくると顔を洗って歯みがき。ストレッチを終わらせた頃には頭の中もすっきりとしていた。
服は、といつものようにジャージを着ようとしてそれはないなと自分側のクローゼットを開けて「中間」とマジックででかでかと書かれた段ボール箱を取り出す。
秋というのは着るものに悩むもので、昼は長袖でよくても夜は上着がないと肌寒い時もある。調整をしそこなって風邪を引くというのはやめておきたい。
いくつかを箱から身繕い、ひとつはそのまま着てもうひとつはボストンバッグに詰める。
あと必要なものはなんだったかと動いていればもう七時を過ぎていた。
日曜日なのでそう食堂は混んでいないだろうが、早めに行くに越したことはない。
開けたカーテンを閉め直し、荷物を再度確かめてからドアを開けた。
(学院外に出るのは久々だな)
着いてすぐに来たバスに乗り込み、一時間は降りることもないので最奥の赤い布張りの長椅子の端に座る。
他の乗客はまだいない。おそらくこのまま三十分は停留所のアナウンスはあってもそこで止まることも扉が開くこともないだろう。
どちらかというと、この近隣の住民や生徒は電車を好んで乗る。バスの本数が電車に比べて圧倒的に少ないからだ。
忘れる前にと、スマートフォンをマナーモードにしてバッグから取り出した文庫本を広げて小さな文字を拾う。
今月出たばかりの新刊だが、ハードブックから文庫になったもので一度は目を通してはいるもの。
装丁が好きなのもあって買ってしまった。作者の一ファンとしては持っておきたいし。
この作者の小説はどれも面白いのだが、言い回しがくどいからと若い世代には敬遠されているそうだ。
一応、デビュー作はミリオンセラーとなり映像化もされたから知名度が低いというわけではないのだが。
デビュー時は高校生作家だとかなんのかで持ち上げられたにしては扱いが微妙な気がする。腫れモノに触るというか。干されているとはまた違うのだが。
その後の新しいシリーズがヒットだとか特に売れているとはとんと聞かない。
それでも毎年数冊は新作を書いてはいるのだから、読者としては支えたいものだ。
(それに。読まないと酔うし)
人によるだろうが、ただ乗っているだけだと酔いやすい傾向にあるこの体質では気を飛ばす何かが必要になる。
景色を眺めていてもいいが、代わり映えしない風景ばかりだと飽きるのもはやいのだ。
窓から見えるのは刈り取られる前のたわわに実った黄金の稲穂。これから先、この色から灰色の建物へと変わるのにはまた時間がかかる。
市街地から離れた郊外、よりも僻地と呼ばれる地域に町ひとつ分の敷地をもつ秋桜子女学院というひとつの学園都市のような女子校はある。
学校の規模と人数においては県下最大だ。
「すべての子女に分け隔てない教育を」を校訓とした学院のはじまりは明治まで遡る。
当初は女子の寄宿学校として開校され、少しずつ大きくなっていった。
女学校、そして女学院と名称を変えていき四年制の専門部を設立。これは後の大学部となる。
そしてさらに学科、学部を増やして門戸を開いた。
昭和前期には戦火を避けて、都市部から僻地へと移転。以後そのまま戻らずに居を構えた。
付属の幼稚園、初等科、中学校に高等学校。
さらにその先の短期大学に大学。それらに付随する様々な設備がその広大な土地に集まっている。
学生として暮らすのならばこれ以上はない環境だ。学業の妨げになるものはない。近くにはない。なにもないとも言われるが。
これだけなら出来た学院ではある。
ただし、この「すべての子女に分け隔てない教育を」を掲げているからか、東大へ進学する生徒も出る特別進学クラスと入学時にアルファベットで自分の名前が書ければ合格という必要最底限学力クラスが同じ学院内に同時に混在する。
普通ならありえない方針を現代でも貫く学院への周囲の目は近年、特に悪いほうへと向けられてひたすらに冷ややかだ。
「馬鹿校」やら「流刑地」だの「最後の審判」だの。
それでも卒業生からは海外をまたにかけるような数多くの有名人を輩出しており、他校ではまずない学科や特定の分野・専門で学べることもあってその点からこの学院を選ぶ人間もいる。
だからこそいまでも定員割れもせずに続いているのだ。いまさらその方針を変える気もない。
(純然に、男が苦手で来る子もいるが)
さて、今から会う友人はどの理由であの学院を選んだのか。
聞いたことはないが、機会があれば聞いてみようかとまた文字へと目線を落とした。
「わああカナちゃん私服だ! はじめて見るかも! レアだね!」
「休みで私用なのに制服で出歩くか」
また乱雑な言い方になったと口を閉じる。しかし代わりになにかを言えるわけでもないのでそのまま。
間違ったことは言ってないのだし。塾に行くわけでもなし。
たしかに、自分は私服で出歩くことはそうないから。ジャージは一応制服だし。
言われたほうは聞いていなかったのか、聞こえなかったのか、相手はうるさいほどに元気だった。
ぎゅうぎゅうとお腹の部分に手を回して抱きついてくる。
「えへへ、楽しみすぎてバス停に一時間くらい早くついちゃって」
「なにそれ無意味」
駅前通りのバス停で出迎えて抱きついてくる小柄な姿は人懐っこい仔犬のようだ。こう、まわりをぐるぐると回るような。
尻尾があれば振りきらんばかりに高速で振っているだろうな、と見えない光景に目を細める。
うるさいのは苦手だが、この子はそういうところはなんとなくわかっているのか一通りテンションを上げて満足すると本題を切り出した。
大型犬より小型犬がよく吠える印象があるが、あれは犬種がどうというよりは飼い主のしつけによるところが大きい。あとは本犬の性格か。
大型犬でも吠えるものは吠えるし、小型犬でも大人しいものはいる。盲導犬として育てられた犬が全部が全部選ばれるわけではないように。
「あのね、お昼はお兄ちゃんが相手が女の子ならってくれたんだけど。株主優待券? とかいうのが使えるホテルで食べれるから。あと今日の夕方に」
「わかったから。前向いて歩いて」
天気がいいのも手伝ってか、休みだというのに午前中のビジネス街の通りはすでに人が多い。
あっちにふらふら、こっちにふらふらとしている友人の腕を引いてはたまに右に左にと動かす。
地図を見ているのか、先ほどから画面に視線を落としている相手に「危ないから歩きながらはやめなさい」と言い終わる前にアスファルトの高低につまずいてこちらに倒れてきた。
「わうっ」
犬のような鳴き声付きでで。
顔面を強打したようだが、自分が抱き止めたので実質的な損害はない。
(言わんこっちゃない)
そのかわり、いじっていた端末がその小さな手から抜けてきれいな曲線を描いて車道にまで飛んでいったが。
走馬灯とでもいうのか。横目が捉えたそれは、どこかそれはスローモーションがかって見えた。
「あ」
グシャリという音がそのあとも何度も繰り返す。最初は軽自動車で、普通車、トラックというように次々と轢かれてただでさえ薄いが売りの端末が薄くなっていく。
信号が赤になった隙に柵を乗りこえて拾い上げてみたが。つまみ上げた液晶は粉々で、たまに点灯する光が逆に不気味に映った。
壊れたなら壊れたで沈黙すればいいのにかすかに光る瞬きが「まだ死んでない。いけるから。生きるから」と主張しているかのようである。
しかし、これはどう見ても駄目だろう。
「あめこ、残念なお知らせがある」
遊びに行くより先にまずは携帯ショップ行きだな、と鼻が低くなったと顔をおさえたままこの状況に気づいていない相手のかわりにため息をついた。
「ごめんねカナちゃん!」
「それはもういいから。あれだけ破損しといてデータがとれただけいいと思いなさい」
携帯ショップから出て、ずっとこれだ。事態は片付いたのだから、もういいのに。
「うえー。でもカナちゃんは明日も出て来なきゃだよ?」
顔の前になにかに祈るかのように手を合わせる友人のほっぺたをつつく。
つつくだけでは飽きたらずにつまんでみる。予想以上に伸びた。柔い。
「ちょっやめへほはははんー」
「あだ名、もちこにしたほうがいいかもね。これ伸びる伸び」
子供のほっぺたは柔いよな、と昔の思い出となにかが浮かんできそうになって指を離した。
『 』
あと少しで、思い出せたなにかは胸の動悸からしよろしくないものだろうということだけはわかったから。
「三連休でよかったね。部活は部員が集まらないから明日もないんだ」
「ありがたやーありがたやー」
そんなに手を合わせられても、自分は神様でもなんでもないので起こったことは変えられない。偶然でここまで合うというのはおもしろいとは思うけど。
携帯ショップが混んでいたのと、買ったばかりで直るか直らないか交換できるかできないか店の判断(店員内で)揉めに揉めた末に買い換えることになり。
行くはずだったイベントの時間に今日は間に合いそうはなかったので「また明日」という運びになった。
三連休にだけあるものなので、これを逃すと次はいつになるかわからない。
しかし、タダでチケットを人から譲られたというだけでそこまでこのイベントを見なければいけないというほど思い入れはないので、行けなかったらそれはそれで「もったいなかったけどまあ、いいか」で終わる。
今回はこの友人と外出した、ということが重要であって、外出先はどうでもいいのだ。
行き先が変更されて、写真館になろうとも。
「あのね、蝉くんがこっちに来てるみたいでね。明日までいるらしいから予定が合ったら会おうかなーって話してたんだけど」
「蝉って。まだそのあだ名で呼んでるの?」
「うん。定着しました」
この子は、どこか独特なセンスの持ち主なので名付けもどこから引っ張ってきたのかわからないものを付けてくる。
「蝉くん」とやらも名前のどこにも「蝉」要素がみつからないのだが。
呼ばれるほうもそれでいいと了承しているようだし。確実に相手も変わってそうだった。
ちなみに「あめこ」というあだ名は自分がつけたものではない。
初日のホームルームで一人、物好きが全員にあだ名をつけていったものの名残である。
クラスメイトにいまでも呼ばれている者もいるが、自分は翌日には「阿波さん」と戻っていた。
別にそれはそれでいいのだが、妙に他のクラスメイトから重い一線を引かれている。
気のせいではなく、確実に。
中等部からの持ち上がり組だけでなく、編入組からも。
その理由については自分でもいくつか検討はついているので、突っかかられるよりはマシだと放っている。
この子みたいに、自分から話しかけてくる存在は稀で貴重なのだ。
「こっちが近道だよー」
慣れた足取りで、本通りから小道へと進む小柄な背中の後ろをついていく。
ここらへんはバブル期に区画整理がされなかった地区だったらしく、初見だと確実に迷いそうな道の込みようだった。
昔ながらの店に挟まれて建つ家も本通りと違いどこか古めかしい木造のアパートなど。
都市部なのにこういう場所もあるのかと純粋に物珍しく眺めていると、行き止まったのは緑の壁。
蔦の這う壁の、わずかに見えるクリーム色の部分から小さな看板が吊るされていた。
「本通りに大きな別館があるから、いつもはそっちに行くんだけど。今日は本館ね。たまたまなんだけど、いまから会えるよ」
「蝉とやらに?」
「うん。ここの写真館のお孫さんと友達で、今日は遊びに来てるって。そこのおじいさんとは前から知り合いなんだけど、お孫さんはまだ見たことないなーて、このドア重い!」
「あめこ、それ押すドアじゃないの」
「えっ」
どう考えてもその両開きのドアは作りからして引くのではなく押すドアだろう。
そうこうしている間にシャラランと、内側のドアについたベルを鳴らしながら勝手にドアが開いた。
外向きに。こちら側に。
「いらっしゃいませー!」
当然ながら、ドアの前に立っていたあめこは本日二度目となる顔面強打を果たすことになった。
「なんだよそのかけ声は! ここはガソリンスタンドとか〇ックオフじゃないんだよ!? って人の店で客になにやってんの!?」
「わーゴメン! ドアのガラスに人影が見えたから親切心で…本当にすみませんでしたって知世ちゃん!?」
「ううう鼻が…! 鼻がさらに低く…!?」
「知り合い!?」
「例の電車の漫画の子! ゴメン、悪気はなくって! 大丈夫に見えないけど大丈夫!?」
犯人は蝉だった。いや、人間だった。
妙に行動力のありすぎる少年だとは聞いていたが。なにもしない人間を動かすのも厄介だが、こういう人間も厄介ではある。よかれと思ってやったと言われたらどうしようもない。
慌てふためく人間を見ていると逆に冷静になれる質なので、数秒だけ自分の耳たぶを触って思案した後にずいと目の前のスーパーボールのようによく跳ねそうな少年を店の奥から出てきた少女のほうに押し、あめこと完全に店の中へと入る。
店先ですることではないし。
「あめこ、鼻血は?」
「あ、あうえうええと、出てない」
「ならよし。折れてない」
こじんまりとした二階まで吹き抜けの店内はカウンターの向こうも窓のある場所以外は大小様々な本棚で埋めつくされていた。
一階部分の棚の中はなにかの資料集なのか、バインダーや大判のもの。
二階は古そうではあるが、普通のハードカバーの本。写真館ではなく個人図書館のようである。
混乱から先に抜けたひとりがカウンターの向こう側へと引っ込んでからすぐに冷たいおしぼりを片手に戻ってくる。
「冷やしたほうがいいかな?」
「ありがとうございます。足の小指を角に打ち付けたレベルよりは低いのでこれ以上はいいです」
「同じくらい痛いよカナちゃん!?」
そこまで話せるなら大丈夫だろう。
「わかった、ちょっと小指をそこでぶつけてくるから許してね!」
「やめろよ、事態を悪化させるの!」
ぎゃいぎゃいと外野がうるさい。
落ち着け、蝉。あとツッコミがやたらするどい。
靴からスリッパへと履き替え、小さなテーブルを囲むようにして鎮座する三つある椅子の手前にあめこを座らせるとあれこれと世話をやいてくれた少女へと向き直った。
「この店の方ですか?」
「いや、当の本人は飲み物買いに出かけてて。もう戻る頃なんだけど」
家主(の孫)不在でこの有り様。どう始末をつけてくれよう。
日が暮れる前に用事を済ませてこの子を家まで送りたいのだけど。
「えーと、カナちゃん。こちらが蝉くんです」
「えーと、蝉です!」
だろうと思った。しかしその紹介はない。いいのかそれで。
復活してきたらしいあめこは椅子の横に立つ、やたら元気のよい少年の服の端を少しだけ引っ張る。
「阿波です、どうも。この子がお世話になってます」
お世話になっているのか、お世話をしているのかはわからないが。
「こちらはカナちゃんです。本当はミカンちゃんって呼ぼうとしたんだけど」
「やめて」
連想するのは橙色の果実である。他の果実と違って皮をむいても薄皮があってなんだか食べにくい。味は好きだが。
「あれ、カナちゃんって本名じゃないの? アナミカナ、じゃ「ミカン」にはならなくない?」
「カナちゃんは、本当はカンナちゃんなのです。漢字が変わっててね、じゅ」
シャララン、と背後でドアの開く音がした。
やっと家主(の孫)の帰宅らしい。
「十河、遅かったなー俺はその間にちょっとやらかした!」
「要。お客さんが来てる」
「……………」
なにか受け答えをしたのだろうか。家主(の孫)の声は自分には聞こえなかった。
振り返れば、そこにはいかにも勉強ができますというような面立ちの少年が立っていた。
ノンフレームの眼鏡が光に反射して表情が読めない。
「ね、カナちゃんの下の名前は珍しいよね」
呼びかけられてまた正面へと向き直る。
「珍しいというか。一応は変換される名前なんだけど」
初対面で読める人間はそういないだけで。
十月十日に生まれたから。
誕生日が十月十日だから。
「数字の十に天体の月と書いて、十月と読む。暦の十月でカンナ」
いつもなら、珍しいねと終わるその話題は。
「…十月と書いて、カンナと読む?」
ぼそりと、しかし確実に聞こえた声は背後から。
この店内では、はじめて響く低めの声。
「…しゃべった!」
「要が口に出して言ったように聞こえた…あれ? 睡眠不足かな…」
「え? なに?」
目を丸くしたのがひとり。どこか遠くを見ているのがひとり。置き去りにされたのがふたり。
きょろきょろと固まったふたりを見ているあめこから視線を背後へと向ける。
そこにいるのは同い年くらいの少年。格好も、奇抜というわけでもない。
その手からは買い物袋がガコンと床に落ちた。
(見覚えが、あるような…ないような)
よくよく見ると、眼鏡の少年は端正な顔立ちをしていた。
ただ、この状況下でひとりだけなにを考えているのかわからないほどに無表情を貫いている。
どこかで、こんなやつと会ったことがあるような。
『 』
脳裏に浮かんだのは、ものを知らない子供だった。
小さくて、未熟で。大人の言うことが絶対だと信じていたあの子供。
どこかのパーティーで見た、シャンデリアの欠片みたいな。
光に反射して綺麗なはずなのに、どこか冷たいガラスのような目をした男の子。
いや、だって。あれ。ちょっと待て。
名前は、なんと言ったっけ。あれの、名前。
(…名前が、わからない)
ひとつ、思い出せたけど。あれは。
じわりと背中に冷たいものが伝う。
「ポチ」
思わず、口に出た言葉にハッとなった。
見上げたその少年は。
「ワン」
一声、そう鳴いたのだった。