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「聖女の砂時計が止まったので、あなたは用済みです」と婚約破棄されましたが、砂の残量を管理していたのは十二年勤めた私(元・時計修理工)なので、最後の一粒は返していただきます

作者: uta
掲載日:2026/10/18

「砂時計は昨夜、止まった」


聖堂の大広間。王太子エルヴィン・ヴァルダの声が、高い天井に反響した。


「十二年間も管理してきたお前の怠慢だ。――セイラ・ロンド、婚約を破棄し、聖具管理官を解任する」


彼の腕の中には、蜂蜜色の巻き毛の少女がいた。伯爵令嬢リリアナ・エステル。白い祭服の裾が、磨かれた大理石の上で花のように広がっている。


わたしは、両手を体の前で重ねたまま、まず時刻を確認した。


窓の高さから差し込む光の角度。第五刻の少し前。記録しておかなければ。


「セイラ・ロンド。何か申し開きはあるか」


貴族たちがざわめく。扇の陰から向けられる視線を、わたしは数えなかった。数えても帳簿に書く欄がないからだ。


わたしは胸元から真鍮の計数器を取り出した。


カチリ。


親指で、一つ回す。


傷ついたとき、わたしの指は勝手にこれを回す。前世からの癖だ。四十年間、ビルの地下の工房でぜんまいを巻き続けた指が、この体に移ってもまだ同じ動きを覚えている。


「――確認します」


自分でも驚くほど、声は平らだった。


「止まったとお気づきになったのは、昨夜の第三刻ですね。鐘楼の二番鐘が鳴ったあと、聖堂の当番司祭が巡回に入る時刻です」


エルヴィン殿下の眉が、わずかに動いた。


「……それがどうした」


「順序の確認です。止まったのではなく、止まって見えた。その差は、帳簿の上では別の欄に書きます」


「言い訳はいい」


「言い訳ではありません。記録です」


わたしは一歩も動かなかった。動く必要がなかった。


「では最後に、一点だけ。殿下は、残量をご存じですか」


「残量?」


「砂時計の、下部に落ちていない砂の量です」


殿下は答えなかった。リリアナ様が小首をかしげ、甘く鈴を転がすような声で言った。


「そんなもの、数える必要がありまして? わたくしの祈りなら、砂は満ちますわ」


ああ、とわたしは思った。


この人は、本気で信じている。悪意ではなく、信仰で。それはたぶん、この国の全員がそうなのだ。


《終焉の砂時計》は、聖女が祈るたびに砂が一粒落ち、落ちた分だけ国土の結界が保たれる。砂が尽きれば結界が消え、魔物の大氾濫が起きる。


それが、この国の誰もが知っている「お約束」だ。


わたしは顔を上げた。


この十二年で、初めて、まっすぐ大広間の全員を見た。物ではなく、人を見た。


「残量は、一粒です」


会場が、静まり返った。


扇の音も、衣擦れも、咳払いも消えた。


誰も、残量を知らなかったからだ。


十二年間、毎朝六時に砂粒を数えていたのは、この国でわたしひとりだった。


◇


翌朝、わたしは管理局の執務机に、帳簿を三冊積んだ。


一冊目、《献納受領簿》。各領地から納められた『祈願献納』の受領記録。


二冊目、《残量照合簿》。毎朝六時の目視計数と、帳簿残高の照合記録。


三冊目、《修繕申請控》。部品の摩耗、交換、申請、決裁の記録。


十二年分。背表紙は、わたしの指の脂で角が丸くなっている。


「引き継ぎです」


殿下は腕を組んだまま、三冊を一瞥もしなかった。


「帳簿はここに置いていきます。献納量と残量は、必ず一致させてください」


「一致?」


「はい。ずれると、砂時計は動きません」


「……何を言っている」


「砂時計に残る砂の量は、聖具管理官の帳簿に記された献納量と同一でなければ動かない。これは聖具の動作条件です。初代管理官の遺した注意書きにも、同じ文言があります」


殿下は笑った。心底おかしそうに、肩を揺らして。


「帳簿など飾りだ。祈りこそが本質だろう」


――ああ、と思った。


怒りは湧かなかった。驚きもしなかった。


ただ、ひどく静かな場所に、ことん、と何かが落ちた音がした。


わたしは頭を下げた。


「承知しました。では、本質をどうぞ」


「なんだと?」


「失礼します」


廊下を歩いた。十二年歩いた廊下だ。石畳の三十七枚目に小さな欠けがあって、いつも靴底がかすかに引っかかる。今日も引っかかった。


角を曲がったところで、小さな声がした。


「……セイラ様」


ニナだった。十六歳の下働きの少女。大きすぎる前掛けを引きずって、そばかすの浮いた顔をうつむかせている。


十二年間、毎朝六時にわたしの机へ水差しを置き続けた、ただ一人の、同僚らしい存在。


「……帳簿、わたしが写しておきました。三冊とも、全部」


わたしは足を止めた。


「全部?」


「夜に、少しずつ。字が下手で、すみません。でも数字だけは、間違えないように三回ずつ見ました」


「……どうして」


ニナは前掛けの端を握りしめた。


「セイラ様が、毎朝ほんとうに数えてたの、わたし知ってるから」


胸元に手がいった。


カチリ。


計数器が、一つ回った。


「ニナ」


「はい」


「その写し、絶対に誰にも渡さないでください。宰相閣下にも、神殿にも」


「……はい」


「それから」


言葉を探した。十二年、わたしは人に向かって言葉を探したことがない。


「……ありがとう」


ニナの目が、ぱっと赤くなった。


わたしは逃げるように歩き出した。泣かれるのは、計算に入っていなかった。


◇


荷物は、鞄ひとつで足りた。


十二年。着替えが三組、祖父の――いや、この世界では存在しない人の形見のつもりで自分で作った小さな工具箱、インク壺、そして油紙の包みがひとつ。


油紙の中身は、確認するまでもない。けれど一度だけ開いた。


小指の爪の、さらに四分の一ほどの、琥珀色の粒。


『最後の一粒』。十二年前、摩耗していたので正式な修繕申請の上で取り出し、磨き直しの途中のまま、ずっと手元にある。


申請書の控えは、三冊目の帳簿の最後のページに綴じてある。殿下の机の上に、今もある。


わたしは包みを畳み、鞄の底に入れた。


安宿に入ったのは、日が暮れてからだった。


部屋は狭く、寝台は軋み、窓の下では酔った男たちが歌っている。それでも、十二年住んだ管理局の部屋より、空気が生きていた。


階下で、硬いライ麦パンとスープを頼んだ。


パンは本当に硬くて、噛み切るのに顎が疲れた。スープに浸して、ふやかして、口に入れる。塩辛い。豆と、名前の知らない根菜。


――おいしい。


誰とも食卓を囲まない十二年のあいだ、わたしは食事を『摂取』と呼んでいた。時刻を決め、量を決め、記録していた。


今日は記録していない。


二杯目を頼んだ。


宿の主人が湯を沸かしてくれると言うので、銅貨を三枚払った。久しぶりに、たっぷりの湯を使った。


肩まで沈んだとき、自分の指が目に入った。


細かい傷だらけの指先。砂粒を一つずつ、羽根のピンセットでつまみ続けた十二年の指。前世の指と、同じ形の傷がついている。


おかしなものだ。体が違っても、仕事は同じ跡をつける。


髪を乾かしながら、窓辺に座った。


王都の夜の灯が、ぽつぽつと見える。あの一番高い尖塔の下に、砂時計がある。


ふと、思った。


――明日、六時に起きなくていいんだ。


指が止まった。


十二年間、一日も欠かさなかった。熱があった朝も、足を痛めた朝も、六時に起きて、羽根ピンセットを持って、数えた。


誰も見ていなかった。誰も褒めなかった。それでいいと思っていた。


『時計ってのは、直してるときじゃなく、止まったときに初めて人が見るんだ』


祖父の声が、遠い前世から聞こえた。地下の工房、油の匂い、ラジオの野球中継。


――おじいちゃん。


見てもらえたよ、やっと。


止まってから。


涙が、顎から落ちて膝に染みた。


わたしは少しだけ泣いた。


声は出さなかった。泣き方を、知らなかったからだ。


戸口で、こつん、と音がした。


開けると、誰もいない。足元に小さな紙包みがひとつ。


薬包だった。細い字で、こう書いてある。


『不眠に。あなた、十二年分寝ていないでしょう。 ――ヨーナ・メルディ』


神殿医の名だった。『聖女の祈りで病は治らない。治るのは、治る病だけです』と公言して、神殿で冷遇されている人。


わたしは廊下を覗いた。白衣の背中が、階段を降りていくところだった。


「……あ、あの」


振り返らずに、片手だけ上がった。それだけだった。


「ありがとう、ございます」


声が、途中で詰まった。


その夜、わたしは十二年ぶりに、夢を見ずに眠った。


◇


辺境の宿場町ヴェルナは、王都から馬車で九日かかった。


石造りの低い家並み、山から吹き下ろす乾いた風、羊の匂い。


わたしは通りに面した空き店舗を月三百ルクスで借り、板きれに炭で看板を書いた。


『止まった時計、直します』


一日目、客はゼロ。


二日目の昼、戸が蹴破られそうな勢いで開いた。


「あんたかい、時計屋ってのは」


六十歳前後の女だった。がさつな声、太い腕、片手に水車のぜんまいをぶら下げている。雑貨屋のマルタ・ウェンと名乗った。


「これ、三年前から止まってんだ。鍛冶屋は『新しいの買え』の一点張りでね」


わたしはぜんまいを受け取り、窓際に持っていった。


光に透かす。巻き癖、錆、折損箇所。


「折れてはいません。芯棒が歪んでいます。叩いて直す人がいたんでしょう」


「いたいた。うちの亭主だ。死んだけど」


「……三日ください」


「三日でいいのかい」


「焼き入れの冷ましに二日かかります」


マルタさんは、わたしの顔をじろじろ見た。


「あんた、よく寝てないね。顔が帳簿みたいだよ」


「……帳簿」


「線ばっかりで、色がない」


その日の夕方、マルタさんはライ麦パンとスープを押しつけに来た。代金代わりだと言う。まだ直していないのに。


翌日は、湯を沸かしておいたと言って引きずられた。


「あんた、素性は聞かないよ」


「……どうして」


「王都から流れてくる女なんざ、だいたい訳ありさ。訳を聞いて飯がうまくなるかい」


わたしは、スープを飲んだ。


その頃、王都では砂時計が一粒も落ちていなかった。


噂は少しずつ山を越えてきた。


聖女候補リリアナ様が三日三晩祈った。落ちなかった。七日祈った。落ちなかった。神殿は断食を命じた。落ちなかった。


当然だ、とわたしは思う。


帳簿の数字と、実在する砂の量が、合っていないから。


わたしは復讐をしていない。何もしていない。


帳簿は置いてきた。注意事項も伝えた。『ずれると、砂時計は動きません』と。


飾りだと言ったのは、わたしではない。


六週目には、水車のぜんまい、農具のばね、宿屋の振り子時計、羊飼いの笛の金具まで持ち込まれるようになった。


朝は八時に起きた。


最初の一週間は、六時に目が覚めてしまって、そのたびに天井を見ながら息を吐いた。


二週目には、七時になった。


三週目に、八時まで眠れた日、わたしは工房の床に座り込んで、少し笑った。


『明日、六時に起きなくていい』は、本当だったのだ。


――そして、冬の初めの夕方。


工房の戸口が、暗くなった。


人ひとりで、光が全部ふさがれていた。


身の丈六尺を超える巨躯。右目を縦に裂く古傷。黒い外套に竜騎士の留め具。


「……あんたが、セイラ・ロンドか」


低い声だった。


わたしはぜんまいを置き、両手を膝で拭いた。


「確認します。どちらさまですか」


男は、ひどく言葉を選ぶのに時間をかけた。たっぷり五秒。


「ガレス・アルドレイ。辺境領主の次男だ。竜騎士をやっている」


それから、もう五秒。


「あんたの帳簿を、借りたい」


「なぜ」


「王都が、残量を一粒と公表しやがった」


外の風が、看板をかたかたと鳴らした。


「国中が震え上がってる。結界が消えれば、最初に食われるのは辺境だ。魔物の氾濫が来れば、三日で村が二十消える。……俺の領地だ」


大きな手が、膝につくほど深く下げられた。


「頼む」


わたしは立ち上がった。


鞄の底から、油紙の包みを取り出す。


「帳簿は王都にあります。置いてきました」


「じゃあ――」


「ですが」


わたしは包みを、彼の目の前に置いた。


「これは、ここにあります」


◇


王都の聖具管理局、第二会議室。


集められたのは四人だった。


宰相ドレーゼ・カルネ。白髪を撫でつけた灰色の目の老人。感情が、顔の皮膚の下で一ミリも動かない。


商人組合筆頭理事ハルマン・ボッジ。丸い腹、薄い頭、脇に抱えた分厚い控え帳。


神殿医ヨーナ・メルディ。白衣の袖口に薬草の粉。


そして、わたしの背後に立つガレス・アルドレイ。


部屋の隅で、ニナが三冊の写本を胸に抱えて震えていた。


「セイラ・ロンド」宰相が言った。「貴殿は解任された身だ。なぜここに」


「ガレス卿に請われました。わたしは報告をしに来ただけです。受理するかどうかは、閣下の裁量です」


「報告」


「三点あります」


わたしは机に、ニナの写本を開いた。字は確かに下手だった。けれど数字は、一字も曲がっていなかった。


「一点目。砂時計は、止まっていません」


室内の空気が、ぴくりと動いた。


「残量が一粒になったため、落下間隔が延びているだけです。十二年に一度。計算式は《残量照合簿》の巻末、付表三にあります」


「……十二年」


「七年前に記録し、三度報告しました」


わたしは写本の余白を指した。日付と時刻が、わたしの字で三つ並んでいる。


「七年前、四月十一日、第二刻。報告書提出。回答なし。


同年九月三日、第四刻。再提出。王太子殿下執務室にて差し戻し。


翌年二月二十日、第一刻。三度目。『些事につき保留』の付箋のみ。保留者署名――」


わたしは顔を上げなかった。


「――ドレーゼ・カルネ閣下」


宰相は、まばたきをしなかった。


「…………続けたまえ」


「はい」


わたしはページをめくった。


「二点目。砂は、祈りでは増えません」


ヨーナ医師が、ふん、と鼻を鳴らした。


「補充されています。各領地からの『祈願献納』――実態は税です。年四回、現物の砂を納める制度です。帳簿上の受領額と、実在量は必ず一致させる決まりです」


「それが」宰相の声が、初めて低くなった。「一致していないと」


「はい」


わたしは、指で一行をなぞった。


「過去六年間の受領記録と、実際に納入された砂の量に差があります。差額――四万二千ルクス相当」


ハルマン・ボッジが、ばん、と机を叩いた。


「やはりか!」


丸い腹を揺らして立ち上がり、背後の扉に向かって大声を出した。


「入れ! 全員だ!」


扉が開き、商人たちがなだれ込んだ。


次の瞬間から、机の上に控え帳が叩きつけられ始めた。


「第七区商会、三千二百ルクス、領収印あり!」


「北街道組合、九百八十! 四年分の控え、全部ございます!」


「織物ギルド、二年分、四千四百!」


「製粉組合、千百五十!」


「港湾荷揚衆、六百七十! 毎年きっちり納めております!」


「東門雑穀商、二千三百!」


「鍛冶ギルド、三千八十!」


紙の山が、見る間に机を覆った。


ハルマンが帳面の背を、ばしん、と叩く。


「組合は十九年、一度も滞納しておりません。だが納めた砂が砂時計に入っていないなら――金はどこへ行った!」


「社交費です」


わたしは言った。


「同期間の宮廷支出簿に、『聖務関連諸費』の名目で同額の計上があります。内訳は、舞踏会三回、祭服の特注、楽団の招聘、馬車の新調。――二冊目の帳簿、裏表紙の内ポケットに、照合表を入れてあります」


宰相が、ゆっくりとその帳簿に手を伸ばした。


内ポケットから、折り畳まれた一枚が出てきた。


彼はそれを開き、十数秒、何も言わなかった。


ハルマンが帽子を脱ぎ、わたしに向かって深く頭を下げた。


「……ロンド殿。一ルクスの狂いもない」


「帳簿ですから」


「証文は、涙より強いですからな」


彼は洟をすすった。


ヨーナ医師が、机の端に自分の分厚い医療日誌を置いた。


「神殿医として証言します。砂の落下日は、当直日誌に『落下記録』として毎回書かせられてきた。七年前から、落下はぴたりと止まっている。――ロンド殿の延伸計算と、日付が完全に一致します」


「では」宰相がペンを取った。「結論として、砂時計を再始動させる条件は」


「帳簿残高と実在量の一致です」


「差額は補填させる。王家の私財を差し押さえてでも」


「それで帳簿は合います」


「ならば動くな」


「いいえ」


わたしは、胸元から油紙の包みを出した。


机の中央に、そっと置く。


「三点目です」


油紙を開いた。


琥珀色の粒が、ひとつ。


「十二年前、この一粒は摩耗していました。わたしは《聖具部品修繕申請書》を提出し、正式な決裁を得て取り出しました。申請番号、丙の七十四。決裁者――当時の聖具管理局長。写しは三冊目の最終頁に綴じてあります」


誰も、動かなかった。


「つまり」わたしは言った。「最後の一粒は、砂時計の中にはありません」


「……十二年、ここに?」


「磨き直しの途中でした。再組み込みには管理官の立会と署名が必要です」


わたしは、一歩下がった。


「この一粒がないと、砂時計は動きません。わたしは管理官ではないので、もう戻す権限がありません」


宰相の手が、止まった。


ペン先からインクが一滴落ちて、机の上の控え帳に、小さな黒い点をつくった。


誰も、それを拭かなかった。


◇


その夜、わたしは聖堂の祈祷室の前を通った。


帰るつもりだった。報告は終わった。わたしの仕事ではない。


扉が、細く開いていた。


中に、白い祭服の背中があった。


リリアナ・エステル。蜂蜜色の巻き毛が、ほどけて肩に落ちている。十二日間、ここで祈り続けていたと聞いた。


声をかけるつもりはなかった。


けれど彼女が、振り返った。


目の下が、黒かった。


「……セイラ様」


「失礼します」


「待って」


呼び止める声は、もう鈴の音ではなかった。かすれて、十九歳の娘の声だった。


「本当なの。祈りで、砂は増えないの」


「増えません」


「一度も?」


「一度も」


彼女は膝をついたまま、祭壇を見上げた。


「わたくし、六歳から祈っておりましたの」


わたしは黙っていた。


「毎朝、日の出とともに。冬も、熱のある日も。手がかじかんで動かない日も。――それで国を守れるのだと、本当に、信じておりましたのよ」


声が、途中で濡れた。


「わたくしは、何をしていたの」


わたしは答えを持っていなかった。


代わりに、彼女が顔を上げた。


「……あなたは、毎朝何をしていたの」


十二年。


六時に起きて、羽根のピンセットと計数器を持って、聖堂の階段を百四十二段のぼって。


硝子越しに、一粒ずつ。


「数えていました」


それだけ言った。


リリアナ様は、何かを言おうとして、言えなかった。唇が二度動いて、二度とも音にならなかった。


わたしは扉を閉めた。


廊下は冷えていた。


この人を断罪する必要はない。誰も断罪しなくていい。


『祈りで砂は増えない』と、国中が知る。


それだけで、彼女はただの令嬢に戻る。それは罰ではなく、たぶん、彼女が生まれて初めて手にする自由だ。


階段の下で、ガレス卿が壁にもたれて待っていた。


巨躯の男が、わたしを見て、何も聞かなかった。


言葉を選ぶのが遅いのだと、辺境で聞いた。


「……帰るか」


「はい」


沈黙を、急かさずに歩いてくれる人を、わたしは初めて知った。


◇


王太子エルヴィン・ヴァルダの廃嫡が決まったのは、十日後だった。


公金流用。国庫からの『聖務関連諸費』四万二千ルクス。


審問の場に、わたしは呼ばれなかった。証拠が帳簿と商人の控えだけで足りたからだ。


伝え聞いた話では、彼は最後まで叫んでいたという。


「数字など些事だ! 本質を見ていたのは、私だ!」


誰も、訂正しなかったそうだ。


宰相ドレーゼ・カルネは、三日三晩かけて法案を書いた。


《終焉の砂時計管理法》。


一、砂時計を『聖具』の指定から外し、『国家公共設備』に再定義する。


二、常勤管理官三名を置き、交代制で毎朝の計数を行う。


三、献納帳簿は四半期ごとに全文公開。商人組合より監視委員一名を置く。


四、管理官の報告書は、受理から三十日以内に必ず文書で回答する。


四項目めを読んだとき、わたしは少し、手が止まった。


宰相はわたしに謝罪をしなかった。


一度も、一言も。


ただ法案の末尾に、こう書いた。


『本法は、七年前四月十一日付の報告書第三号に基づく』


――わたしの報告書の、番号だった。


「初代監査官に就任してもらいたい」


宰相の執務室で、彼は言った。


「条件がございます」


「言いたまえ」


「週四日勤務。残り三日は辺境に戻ります。それと、監査局に工房を併設してください。作業台一つぶんで構いません」


灰色の目が、わずかに細くなった。


「……工房」


「わたしは時計屋です。管理官は、十二年やりました」


宰相は、ペンを取った。


「認める」


それから、ニナ・ホルクが常勤三名のひとりに採用された。


辞令を受け取ったあの子は、前掛けを握りしめて、初めて帳簿の署名欄に自分の名前を書いた。


『ニナ・ホルク』


字は、やっぱり下手だった。


三回書き直して、三回とも下手だった。


「……セイラ様、わたし、名前の練習からします」


「数字が合っていれば、字は後でいいです」


「はい!」


そして、翌朝六時。


わたしは聖堂の階段を、百四十二段のぼった。


久しぶりだった。膝が笑った。


宰相、ニナ、ハルマン理事、ヨーナ医師、ガレス卿、そして神官長が立ち会った。


硝子の球体は、朝の光を吸って、鈍く琥珀色だった。


わたしは油紙を開き、羽根のピンセットで、最後の一粒をつまんだ。


息を止める。


前世で、四十年。この世界で、十二年。


五十二年ぶんの指が、一ミリも震えなかった。


上部硝子の注入口へ。


落とす。


帳簿残高、十七万四千八百二粒。実在量、十七万四千八百二粒。


一致。


――カチ。


小さな、小さな音がした。


一粒。


十二年ぶりに、砂が落ちた。


誰かが息を呑んだ。誰かが膝をついた。


わたしはピンセットを置いて、硝子に額がつきそうなくらい近づいて、小さく言った。


「おかえり」


聞こえたのは、たぶん、わたしだけだった。


◇


辺境の工房は、雪の匂いがしていた。


週に三日、わたしはここにいる。


壁には預かった時計が七つ。水車のぜんまいが二つ。羊飼いの笛の金具がひとつ。


作業台の上には、磨きかけの歯車と、冷めた茶。


戸が、遠慮がちに叩かれた。


「……俺だ」


ガレス卿だった。巨躯をかがめて、鴨居に頭をぶつけながら入ってくる。毎回ぶつける。学習しない。


布に包んだものを、作業台に置いた。


「……パンケーキだ」


開くと、まるい、かなり黒いものが三枚。


「妹が、初めて焼いた」


「そうですか」


「……その、『姉さんみたいな人に食べてほしい』と」


彼は、わざとらしく窓のほうを見た。鞄の口から、不格好な赤いマフラーがはみ出している。真冬ではないのに、いつも入っている。


「見るな」


「見ていません」


「……荷物だ」


わたしは一枚つまんで、口に入れた。


噛む。


炭の味がして、その奥に、ほんのり蜂蜜。焼き加減は失敗しているが、生地に卵をよく溶いてある。丁寧に作った跡がある。


「焦げてますね」


「……ああ」


「失敗作ではありません。火が強すぎただけです。次は半分の火で、倍の時間」


わたしは二枚目に手を伸ばした。


ガレス卿が、ぽかんとした顔をした。隻眼の竜騎士が、話しかけると三日寝込むと恐れられている男が、ぽかんとしていた。


「……食うのか」


「いただきます。妹さんに、おいしかったと伝えてください」


「……嘘はよくない」


「嘘ではありません。二枚目に手が伸びたのは、本当ですから」


彼は、しばらく黙っていた。たっぷり五秒。いつもの速度だ。


それから、耳のあたりを掻いた。


「……また来る」


「どうぞ」


軒先で、マルタさんの声がした。


「パン置いてくよ! ――返事はいらないからね」


返事も待たずに去っていく。いつものことだ。


わたしは窓辺に目をやった。


小さな砂時計がひとつ、置いてある。


自分で作ったものだ。硝子は町の職人に吹いてもらい、砂は川で篩って、三度洗った。


三分だけ測る。茶を蒸らすための砂時計。


結界も守らない。誰の祈りにも使われない。国の運命も背負っていない。


ただ、三分で落ち切って、ひっくり返せばまた落ちる。


わたしは指先で、それを倒した。


さらさらと、音もなく落ちていく。


茶葉が開くまで、三分。


『時計ってのは、直してるときじゃなく、止まったときに初めて人が見るんだ』


おじいちゃん。


それでも、わたしは直し続けるよ。


誰も見ていない朝の六時も、ちゃんと数え続ける。


それが、わたしのする仕事だから。


砂が落ち切った。


わたしは茶を注ぎ、三枚目のパンケーキに手を伸ばした。


――やっぱり、焦げていた。

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