ふざけ倒していたお騒がせ騎士の愛が重すぎる
「エルサ様、本日もお美しいですね。いっそこのまま私と駆け落ちして、極東の未開拓地で『泥を煎じた味がする』と噂の奇跡の青い果実でも栽培しながら暮らしませんか?」
「泥を煎じた味の果実ってそれもうただの泥じゃない? なんで私があなたとそんなディストピアみたいな未開拓地に行かなきゃいけないのよ」
「おや、二人で耕せばどんなディストピアもユートピアになりますよ」
のんきに笑うのは、私の専属護衛騎士であるリオンだ。
琥珀色の瞳に整った容姿、黙っていれば絵画のような貴公子なのに、口を開けばこれである。
「文官の真似事も、あと少しの辛抱です。国外勤務のお兄様が帰ってきたら、笑顔で全部返却しましょう」
「真似事って言わないでよ!! これでも頑張ってるんだから! でもそうね、お兄様が帰ってくるまでの我慢だわ」
父が亡くなり、跡継ぎのお兄様が国外赴任してからの三年間、私が「当主代理」として伯爵家を守ってきた。
その孤独で多忙な毎日を支えてくれたのが、このお騒がせな男だ。
私が眉間にシワを寄せて再び書類を睨み始めると、彼は手元の皿のクッキーをひょいっと投げてきた。
「ほら、息抜きのおやつです」
私は反射的に空中でクッキーを手刀で迎え撃った。
クッキーは無残にも粉々になり、机の上へ雪のように降り積もる。
「……相変わらず凄まじいキレですね。さすが元『神速の剣』」
「……その呼び名、本気で忘れてほしいんだけど」
「無理ですよ。訓練場でボコボコにされて、本気で泣いた日のことは鮮明に覚えていますから」
「負けて泣いたくせに、なんでその後我が家の護衛に押し掛けてきたのよ……」
「契約してくれるまで門の前から動かない私を、あなたの家の門番は本気で不審者扱いしてましたね」
「当たり前でしょう。王宮騎士団のスカウトを蹴ってまでうちの門前に三時間も座り込んでたら、誰だって警戒するわよ」
「でも、おかげでこうして一番近くであなたを守れています」
誇らしげに胸を張るリオンに、私はペンを握り直して苦笑した。
「……あの時は押しが強すぎて怖かったけれど、今は感謝してるわよ」
「では、その感謝の証として、このサイン済みの婚姻誓約書にサインを――」
「なんでそんなもの持ち歩いてるのよ……!」
ーーひとしきり会話を終えた後、私は最後の書類にサインを書き加えた。
「よし……っ! これで今週分の仕事は終わり!」
深々と息を吐き出す。
来週にはお兄様が帰ってくる。これでようやく、私の肩の荷も下りるのだ。
「エルサ様」
不意に、斜め後ろから声をかけられた。
「なに?」
「兄君が帰ってきたら」
「ええ」
「私は、あなたを本気で口説かせていただきます」
「はいはい」
私はひらひらと手を振って、軽く笑い流した。
いつもの冗談だと思っていたから。
――だから、この時の私は、まだ気づいていなかった。
振り返った彼の琥珀色の瞳に、おふざけの色が欠片もなかったことに。
彼が一度も、笑っていなかったことに。
***
ランバート伯爵家にお兄様が帰還されて、ちょうど一週間。
午後、私はサロンのソファに腰掛け紅茶に口をつけた。
無意識のうちに視線が棚に向かい、手がインク壺の蓋をカチカチと整えてしまう。
(……あ、もう整理する書類なんて、一枚もないんだわ)
空になった執務机が、妙に広く感じられる。
当主代理としての私の仕事は、今日ですべて本来の跡継ぎへと引き継ぎが完了したのだ。
……そして、何よりも気になるのは、私の斜め後ろだ。
いつもなら私が紅茶を飲もうとすると、横から「クッキーいただきます!」と恐ろしい速さで奪い去っていくはずのリオンが、今日は私の斜め後ろで直立不動のまま控えている。
クッキーを食べない。
くだらない冗談も言わない。
この不自然なほどの静けさが、私の胸をざわつかせる。
その距離感に、私は気付いてしまう。
お兄様が戻り、私の当主代理としての役目は終わった。
もう彼をここに縛りつけておく理由はないのだ。
「……リオン」
「はい」
私は胸の奥がちりりと痛むのを隠し、振り返って彼を見つめた。
「あなた、いつまでここにいるつもり?」
「……と、おっしゃいますと?」
「お兄様が帰ってきたんだから、私はもう護衛なんて必要ないでしょう? あなたほどの腕があればどこでも引き手あまたなんだから、さっさと次の仕え先を見つけなさいな」
静寂が、サロンを支配する。
一人ぼっちになってしまうような寂しさに押し潰されそうになりながら、私は明るい声を作り繕った。
リオンが私の前に歩み出てくる。
「ひとつ、お願いがあります」
「……何かしら。推薦状ならいくらでも書くわよ?」
そう答えた直後、彼は躊躇いもなく、私の目の前で床に片膝を突いた。
「え……?」
ふっと、その整った顔からおふざけの色が完全に消える。
琥珀色の瞳がどこまでも真剣に私を映していた。
「……やっとこの時が来たんですから、そんなに邪険にしないでください」
「リオン……?」
「エルサ。昔、訓練場であなたの剣に負けたあの日から、私はずっとあなたに目を奪われていました。あなたが剣を置いたこの三年間、不慣れな数字や気難しい役人たちと戦って家を守ってきた。その姿は、どんな剣を振るう姿よりも美しかった」
リオンがそっと、私の右手を両手で包み込んだ。
ペンだこができてしまった私の手を、彼は宝物でも扱うかのように大切そうに抱え込む。
「初めて書類を徹夜で片付けた翌朝、机でぐったりと眠ってしまったあなたを見た時のことを、今でも覚えています。……あの時、私はこの人を生涯かけて守ろうと決めたんです」
「――っ!?」
「剣があろうとなかろうと、私はあなたのことが好きなんです」
心臓が大きく跳ね上がり、顔が一瞬で沸騰したように熱くなる。
「……あなた、いつものあれ、ずっと本気だったの……?」
「……そんなに驚きます?」
リオンは少し傷ついたような、困ったような苦笑いを浮かべた。
「だ、だって……全部冗談だと思ってたもの」
「本気に決まっているでしょう。王宮騎士団からの引き抜きをすべてゴミ箱に投げ捨て、万年筆のインクを買い走るパシリまで喜んでこなして、挙句の果てに領地のドブさらいにまで笑顔で付き合ったりなんて、本気じゃなければできませんよ」
「ドブさらいは……あなたが笑顔でやってるから大丈夫かと思ってたわ……」
「しかも二回ですよ?」
「二回目は『とてもやりがいを感じます』って言ってたじゃないの……!」
「愛する人のためだからやりがいがあったんです。……コホン。とにかく、私はあなたを愛しています。私と、結婚してください。あなたの隣にいられるなら、私はそれだけでいい」
私はずっと仕事ばかりで、自分の幸せを考える余裕すら持てていなかった。けれど、この三年間、いつだって私のとなりで寄り添ってくれていたのは彼だった。
私は彼の手を強く握り返し、真っ直ぐに見据えた。
「――よろしくお願いします。あなたのその真っ直ぐな想いに、私も全力で向き合ってみせるわ」
目を見開いたリオンが、ゆっくりと立ち上がる。
……けれど、彼はその場でじっと私を見つめたまま、動かない。
「……あの、リオン?」
「……抱きしめても?」
「聞く前にもう抱きしめてるじゃない!!」
問いかけると同時に、私はすでに彼の広い胸の中に力強く閉じ込められていた。
「これから一生かけてあなたを甘やかしますから。……それとも、新婚旅行で極東に行って、あの『泥の味がする青い果実』の農園でも経営しましょうか?」
「それだけは絶対に嫌よ!!」
きっとこの人は、一生こんな調子なのだろう。
私は笑いながら、彼の背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。




