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作者: むかいまや
掲載日:2025/12/31

「職場にさあ」

 私の言葉に、夫は洗い物の手を止める。

「ん? 何?」

 彼は濡れた手を拭って、キッチンに流れる音楽を止めた。タイトルは知らないけれど、聞いたことのある洋楽。

「職場にさ、新しい子がきたの」

 へぇ、と気の抜けた相槌が返ってきた。

「無口でね、妙にほっそいの。印象もかな、よくわかんないけど」

 夫は私の言葉にふんふん言いながら、ミルクパンの中身をおそろいのマグに注いでいた。

「飲むよね?」

「あんがと。で、その子さぁ、人目を気にしてる? っていうの? 見られたくないってオーラ全開でね」

 へえ、とまた気の抜けた返事。美人なのに、と補足。これで流石に夫も興味が湧いたろう、と内心でほくそ笑む。

「まぁ、新しい職場ってなるとねぇ……仕方ないんじゃない?」

 夫はテーブルにホットミルクの入ったマグカップを置いて、ソファに腰掛ける。ほのかに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 と同時に、夫の方からカフェインの匂い。

 私の視線を感じ取ったのか、夫が誤魔化すように言う。

「コーヒーくらいいいじゃん……? お酒じゃないし、タバコも控えてるし……」

 ま、いいけど、と私は眉間に皺を寄せつつ言って、言葉を続ける。

「その子、入って一ヶ月なんだよねえ。そろそろ慣れてくれてもいいのになーって」

「人見知り?」

「多分ね。あと、妙に自信がなさそうなの」

 そう言ってから、私はふうふうやってミルクを冷ます。

「そんな熱くないよ?」

 まだ熱いの、と言い返すと、夫はそっかあと小さく笑った。

「で、その新人ちゃんがどうしたって?」

「ん? あー、なんか気になるんだよね。他の人は……声もかけないけど、うん、私はなんか気になるの」

 自分が面倒見がいい方とは思っていないけれど、あの子は、放っておけない気持ちになる。誰にも気に留めてもらえないのが当然みたいに振る舞っていて、居ても居なくても変わらないというのを体現していそうだから。

「珍しいね、そういう話、ゆうちゃんから聞くの」

「愚痴ばっかだもんね、ごめんね、いつも」

 そうじゃなくってね、と夫はまた苦笑い。からかってるだけなんだけど、ま、わかってるか。

「あー、でも」

 夫はひと息置いた。

「こっちにもそういうヒトいるなぁ、後輩じゃなくて先輩だけど」

「それこそ初耳」

「まぁ……そういうことだよ。話にするほどの印象が無いの。入社してすぐにお世話になって、それっきり」

 私が「難儀な人もいるもんだねぇ」と呟くと、彼も「難儀だよなぁ」と呟いた。


 翌日からの仕事は妙な感じだった。昨晩、言葉にしてしまったからか、彼女のことが、田母神さんのことが気になってしまう。恋かな、なんて冗談を言いたくなるくらい。

「……」

 ちらりと伺うと、彼女はパソコンの画面と資料とを見比べたりしていた。しばらくすると、納得したのかキーボードをカタカタやり始める。

「数野さぁん」

 はぁい、と振り返る。営業部の若いのがいた。

「封筒無くなりそッス。長いヤツ。すみませんけど、発注お願いします」

 そう言って彼は足早に自分の席へ戻って行った。

「えーっと、発注書発注書――」

 独り言を呟いて、パソコンに向き直る。視界の端っこには、また資料と画面を見比べる田母神さんの姿。

 私は、ふぅと息を吐く。

「田母神さん、困ってる?」

「あ、いえ……別に……」

 か細い声だった。そしてすぐに彼女はパソコンの画面に向き直ってしまう。

「一ヶ月……だよね?」

 彼女はパソコンの画面を見つめたまま、ぴくりと身体を震わせた。

「すみません、すみません」

「あ、いや、違くって……困ってるんでしょ? 貸して?」

 田母神さんはおずおずと資料を私に見せる。ここの数字を入力しているのですが、と小さい声が聞こえて、パソコンの画面を見る。

「あー、これは、うん。担当は……あいつか」

 私は大きな声でさっきの若い営業を呼びつける。ヤツは一瞬嫌そうな顔をしたけれど、トコトコ急いでやって来た。

「ここ、数字違うけど。原価のトコ」

「えーっとぉ? っかしいなぁ」

 はぁ、とひとつため息。

「確認しといてねー」

 ウス、と彼はまた机に戻って行った。

「よくあるの、こういうの。理由は色々だけど、担当呼んで確認させるのが一番だから」

「……ありがとうございます」

 心底申し訳なさそうな声だった。

「困ったら私とか、他の人とか……呼んでね」

 はい、と彼女は囁くように言った。


 それからも暫くそんな感じだった。彼女が困っていそうな雰囲気を察したら声をかける、気にかける……そんな日が続いた。

 失礼なのは承知で、ちょっとだけ他の人に田母神さんの話を聞いてみたりもした。と言っても、ウチはそんなに人がいる訳じゃないし、それに、どの人も聞いても彼女のことについて私と大差ないくらいの知識しかなかった。「あ、いたんだ」と思わず口に出してしまいそうなくらい影が薄くて、口数が少なくて、やっぱり「ここは私のいる場所じゃない」って雰囲気をずっと纏ってるってことだけしかわからない。

 人事方の課長と話をした時に聞いたのは「仕事はできたけど、人付き合いがだめで転職した」らしいこと。課長には「こんぷら!」と強めに言っておいた。そして、やっぱり、悲しい気持ちになった。コソコソ調べて、聞いて回って、勝手に同情までしてる。なんだかイヤなヤツだなって気持ちと、純粋な憐憫。


 そんなこんなで年末が来た。慌ただしい日が続いて、仕事納めの次の日。

「はい、大掃除も終わったし、今年はこれで終わり! お疲れ様でした!」

 普段はスーツの社長がジャージ姿で頭を下げた。

 おっと、と社長が手をぱちんと叩く。

「忘年会ね。知ってると思うけど、この後あるからね、六時集合」

 じゃあ解散、と言葉を付け加えて、めいめい姿勢を崩す。ゆるい会話が始まるのを耳にしつつ、ちらりと田母神さんを見ると、ジーンズにタートルネックの地味な服を着て、いそいそ帰り支度をしていた。

 人の輪から抜け出して、声をかける。

「田母神さんは忘年会くる?」

「……はい」

 なんとなくわかった。断れなかったのだ。

「えーっと」

 無理しないでね、と言いそうになった。言ったとしたら、彼女は申し訳なさそうな顔で「そんなことないです」って言いそうだ。

「また、あとでね」

 小さく「はい」と言ってから彼女はちょっぴり頭を下げて、猫背で帰って行った。


 そして夕方、各自がお店に集まって、大体が集まったところで忘年会開始。

 私はお酒を飲まないから、盛り上がっていく空気を楽しむ。別に大きい会社じゃないけど、和気藹々って感じのみんなの人柄は結構好きなんだ。

 ふと、テーブルの端で縮こまって、茶色い液体を舐める彼女の姿が目に入る。ここに居たくない、って空気がしっかりと見える。それを察してか、それともそもそも彼女のことなんて興味がないのか、みんなして彼女から距離を置いていた。距離といっても、たった身体を半分動かすくらい。だけど、誰も彼女の方を向いていない。

 酔っ払いどもは私がいなくても、それこそ自分ひとりだけでも盛り上がるだろうから置いとけ置いとけ。

「何飲んでるの?」

 彼女の隣に座ると、びっくりしたような顔で私の顔を見た。そんな顔するんだ、なんて思ってしまった。

「えっと……梅酒、です」

 ロックかぁ、いいねー、と言うと、困ったような照れたような表情を控えめだけれど浮かべる。お酒は偉大だ。

「数野さんは、ええっと――」

 ちらりと私の手元を伺う。ただの水だよ。

「――飲まないんですか?」

「まぁ、今はちょっとね」

「そうなんですか」

 彼女はそれきり、話題に困ったのか黙ってしまう。

「田母神さん、歩いて来たの? 車無かったけど」

「あ、はい。飲めば楽しめるかなって」

 彼女はしまったという具合に「あ」と音を漏らす。

「あ、いや、えっと、楽しい、楽しいです」

「いいっていいって、人それぞれ理由ってあるしさー」

 別に私は「楽しんでます」と彼女の口から聞きたい訳じゃない。本心なら、そりゃあ嬉しいけど。

 また、彼女は黙る。私は別にみんなの隣で雰囲気を楽しめれば十分だから、そのまま味の濃いツマミとお冷を飲んで意識を弛緩させるだけで良んだけど、でも口を開く。

「帰り、送ろうか? 寒いし」

 家、どこ? と聞くと、おずおずと住所を伝えてくれた。

「結構歩くよね……? 代行は?」

「いえ、その、ええっと」

 少し言い淀んでから、節約で、と彼女は答えた。

「近くだから乗ってきなよ。遠くならお金貰おうかなーって思って……」

 彼女は私の言葉を聞いて鞄を手に取った。

「冗談冗談。そんなことしないよぉ」

 家の住所を教えると、田母神さんは「はぁ」と納得したようなしないような声を漏らした。

「田母神さんの家はたぶん、えぇっと、私んチ行くまでの途中をこうぴょこっと外れた感じのとこ? かな、多分」

 彼女はくすりと笑った。私の仕草が面白かったのだろうか。

「だから気にしなくていいよ」

「ご迷惑でなければ……お願いします」

 おっけー、と努めて軽く応じる。たぶん、真面目に答えたらこの子は真面目すぎるくらいに反応してしまう気がしたから。というか、絶対にそうするから。

 その後はどうでもいいような話――例えば行きたい喫茶店とか、夫の仕事とか、田母神さんからは大学の話とか――をした。そのうち、田母神さん、ぺろぺろという具合の飲み方から、ちびりちびりと口に含む飲み方になっているんだって、気づいた。


 そんなこんなでお開きの時間が来た。

 帰り道、田母神さんは背もたれに身体を預けて座っていた。とはいえ、足は閉じていて、手は膝の上。軽自動車なんだから緊張しなくてもいいのにね。

 赤信号で止まった時の事だった。

「なんで……構ってくれるんですか?」

 ちらりと横を見ると、田母神さんは俯いていた。

「構うとかってつもりじゃ……おせっかいだった?」

「いえ、そこまでは……」

「迷惑だったら、ごめんね」

 彼女は小さく首を振った。

「そんなこと、ないです」

「じゃあ良かった。なんか、さみしそ……ん? だいじょぶ?」

 彼女は口元を手で覆っていて、そりゃあもうあからさまに大惨事直前の雰囲気。首なんて振るから。

「ぃぇ、だい……ぅ」

 うん大丈夫じゃないね。視線を前に向けると幸いにもコンビニがあった。

「あそこのコンビニ停めるから! ビニール、ダッシュボードに……!」


 少々乱暴ながらも、急いで車を停めると、彼女は転がるように車から降りて屈む。

「水とタオル買ってくるから!」

 私の背後から聞いちゃいけない音が聞こえて来たけど、振り返らないで店へと向かう。

 買い物を済ませて店から出ると、田母神さんはやっぱりしゃがみ込んでいた。袋からはまだ顔を離していないけれど、でもおえおえ言う音はなかった。

「楽になった?」

 彼女の背中をさする。少しだけ違和感があった。

「はい……」

 彼女は苦しそうに声を漏らした。

「これ、タオル。冷たいけど、濡らしてあるから」

 どうも、と呻いて顔を上げた彼女は、情けなさそうな表情を浮かべていた。口元を拭った彼女は少しだけ身体を起こす。

「水も飲んで、ほら……ああ、タオル貸して?」

 喋る余裕が無いのか、彼女は無言でタオルを差し出す。私は汚れている面を内側に畳み込んでから、彼女の肩に触れる。

「ここ、汚れてる――」

 胸元がひどく汚れていた。だから、タオルで拭くことにする。触れる。彼女はううと呻いた。奇妙な感触だった。暖簾に腕押し、という感じ。ただ、それを頭が理解するよりも早く――

「やめて!」

 彼女は私の手を弾いて、自分の胸を腕で隠していた。守っていた、と言っても良いかもしれない。

「ご、ごめん」

「さ、さわ、さ、触りましたよね……?」

「ごめん、でも、服、汚れてて……」

 彼女の顔を見る。絶望の顔。悲しみの顔。拒絶の顔。必死の顔。ぎゅうと腕に力を入れていた。

「……帰ります」

「や、でも、まだ……夜、危ないし」

 そんなに怒らなくても、なんて思う暇もない。

「すぐそこなんで、失礼、します」

 ゲロの入った袋、タオル、水、カバン。荷物の一通りを焦りながら纏めて、彼女は立ち去る。まるで逃げるかのようだった。

 私は彼女の背中を見送ることしかできなかった。


 家に着いて、お風呂に入って、着替えて、ひと息ついて気持ちが落ち着いて来たころ、私は違和感の正体に思い当たった。

「あ、ブラか」

「なにが?」

「ん、いや、こっちの話」

 遅くなると伝えていたから、夫は私よりも先に風呂に入って着替えていた。

 へえ、と呟く夫を私は眺める。ふむ。

「胸触っていい?」

 冗談っぽく「やん」と笑う夫に「真面目な話」と釘を刺す。どうぞ、と差し出された胸をずんと無遠慮に触ると、少しだけ柔らかく、けれど堅く、反発があった。

「だよねぇ」

 夫の細っこい(羨ましい)身体であっても、あんな感触にはならない。いわんや、女性の肉体をや。少なからず柔らかいもんだ。

「……なにが?」

「んー……ちょっとね」

 まぁいいやと夫は私の隣に座り直す。

「なんか悩んでる?」

 わかる? と返すと、旦那ですから、と言う。

「実はね、前話した子とね、ちょっとあってね」

 夫は首を傾げて悩んでから、あぁ、と納得する。

「あの地味だけど美人の子?」

 そういう覚え方か、という思いが頭を過ぎるけれど、さておき。

「そう、その子。忘年会に来てたからさ」

 一連の流れを、忘年会でのやり取りから胸を触ったら怒らせちゃった、というところまで説明する。もちろん、伝えるべきでないところは伝えないで。夫は適度に相槌を打ちながら、他は何も言わずに聞いてくれた。

 ひとしきり説明し終わって、私はぼやく。

「仲良くなれたかなーって思ったんだけどなぁ」

 夫はしばし考えてから、私に訊ねる。

「ゆうちゃんはさ、どっちが聞きたい?」

 夫は愚痴に同調してもらいたいのか、問題の解決策を話し合いたいのか、どっちなのかという確認の言葉を聞いて来た。結婚して一年くらいで身につけた夫の処世術。

「んー、どっちも?」

 自分でもはっきりしなかった。どちらかといえば解決したいが、愚痴っぽい気もする。

「胸くらいいいと思うんだよね、同性なんだし、セクハラ目的じゃないし怒りすぎ……ってのがひとつ」

 愚痴を聞く方の答えね、と夫は言った。その言葉で、少しだけ溜飲が下がる。

「もうひとつは?」

 まぁ、答えはわかりきってる。

「男同士だって身体に触られたら嫌なときあるよ? 謝るしかないでしょ」

「……うん」

 家に会社の人たち用の年賀状のリストがあったはずだから、連絡先はギリギリわかる。電話番号、あったっけな。

「連絡つけて、謝るよ。あんがと」

 いえいえ、と夫は微笑みながら応えた。

「あ、そうだ、話してたと思うけど、俺は明日忘年会。東京だから泊まりになるよ」

「はいはい、覚えてますよ」

 適当に応じながらも、頭の中ではどう謝るかという思考がぐるぐる回っていた。


 翌日、午前中は家の大掃除。水回りは夫が明後日やるとのことなので、私は居間やら寝室やらの床掃除を先に済ますことにする。後は洗濯物を片付けたりして、それで午前いっぱい使ってしまった。

 十二時を少し過ぎた頃、デカフェの豆乳ラテを啜りながらスマホの画面を私は見つめていた。

 はてさて、と誰にともなく呟く。結局掃除しながら探していた年賀状のリストには電話番号が載っていなかった。というか、そもそも田母神さんが入社前のリストだった。住所すらわからない。

 田母神さんに電話しようにもできず、家に行くのは重すぎるし具体的な場所もわからない。たぶんあそこ、という目算はついているけれど、マンションのフロアでうろうろしていたら通報ものだ。メールアドレスやSNSなんてもっと知らない。職場の誰に連絡を取っても「田母神さんの連絡先?知らないよ?」って言われるのは明らかだし。

「うーん……年明けに回すしか……」

 けれど、彼女のあの剣幕だ。年明けに居なくなっている可能性だって想像できるほどの理由がある何かに、私は触れてしまったのだ。

「うーん……――!」

 知らない番号からの着信に、身体が跳ねる。

「……はい」

 電話を取ると、ざあっという音。声が返ってこない。

「えぇっと……?」

 あっ、と女性の声が聞こえた。

「た、田母神です。か、数野、数野優理さんの、おで、お電話ですか……?」

 遠慮がちで、怯えた声色だった。

「ごめん、田母神さん」

 私は開口一番で謝る。

「私、田母神さん、怒らせちゃった……よね」

「その、えっと、その件で、電話でし、て……」

 彼女はおずおずと、あるお店の名前を伝えた。

「良ければ話をしたいな、と……」

 私は「うん、ありがとう」と返す。そして、約束を交わした。この後、午後三時、お店で待ち合わせ。後退、それどころか絶縁したんじゃないかって心配はどうにかなったらしい。でも、もしかしたらちゃんとした場所で距離を置きたいってお願いしてくるのかも。支度を始めた私の胸中は、穏やかではなかった。


 三時五分前、私は店の駐車場に車を停めた。昨日の夜、田母神さんと話をした店。ログハウス風の店は雰囲気が良いらしくて、コーヒーが美味しいらしい。今日くらいはいいか、と内心を納得しつつ店に入る。もう田母神さんは座って待っていた。窓際のテーブル席、やっぱり申し訳なさそうにちょこんと。お冷のグラスは空っぽだった。

 近づくと、彼女はびっくりしたふうに顔を上げた。

「す、すみません、急に呼び出して――」

 ううん、と返事をして、席に着く。すぐに店員さんが来て、お冷と手拭いとメニューを置いてくれた。

「ごめんね、田母神さん」

 私は頭を下げる。

「急にその、失礼なことして……嫌だったよね……」

「い、いえ、私も、その……心配してくれてたのに、あんなふうに……」

「ううん、田母神さん、本当に……ごめん」

 また店員さんが来て、田母神さんのグラスに水を注ぐ。決まったらお呼びくださいなんていって、退散して……また私と田母神さんの間には沈黙があるばかりだった。

 田母神さんは、周囲をきょろきょろと見回した。

「あの、数野さんに言いたいことが、あって、その、えっと……」

 少し身構える。絶縁のお願いだとしたら、少し寂しい。お節介なのはわかるけど、でも……。

「……私、胸に触られるの、嫌、なんです」

 何度目かの謝罪の言葉を伝える。一線というものは、同性間にだってある。

「えっと、その、理由っていうのが……」

 彼女は言い淀む。

「言いづらかったら、別に――もう、触らないから」

 彼女は私の言葉を無視して、言葉を続ける。意を決した、というやつだろうか。

「胸が、ないんです」

 きょとん、としてしまった。何か重い理由があると思った。口にも出したくないような、そんな理由が。

 私はちらりと彼女を見る。

「えっと、だとしても、細くて身長高くて、美人で、羨ましいけど……」

「あ、そういう意味じゃなくって……えっと、その……」

 また言い淀む。かなりしっかり目に。

 私は沈黙に耐えきれず、言う。

「……とりあえず、飲み物頼む?」

「はい……」

 お互いに黙ってメニューを見る。田母神さんはエスプレッソ、私はカフェラテ。あと、マカロンとかいうのがあったから、それをよっつで二個ずつシェア。ちっちゃいのは分けやすくて助かる。今日は無礼講だ。

 注文が済んでも、田母神さんは黙ったまま……というか、どう言えば良いのかずっと悩んでる感じだった。


 私から会話を振っても「はい」とか「そうですね」とか、上の空の返事が来る状態がようやく終わる。

「おまたせしましたぁ」

 ちょこん、ことん、かちゃんかちゃん。配膳が済んで、店員さんはそそくさ戻っていった。面白いのは田母神さんの顔だ。びっくりしてる。

「知らなかった?」

 揶揄うつもりはないのに、くすくす笑いが抑えきれなかった。

「エスプレッソ……?」

「私も初めて注文した時びっくりしたっけなぁ」

 ふふ、と笑ってしまう。

「本場の人は砂糖をいっぱい入れて一気飲みだって」

 ははぁ、と田母神さんはちっこいカップを摘んで、中身をちろりと舐める。カップから顔を勢いよく遠ざけて、すごい渋い顔してる。

「店員さーん」

 店員さんが来るまでの間に、私はメニューを眺め直す。たぶん、これなら。

「キャラメルラテをひとつ。大きめのグラスかカップでお願いします」

 店員さんが復唱をして、ちらっと田母神さんの方を見る。「あー」と納得した声を漏らして、甘めにしときますね、と言って去っていった。

 はてさて、キャラメルラテがやってきて、私は彼女のエスプレッソを混ぜ入れて、ひと段落。くすくす笑いも程々に、「知らないなら、仕方ないよ」と、私は恐縮しきりの田母神さんに言いながら、ラテを混ぜていた。

 ずずっと彼女は一口ラテを飲んで、安心したという具合でほふぅと息を吐いた。

「ありがとうございます……」

「いいっていいって」

 笑って返して、カフェラテをひと口。久しぶりのカフェインの味。

「……さっきの話ですけど」

「あ、うん。無理に聞こうと思わないよ?」

 小さく彼女は首を振る。

「数野さんには、聞いて欲しくて……」

 でも、とひと息彼女は置く。

「……頭がおかしいんだ、とか言わないでください」

「? もちろん」

 そりゃあそうだ。可愛い後輩というか、妹みたいというか、この歳になってそんな事思うのも変だけど、そんな相手の頭を疑うのは、無礼とか以前にあり得ない。

 田母神さんは深呼吸してから、少しだけ声のトーンを小さくして、震える声で言った。

「小さいとかじゃなくて……ないんです。からっぽ」

 首を傾げる私に彼女は言葉を続ける。

「ここ、から……ここまで」

 彼女は鎖骨の下あたりから、肋骨の下半分くらいまでを指で示す。

「ない……?」

 理解が追いつかない。

「問題ないって、お医者さんは」

「う、うん? 待って?」

「私も触ったのとか暑さとか寒さとか痛いとかくすぐったいとかわかるのに、なくて、それで、なくて、なくて」

 彼女の言葉は止まらなかった。

「お父さんもお母さんもないって、ふたりともさわってもないって、みて、みてくれなくなって、あたまがどうかしたんだって、いうひともいて、でも、みても、なくて、さわったらあって、でも、でも――」

「待って、待って、マカロン食べて。甘いから」

 はっと息を呑んで、彼女は恥ずかしそうにマカロンを摘んで食べた。

「次、ラテ、飲む」

 こくりこくりと彼女は飲む。その間に、「虚乳」という言葉が頭を過ぎる。貧乳のことを言うネットミームだったはずなんだけどなぁ……。

「落ち着いた?」

「ごめんなさい……」

 はぁとひとつため息。

「ごめんなさいは、こっちだよ……知らなくて、触って」

 あぁ、と声が漏れる。あれくらいで怒るなんて、とはもう思えない。

 田母神さんの言葉の奔流はとうてい信じられない。だけど、きっと本当のことだ。その証拠を私は触れてしまっていたから、あの感触が、本当にそうなんだって、信じさせてしまう。私が言うべき言葉はなんだろう? 彼女が、崩れてしまいそうな彼女に――

「信じるよ」

 そうするしか、ないじゃんか。全部わかるわけじゃないけど、でも、そう言うしか無いんだ。

 私はその後、彼女とほとんど言葉を交わさなかった。彼女もそれを望んでいなさそうだったし、黙るべき場面だと思ったから。握り拳がテーブルに置かれていて、それをそっとさすりながら、暫くの時間が過ぎていった。


 田母神さんとの一件の次の日。昼過ぎごろに私が家の壁やら窓やらを外でぱたぱたやって埃を落としていると、夫が帰ってきた。それも神妙な面持ちで。

「おかえり」

「ただいま」

 鍵空いてるから、と言うと彼は「うーん」とかぼやきながら家に入っていった。

 外仕事を終えて、居間に戻ると夫は着替えもせずにソファに座っていた。彼はミネラルウォーターをかぷかぷ飲んで、ふーむとか唸ってる。

「窓と壁、綺麗にしといたよ」

「うん」

 隣に座る。やつは上の空。

「あと床とか溜まってた洗濯物とか」

「うん」

「なんかあった?」

「……うん」

 ふーん、と応じる。

「あのさ……いや、でもな……うーん……」

「なに。ちょっといらいらしてくる。ただいまのキスもないの?」

 そんなことしてたの新婚から半年くらいだけど、しゃっきりしなくてイラッとするのは本当。私だってあんたに言いたいことあるんだけど。

「言いづらいんだよね。なんていうか、こう、デリケートで」

「何を今更」

「俺のことじゃないんだよ。八洲さん……前話した先輩のことでさ」

「前話した……あぁ、田母神さんみたいな先輩?」

 そう、と夫は頷いた。

「好奇心もあるけどさ、私、口固いよ?」

 それに、と付け加える。

「私、たぶんその八洲さんと一生会わないし……聞かせてよ」

「……ん」

 夫は少し考えて、小さく首肯した。

「八洲さんさ、不器用だし印象に残らない人なのは前言ったっけ?」

 うろ覚えだけど、と私は返す。夫はぽつぽつと、言葉を選びながらも八洲さんのことを教えてくれた。

 曰く、割と親切で仕事も結構できる人。

 曰く、でも交友関係は狭い人ということ。

 曰く、喫煙所で話をするくらいで、あとは仕事場ではあまり話をしないこと。

 曰く、曰く、曰く――私としては典型的な「良い人」って感じだった。女性が隣で裸になっても何もしないけど、裸にひん剥かれそうだったら助けてくれるかもしれない人、って感じ。

「で、それで……?」

 夫の話を聞く限り、別に喧嘩やら叱られがあったとは思えない。

「いや、ここからが本題なんだけど……うーん、まぁ、うん」

 話して気が楽になる、とでも言いたげだった。

「昨日の夜の忘年会でさ、トイレ行ったのよ。んで、隣で八洲さんが立ってたのね。俺に気づいてなくて、酔ってたんだろうな」

 男子トイレのことはよくわからないけど、うん、と相槌を打つ。

「ちらっと、つい覗いたのね、その、アレを」

「はあ」

 そういうもんなの? 男って。

「そしたら、何もないの。でも、出るものは出てるの。その、ありそうなところから、でてんの」

 ん? と思う。似てる。

「酒、まだ全然酔っ払ってないのにさ、俺、急に気持ち悪くなって、個室に飛び込んで吐いちゃって、さ。流石に気付いたのか、八洲さん、俺の背中さすってくれてさ……」

 顔を上げて、八洲さんの方を見返すと、ジッパーが下りていた。そして、何もない暗闇を見て、また吐いた。

「八洲さんに悪いことしたなって、さ……。たぶん、あれは見ちゃいけないものだから」

「勝手に見て勝手に罪悪感?」

「……うん」

 私はひとつため息をつく。虚乳ならぬ、虚根。夫になんて言えばいいんだろう。覗いたお前が悪い、って言いたいけど、男性的には笑って済む話だったんだろうな。

 私が悩むのを他所に、夫は言う。

「もし自分になかったらって、帰り道に思ってさ……」

 夫は小さく身体を震わせる。言葉にすらできない恐怖とでも言うのか。アレはそんなに大事なものなのですか? という純粋な疑問と同時に、頭を過ぎるのは田母神さんのこと。もし、私が「虚乳」だったら? と。彼女ほど他人を警戒するかはアヤシイけど、少なくとも夫とは……というよりも男性と手を繋ぐことさえ躊躇ったろう。

「……そうだね」

「謝りたいけど、謝れることじゃないじゃん? それに、気のせいだって言われたらそれまでだし」

「誰かにぶっちゃけたかったけどぶっちゃけるのも悩んでたってこと?」

 いいけどね。信頼されてるって感じ。

「まぁ、うん」

「私もさ――」

 と、田母神さんのことを夫に教える。少しかいつまんでだけど。

 私の話が終わって、少しの間の沈黙。そしてどちらが言い出したのだろう? それは定かではないけれど、「難儀だねぇ」と聞こえた。


 納得できないのに納得させられた、そんな空気はあれども、年明けは近づいてくる。

 カウントダウン。ご、よん、さん、にい、いち。

「明けましておめでとうございます、ゆうちゃん」

「明けましておめでとうございます、お父さん」

 は? と夫。

 私はすかさず棒を手渡す。にやにやが止まらない。夫は理解が追いついていないのか、私と棒を交互に見てる。

「お? おぉ?」

 ぎゅうと夫を抱きしめて、ようやくだね、と言う。夫は同じくらい強く抱きしめ返してくれて、ありがとうって言ってくれた。

 暫しの幸福感。身体を離して、とても現実的なことをひとこと。

「ということでもう少ししたら、会社休むよ。あんたもフルリモートでいいんだよね?」

「ん、まぁ、えぇっと、何月くらいからだ….?」

 指折り数えて、夏頃かな、と言うと、夫は「りょーかい」と顔を綻ばせた。

 幸福の余韻の中、ふと、頭を過ぎる。田母神さんのこと、置いてっちゃうんだ、私。

 別に田母神さんはただの同僚。別に、暫く付き合いがなくなったところで、仕方がないだけ……。夫の顔を見ると、もしかすると同じことを考えていたのかも。八洲さんのこと。

 不意に、虚という言葉のついた他の単語がふと頭を過ぎる。ふたつあると、そうじゃなくなるような言葉。

「ねぇ、相談があるんだけど」

 浮かれた気持ちのせいかな。

「すっごい変なことを思いついた」

「うん、聞かせて」

 言葉のアヤかも、と前置きを置いて、思いつきを夫に伝えた。夫は非常に渋りながらも、賭けてみようと頷いた。その数秒後に「ミスったらなんて謝ろう」とか言ってたけど。


 さて、仕事始まり。

 新年の訓示やら挨拶やら初詣やら、家では済ませたことも会社でやり直す。そのあと、人事方に相談。まだどうなるかわからないけど順調なら、ということで。

 そんでもって、仕事をしてたらあっという間に夕方。ようやく本題。

「田母神さん」

「あっ、はい、なんですか?」

 キーボードを叩く手を止めて、彼女は私を見る。目が合った。それだけで、彼女の役に立てたのかも、なんて思ってしまいそうになる。

「あのさ、このあと、一緒にご飯、いい?」

 彼女は大丈夫ですと応じてくれた。

「ありがと、仕事終わったら、あそこのファミレス。おけ?」

 はい、と彼女は応じてくれた。終業まであと一時間もないから、ちゃんと言うこと整理しないと。もちろん、仕事は手につかなかった。


「えっと、私は……」

 何が良いんだろう? と思いつつも、なんとなく聞いた話を思い出す。

「しらす丼、お願いします」

「あ、じゃあ私も」

「ドリンクバーは、どうします?」

 やる気のない感じの声で、若い男の子が聞く。ちらっと、田母神さんの方を見ると私次第、なんて雰囲気で私を見てた。呆れ半分くらいの気持ちで「大丈夫です」って言ったら田母神さんも要らないって言った。

「気にしなくていいのに」

「いえ、私も要らなかったので……」

 それなら、良いんだけどね? と胸の中で呟く。

「田母神さん。ひとつ、お願いがあるって言ったら……どう?」

 急すぎたかな? なんて思ってしまったけれど、単刀直入に聞くのが一番だとも思った。遠回しに言うときっとはぐらかされるから。

「内容、次第です……」

 そっか、と言って、少しの沈黙。

「……会って欲しい人がいる、っていうのは?」

 彼女の眉がぴくりと動いた。

「……無理強いはしないけど」

「……ごめんなさい」

 要は嫌ってコトだよね、だけど、理由があるんだ。

「だよね。でも、えっと、でもね」

 妊娠したの、私。正直に伝える。

 はっ、と彼女は顔を上げた。

「お、おめでとう、ございます」

「夏ごろ……予定だと七月か八月ごろから、産休。安定期前だから、人事のヒト以外言ってないけどね」

 寂しくなりますね、なんて彼女は言っていたけれど、違うんだ。

「田母神さんのこと、放っておけない」

「私なんか別に……」

「そうじゃなくって」

「私が辞めるとか、連絡つかなくなるとか……心配してるんですか?」

 そうじゃないんだよ、と訴えたくなるのを堪えて、ゆっくり首を振る。

「田母神さんが….…心配でね……」

 心配、なんていうけど、ハンパに入り込んだクセに「はいさよなら」なんてコト、したくないだけなんだ。

「ありがとうございます」

 彼女は、するりと言った。何も気負ってませんよって感じで。そして、彼女は少し言葉を選ぶように「えぇっと」とぼやく。

「……わかってくれた。それだけで、十分です」

 はぁ、と私はひとつため息。全部わかったワケじゃない。ちくりと胸が痛む。

「――じゃあ、なおさら。話聞いて?」

 田母神さんは少し悩んで、話だけなら、と言った。

「田母神さんに似た人が、私の夫の知り合いにいるの。男の人」

 ここまで言って、彼女は推測が立つだろうか? とは思った。案の定、彼女は「はぁ」と困惑の表情。

「それで、だから会え、ということですか……?」

「そうといえばそうなんだけど……えっとね、その八洲って男の人なんだけどさ」

 私は、概ね、他人の前で話しても良いようなオブラートに包んだ表現をするよう気をつけながら、彼女に事情を説明した。ようは有るけど無いって、それだけなんだけど。

 私の話を聞いた田母神さんは、少し考え込んで、私に尋ねる。

「えっと、おち――」

 彼女の口から出た言葉は、まぁ、乙女の誇りにかけてボカそう。そんでもって、彼女は結局頷いてくれたんだ。それでいいと思う。


 それからしばらくの時間が経った。もう、私は産休で仕事は休んでいる。夏が過ぎて、肌寒さを感じる日が増えつつも、ひたすら近所を散歩している毎日。

 別に、こうなるまでになにか特別なことがあったわけじゃない。単に、私のお腹が膨らむだけのコト。……産休前は田母神さんがひとりでに柔らかい顔をする時があったのと、他の事務さんと話をする機会が増えたことくらい。私じゃなくてもいいんだってのは、寂しいけど、嬉しかった。

 田母神さんと八洲さんがあった日のことは、地味な思い出ながらも鮮明だった。お互いにじろじろと身体を見つめあう出会いから始まって、控えめな雰囲気を持ち寄りあって、仕事の話なんかして、「ご趣味は……?」なんてお決まりの台詞すら出てこなかった。合コンというかお見合いというか、それ以前の、全くの初対面の人が距離感に死ぬほど気を遣いながら、近づいていく瞬間に他ならなかった。イマドキ、なんて言えるほど私は若くもないし恋愛経験豊富なわけでもないからなんとも言えないけど、まぁ、イマドキにしては遠回りすぎる。聞いた限りの八洲さんの人柄とよく見知った田母神さんの人柄が出会ったらこうなるよねって気持ちもある。


 さて、発生間近の人間ひとりの重さを腹に抱えた私の手元にあるのは一枚の手紙。差出人は田母神さんで、便箋の他に一枚の写真があった。

 私は、うっすらと勘が働いたのか、写真を見ないように伏せてから手紙を広げて、夫に読み聞かせていた。

「拝啓、数野優理様」

 前略。産休の見送りで泣いてしまったのを覚えています。云々。

「……」

 夫は黙って聞いている。

 中略。あのとき、数野さんから紹介してもらった男性、八洲さんと結婚を前提にお付き合いを始めました。ようやく落ち着いた頃合いということで、お手紙したためた次第です。

「おお」

「めでてえなぁ。しくじったら八洲さんにどう謝るか考えるところだった……」

 夫も私も言祝ぐに遠慮が無い。夫は心配混じりだけど。ともあれ、上手く行ってくれてよかった。

 ――率直に申し上げて、八洲さんは、クセがありますが(夫のくすくす笑いが聞こえる)良い人です。それに、彼と出会って、少ししてから、ないものがあることになりました。きっと、あのときに、数野さんと旦那さんとが話してくれたことが、事実だったのかもしれません。あのときは半信半疑でしたが。

「ね? 虚数で正解だったでしょ?」

 正解とか不正解とかじゃないのはわかってるけど、つい口をついて出た。

「や、まぁ、俺も最後は納得したじゃんか。……続きは?」

「えー、ごほん」

 ――この先、どうなるかというのは、やっぱりわかりません。身体の事は互いの気の所為かもしれません。別れたら戻っちゃうのかとか、結婚するべきなのかとか、何もかも、全部。

「ま、そうだよねぇ」

 うんうん、と夫。私も夫も、交際と結婚とは違うというのは身にしみて理解しているし、身体のことが絡むとなると私には想像もつかないくらい複雑な気持ちになるだろう。

 ――ですが、なんと言えばよいのでしょう。割れ鍋に綴じ蓋というのがよいのでしょうか? 日々を、お陰様で、幸福を感じられるようになりました。あわよくば、いえ、そうなるよう私も八洲さんも善処しますが、良い報告をお伝えできるようにしたいと思っております。数野さんが職場に戻ってこられる頃には、答えが出ているかもしれません。後略。

「そっかぁ、無事に付き合ってるのかぁ」

 夫はしみじみと言った。後略の部分には八洲さんの人となりの良さとか、私の夫への感謝の言葉が多めだった。

「ま、私達はお役御免ってことですヨ」

「あとは若い二人のことなので、ってなぁ」

 くすりと笑う。

「そうだそうだ、写真写真――」

 私は裏向きにしておいた写真をひっくり返す。自信ありげで妙に浮かれた美男美女のひと組。自らに欠点などございませんの顔をしている。感動の気持ちはどこへやら。

「くそ、ムカつくな……」

 いつになく悪い言葉が口をついて出た。嫉妬というか、なんだろう。説明しづらい。シャーデンフロイデの逆?

「え、そんなに?」

 夫が私からひったくるように写真を奪う。

「……うん」

 夫も微妙な顔をしている。思い出した。幸せ絶頂期の高校生カップルを見たときの表情だ、これは。

「まぁ、ふたりとも抱えてるものもあったしね」

 うん、と夫。

 痛々しさというか、そういうのも仕方ないのだ。初めての恋人。それは人を狂わせがちなモノだ。ただでさえ、それが縁がないと思っていた人ほど。浮かれちゃうよね。

「ところでさ」

 夫が私に尋ねる。

「ん?」

「虚数って掛け算すると実数だけどマイナスになるよね?」

 それって――と夫が言葉を続けそうになるのを、私はぺしりと叩いた。碌でもないコト言いそうだった。

「余計なお世話」

 はぁい、という声が夫から聞こえた。

 手紙の追伸部分には、日本神話がどうとか書いてあったけれど、口にする必要を感じなかった。あるとかないとか、本来個人のハナシなのだ。それに勝手に土足で踏み込んで、結果オーライだったから良かったものを、と思ったところで、腹に可愛い衝撃が伝わってきた。

「あ、蹴った」

 夫を叩くと蹴られるのか? と思い、もう一度夫をぺちりと軽く叩く。いたいようなんでだようと夫は戯け、お腹の子が私の腹を蹴る。ははん? この子はお父さんっ子かな? なんて思う。

 同時に願うのは、彼女と彼に同じような幸福が訪れること。ありふれた、普通のヤツ。ま、余計なお世話かな……?

虚数同士の掛け算が負の値になることに気づいたのが、かなり後の方だったので数学的素養の無さを感じました。

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