勘違い殿下の婚約破棄
掌編です。
「エリス・ウォルター! お前との婚約を破棄する!」
突如として中庭に殿下の声が響いた。私は帳簿を閉じて顔を上げ、じっと殿下の顔を見た。
「婚約破棄だ!」
殿下は外套をばさっと広げ、さも当然とばかりに、鼻息を荒くする。私は思いっきり溜息をついた。
「理由をうかがってもよろしいでしょうか」
殿下は後ろのフィリア様を前に押し出した。
「お前、婚約者の立場でありながらフィリアに冷たい態度を取った! だから婚約破棄だ!」
私は一度まばたきをした。
フィリア様は視線を落とし、小さな声で言う。
「あの……昨日の食堂で……」
私は昨日を思い返した。
食堂で、給仕がよろけ、熱いスープがフィリア様にこぼれそうになった。咄嗟に私はフィリア様の腕を掴み、強く引き寄せたのだった。
私はそれだけで別に何もしてなかったのだけれど、そういえばその直後殿下が怒鳴りこんできていたような気がする。
「殿下。私はフィリア様を――」
「黙れ! フィリアが泣いていたのを見た!お前がいじめたからだ!」
泣いていたかしら?驚いて手で口元を覆っていただけだった気がするけど。
殿下は剣の柄に触れ、強い調子で続けた。
「お前は王家にふさわしくない。ゆえに婚約破棄とする!」
私は殿下を見つめた。婚約破棄が不服というわけではない。そんなことより私には殿下に聞かねばならないことがある。
「殿下。ひとつ確認がございます」
「なんだ?」
「わたくし、いつ殿下と婚約したのでしょう」
殿下は堂々と答えた。
「とぼけるな! 城の者が“殿下とエリス様はご婚約なさった”と言っていた!」
そう言って、殿下は近くにいた文官を指さした。文官は書類を抱えたまま慌てて背筋を伸ばす。
「わ、私は婚約したと聞いたので……今朝、“ご結婚はいつですか”と殿下にお伺いしただけです!」
「誰から聞いたのですか?」
「厨房の料理人からです!」
殿下は料理人の男へ視線を向ける。
料理人は大きな手を上げて否定した。
「お、俺ですかい!? 俺ぁ“婚約するらしい”と聞いたから、そう言っただけで!」
「それは誰から聞いたのです?」
料理人は洗濯係の女性を指した。
洗濯係はタオルを抱えたまま首を振る。
「わ、私はそんなこと言ってません!仲が良いって聞いたので、″そのうち婚約するんじゃないですか?”と……それだけです!」
「それは誰から?」
洗濯係はおそるおそる侍女を指さす。
侍女はおどおどとしながら言った。
「わ、私は……殿下が中庭を通りかかったとき、エリス様の方をじーっと見ておられたので……“お二人って仲が良いんですか?”って聞いただけです!」
私は殿下を見た。
「そうなのですか? 殿下」
殿下は腕を組んだ。
「……あの日か?中庭でくしゃみが出そうになってな。噴水のあたりで立ち止まり、鼻をおさえていただけだが」
列になっていた皆の視線が、ゆっくり殿下に集まった。
私はひとりずつ指さした。
「侍女が“見ていた”と言っていて、
洗濯係が“仲が良い”に変えて、
料理人が“婚約するらしい”にして、
文官が“婚約した”と言って、
殿下が“婚約破棄だ”と」
殿下の顔色が変わる。最初の勢いはもうすでに無い。
「殿下、まさか……この噂を信じて婚約破棄などと言ったのですか?」
「え……いや……だって……皆が……」
「殿下。では、ひとつ質問です」
「……なんだ?」
「殿下ご自身は、いつ、どこで、わたくしに婚約を申し込まれたのでしょうか?」
殿下の口が開いたまま止まる。
私は背筋を伸ばし、静かに言った。
「噂を信じるのもどうかと思いますし、勝手に婚約破棄をするのも問題だとは思いますが……」
ひとつ溜息を吐いて、チラッと殿下の方を見る。
「せめて婚約してから言ってください」
その場にいた皆はそっと目をそらし、殿下はその場に呆然と立ち尽くしていた。そのとき、フィリア様が私の手をそっと取った。
「エリス様……昨日は本当にありがとうございました。熱いスープがかかるところを助けてくださったのに……お礼を言いそびれてしまっていて……」
私は微笑んだ。
「お気になさらず。怪我がなくて良かったです」
フィリア様は嬉しそうに続けた。
「よろしければ、このあとお茶をご一緒したいです。お礼も兼ねて……もっとお話ししたくて」
「喜んで」
二人で歩き出す。背後で殿下の声が震えていた。
「ま、待て! 二人ともどこへ行くんだ……?」
振り返る者は誰もいなかった。
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