もう少し、このままで…
日が当たり心地の良い屋根の上でうとうとと眠りに落ちていた黒猫は、自分を呼ぶ声がした気がして耳をぴくりと動かした。
ゆっくりと目を開けると、今度ははっきりと自分の名が聞こえる。
「ラウル、おやつ買ってきたよー!どこー?」
待ち人の帰宅に思わず尻尾を上下にゆっくりと振りながら立ち上がると、軽やかに声のする方へと降りていった。
「みゃー!」
ここにいるぞと言ったつもりでも、この姿だとただの動物の鳴き声にしかならない。
さらには何の力も使えない上に、女性や子供にまで軽々と持ち上げられてしまうこの姿。
それはとても屈辱的な事だったのだが・・・。
「あっ!ただいま、ラウル」
そう言って優しく抱き上げられ、そっと撫でられる事はとても心地よかった。
この小さな身体全体が、彼女の温かさに包まれる。
それはまるで、幼子が母親に抱かれている時のような安心感。
この時だけは、この姿も悪くないと思っていた。
そんな心地よさに目を閉じていると、柔らかな唇がそっと額に触れ、身体が変化する。
目を開いた時には、少しかがんだ彼女の笑顔が目の前にあった。
ふわりと、心の中に温かな物が宿る。
彼女がそばにいる時は、いつも胸にその心地の良い灯りが燈っていた。
「あのね、遅くなったお詫びに新作ケーキ買ってきたの!」
「ほう、それは楽しみだな」
「でしょ!絶対美味しいよ!」
「うむ。それでは、俺が茶を淹れてやろう」
「ありがと、ラウル!」
無邪気に笑う彼女につられ、思わず浮かぶ笑み。
城にいたとき、こんな自然に笑えたことがあっただろうか。
常に人に囲まれ、身の回りのことも全て侍女たちが行い、何不自由なく過ごしていた城での生活。
多くの者が自分を慕い、尽くしてくれていた。
その者たちに、笑顔を向けていたのも事実だ。
だが、何かが違った。
ここは自分の事は自分でやらねばならないし、彼女の小言も多い。
自分の意に反して猫の姿にはなるし、魔法の使い勝手も悪い。
城にいるよりも不便な事が多いのだが、ここにいるほうが何故か心が安らぐのだ。
自分を慕い、笑顔で世話をしてくれるものたちよりも、叱ってばかりの彼女の方がいい。
それが何故なのか、ここで過ごすうちになんとなく気付き始めていた。
「ラウル、紅茶いれるの上手になったね!」
自分が用意してあげた紅茶を口にした彼女は、にっこりと微笑んだ。
「当然であろう。俺に出来ぬことなどない。以前はやり方を知らなかっただけだ」
「そうだね」
自分の言葉に、くすくすと笑う彼女。
きっと、最初の頃を思い出しているのだろう。
お湯の出し方もわからず、茶葉の量も知らず、簡単に見えた作業の後にはびしょびしょになったテーブルと、やたら苦い紅茶。
それが悔しくて、何度も練習したのだ。
「ラウルって、意外と努力家だもんね」
「そんな事はない。努力というほどの事はしておらんぞ。そんな事せずとも俺はできる!」
「はいはい」
軽く流すような彼女の言葉にふくれつつも、彼女が買ってきてくれたケーキを口に運ぶ。
自分の好みを熟知した彼女が選んだケーキは、程よい甘さにとろけるような口どけが最高だった。
彼女と過ごす穏やかな時間。
それは、彼女が自分をただ一人の少年としてみてくれているから。
その事が少々悔しくもあるが、心を解放させてくれていると、だんだんと気付き始めていた。
城の中では、皆が王子としての自分を見ている。
この国の未来を担うものとして。
期待する視線の中に、冷たい物が混じっているのも知っている。
自分は、王である父のようにならなくてはいけない。
誰よりも強く、誰よりも華やかで、誰よりも自信に満ち、誰よりも賢く、誰よりも国民に愛される存在。
歴代の王の中でもずば抜けて魔力も高く、カリスマ性も備えた父に近づかなければならない。
それが、国民の自分に対する期待。
弱さを見せてはいけない。
無様な姿などさらしてはいけない。
努力などせずとも、才能で何事も人より優れていなければならない。
誰から言われずとも、それに気付くくらいの才は受け継いでいた。
だから、無意識のうちに父を真似ていた。
周りの者の期待に応えなければいけない。
それが、王子として生まれたものの使命・・・。
だけど・・・・・・。
「ほら、ラウル。もうお風呂の時間だよ!」
「わかっておる。だが、セーブポイントまであと少しなのだ」
「私がお風呂から出るまでに終わらせとけって言ったでしょ!!」
「そうは言っても、敵がなかなか強くてだな」
「もー…」
怒ったように半眼で睨みながら隣に座った彼女からは、良い香りが漂っている。
文句を言っているわりに、彼女を包む空気は柔らかだ。
笑顔のわりに冷ややかなオーラをまとっている向こうの人間とは対照的だった。
彼女は、自分に何も求めていない。
叱る事は多々あるが、それは全て自分の成長につながるもの。
自分の為を思い、怒ってくれているだけだ。
王子だからなど、異世界の住人の彼女には何も関係ないらしい。
掃除をしようとして逆に散らかしても、料理をしようとして食べ物を黒焦げにしても、彼女は自分を見放したりしない。
呆れた眼差しをしたとしても、失望はしない。
自分でも認めたくない己のダメなところも、彼女は受け入れてくれる。
だから、彼女の傍は心地がいいのだ。
道端で拾った、彼女には何のメリットもないはずの自分を、放り出さずに面倒を見続けてくれる彼女の優しさが、今まで知らなかった本当の安らぎを与えてくれていた。
「いや、メリットはあるか…。俺ほど美しければ、目と心の保養になるしな」
シャワーを浴びながら、自分自身にそう突っ込みを入れる。
出会ったときには物凄く悲しげな瞳をしていた彼女も、今ではすっかり元気だ。
それは、絶対に自分のおかげに違いない。
肩書きなど関係なく、自分の存在が彼女を癒したのだと、ちょっと嬉しくなる。
「いや、当然の結果か?」
再び一人でそう納得すると、風呂場を出た。
髪を拭きながらリビングに向かうと、ソファの上に横になった彼女の姿。
すやすやと気持ちよさそうに寝息をたてている。
「まったく…風邪を引くではないか」
普段は自分に注意する側の彼女だが、今日は疲れていたのか、待っている間に彼女の方が眠ってしまったらしい。
その安らかな寝顔を、じっと見つめる。
この生活が、いつまで続くのだろうか…。
最初は黒猫の姿になるのが嫌で、一刻も早く終わらせたかったこの生活。
だが、今は違う。
今も猫の姿になるのは屈辱的だと思うが、それで彼女のそばにいられるならと思うと、心が揺れる。
彼女とならば、真実の愛を見つけられるだろう。
惚れさせる自信はある。
しかし、魔法が解けてしまったら、城に戻らねばならない。
彼女を連れて城に戻ったとしても、ここでの生活とは違うものになるだろう。
二人きりのこの心地よい生活は、魔法が解けるまでだ。
「…仕方がないやつだのぅ」
起きる気配のない彼女の頬に、そっと口づけをする。
それでもすやすやと寝ている彼女に小さく嘆息し、それから指先で魔方陣を描いた。
悔しいが、この細腕では彼女を安全に二階の寝室まで運べない。
風の魔法の力を借りて彼女を抱き上げ、彼女の部屋のベッドまで運んだ。
すっかり熟睡している彼女を起こさぬよう、そっと横たわらせ、布団をかける。
それから、彼女の唇にそっと触れた。
その瞬間に身体は光に包まれ、猫の姿へと変化する。
それから、布団の中にもぞもぞと入り、彼女の腕の中に納まった。
心地の良い温もりの中、目を閉じる。
この時が永遠に続けばいい。
終わりが来ることを知りながらも、ついそう願ってしまう。
ヒナタアオイ…
大切な人の名を心の中で呼びながら、いつの間にか眠りにつく。
もう少し、この優しい時が続くようにと、心から願いながら……。