第3話 月宮先輩の音、僕の息
そして二回、三回‥‥音楽室での至福の時間を過ごした回数が増えてきたある日の事。
いつもの様に侵入を果たし、先輩のマウスピースを口に含んだその時。
「ん?!」
違う。いつもの先輩の味と違う何かが混じっている。
綺麗に洗浄されていて、普通の人が口に入れても何も感じないほどの微かな変化だ。
別の味がトッピングされてる事は、今までもあった。
それは午後に食べたお菓子だったり、お茶やコーヒーだったりする。だが、これはそれとは違う。女性特有の周期的な体調の変化はこの前に終わったばかりで、それによるものとは違う匂いや味。
この苦み‥‥感情が揺らいでいる証か。甘い朗らかさからは離れてきている。
午後の時の先輩はどうだった?
「‥‥‥‥」
駄目だ、いつもの様に超ズームで見ていたせいで、表情の変化に気が付かなかった。
木を見て森を見ず。そういう事か。
不調という事なら、その原因は何だろうか。
その原因によって彼女の宝が穢されている。もちろん、その苦悩も含めて先輩だという考え方もあるが、彼女は僕にとっての運命の人。落ち込んだりはしないでほしい。
「‥‥‥‥よし」
ポイント、オブ、ノーリターンが近づいている。そろそろ運動部の練習が終わり、校内に人が増えてくるので、その前に撤収しようか。
その犯人捜しを始めよう。
まずは、状況の観察からだ。
都合の良い事に、明けて土曜日は部の練習日だったので、僕は月宮先輩をより詳しく観察する事が出来た。
「昨日より、うまくなってるね」
そう僕に言ってきた。違和感は何もない。普通の言葉だ。
だが、それは相手が例えば同級生男子とかならば、それでいい。
先輩は僕と接する時は、なぜか常に少しの緊張感を含んだものになっている。今はそれがない。昨日と今日の僕でそう大きな違いがない。変わったとすれば先輩の心境の方だ。
このまま考えていても推測の域を出ない。
ここは思い切りが必要だ。
「先輩、一つ、聞きたい事があるのですが」
「‥‥何?」
「昨日から先輩は忙しい感じですか?」
「え? どうして?」
「いつも塗ってきてるリップクリームを今日はしてないようなので。あと、サイドの髪がちょっとだけ外ハネしえるようなので」
「‥‥‥‥!」
月宮先輩は口を押えて立ち上がった。椅子が後ろに倒れて、その音で他の部員がこっちを見た。
「な‥‥何で‥‥そんな‥‥事‥‥」
「どんな小さな変化でも分かりますよ。僕は先輩が好きですから」
「!」
口を押えて音楽室から走って出て行ってしまった。
周囲の男子生徒達はチラチラと僕の方を見てる。それからヒソヒソ、ボソボソと憶測で何かを話してるようだった。
「ふ、藤巻君‥‥月宮さんは‥‥どうしたの?」
この3年男子の部長は僕に対して警戒心を全く下げようとはしない。あまり話しかけてくる事はないが、どうしてもの時は、こうして笑顔が引きつってる。
「さあ、何でしょうね」
僕は表情を全く変えずに部長の方にその顔を向けたが、部長は逃げるように向こうに行ってしまった。
別にどうでもいい人にどう思われても全く構わないが、ここに来れなくなるのは困る。
その為にも多少の体裁は繕うべきなのかもしれないな。
先輩はその日はもう部活に戻っては来なかった。
走って逃げるというリアクションは想像していなかった。別にそこまで大した事を言ったつもりはなかった。
小さな変化を指摘されたという事が、よっぽど驚いたのだろうけど、これがどう出るか‥‥今後の展開次第だ。
これがドラマとかアニメなら、次の日から来ないというのがテンプレというものだが、これは現実で先輩は大人だ。そんな事はしない。それに日曜を挟んでるので、まあ、普通に登校してくるだろうし。
「どうも」
先輩はいつもの様に、ニコっと微笑んで音楽室に入ってきた。いつもみたいな天使の風を纏ってる。
「‥‥‥‥」
途端に僕の鼻腔は広がる。今日は暑かったから、その幸せ成分も二割増しだ。
やっぱり、他の女子生徒とは格が違う。むしろ周りが気を使ってるのが滑稽じゃないか。特に部長は何であんなにオロオロしてるんだ?
「じゃあ、Bパートを一緒に吹いてみましょ」
「はい」
全く普通過ぎて拍子抜けしそうだ。
「‥‥‥‥」
先輩の唇をズーム。
今日はリップを塗ってきている。ストレートの髪はサラサラだ。
出会った頃のままの先輩がいる。
僕は先輩の合図に合わせて、静かにトランペットに息を吹き込み始める。
厳密にはもう二人、二年男子が一人と、一年女子がいて、僕と先輩の和音に横やりを入れてくる。つまり四人で同じ曲を吹いているわけだが、他の二人の音は不協和音で、僕の耳には入ってこないな。
要するに、今は先輩とデュエット演奏をしてる。先輩は先輩の口から吹いたその優しさを、そのトランペットの口から辺りに広げていく。そして僕の息と絡まって一つの空間を形つくっていくんだ。
今日も宝物をゲットした。先輩と出会ってから幾つもらった事だろうか。多すぎてもう数えるのもやめてしまったよ。
「‥‥どうだった?」
先輩は皆に聞いたけど、それは僕にだけ言った言葉だ。
「全員の息が合ってきたんじゃないかな。次の発表会までは形になりそうだ」
二年男子が、相応しくない台詞を口にする。せっかくの空間を穢さないでほしいものだ。
先輩のその問いは挑戦なんだ。
さあ、答えられるものなら、答えてみなさいと。
もちろん僕はそれに乗る。乗るしかない。
「先輩は‥‥」
僕が口を開くと、まるで魔法の様に、場の時間が止まる。それを知ってる僕は、ワザとゆっくりと次の言葉を呟く。
「‥‥今日はちょっとだけ嬉しい事があったみたいですね」
いつもは表情を作らない僕だが、その時は笑みを浮かべる。
「え?」
前の時と同じ、先輩は口を押える。それが驚いた時の先輩の癖みたいだ。
「どうして?」
「言葉のテンポも息継ぎも速いし、多分、息自体も温度が高いと思ったからです」
「‥‥‥そんな‥」
「人は嬉しい事があると、顔が紅潮してくるから、自然とそうなるんですよ。それに何より‥‥演奏してる時の先輩の口角が。いつもより、ちょっとだけ上がってたから」
「‥‥‥‥」
他の二人は口を押えて‥‥ウワ‥‥と、聞こえない様に小さな声で呟いた。
「そ‥‥」
先輩は楽器を持ったまま、背中を向けてしまった。
こっちを向いた時、何を言うのか‥‥僕は興味深々。
「‥‥じゃあ、続きやりますか」
振り向いたその笑顔はただの天使だった。
演奏を再開はしたが、他の二人はぎこちないまま不協和音を流し込む。当然だ。僕と先輩の間には何人たりとも入る事は出来ないのだから。
それからの一週間、僕と先輩は水面下で激しい攻防を繰り返した。
「一通りやってみたけど‥‥感想は?」
月宮先輩は明らかに僕を見ている。他の部員は置き去りだ。
「先輩は‥‥朝ぐらい‥‥少しショックな事があって‥‥今はそれを忘れようと笑ってる‥‥段階ですか?」
「‥‥‥‥」
先輩の口調、吐息、指が触れている楽器の輝き‥‥どれを取っても、全てが明確だというのに、なぜそれを問いてくるんだろうか。
「今日はどんな感じ? 藤巻君?」
何度目か‥‥ついに名指しになった。
「特に何もない感じですが‥‥何か戸惑い的な感情が混じってる気がします。ほんの少しですが‥‥」
「‥‥‥‥」
先輩は大きく息を吸い込んだ。あの中に僕の吐いた息も混じっている。
ありがとうございます。
それからも。
「今日は?」
「そうですね、先輩は‥‥半日ぐらい前に‥‥何かあって少し緊張‥‥いや、動揺して、だんだん穏やかになってきてますかね‥‥」
「‥‥‥‥」
そんなやり取りが何日か続き、また週末がやってきた。
いつもの様に音楽室に侵入する。
誰にも見られていない。パーフェクトな潜入だ。
「‥‥‥‥」
僕は真っ直ぐに先輩の使っていた机を目指す。
部活中に月宮先輩が座っていた椅子。誰でも普通に座っている椅子だが、今日は部活の時間が押して、ついさっきまでその椅子に座っていた。
「‥‥‥‥」
椅子に頬をこすりつける。まだ仄かに温かい様な気がする。次に音楽の授業があったとき、どこぞの誰かがここに座る‥‥座ってしまう。実に腹立たしい事だ。
今日の先輩は無理に笑顔を作ってはいたが、いつもより深い悲しみに満ちていた。
その理由を知る手がかりがここにあるかもしれない。
僕なら‥‥いや、僕しか先輩の悲しみを取り除いてあげられる人はいないんだ。
手袋をしてマウスピースを出す。
「こ‥‥これは‥‥」
僅かだが湿り気がある。もちろんそれは洗った時の水であり、先輩の口内から出てるそれではないとは思うが、洗ったのは先輩で、その手についた水がここに付着しているのだ。
こんなチャンスはめったにない。
どうするのが一番効率的か‥‥。
顔にこすりつけるのがいいか、嘗め回してその湿り気の全てを体内に入れるべきか‥‥。
いろいろ考えた末に、マウスピースを可能な限り喉奥まで入れる事にした。
「‥‥‥‥」
息が荒くなる。そして一息に口に含んだ。
これぞ至福。
この瞬間、僕は世界中で誰よりも興奮していたんだ。
そのせいで僕は精神が飛んでいた。
誰かが近づいてきていた事に気が付かなかった程に。
「‥‥藤巻‥‥君?」
「‥‥‥‥」
声をかけられ、僕はゆっくりとその方向に顔を向けた。もちろん、マウスピースを加えたままだ。
月宮先輩が僕をじっと見てる。
【次回】 君を知りすぎた僕