第2話 彼女の楽器、僕の指先
二人は赤い糸で結ばれている事は確かだ。
だがこれだけではダメだ。糸が長すぎる。
運命の神は月宮佐那という天使を遣わしてくれた。ならば今度は僕の方から、その結びつきを加速する努力をしなければならない。
心は決まった。
翌日、僕はなけなしの貯金をはたいて楽器屋に行ってトランペット一式と教本を買ってきた。
どうやらトランペットは3種類あるようで、先輩が使っているのは金メッキタイプで、華やかに吹けるタイプ。僕も当然、同じタイプを買う。
数日はひたすら教本と、ネットを参考にした指使いと、楽譜の読み方の基本のマスター。親に怒られながらも完全無視して何度か家で吹いてはみたが、そのうち隣の家の住人が家まできたので、さすがに続行は困難になった。だが、それは最初から分かっていた事。基本的息遣いさえ押さえてしまえば、あとは本番を迎えるだけだ。
僕にとっては楽器の一つや二つ。愛の為には何の障害にもならない。
そうして準備は万端、吹奏楽部の門を叩いたのは楽器を買って一週間後の事。
昨今の軽音楽ブームのおかげで、部員が多いと思われがちだが、事前に調べてみると、別にある軽音楽部の部員は多いが、昔からある古典的吹奏楽部は部員は少なめだ。
吹奏楽はそれなりの数がいてこそ、全体のバランスが取れる。
ここで入部希望の僕は、まさに感謝の嵐になるだろう。
部室は音楽室を使っている。それなりの広さがあるが、ここで楽器を鳴らしたら、かなり耳にきそうだ。
そして奥に楽器と一緒に座っている彼女こそ、赤い糸の先にいる人。
一目見ただけで僕のテンションは爆上がりだ。
「そ‥‥そうか‥‥君が‥‥藤巻君か‥‥はは」
部長である3年男子生徒は、なぜか、そんな事を言っている。面識はないはずなんだが。
「な、何でまた‥‥吹奏楽部に?」
「?」
部長はあまり良い顔をしていない。
これはとんだ勘違いをしていたかもしれない。文化部系に所属している生徒数は非公開になっていたので、人数は計算上のものだ。予想より遥かに多かったのかもしれない。それとも、幽霊部員の人数を過小に見積もっていたのか?
「前から興味はあったんですが‥‥」
やってみたかった?‥‥そうじゃない。もっと‥‥もっとインパクトが必要だ。
「僕は常々、吹奏楽部こそ、全ての部の中心にあるものと思っていました。運動部の応援では随伴して場を盛り上げて勝利へと貢献し、入学式、卒業式では人生の節目となるハレの日を最高のステージとして演出していきます。学園祭では、まさに祭りの主人公として、学校の存在を地域に知らしめる広告塔と言えます!」
「‥‥‥‥」
僕の熱のある演説が心に響いたのか、部長を始め、他の部員達も口を開けてこっちを見ている。もちろん彼女もその中にいる。
「あ‥‥ああ、そ、そうか‥‥じゃあ。これが入部届けなんで‥‥書いてくれるかな」
「もちろんです」
思惑通り、情熱的な説得は大成功に終わる。僕は入部届を書くと、すぐに部長の3年男子に渡した。
「じゃあ、皆に紹介しよう」
僕は練習中だった部員の前に連れていかれる。最も、その前から注目されているようだったようで、全員が手を止めていた。
「新しく入部する事になった藤巻君だ。えっと‥‥何か楽器の経験は?」
「トランペットが少しぐらいです」
「へえ、珍しいね。どこで習ったの?」
それまで引き気味だった3年男子部長は、今度は逆に前のめりになる。
「自分でトランペットを買って自己流でやってました」
「へえ」
部長は感心したような顔になったけど、
「じゃあ、少し吹いてみていいですか?」
僕はポケットからマウスピースを出す。
「そう?‥‥じゃあ‥‥」
たてかけてあったトランペットを渡される。僕としては、月宮先輩のものを貸して欲しかったんだけど、そううまくはいかないなあ。
もしそうなったら、吹いてる最中はゴートゥーヘブン!‥‥今は想像しては駄目だ。
「‥‥‥‥」
マウスピースをはめてから、静かに口の前に持ってくる。
気取る必要はない。ただ月宮先輩への想いを乗せればいい。
‥‥♪♪‥‥♫
愛の賛歌‥‥これしかない!
僕はただ、ほんの少し遠くにいる先輩に向けてそれを吹き続けた。
数メートルの距離が離れているが、僕にはそれは意味を感じない。例えそれが数キロ‥‥数千キロの距離でも、数センチでも同じ事だ。
それが昨今の風潮では物理的距離が近ければそれで良いしなどと言われて、それが普通で幸せな事‥‥などというのが定説となっている。しかし心の距離はそれとは関係がない。自称、リア充の彼らは、それが分かっていない。
「終わりました」
僕はトランペットをおろす。ぶっつけ本番に近かったが、最後まで吹く事ができた。
想いをぶつける事が出来ただけで満足だ。
「自己流にしては、ちゃんとできてたね」
部長は褒めてるんだか、ダメだし出しをしてるんだが、微妙な感想を言ってきた。
僕は頭をさげる。別にうまくやる必要はない。今必要なのは、僕がトランペットのパートに配属される事だ。
そうして僕は月宮先輩の近くに‥‥前よりは距離が近い場所にいる事が出来る。
心だけでなくリアルな距離も近づく事が出来る。
何なら先輩に、上達のコツを聞ける立場になった。
「月宮先輩、よろしくお願いします」
僕がそう言うと、
「え?‥‥何で私の名前‥‥」
「‥‥‥‥」
先輩は戸惑ってる顔になった。
こうして僕は吹奏楽部の部室に入る権利を得た。
さて‥‥。
放課後に部活動という項目が加わったが、部の活動時間と、各部員のローテーションを詳細に記録する事が当面の目的になる。
こうして完璧に虚をつく事が出来るようになる。虚‥‥つまり部室の完全なる無人なる世界という事だ。
誰かが近くにきたり、部室に入ってきたりする前に全ての物事を終わらせる必要がある。
その限界ギリギリのラインを。ポイント、オブ、ノーリターンと名付けている。
このラインを超えてしまうと、失敗して犯罪者になってしまう。
決行は金曜日の放課後‥‥勘違いリア充達が、こぞって週末の解放感に浸って学校からいなくなる時、つまり周囲の目も自然に緩やかになる。加えて部活そのものも早く終わる。更に今週はいつも遅くまで残っている部長も、今日は用事があっていない。これ以上の幸運日はないだろう。
「‥‥‥‥」
そうして僕は何気ない顔で廊下を歩いている。
夕闇迫る学校の廊下は、普段は気にしないが、窓から差し込む夕日の光を受けて、赤い光の海で満ちている。さながら僕はその海を駆ける狩人とでも言おうか。
狩り‥‥確かにこれは狩りだ。
「‥‥‥‥」
部室に使っている音楽室のドアの前まで来る。南京錠がついているが、僕は針金一本であっという間に開錠する。先生に言って鍵を借りてくる事も、もちろん出来た。だが、それだと、この時間に僕がここに存在しているという証拠を残す事になる。そのリスクを排除するにはこの方法がベスト。
静かにドアを開けてシュッっと、素早く入って中に入る。好都合な事に、器材を痛めないように、窓には暗幕がかけてあり、活動するのに都合が良い。
安全を確認してから先輩のいつも座っている席まで移動する。
「‥‥‥‥」
眼下には何の変哲もない木製の椅子があるが、これは月宮先輩が座る事で、国宝級の宝へと変化する、だが、ここは音楽室。他の生徒も音楽の授業で使う。その為、この椅子も、どこの馬の骨とも分からない男子生徒が使う事もある。
穢されてしまった‥‥。僕はそいつを心底軽蔑する。
なので、目標はそれではない。楽器棚に保管してある楽器そのもの‥‥ではなく、その先端だ。
棚を開けるとトランペットが見える。その下の棚を引くと、布に巻かれたマウスピースが出てきた。
「‥‥おおお‥‥」
僕は白い手袋をはめてから、宝石を鑑定するかの様に慎重に、そのマウスピースを取り出す。もちろん、綺麗に洗われている。僕としては吹いた後は、そのまましまってほしかったが、先輩はもちろん、そんな事はしない。
美しい‥‥それ以上に神々しいいマウスピースだ。形状は男子生徒と同じでも、持ち主が違うというだけで、内側からオーラを放っているのが僕には分かる。
「‥‥‥‥」
顔に近づけて匂いを嗅ぐ。樹脂製という事もあり、強い薬品で洗う事は出来ないのが幸いしている。
先輩の匂いがする。
そしておもむろに口にくわえる。
この瞬間、僕は先輩の全ての時間を共有したと言ってもいいだろう。
先輩が生まれた時、幼稚園に入った時、小学校入学、そして中学、高校‥‥ダイジェストに流れていく。
「‥‥‥‥おおおお」
何はともあれ、絶好調な感じで何よりだ。
僕はメモを取り出し、マウスピースの現在の状態を詳しく記述する。これは何の為かと言うと、同じ型のマウスピースを買ってきて、先輩のと同じ状態にしてから、交換する為だ。それを次々と繰り返していけば、大量の先輩のマウスピースがこの手の中に。
先輩のマウスピースを家に持って帰る事が出来たら‥‥そう考えるだけで、僕は幸せの世界の只中にいるんだ。
おっといけない。そろそろ潮時だ。
綺麗に洗い直してからまた戻す。
しばしの別れだ。
次に会うのは来週の金曜日‥‥潮目が良ければ三日後か。
その日を迎えるまで、僕はただ練習を続けるだけだ。
同じ楽器を買った事は大成功だ。
先生は‥‥彼女だ。
「えっと‥‥中指を少しだけ弱く抑えて、滑らせるように下に移動させて‥‥」
「はい」
最初は警戒されていたけど、日が経つにつれてそれも和らいできたようだ。
今では、隣で指導もしてくれる。
「‥‥えーっと‥‥藤巻さん‥‥ブレスはもっと滑らかに吹いて、間断の差を緩やかにして‥‥そう、そんな感じで‥‥」
「‥‥‥‥」
先輩が近づく。開けた窓から入ってくる風が先輩の髪を揺らし、その匂いを僕の鼻孔へと運んでくる。夏服で半袖シャツを着ているけど、腕を上げたその瞬間、その刹那にカメラのコマ送りの様にその隙間を捉える。
今日もいいものが見れた。
僕の今日の二つ目の宝物だ。
宝物というのは、当然ながら価値のあるものを言う。そんな事は辞書を引くまでもない自明の理。それだけの事なのに、なぜかそれは万人にとって価値を感じられるものでなければ認めらえない物でなければならないと、勘違いしている。
千人いれば千通りの宝物がある。僕にとっての宝物はこんなに近くにある。
世界は宝物で満ち溢れてるじゃないか。
【次回】 月宮先輩の音、僕の息