序 □ 現実逃避と言う名の日記
横山依子――――享年二十七歳。
不幸にも定時帰社のかなったその日、交通事故にて死亡。
右折時にスピードを抑えきれず横転したタンクローリー、石油なんかを運ぶあのタンクの下敷きとなり即死。
多分。
というかあれの下敷きになって生きていられるほうが凄いけど。
でね。そう、即死したのよ。したはずなのよ。
T字路の交差点で、スマホを弄りながら信号待ちしていてね。
辺りの雰囲気が変わったからかしら。何となく聞こえたどよめきのせいかな? ブレーキ音だっかな? とにかく、そのとき顔をあげちゃったんだけど、目前には迫ってくる銀色の大きな物体があってね。
いきなりのことで避けるどころか、呆然としちゃってそのまんま?
痛みを感じたのも一瞬だったような? だから、悲鳴を上げる間もなく逝ったと思うんだけどさ。
で。
はたと意識が戻ったわけですよ。
そうしたら病院のベッドで横になっているのではなく、やけに真っ赤な場所で突っ立っていたのね。空も夕焼けのような陰鬱とした赤、地面もテラッと嫌な感じのする濡れたような赤。
ちょっとゾッときて自分の腕を抱き込むように撫でたら素肌ですよ。
半袖とかじゃなくてね、素っ裸。自分を見下ろしたら、すっぽんぽんですよ。すっぽんぽん。
普通にびっくりするよね。露出の趣味なんてないですし。
二十七歳にもなってストリーキングに目覚めるとか。いや、あれは大人になったからこそ目覚める趣味か。といっても私、まだそこまで達観してないはず。はずだ。
まぁ、目がこぼれ落ちるんじゃないかというくらい驚いたんですけどね、何も素っ裸だったからってだけじゃない。
見下ろした手はもちろん、足だって小さくて短くなっていたんだよね。子供ならではのフクフクとしたお腹に、まっ平らな胸。
伸ばした腕の長さから、小学生くらい? 十歳前後? まぁ、それくらいの体に縮んでたわけですよ。
あり得ないでしょ? 二十七歳から十歳児よ? 普通、呆然とするじゃない?
それが、おちおちと呆然ともしてられなかったのよ。
立ってる地面がね、真っ赤な地面がですよ。妙に柔らかいなとは気づいてました。
それが、もぞもぞと動いているんですよ。
ただひたすら眺めていた手のひらから、足元へと目を向けてみましたよ。
そうしたらですね。
私が立っている場所ってば地面なんかではなく、肉だったのよね。肉。一面肉。顔を上げてザッと見回した周囲一面肉だったわけ。
よくよく目を凝らして見れば、その肉が微かにモゾモゾと蠢いているのよ。
もちろん、私が踏みしめている肉もですよ。
ほら、腐った肉に湧くあの白いの。あれ。想像するでしょ。しちゃうでしょ。
素足の裏にモゾモゾとしているかもしれないアレを。
一回想像しちゃうと駄目よね。
暫く足をジタバタ浮かせてもみたけど、辺りは一面赤くて避難する場所もなく、とうとう堪え切れずに悲鳴をあげたわけですよ。
もう、喉が裂けんばかりに。あらん限りに腹の底から。吐き出す息が続かなくて、吸い込んでは叫びを繰り返していたの。
どれくらい叫んでたのかな。息が切れて肩は忙しなく上下してて、諦念というか、脱力というか、恐慌状態が一瞬落ち着いたらあの独特な柔らかな感触がなくなっている気がするじゃない?
叫んでいる間きつく閉じてた瞼をそろりと開けてみたら、あら不思議。
陰鬱に染まってた赤い空は見事に澄み渡った青。まさに快晴。地面だって、あの赤い肉は一片たりとも落ちてないのよ。
足元を見ても、土そのもの。干からびて乾いた土って感じだったから、素足にはちょっと痛かったけどね。
事故で死んで気づいてからというもの、心安まる暇がこれっぽっちもありゃしない。
しかも一人ぼっち! 天国? 極楽? どっちでもいいけど、そんな良い場所に行けるとも思ってないけどっ。だからってですよ? 地獄にしたって酷いんじゃない? 極卒の一匹くらい出迎えにきたっていいじゃないのよ! と、段々と腹立たしくなっちゃうのも致し方ないと思うのよね。
三六〇度、地平線ですよ。あ、正しくは遥か向こうの方でキラキラしているのが見えたような気もしたから海があるかも、とは思ったのよ。海と思しき反対側には山脈もあったわ。でも、それ以外の影が見当たらなかったのよ。海にしろ山にしろ、靴も履いてない素足で、しかも子供の足で向かうには遠すぎるし。
どこに行けばいいのよって感じじゃない?
「……どうしろってのよ」
思わず呟いちゃったけどね。
そうしたら、目の前にいきなりですよ。本当に突然。瞬き一つの間で、目の前に人が現れたのよ。
日本で生活していたら、まずお目に掛かる機会はないだろうと思う、白銀の長い髪をした男が。
しかも、イケメンですよ。いやいや、イケメンなんて言葉が陳腐に思えてしまうような、麗人? 色気が駄々漏れというか、妖艶というか。
とにかく、筆舌に尽くし難い美しい人が現れたのよ。
心臓が止まるかと思ったもの。いや、もう止まってたはずなんだけどね。
おそらく、目を丸くして凝視していたであろう私に向かい、その麗人はそれはそれは艶やかな笑みを浮かべて恭しく礼を取るわけ。まぁ、その流れる仕草、姿もため息が出そうなほど、どれ一つとっても様になってるのよ。
世の中には色んな人がいるもんだなぁ、と妙に感心もしちゃったりして。
なんて感心してる場合じゃないでしょう私。と我に返る。
私! 今! すっぽんぽん!!
慌てて無い胸と股を押さえましたよ! なんか前かがみになりながら!
そんな私の状況にも構わず、麗人が言うわけですよ。
「魔王様、無事のご誕生を心よりお喜び申し上げます」
喜ぶ前に服ください! というか魔王様って何?! 服! え? 魔王? え? と再び恐慌状態に陥った私を物ともせず、目に眩しい麗人がそれはそれは嬉しそうに微笑みながら私を抱き上げたんですよ。
それから、五年ほどが経った現在。
日本はおろか、地球でもない異世界の、魔族が住まう魔界という場所にて、魔王様をしていたりします。