人生とは、楽しむためにある。
「人生を楽しむということは大切だ」と、語っている名言はそう少なくない。
人生は楽しむべきだ。と、佐藤さんもよく口にしていた。
けれど、今の私はどうだろう。
私の今の状態を見たら、ことわざを考えた人たちは泣いてしまうんじゃないか。
私がこの世界での人生を歩み始めて2ヶ月。
元の世界に戻る気配がないし、どういう原理かはわからないけれど、やっぱり私は転生したみたいだった。
少しだけ気にかかるのは、この世界で私がアイシャーナ・ウィステリアと名付けられたことと、今の私の母と父が、成長した私に顔立ちがそっくりだったということ。
「アイシャーナ」という名前は、「シャー」の部分を除けばアイナになる。
これは単なる偶然じゃないはず。
なら、私が愛菜という名前だからアイシャーナに転生したのか。
もしくは、私は元々本当のアイシャーナで、愛菜という名前は日本で生きるための仮の名前だったのか。
だとしたら、捨てられていた私と一緒にあったあの手紙の書き主は、一体何者なのか。
そして、今の私の母と父が私の顔立ちとそっくりだということは、後者の可能性が高い。
2人と私には、元から血の繋がりがあったということだから。
あーもう! 情報が少なすぎる!
これ以上考えれば頭が疲れるだけだ。
とりあえずこの話は置いといて、最初の話に戻ろう。
今の私は、それはもう疲弊しきっている。
ようやく視界がはっきりしてきて、普通ならば喜んでいたところだろう。
残念ながら、今の私はとてもじゃないけど喜べる気分じゃないが。
原因は大まかに言って3つある。
1つ目の原因は、今の私が赤ちゃんだということ。
まず、私はこの世界に来て、体力づくりと滑舌改善に励んだ。早めにしておいて損はないと考えたからだ。
結果、少しハイハイが出来るようになり、少しだけ簡単な言葉は話せるようになった。
…お陰で体の全身が痛いけれど。
けれど、生後二ヶ月の赤ちゃんがハイハイが出来て喋るという光景は、当然大人たちにとって異様だったらしい。
そのせいなのか、私はここ最近毎日「天才」だと言われ、崇められている。
毎日崇められて頭が痛くなった私は、
平和な未来のためにも「これからはちゃんと赤ちゃんらしくしていよう」と、心の中で誓った。
2つ目の原因は、私が公爵令嬢であること。
日本で普通の女の子だった私は全く、丁寧にお世話されることに慣れていない。
一日中私のそばにはメイドと騎士たちがいて、食事に関しては、赤ちゃん用の食べ物とは思えないくらい美味しいけれど、豪華すぎる。
おまけに、私がなにか行動を起こすたびに褒められる始末。
流石の図太い私でも緊張して、せっかくの美味しい食べ物だったのに最初の頃はあまり味がせず、最近になってようやく味わえるようになってきたところだ。
そして私が疲れている3つ目の原因は、私の家族にある。
私の家族のウィステリア家は、私をあわせて4人家族だ。両親2人と兄が一人いる。
私の父親のクリストファー・ウィステリアは、このライオール王国唯一の公爵だ。
だから忙しいはずなのだけど、ほぼ毎日、それも1-2時間ほど私のところに訪ねてきている。
そして時々執務室に同行させられ、いつも私の父は私を膝に載せながら、ごきげんな様子で仕事をしている。
理由は明白だった。
気づかないほうがすごい。
やっぱり、「変な人」だという私の父への初印象は間違っていなかった。
この父は、私を溺愛しているのだ。正確に言えば、愛する妻との間に出来た娘の私を、だけど。
さらに不思議なことに、私を溺愛しているのは父だけではなくて、母と兄もだった。
母は私に乳母がいるのにもかかわらず私の世話をしたがるし、兄も毎日おもちゃやらを持参して訪ねてくる。
2人とも公爵ほどではないにしろ、あまり暇がないはずなのだけど。
慣れていない家族からの愛を受けて、私は疲労の毎日を過ごしている。
「はぁ、可愛い、うちの天使が今日も可愛すぎる…」
こちらを見ている父は頬杖をつきながら、そうつぶやく。
いつもは目がぼやけていたから気づかなかったけど、私を見るパパの表情って、
これほどまでにデレデレだったんだね…
今は、家族4人揃って朝食をとっている。
そして私はというと、母に抱えられながらご飯を食べさせてもらっている真っ最中だ。
本当は私にご飯を食べさせるのは使用人の仕事なのだけれど、もうすでに三ヶ月後までの
「アイシャーナにご飯を食べさせる順番」を皆で決めていたから、今更の話であった。
「何を言うのです、クリス。アイシャが可愛いなんて、当たり前でしょう」
と、母のアナベルが言う。
ちなみにクリスというのは父、クリストファーの愛称で、アイシャは私の愛称だ。
私は母が私にご飯を食べさせる手を止めていたから、母の着ているドレスの裾を
くい、と引っ張った。
「まっま。うああべあいっ」
(ママ、ご飯食べたい)
私は今、とてもお腹がすいていたのだ。
すると母は私が言いたいことがわかったらしく、
「まぁ!ごめんなさいね、アイシャ」
と言い私の頭を左手で撫でると、すぐさま右手で持っていたスプーンを私の口元に運んだ。
「…母上、僕ならアイシャにご飯を食べさせる手を止めることはありません」
と、今まで静かだった兄のレイモンドが口を挟んだ。
今まですねていたのだ。私にご飯を食べさせたくて。
うーん…ウィステリアの血筋は赤ちゃん好きが多いのかな?
そう考えていると、いつの間にか3人が私の可愛さについて熱烈に討論していて、
私はその恥ずかしい討論を終わらせるために寝たフリをしたのだった。
その後、今度は「寝たアイシャも可愛らしい」、という話になり、討論はしばらく続いていたのだけれど、
フリのはずが本当に寝てしまった私は知らなかった。
人生とは、楽しむためにあるはずなのだ。
とは言いながら、実は案外にこの生活を楽しんでいるアイシャちゃんでした。