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柴犬ハナの鼻先外交

 12月。休日の昼下がり。


 私がお昼ご飯を食べていると、愛する相棒(バディ)・柴犬ハナが私の膝に顎を載せてきた。

 左側に小さな傷のついた黒い鼻が「ふんす」と鳴る。

 つぶらで愛くるしい瞳が私を見上げてくる。


「なぁに、ハナ?」


 問いかけながらも、ハナの用件は分かっている。

『食後のおやつ』である。


「何かな~」


 けれど私はとぼけながら、ハナの額を優しく撫でる。


 私だってハナがお腹いっぱいになるまでおやつを上げたい。

 けれどそんなことをしたら、ハナがぶくぶくに太ってしまう。

 避妊をした柴ワンコは、太り出したらあっという間なのだ。

 今はまだ若いからいいけれど、5年後、10年後に自重で膝を痛めかねない。


 ハナの額を撫でていると、ハナが私の手をぐいっと押し返してきた。

 そのままぷいっと顔を背け、部屋のドア――引き戸の隙間に鼻先を押しつけた。


「ハ~ナ、ハナちゃ~ん」


 呼びかけても、ハナは振り向いてくれない。

 彼女は今、9キログラムの全身を使って怒りを表現しているのだ。


 ハナ、3歳。

 成犬になっても全身ふわっふわな毛が特徴の、めちゃくちゃ可愛い柴ワンコ。

 友達からは『犬猫に手を出すと婚期を逃すぞ』とさんざん忠告されたんだけど、ペットショップで私の指にかぷかぷとかじりつく姿があまりにも可愛くて、メロメロになって飼ってしまった。


 それが、今から3年前の話。

 この3年はあっという間で、ハナはすくすくと育ち、今や私と同い年だ(私、23歳。ハナ、3歳4ヵ月×7)。


「ハ~ナ」


「ふんす」


 ハナはプリケツをこちらに向けたまま、その鼻先を引き戸の隙間に押し当てている。

 食パンみたいなプリケツをつんつんしてやると、ハナの尻尾がクルンと動いた。


「ハナ、ドア開けちゃメッだからね」


 何しろ季節は冬。

 ドアを開けられてしまったら、せっかく温めた部屋の暖気が逃げてしまう。

 廊下まで温められるほど、私の財布は温かくない。

 だから私は、ハナがドアを開けるのを嫌がる。

 ハナもそれを分かっているから、こうして鼻先で私に圧力をかけ、譲歩(おやつ)を引き出そうとしてくるのだ。


 実にしたたかな女である。

『開けるぞ。開けるぞ。いいのか?』と、ハナがほくそ笑んでいるかのようだ。

 この高度な政治的駆け引きのことを、私は『柴犬ハナの鼻先外交』と呼んでいる。

 かれこれ1年前からずっとこんな調子だから、ハナの鼻先にはいつも小さな傷あとがついている。

 一方の引き戸の方も、ハナの鼻の形で若干削れているから恐れ入る。


「ふんす」


 ついに、ハナが動いた!

 その鼻先をぐいっと左に動かし、引き戸を1センチほど開く。


「こーらー」


 私はハナを後ろからそっと抱きしめる。

 が、ハナは止まらない。

 1センチの隙間にマズルを差し込み、さらには頭部を差し込んで、廊下に出てしまった。


「も~……」


 もちろん、成人女性の私が9キロのハナに負けるわけがないが、柴犬というのはものすごく強情で、これと決めたことは頑として譲らない。

 無理に引っ張ろうものなら、それはもう全体重をかけてぐいぐいと引っ張ってくる。

 散歩から帰るのが嫌な柴犬が首輪を引っ張って、顔がぎゅっとなっている『拒否犬』というヤツをネットで見たことがあるが、まさにあんな感じになる。

 だから私は、こうなったらもうハナの好きなようにさせることにしている。


 ハナが出ていったあと、そっとドアを閉めた私は、そわそわする。

 ハナが自らの意志で出ていったのだから、放っておけばいいのかもしれないが、何しろ12月の廊下は冷え込む。

 ふかふかの毛皮に身を包んだハナと言えど、何十分も廊下に出しっぱなしでは体調を崩さないか心配だ。

 過保護なのかもしれないけど……。





    ◆   ◇   ◆   ◇





 ハナが出ていってから10分になったのを見計らって、私は立ち上がる。

 そーっとドアを開き、暗い廊下に出る。


「ハナ~」


 電気を点けて呼びかけるも、ハナの姿はない。

 私は音を立てないように気をつけながら、廊下を進む。

 洗面所に至るも、ハナはいない。

 果たしてお風呂場のドアを開くと、


「ハナったら、またこんなところに」


 お風呂場は、すねたハナが隠れる定番の場所だ。

 ハナはこちらに背を向けて座り込んでいる。

 香箱座りというやつだ。驚くなかれ、犬も香箱座りをするのである。


 お風呂場の電気を点ける。

 ハナの耳がこっちを向いている。

 10分経ったことで怒りが収まって、寂しさの方が勝っているらしい。

 私はハナの背中を撫でる。

 冷たい。


「体冷えちゃうでしょ~」


 するとハナがむくりと立ち上がり、私の足の間に鼻先を突っ込んできた。

 やはり寂しかったらしい。


「ほら、行こ」


 私が廊下に出ると、ハナがついてきた。

 今日の鼻先外交は、私の勝ちだ。





    ◆   ◇   ◆   ◇





 入社1年目と言えども、半年を過ぎれば戦力扱い。

 早くも入社8ヵ月目になってしまった私は、4月運用開始の基幹業務システム再構築プロジェクトで大忙しだ。


「はぁ~」


 プロジェクトルームの一角で、バキバキと背中を鳴らしながらため息をつく。

 今日も終電確定だ。


「あー……」


 伸びをしたのがまずかった。

 21時のオフィスで、私は眠気と戦う羽目になる。

 ……ハナ、大丈夫かな。

 ちゃんと自動給餌器からごはん食べれたかな。

 お水は大丈夫だろうか?

 ちゃんとウンチとおしっこできてるかな。


 柴犬というやつは頑固で一本気なサムライみたいな気質の子が多い。

 ウチのハナもご多分に漏れず、『室内でウンチするなど武士の恥』とばかりに、お散歩中でしかウンチとおしっこをしてくれないのだ。

 家にお迎えしたばかりのころに、ちゃんとトイレトレーニングしたんだけどなぁ。

 心配だ。

 あぁ、心配……だ……。


「こらー、寝るなー」


 ぽんっと肩を叩かれた。


「――んがっ!?」


 私は飛び起きる。


「花の乙女が『んがっ』はないでしょう」


 慌てて顔を上げれば、若干26歳にしてチームリーダーを務める先輩が、苦笑していた。


「すみません!」


 慌てて立ち上がる。


「いいよ、座ってな。で、進捗どんな感じ?」


「ええと……」


 私は概略を報告する。


「めっちゃ遅れ(ビハ)てんねぇ!」


 先輩が爆笑する。


「ほら、このモジュールとこのモジュール、アタシが吸収するから」


「そんな、甘えるわけには!」


 先輩はなんてことない笑顔を見せてくれてはいるものの、私よりもずっとたくさんの残業をしている。

 目の下のクマもものすごい。


「その代わり、プロジェクト終わったらハナちゃんに会わせてよ」


「! それはもう!」


「ハナちゃん待ってるんでしょ? 終電には間に合わせな」


「はい!」





    ◆   ◇   ◆   ◇





「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」


 走る! 走る走る走る!

 何とか終電に駆け込んだ。


「うっぷ……」


 何だろう、吐きそう。

 めっちゃ体調悪いんだけど。

 そういえば今日、何時にご飯食べたっけ?

 いや、そもそも今日、何か食べたっけか。

 めまいがする。

 幸いにして電車は満員だったから、私は立ったまま気絶することができた。





    ◆   ◇   ◆   ◇





『■■駅~』


「――はっ!?」


 覚醒した私は、転げるように電車から降りる。


「ハナ……今、帰るから!」


 ふらふらになりながらも夜道を歩き、マンションに辿り着く。

 カギ、カギが見つからない。

 カバンをのぞき込む視界が、ぐるぐる回っている。

 見つけた。


「ハナ」


 カギを開け、ドアを開いた。

 そこで、私は気を失った。





    ◆   ◇   ◆   ◇





「ワン!!」


「きゃっ!?」


 めったと吠えないハナの吠え声で目を覚ました。


「ハナ……? っていうか寒い!!」


 思い出した。

 家の中に入ったところで力尽きたんだった。

 立ち上がり、廊下の電気を点けると、ハナが『ふんす』と鼻を鳴らしながら私を見上げていた。


「ハナ、ドアを……」


 そう。

 ハナがここにいるということは、私が禁止している『ドアを開く』という行為をやってしまったからだ。

 しつけの観点からは、ブレるのは良くない。

 私はハナを叱りつけようとして、


「――!」


 気づいた。

 ハナの尻尾が垂れ下がっていることに。


 そうだよ。

 ハナが起こしてくれなきゃ、私は間違いなく風邪を引いていた。

 ハナは私の心配をしてくれて、私に叱られるのも構わず助けにきてくれたのだ。


「ハナ~」


 視界が滲んだ。

 私はハナにすがりついた。





    ◆   ◇   ◆   ◇





 部屋に入ると、ハナはトイレでウンチとおしっこをしてくれていた!

 今から散歩に行くことを覚悟していただけに、これは本当に嬉しかった。

 私はハナと一緒にストーブで温まりながら、ハナを抱きしめる。


「ハナ、アナタはやっぱり最高の相棒(バディ)だよ」


 ハナの額を撫でてやると、ハナが、


「ふんす」


 と鼻を鳴らした。

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