殺人鬼にお似合いの令嬢
「貴女に生涯傅く許可をいただけませんか?」
「はい、もちろん。喜んで」
魔族と人間の和解がなされて百二十年。世界は、かつてのそれとまるで異なる問題に見舞われていた。
多種族に対する、極度の差別意識である。
角のある者、ない者。翼のある者、ない者。三番目の腕がある者、ない者。目が多い者、二つしかない者、一つしかない者。肌の青い者、赤い者、黄色い者、緑の者、黒い者、白い者。
全て些細であると許容するには、人魔の歴史は血に塗れ過ぎていた。
国同士が手を取り合う姿勢を見せてなお、民衆の意識まで改められはしない。化け物と蔑み、偏見を持ち、後ろ指を刺して迫害した。
人間も、そして魔族もである。
あるいは、戦争の時代よりも混沌として、それでいて平和を謳うこの時代である。しかし、それを望ましく思う者がいる事もまた事実だった。
これは、他人の不幸せで幸福を掴んだ者の話。
世界が秩序を失いかけているからこそ、人肌の温もりを知れた者の話である。
◆
「結婚……ですの? 私が?」
「そうだよ、可愛いルリ。しかも人間が、我が家に婿入りするのだ」
「まあ、素敵。人魔が手を取る歴史に我が家の名が刻まれますのね」
その日、高位魔族であるエーデルリッチの家では、ささやかな夕食と共に会話に花を咲かせていた。生焼けで香ばしさのない肉と、温くなったワイン。固くてパサパサのパンはルリの好物であり、この日も満面の笑みを浮かべている。
「来月には顔合わせを予定している。心の準備をしておきなさい」
「はい、お父様。私、必ず幸せになりますわ」
人間との婚姻はここ百年と少しの間たびたび行われている人魔和平の証明であり、遂にその身を国に捧げる事ができるのかと胸を躍らせる。
「今日は早めにお休みしますわ。ドキドキして眠るまで時間がかかってしまいそうなんですもの」
「ああ、そうなさい。可愛いルリ。また明日」
「ええ、お父様。また明日」
ひび割れたガラスと苔の生えた壁で囲まれた廊下には、カビと穴と汚れで彩られた絨毯が敷かれている。所々に張られた蜘蛛の巣は茶目っ気であり、お洒落を気にした主人のこだわりだった。
ルリの部屋は、地下の最も湿気が多い場所にあった。窓もなく、埃が溜まり、臭いを嗅いだだけで咳き込みそうになるほどにカビ臭い。天蓋付きのベッドはカーテンがバラバラに破れており、布団は擦り切れてワタが出てしまっていた。
これほど落ち着ける空間はないだろう。ルリは自分の部屋が大好きだった。
「モモ、そろそろ寝るわ」
ウェディングメイドのモモに声を掛け、着替えを手伝わせる。血のように真っ赤なドレスがほつれ破れたが、二人ともそんな事は全く気にしない。
「お休みなさい、モモ」
「…………」
体にほとんど肉のないモモは、言葉を話す事ができない。恭しく頭を下げるその動作で、意志の疎通を図っていた。
元々は、戦場跡に現れた低位の魔物であった彼女を、ルリが気まぐれに使用人として連れ帰ったのが始まりだ。露出された骨に僅かばかりこびりついた桃色を指して、その名が付けられたのだった。
モモは、服の裾から短刀を取り出す。両手で、添えるように、丁寧な動作で差し出す様は、家事使用人として誇らしくなるほどに美しかった。
それを受け取ったルリは、己の首を切り付ける。
ベッドに血溜まりを作りながら倒れ込んだルリの手から短刀を回収したモモは、その亡骸に布団をかけて部屋を後にするのだった。
これが、いつもの日常。エーデルリッチが送る、ごく当たり前の風景である。
◆
「私が、魔族と?」
「そうだ。構わんだろう?」
イスカリオ・キャメイロンは、初め聞き違いかと思った。人間である自らが、まさか魔族と結婚しろなどと。しかも、よくよく聞けば婿入りである。およそ一般的とは言えない人生を歩んできたつもりではあったが、今までの経験の中でもとびきりに奇怪な出来事である。
「もちろん、ただ家に入れ言っているわけではない。もしそうならば、お前などに頼まんしな」
「まあ、でしょうな」
他国との繋がりを目的とした婚姻にイスカリオを使うのは、決して表向きにした目的のためなどではない。その数奇な人生を思えば当然の事ではあるものの、血が絡むのだろうと容易に想像できた。
つまり、魔族の殺害。そして、その後その家に根ざして内部工作を行う事にこそ、此度の真意があるのだ。
「予定は来月だ。公には人魔の和平の証なのだから、しばらくは大人しくしていろよ」
「卿のお立場もありますからな。泥を塗るような真似はいたしますまい」
「ああ、信用しているぞ」
ハバリアス・スルド・モードモード伯爵。イスカリオの身元引き受け人であり、法的には義理の父にあたる人物である。イスカリオの秘密を知りながら、罰するよりも手元に置く方が利になるとして養子にした。そして、その利となる時がようやく訪れたのだ。
「要件は以上だ。退がれ」
「はい、失礼します」
深く頭を下げ、きびきびとした動きで執務室を後にする。
自室に戻り、天蓋付きのベッドに腰掛けると、無意識のうちにため息が出た。
時が来たのだ。そう、伯爵に言わせれば、借りを返す時が。
かつて、イスカリオは男娼だった。
何故そこにいたのかは知らない。男女共に扱う高級娼館で中位にあたる働き手であり、好事家の中年女性に買われてその店を出た。
若くして旦那を亡くした商家の人間らしく、歳を取ってから人肌が恋しくなったようだ。女の身で家を支えるのは苦労が多いと、毎晩のように愚痴を聞かされた。
初めのうちは従順に振る舞っていたが、正直なところ気持ちが悪いと思っていた。いや、今までに気持ちが悪くない客などいなかったと言う方が正しいだろうか。しかし、その中でもこの女は格別である。
つまり、組み伏せる相手が欲しかったのだ。思うようにはいかない商談の憂さ晴らしとして、全てが思う通りになる相手を欲した。店のモノであればできないような事をするために、イスカリオを買って手元に置く。自らのものであるならば、例え暴力を振るおうと、罵声を浴びせようと、その結果殺してしまおうと、誰が困る事もない。独り占めにできるおもちゃが欲しかったに過ぎず、それを人肌が恋しいなどと表現していたのである。
しかし、その愚かさは彼にとって好ましい。
薄っぺらな愛を語り、一見してはイスカリオを大切にしていた。体裁のためか、それとも歪んだ愛は本当だったのか。どちらにせよ、イスカリオの興味の範疇ではなかった。
重要なのは、死んだ時にその財産を自らに残すのかという疑問の答え。少なくとも、他者から見て残す事に不自然さはないと感じる必要があった。
折を見て、主人を殺害する。
首を掻き切り、叫びを上げる余地もなく殺した。憲兵には夜中に忍び込んだ何者かに襲われたと証言する。さして重要ではない権利書とほんの僅かな紙幣を暖炉で燃やし、盗まれたのだと主張した。物盗りの犯行であるとなれば、疑いを向けられる事はないだろうと考えたからだ。
そうして、イスカリオは商家を手に入れた。
その後も、再婚と殺害を繰り返しながら、そのたびに資産を肥やしていった。自分自身ですら驚くほどに、イスカリオには殺人の才能があったのである。
しかし、鋭い人間はどこにでもいるものだ。規模が大きくなるほどに人の目に触れるようになり、経済貢献によって貴族の地位にすら手が届くというほどになった時、とうとうとある伯爵家の男に目をつけられてしまった。
「役に立つ。私の元で働け」
短いそんな言葉が、驚くほどに重い力を持っている。拒否の余地などなく、イスカリオはその場で伯爵家の養子として迎えられた。
それからは、命じられるままに行動する日々だ。社交界に出て、命じられた人間に近づき、命じられた通りに情報を持ち帰った。他人のご機嫌取りも女性への口説き文句も慣れたものだったので、特に苦労はない。男娼の経験がこんなところで生きるとは思わなかった。
そして、時には汚れ仕事も担う。
恐らくはこれこそが本命なのだろう。伯爵家の姿なき暗殺者として、イスカリオの才能は存分に振るわれた。
今回も、そんな仕事のうちの一つだ。
あるいは数年をかける長期任務であっても、根本的には変わらない。伯爵の思惑を悉く成就させてようやく、イスカリオは生きていられるのだから。
それが、いつもの日常。イスカリオがおくる、怒涛にして平凡な日々だった。
◆
「ようこそおいでなさった、イスカリオ殿」
「お、お招き頂き……感謝します……」
「お招きなどと! これからここは貴方の家でもあるのですぞ」
「は、はは……」
ほんの僅かな抵抗だった。こんな場所に住まなければならないなどという、恐ろしい事実への。
わざわざ自ら出迎えてたエーデルリッチ卿は、胸を張って屋敷へと促す。太った水死体のような見た目に反して無闇に元気な卿だが、しかし、その自慢げな屋敷はというと、およそ人間の常識では人の住むそれとは思えないようなものだった。
薄汚れるなどという表現を凌駕する外壁は、砂なのか埃なのか分からない真っ黒なものに覆われている。さらには、明らかに意図的ではないだろう蔦が家に絡まっており、壁の至る所をひび割れさせていた。窓という窓は一つ残らずガラスが割れていて、その枠木は腐っている上に苔が生えている。
中から明かりが漏れていなければ、こんな場所に誰かが住んでいるなどとは思わなかったろう。
「どうぞお入りなさい。自慢の我が家ですぞ」
「自慢……はぁ、そうですか……」
あるいは、これほど恐ろしいのは外観のみだろうかと思ったが、扉が開いた瞬間そうではないのだと理解させられた。それは、廃墟と呼ぶに相応しいありさまであり、床板が腐っているために歩くだけでも踏み抜いてしまわないよう苦労しなくてはならない。
壁に触れる事すらも躊躇われるほどに不潔であり、娼館出身のイスカリオをして笑顔を引き攣らせてしまうのだった。
そして何より、臭いが酷い。
かつて口にした腐りかけの牛肉が、確かこんな臭いだった。あれは食べる物に困って仕方なしに食べたに過ぎず、吐き気を押し殺してようやく飲み下したものだ。しかしそれは酷い虐待の記憶であり、およそ貴族として生活している今の彼には考えられない事態である。しかし、この屋敷からは至る所からそんな臭いがする。腐肉か、血液か、ともかくハエのたかりそうな臭いだ。
むしろなぜ、虫の一匹もいないのか、イスカリオは不思議でならない。ウジでも湧きそうだというのに、蚊の一匹も飛んでいない。
「娘のルリは部屋です。すぐに呼びましょう」
「はは、ゆっくりで構いませんよ。そうお伝えください。女性は準備に時間のかかるものですから」
相手に気を使う言動は、普段ならば気をひくためだ。男娼として生を受けたイスカリオにとって、世間知らずのお嬢様を籠絡する事は息をするよりも容易い。この屋敷に根ざすならば、その技能が存分に発揮されるだろう。
ただ、その言葉はそんな意図から出たものではなかった。
僅かでも、出会いを遅らせたいと思ったのだ。こんな屋敷に住んでいる生き物など、顔を見たくないと。そんな事に意味はないと理解していながら、本能的に抵抗してしまう。自らがこれほど嫌悪を抱けるのだと、イスカリオは今日初めて知った。
食卓に並ぶ料理は、どれも酷い出来だ。貴族としてこんなものを出されたならば、そのまま宣戦布告の意があるのかと思われるだろう。
自らが寄越されたのは正しい判断だと、イスカリオは思った。彼でなければ、飲み下せたかどうかすら怪しい。
肉は固すぎ、パンは湿気って、野菜は萎れて、米は冷たい上に無闇に水気が多い。果実水は温くて薄いし、ナプキンすらグシャグシャだ。
イスカリオの主人である伯爵がこの場にいたならば、射殺さんばかりの視線を家主に向けるだろう。髭を触りながら、『これは人間の食べ物か?』と唸る様が目に浮かぶ。
「人間の口には合いませんでしたかな? すみません、不勉強なもので。よろしければ後でご教授願いたいですな!」
「あー……あはは」
曖昧な返事でやり過ごす。
初めは人間を見下す嫌味なのかと余ったが、どうやらそうではない。明るい口調と、満面の笑み。心から人間に興味を持ち、それを知りたいと感じているのだろう。
イスカリオが今まで接してきたどの人間とも違う特徴を持っている。男とも、女とも、子供とも、老人とも、金持ちとも、貧乏人とも違う。もっと根本的な違い。常識が、認識が、明らかに異なっている生物と話をしているのだ。仮に右と左すら異なる意味を持つのだと言われても信じるだろう。
生物単位での違いとはこれほどのものか。
ともすれば起こりうる困難を思い、イスカリオは内心眉を顰めた。
「お待たせしましたわ」
どう対応したものかと悩んでいると、鈴を転がすような声がフワリと掛かられた。
ハッとした。
クラリとした。
思わず立ち上がった。
目元の隈。青白い顔色。あまりに不健康そうなその見た目だが、父親であるエーデルリッチ卿が動く水死体である事を思えば遥かに人間的だ。ドレスに血が付き、首には傷跡が目立っていてもである。
ただし、それは“人間に見えるか”という基準での評価だ。見た目の良し悪しで言えば、普段から着飾った令嬢を相手にするイスカリオにとって特別に美しいとは思えなかった。
しかし、それでも目が奪われた。
触れたいと思った。白い肌に、歪んだ傷跡に。あるいはドレスの血の跡に。目を覆う黒々としたその隈に。
今までの人生で多くの異性に触れてきたイスカリオをして、初めて出会う種類の生き物だ。その誰とも違う感情を今、彼は抱いている。
そうか、自分はこのような……
初めての感覚に戸惑いを見せるも、豊富な経験がその表情を覆い隠す。代わりに、いつもの微笑を浮かべた。数多の女性を虜にしてきた、悪魔のような微笑みである。
「娘のルリです」
「ルリですわ! どうぞよろしく」
カーテシー。貴族令嬢としての振る舞いは、どうにもぎこちないものだった。人間の文化を調べて、真似して、差し当たり形だけ取り繕ったものであると一目で分かった。しかし、それすらも愛おしく思える。イスカリオは、既に心を奪われつつあるのだ。
「イスカリオです。よろしくお願いします」
丁寧に覆い隠した本心は、きっと相手に伝わっていない。偽りの平静を、あたかも心からのものであるかのように思わせる術は心得ている。そして、イスカリオはこれから自らをも偽ってしまう必要があった。
これは本心なのだと。いつもの通りだと。
でなくては、与えられた仕事などできようはずもない。
彼はこれから、彼女を殺さなくてはならないのだから。
◆
婚姻は、つつがなく執り行われた。
実に簡素で、穏やかで、慎ましやかで、悪く言えば地味な結婚式を挙げた。というのも、人間と違い、魔族達は盛大な式をあげたりしないのだという。
イスカリオは、その方が好みだった。騒がしく、派手好きで、そんな女は、かつて自らを抱いた多くの女性に共通する特徴だったからだ。気持ち悪いと、気味が悪いと、鳥肌が立つのをずっと我慢していた時の事を思い出す。
驚いた。こんなにも心地がいいなんて。
心地がいいと、感じられるなんて。
そして、初夜の日。
夫婦として体を重ねる最初の日。イスカリオは、今までに感じた事のない緊張に襲われていた。
両手両足の指では足りないくらいの女性と関係を持ち、なんなら男性とも経験のあるイスカリオが、である。胸が鳴り、手が震え、あるいはルリの顔すら見れないかもしれないと心配しているのだ。
——いずれ、殺さなくてはならないというのに。
「……な、何をしているのですか?」
「あら? 美容ですわ」
ルリは、自らの手首を切り付けて、その流れ出る血液を肌や髪に塗り込んでいる。部屋の中には鉄の臭いが充満する。空気が重く、ベタつき、ぬるくなったような感覚がして、イスカリオは無意識に一歩退いた。
「処女の血は保湿効果が望めますの。貴方様もいかが?」
「ああ、いや……遠慮しておこう……」
「あら残念。そろそろ私では提供できなくなってしまうのに」
青白い肌をわずかに赤らめて、ルリが微笑む。そんな程度の仕草に、驚くほど胸が高鳴った。
血痕だらけのベッドに横たわるルリの姿は、その感情を煽るに相応しいものだった。一見して恐ろしい彼女の容姿は、まるで夜会草のような魅力に溢れている。
その上に覆いかぶさるように倒れ込み、イスカリオは手を伸ばした。指を首元に這わせると、ルリがくすぐったそうに顔を逸らす。
折ってしまえそうだ。
このまま、片手で。
イスカリオの喉が鳴る。
計画では何年も先に予定していた彼女の殺害を、今この場で行いたくなってしまう。
この艶めく首に指を掛けたくなる。ぐったりとした彼女と肌を重ねたくなる。
イスカリオは知らなかったのだ。自らにそんな性癖があるなど。自分は多少恵まれなかっただけの、普通の人間だと思っていた。
……思っていたのに。
我慢ならなかった。これしか知らないのだ。
自らが抱いているこの感情を表す方法が、たった一つしかない。
なんて不自由なのだろう。今までの経験など何の役にも立たたず、童のように右往左往してしまいそうだ。挙動不審に目を泳がせて、それでも指が首から離れない。
そして、結局我慢ならなかった。
時を待たなくてはならなかったというのに。
◆
「おはようございますわ」
「……おはよう」
朝。ルリは不思議に思った。昨日はあれほど仲良く話したイスカリオが、どうにもよそよそしかったからだ。
目を合わせるなら見開いて、口角を引き攣らせて顔を背けた。まるで、ルリが恐ろしいとでも言うかのように。
「どうかなさいましたか?」
「い、いや別に……何もありませんが……?」
「そうですか? ならお着替えをしましょう」
「えっと……ああ、そうですな」
ルリは首を傾げるが、すぐに朝食は何かとモモに聞く。カタカタという音を立てるモモが何を言っているのか理解していないが、そのやり取りがどうにも楽しかった。
本人が何もないと言っているのだから、何もないのだろう。ルリは、既にイスカリオに対して一定の信頼を置いていた。
食事は、半分生のベーコンと殻の混ざったスクランブルエッグ。そして萎びたレタスと冷めたライスだ。一見質素ではあるが、その素材から厳選した一級品である。
「イスカリオ殿にお聞きした一般的な人間の朝食をご用意いたしましたぞ! 意外に我々と変わらないんですな!」
「え? あー……えぇー……ああ、まぁ……はい、そうですね」
三人で食べる食事は、いつもより楽しかった。産まれてこの方ずっと二人暮らしだったルリにとって、一番賑やかな時間である。
「イスカリオ殿、食事の後自慢の庭をご案内しましょう! 我らの祖霊が眠る墓所があるのです!」
「墓所を……散歩……あ、あり、がたいですな……」
父とも仲良く話すところを見て、ルリは満足そうに笑う。婿養子とは家での立場が弱くなりがちだと聞いたので心配していたが、この家に限ってはそうではないようだ。無論、父はそのような者ではないと信じていたが、目の当たりにすれば安心する。
幸せな生活に想いを馳せながら食べる朝食は、殊更に美味しく感じるのだった。
◆
「どうしよう……」
一年……二年……三年が経った。
内臓に達する刃傷、五十三回二十六カ所。三分以上の絞頸、三十一回。成人男性の致死量を倍する以上の毒の摂取、三十九回十四種類。頭蓋陥没、二回。頸部切断、一回。体重の半分以上の出血、三回。一時間程度の窒息、一回。一ヶ月を超える絶水絶食、一回。
内、死亡なし。
「……死なないんだけど」
イスカリオは、頭を抱えていた。
初めのうちは、早く殺しすぎても問題かと思われた。頚椎を折ってなお起き上がってきた時は驚いたが、それでも多少安心したものである。しかし、三年も経てばそれが楽観であった事に気がつく。思っていたよりも遥かに、何をしても死なないのだ。
「意味が分からない……化け物だろこんなの……なんで人魔の和平なんて続いてるんだ? こんなに違うのに……こんなに……」
およそ生き物としてあり得ない事態に、イスカリオは混乱していた。“何をしても”死なないわけではないはずなのだ。墓場があり、そこに先祖が眠っていると言っている以上、不死の種族ではない事は間違いない。
決して、不可能ではないはずなのだ。だというのに、方法がまるで思い浮かばない。信用を勝ち取り、イスカリオが実権を握っても不自然ではない段階に至ってなお、状況は一向に進展を見せなかった。
ここまで、たった三年である。
家族のみならず、他の魔族からの信頼。それも、客観的に見て、家を任されても疑われないほどのものが必要だった。ルリとエーデルリッチ卿の人の良さもあるが、ここまでの立場を作ったのはイスカリオ自身だ。彼でなかったのなら、さらに十年を費やしても達成できたか分からない。
だが、それだけに歯痒い。
あとは死んでもらうだけだというのに、それがどうしてもできそうもない。考えうる全てを試してなお、手応えが微塵もないのだ。
「クッソ……どうしたらいいんだ? 誰か教えてくれよ……」
独り、ごちる。現実逃避気味に、窓から空を眺めながら。
「誰か……?」
僅かな、本当に僅かな、光明が見えた気がする。
それは、つまりあまりに強引な方法であり、仕損じれば取り返しがつかない。これまでに積み上げた信頼は脆く崩れ去り、イスカリオは相応の罰を受けるかもしれない。恐らく、人魔の和平は立ち所に崩れ去り、身元を保証してくれている伯爵も責任が追求されるだろう。
だが、もはやこれしかない。これくらいしか、打破を望めない。
脅して吐かせる。
あまりにも野蛮な、しかし確実な方法である。
◆
イスカリオにとって、それは決して得意な事ではない。しかし、覚えがない訳ではなかった。伯爵の命に従う上で、強引な方法も時には必要だったからだ。
特に、甘ったれの貴族相手ならば絶大な効力を発揮した。口を割らせるという一点において、イスカリオは充分な自信を持っている。
死んだように眠る、とはよく言ったもので、事実エーデルリッチの家の魔族は一見して死亡しているとしか思えないような睡眠をとる。ルリは首を中頃まで切り付けるし、エーデルリッチ卿は首を吊るのだ。二度と起きないようにすら思える有様ではあるが、これで翌日の夜明けに合わせて目を覚ます。
しかし、逆に言えばその時間までは身動き一つとらないのだ。
「おや、これはなんですかな?」
「おはようございますわ。今日は何か特別な日でしたかしら?」
椅子に縛り付け、自由を奪う。手は後ろに、あとは足、腰、胸、肩、首をそれぞれ固定した。
「ずいぶん余裕ですな……死なないというのはやはり大きな意味を持つと見える」
「あら、おはようございますわ、イスカリオ様」
「……おはようございます」
呑気。能天気。楽観的。
ひどく腹立たしく、何より苛立たしい。イスカリオの目的に対して、これほど大きな障害もない。なにせ、時としてまともな会話もままならないのだから。
「死なない? いやぁ、別に我々は不死というわけではありませんが」
「そうですか。ならば是非それについて教えてもらいたい」
イスカリオが用意したのは、工具箱だった。シャンデリアなどの照明器具のメンテナンスを頼んでいる専門業者を通じて手に入れた物であり、当然だが業者と同じ目的に使用するわけではない。単純な切ったり刺したりといった苦痛に高い耐性を持つと思われるエーデルリッチ卿とルリに対して、これまでにない苦痛を与えるための道具だ。
人類史にはまだ登場しない、細やかな工具。例えば魔物の骨や特殊な木材を利用する事によってのみ製造される数々の道具は、対照的に人類には当たり前でありながら魔族の世界には存在しない様々な道具の代わりとして大いに活躍していた。
より太い物を切断できる特殊なハサミ。二つ以上の部品を繋ぎ止める部品と、それを固定する際に利用する棘のような形状の道具。人間の力を大きく超えた強い力で物を掴める何か。
「優れた道具は、多くの用途に耐えられるものです。これらの道具はとても優れた物なので、私の要求を満たしてくれるでしょう」
イスカリオは、『ペンチ』と呼ばれる道具を取り出した。針金状の物を細かく曲げたり、挟んで掴んだりする道具だ。
「時間ならどれだけでもあります。『殺してくれ』と思ったらすぐに言ってください」
◆
「ああ! やめてください! お願いです!」
「…………」
「そんな事まで!? いやぁ!」
「…………」
「お父様の前で恥ずかしいですわ!」
「なんか違うんだよなぁ……」
身体を艶かしくくねらせ、恥ずかしそうに目を伏せるルリ。なるほど美しく、あたかも激しい情事の最中かのような声を上げている彼女に対して、イスカリオは頭を抱えてしまった。
イスカリオは、ルリの爪を剥がている。その度に艶のある声を上げる彼女は、どう見ても苦しんでいる様子はない。
「苦しくないのですか?」
「痛いですわ。イスカリオ様ったら、お父様の前で求めてくるなんて……」
「そうですぞ。そういう事は二人きりですべきですな」
「“これ”そういう扱いなんだ……」
早速だが、イスカリオは自信を失っていた。
痛く、苦しく、しかしそれを嫌ではない生き物がいるのだ。人類の常識では測れない生命との意思疎通を、三年という期間がありながらも侮っていたのだ。
「落ち込んでいますの?」
「イスカリオ殿はなぜこんな事を?」
「はぁ……」
不思議な気分だった。
イスカリオにとって、本当の手詰まりだ。今までは、頭を抱えながらも何らかの手があるのではないかと思えたが、事ここに至って完全に次なる一手を打てずにいた。
だからだろう——
「殺さなくちゃいけなくて……」
——魔族を相手にして、そんな事を言ってしまったのは。
「殺す……とは、我々の事ですかな?」
「そう、です。貴方達を殺すように指示されてしました。でも……なんか死なないし……」
「我々の一族で、寿命以外で死んだ者はおりませんなぁ」
「ああ! それで墓場があるのか! ……ちなみに寿命ってどれくらいですか?」
「父は百三十八歳でしたな。結構早死にでした」
「えぇ……」
縛られながらもいつもの調子を崩さないエーデルリッチ卿に、逆に調子を崩されている。イスカリオは、すでにほとんど諦めてしまっているのだった。
「イスカリオ様に指示をした方というのはどなたですの?」
「父親だよ。書類上の」
「伯爵ですかな? 実の親子ではなかったのですか?」
「まぁ、色々事情がありましてね。俺はあの人の決めた人間を殺す仕事をしているんです」
「では仕事は仕損じていませんな。我々は人間ではなく魔族ですからな」
「まあ! お父様、お上手ですわ!」
「超呑気!」
指から血を流しているとは思えないほどの気楽さで話すルリに、イスカリオは驚いてしまう。あまりにも自分の常識と異なる相手を前にして、形容し難い感情が湧き上がっていた。
「これ、解いてもらってもよろしいかしら?」
「どうしようかなぁ……。確かに縛っとく意味ないけど、解いたら俺お終いだし……」
「お終い? 何かあるんですかな?」
「いや、だって目的バレたし……いや、バラしたんだけど」
「でも私達が秘密にしてれば大丈夫ですわ!」
「…………」
信じられない言葉だった。
目を見開いた。耳を疑った。泡を食った。腰を抜かした。面食らった。動揺した。言葉が出なかった。衝撃を受けた。仰天した。度肝を抜かれた。
たっぷりと一分ほど固まって、それからようやく瞬きをする。そこからさらに一分経ってから、自分が呼吸をしていない事に気が付いた。
「……いや、私は貴方達を殺そうとしたんですよ?」
そう言えたのは、四分も絶句した後だった。
「私のような人間を信用しては……」
「でも死んでいませんわ?」
「そもそも殺せませんからな」
「そういう問題ではなく……。そもそも、伯爵が許さないでしょう。命令を果たせなかった私は、きっと処分されてしまう」
「おや? それこそ問題になりませんぞ?」
「え……?」
肌が青白く、腹が膨れていて、髪はまばらで、目は血走っていて、中年男性の水死体のような見た目のエーデルリッチ卿は、しかし自信に満ちた顔で微笑みかける。すでに死んでいるかのように見えながら、それでいて高位魔族であるが故の頼もしさが確かにあった。
三年。イスカリオが共に過ごした中でも時折垣間見えた、その地位に相応しい力のあり方。それがまさか、自らの命を狙うイスカリオに対して行使されようとしているのだ。
「イスカリオ殿はすでに我が家の一員ですな。他国の貴族に手出しなどさせませんぞ」
「え? え、え?」
「いなくなっては嫌ですわ。イスカリオ様」
「えぇ?」
「貴方は安心しておればよいのです。大切な跡取りですからな。邪険にはしませんぞ」
「わ、私は今までも多くの人間を殺してきました。裁かれるべき人間なのです」
「はっは! 人間の国がどうやって貴方を裁くのですかな? 魔国の者を人間の法で裁くなど前代未聞! 大変な条約違反ですぞ?」
「そうでなく! 私は悪人なのです! ルリさんも貴方も殺そうとした!」
「死なないから構いませんわ」
「我々はちょっと血を流すくらい普通ですしな。私の祖父母も若い頃は互いに殺し合って床に就いたものですぞ」
「むしろちょっとくらい激しい方が殿方として魅力的ですわ」
「おっと、お父さんは娘のそういう話を聞くのちょっとヤだな」
「あら、はしたなかったかしら?」
「…………」
慄いた、驚いた。人類との違いに。常識の違いに。
イスカリオの罪深さは、紛れもない事実である。そこに議論の余地はなく、なによりイスカリオ自身が認めるところだ。しかし、エーデルリッチ卿とルリはそれは人類の感性だと言うのである。魔族にあっては、その限りではないと。
三年。共に過ごしてなお、知らない事だらけだ。分かっていた気になって、実際には何も見えていなかった。
しかし、それは何も不快ではない。喉の奥、肺の間、その辺りから込み上げる感情は、何よりも温かにイスカリオを包んでいるのだから。
子供のように、よろこぶ事はない。やったーなどと、こえは上げない。しかし、彼は息を吐いた。浅く、長く、瞬きも忘れて。
「……私は、きっとまたあなたを殺してしまう」
それは、人類の中にあっては気が付かなかったろう自らの性だ。心の底から美しいと感じた事がなかったがために、気付けなかった自分の内側。もしもこのまま生きていようと、決して克服などできないだろう欠落。しかし、あるいは魔族にあってそれは欠けてすらいないのかもしれない。
「あら、それは素敵だわ。でも二人の時にしてくださるかしら?」
「わかりました……」
イスカリオにとって、それは軽い言葉ではなかった。
今まで同じような言葉を幾度となくしてきた彼にとってすら、これ以上になく重要な意味を持つのだ。
しかし、躊躇う事はなかった。彼は、ようやく居場所を見つけたのだから。