第4章 完成した絵
絵が完成した。
フランソワーズ・ピノンは俯瞰して電子キャンバスを眺め、その出来えに満足した。じっくり見つめ、大きくうなずく。
絵の中で、裸体の藤倉仁吾は逞しい筋肉を躍動させていた。背景のスタジアムも彼のために存在するかのようにシュールな歪みをもって描かれており、全体として迫ってくるような威圧感を発していた……。
早く仁吾に見せてあげたい……。
そう思うと、フランソワーズはいてもたってもいられなくなった。
来てもらおうかと思ったが、それだと仁吾の都合のよい時になってしまいそうで、いつになるかわからない。それよりも一度はこちらから訪ねていこうと思った。
これまではモデルになってもらって絵を描くという作業が伴っていたからアトリエに来てもらっていたが、今回は完成した絵を見せるだけなのだから、アトリエの外でもよかった。
電子キャンバスを折りたたんだ。キャンバスは空中に仮想的に作られているので、実体はない。棒状の表示装置だけになったそれを持ってフランソワーズはアトリエを出た。
外はすでに暗くなっていた。
絵を描いていていつも思うことは、時間の感覚がなくなってしまうことだった。つい夢中になってしまい、気がつくと明け方になっていたということだってよくある。食事さえせず熱中する。
時計を改めて確認してみて、真夜中ではないことを知る。
――今から行っても問題ないだろう。
フランソワーズは自宅横のガレージに置いてあるクルマに乗り込んだ。移動用にと数年前に購入した小型のダイハツだった。オートバイのようなタンデムシートの二人乗り。が、だれかを後部座席に乗せたことは一度もない。
車体は自分でデザインした絵を貼ってもらった。広い駐車場に停めてもすぐわかるようにと思ったからである。
仁吾の家がどこにあるかは球団から聞いて知っていた。絵のモデルをしてもらうわけであるから、それぐらいの個人情報はもらえたのである。
起動スイッチを入れ、クルマを出した。
仁吾の家は近かった。
アメンテに住む地球人は約二千人。そのほとんどが地球人街に居をかまえていた。
フランソワーズと仁吾も地球人街に住んでいた。
ほんの五、六分ほどで着くはずだった。クルマは自動運転なので、初めての場所でも迷うことはない。
運転に集中する必要がないから、クルマに乗っている最中は、窓外を流れていく街の景色を眺めている。
夕暮れの市街に灯りはじめたイルミネーション。通りを行き交うクルマも歩道を歩く人も多く、雑多な喧騒にあふれていた。だれもがなにかしらの目的をもってどこかでなにかをしようとしているのに、ただ街を賑やかにするという役目をもってそこにいるかのようだった。
昼間とちがう華やいだ街の雰囲気が、フランソワーズの心をくすぐる。
街にきらめく灯りが、自分の未来をも照らし出しているように感じた。オシャレなカフェも、高級ブティックも、ファストフード店でさえも、なにかもがハッピーな空気に彩られて……。
信号待ちで止まったとき、車幅が狭いのをいいことに、クルマの間をすり抜けて前へ出た。
かっこいいフェラーリが前のほうで信号待ちをしていた。
仁吾が乗っていたクルマと同じだな、と思った。アトリエに来てもらったとき、外に止めてあったのを見たことがあったので、自然と目に付いた。
さっと近づいたときである。運転席に仁吾がいることがわかった。
――なんていう偶然!
フランソワーズはときめいた。
ちょうど会いに行こうとしていたところ、偶然街中で会うということに、運命のような思いがつきあげてきた。
が、クルマの窓を開けて話しかけようとしたときだった。
フェラーリの助手席にパーティドレスを着た若い女の姿を見つけ、言いようのないショックを受けた。
――だれ?
猛烈に知りたくなった。
かといって、直接本人に確かめる勇気もなかった。
信号がかわった。
フランソワーズはこっそり後をつけた。
仁吾に気づいた様子はない。
しかし、とフランソワーズの脳裏に絶望的な考えが大きく湧き出してきて、それは悪い方へ悪い方へと流れていった。
あれはデート最中で、となりにいるのは恋人――もしかしたら婚約者かもしれない。
通り過ぎていく街の光景も目に入らない。派手なカジノのネオンも、明るすぎるショッピングモールも。
やがて仁吾のフェラーリは、一軒のケーキ屋に入っていった。駐車場に入っていくのを、やや離れた路上からうかがう。仁吾に気づかれないように、こっそりと――。
仁吾と女がクルマをおり、親しげに会話しつつケーキ屋に入っていくさまは、どう見ても普通の関係ではない。
ということは……。
フランソワーズはクルマのスピードをめいっぱい上げてケーキ屋の前を通り過ぎると、そのまま自宅へと戻っていった……。
絵は、完成した……。
しかし、達成感がぜんぜんなかった。絵が完成したときには確かに達成感はあって、未来や世の中がすべて明るく見えていた――ような気がしていたが、あれは錯覚だったのだろうか……。
そう思えるほど、今は気分が違っていた。地の底へ落ちてしまったかのような、果てしなく暗い気分……。
これまで、自分ががんばれば、努力すれば、なんでも願いがかなうと信じてきた。絵が認められ、これからどんどん知名度をあげていこうとしていたし、向上心高く、永遠の成長を自分自身で期待していた。
多少なりとも困難に直面することはあるだろうが、それを乗り越えていけるだけの反骨精神と実力はあると確信していた。逆境でさえ糧にして、恐れるものはなにもない。
しかし――。
この敗北感はどうしたことだろう……。
藤倉仁吾……。
フランソワーズは、仁吾が誘いを受け入れてくれるものだと思い込んでいた。これだけの絵を描けたのだから、情熱が伝わらないはずがない。仁吾が即答を避けたのは、ただの戸惑いであって、それ以上の理由はないと露ほども疑っていなかった。
ところが、そうではなかったのである。
ひとりアトリエで膝をかかえてうずくまっていると、ますます気分が沈んだ。これからなにをどうすればいいのか、空っぽの心に浮かんでくるものは、なにもなかった。
窓の外は明るくなり始めていた。
結局、一睡もできずに朝を迎えてしまったのである。
このままではいけないと、頭の隅で思ってはいるものの、動けない。
完成した絵をグレートロケッツ球団に持って行って見てもらわなくてはならない。買ってもらわなければ、描いた絵に値打ちがつかない。
やっとそのことに思考が及んだ。
しかし、まずはそれをしなければ、と理性が働いてもなおまだ気分は晴れず、義務感だけで体を動かさざるをえなかった。
食事ものどを通らず、気がつくと、すでに午過ぎになっていた。
ほんの少し口をつけただけで食べ残していたコーンフレークを冷蔵庫にしまうと、球団に連絡し、絵を見せにいくと伝えた。
「そうですか! それは楽しみです!」
と球団マネージャは異常なほど高いテンションで明るく応対し、それが逆にフランソワーズの気分をいっそう暗くさせた。
化粧もほどほどにクルマに乗り、球団事務所に向かった。
クルマに乗っている間も、ときどきうわの空になっている自分に気づいた。クルマが自動運転でなかったら間違いなく事故を起こしていただろう。
球団事務所に着いた。
駐車場にクルマを入れ終えて、ふと、「もしも」と思った。
――仁吾と、仁吾といっしょにいた女が結婚の約束をしていたなら……。
もはやフランソワーズに、仁吾との間を発展させる余地はない。
事務所に入ると、さっそくマネージャが応対に出てきた。応接ソファにフランソワーズをすわらせると、向かい側に腰をおろし、
「いつ完成するかと楽しみにしていたんですよ」
マネージャはうれしそうである。
「球団事務所はシーズンオフのこの時期、来期に準備にかかりだしてましてね、カレンダーやら選手のグッズの企画が走り出そうとしています。フランソワーズ・ピノンさんの絵を、われわれとしても大きな話題になれば、と考えておりまして……」
メトロノームのように首を左右に振りながら、ワホッコ人のマネージャは、
「それで……」
と、フランソワーズの泳いでいるような視線に気づいた。
「どうかされましたか?」
完成した絵をてっきり見せてくれるものだと期待していたのに、いつまで待ってもフランソワーズにその気配がない。
「絵は……?」
「ああ、そうでした」
フランソワーズはハッとして、電子キャンバスをカバンから取り出す。
手探りで電源を入れると、完成した絵が空中に出現した。普段、絵を描くときの半分以下に縮小表示されていた。
マネージャはそれをしげしげと見つめた。二本の尻尾がソファの背をパタパタとたたく。
「ほう……。これはたいしたもんですなあ……。ポスターの原版として使えそうだ。素晴らしい出来栄えです」
そう感想をもらすマネージャの横で、フランソワーズはべつのことを考えていた。
――いったい彼女は何者なんだろう? 以前から仁吾とつきあっていたの?
仁吾をモデルに選んだとき、フランソワーズは、自分が仁吾に対しモデル以上の感情が芽生えるとはまったく想像していなかったから、その段階で、恋人の存在を確かめるような言動は思いもつかなかった。だが今となっては、あのとき……と思わずにはいられない。
「ぜひ、球団として、買取を申し込みたい。買取価格ですが……」
「えっ?」
マネージャの饒舌がしっかり耳に入っていなかった。
「ちょっと、待ってください」
フランソワーズは先走ろうとするマネージャを制した。
すぐここで売るつもりはなかった。画商にも見てもらい、専門家の目で値をつけてもらってからである。
かといって、今すぐにそれをする気になれなかった。値段交渉は大事だ。今の精神状態ではまともな交渉などできそうにない。
「すみません。まだ仁吾にも見せていませんし……。今日のところはこれで失礼します」
電子キャンバスのスイッチを切り、あたふたと立ち上がる。
あの……、と戸惑うマネージャを残して球団事務所をさっさと出た。
このままではまずい。どこかで気分転換しよう。雑念があるままでは、何事も思うようにいかない。
携帯端末で検索した。夜中まで営業ている店に向かった。
もう夕方だった。今日は、いやに時間のたつのが早いように思えた。
クルマに検索結果をインプットし、その店に向かった。