□後編
そして、ある冬の日のこと。
爪の角を有効に使うために、左斜めに構えるのだという話を聞きながら、わたしは「どうしてわたしは、この人と許嫁関係にあるのだろう」とか「どう考えても不釣り合いだ」などと余計なことを考えていたのですが、それが不注意につながったのでしょう。
気付いた時には、小指の先にピリッと鋭い痛みが走り、雀の舌ほどの小さな切り傷から、柘榴の粒のような血が滴っていました。
突然の出血にオロオロと気が動転していると、不意に彼に手首を掴まれ、そのまま小指を口まで持っていかれ、指の付け根へ垂れそうになった血を吸い取られました。
一種の妖艶さを感じなくもないその仕草に、わたしは頭の中が真っ白になってしまい、暫し硬直してしまいました。
徐々に興奮が冷めた頃、彼はようやく手を離してくださいました。
血が止まっているのを見て安堵した刹那、わたしは、いつもお人形さんのように澄ましている彼が、人間くさく破顔一笑したのを垣間見てしまいました。
今にして思えば、わたしは、この瞬間に恋に落ちたのでしょう。
そのあと、女中さんに脱脂綿と消毒薬で手当てをされながら、こんなにわたしのことを気に掛けている相手につり合わないなどと卑下するのは失礼だと考え直し、それきり、彼が許嫁であることを受け入れることにしました。
彼の方もまた、許嫁であるわたしが洋裁学校に通い、西洋文化に憧れていることを認める気持ちになったようで、結婚して同居するようになってから、こんなことがありました。
それは、ある春の日のこと。
夜なべして針仕事をしているうちに、眠りこけてしまったことがありました。
そのまま朝日に急かされるように目が覚めると、昨夜、彼に内緒で仕立てていた紳士物のシャツが見当たらないのです。
居間に行くと、シャツとスラックス姿の彼が、鏡の前でネクタイと格闘していました。
わたしが「背広、お持ちだったんですね」と声を掛けると、彼は「羽織袴にシャツを合わせるのは書生くらいだからな」と、どこか照れ臭そうにあさっての方を向きながら言いました。
洋装の彼は、活動写真の俳優のように見えたものです。
*
そろそろ退屈する頃でしょうから、想い出話はこれくらいにしましょう。
あんまり長々と主人の話をすると、天国から「惚気るな」と言われそうですからね。