3.Harrow World[後]
「そんな怖いこと言わないでーかがみん? 眉間の皺が戻らなくなるゾ☆」
「ほんっっとう、気持ちわるいから止めてください」
開店休業。がらんと静まる食堂の一角で奏達は開戦前の腹ごしらえをしていた。
程よく脂の乗った弾力のあるマグロに、滑らかなアボカドは白い丼に映える黄緑色。今にも形を崩してしまいそうな柔らかさの半熟卵をスプーンでつつけば、金色の黄身が全てを包み込んで最高の作品にするのだ。
生まれて初めてマグロアボカド丼を食した奏は静かな衝撃を受けていた。ゴマ醤油に漬けられたマグロが噛めば噛むほど旨味の出るもちもちとした食感だったのもそうだが、一番はこのアボカドである。
口の中でクリーム状になったアボカドは甘く、体温でシルクのようにとろけて濃厚な黄身と混ざり合うのだ。
もう御託はいい。とかく美味い。美味いと掻き込んでいたら充がソーダ片手に『ね?悪くないでしょ〜』と半分まで減った丼を覗いて笑う。
ふと、ご馳走にして来た缶詰めのスープはそんなに美味しくないのかもしれないと奏は思った。妙に切なくなって来るが…まぁいいだろう。
さて、あれから本の山を漁る内に分かった事が二つある。
まず一つ目「流星災害跡地は高電磁シールドによって隔離されています。現在まで怪物が外に出ていないのは初期段階で混乱せず正しい行動が出来たから。言わば生物災害の封じ込めに成功した、という事ですね」
小難しい用語がつらつらと書き連ねてあり奏はもう説明を放棄していたが、要約するとつまりはこうだと嘉神は言う。ある程度の予想はついてましたが、と青い冊子を開き件のページを指した。
そして二つ目「僕達の持つ特殊技能には身体に異常を来す反作用があります。オーバースペックを起こせば簡単に崩壊する。DNAの組成が変わった所で脆い事には変わりが無いんだ…でも、だとすると……」
爪を噛む嘉神が呟く語尾は徐々に小さくなり深淵へ消えていく。芳しい湯気を立てる茜色の紅茶に口を付けた表情は苦々しく、角砂糖を一つだけ入れた。
いまいちピンと来ない反作用という単語に、奏と充は同時に小首を傾げる。
「「と、言いますと?」」
「力を使い過ぎれば命を落とすという事です。例えば柚木さん、君は念力の使用後に体調を崩していたりします?目眩は?怠さを感じてますよね?」
眉を寄せる嘉神は奏の眼を見ながら手元の冊子を無意識の内にめくる。はっきり言って今まで忘れてたが、あぁ、確かそんな事もあったな。と、近々の記憶がぼんやり頭の片隅で再生された。
カジノ場では血を吐いて倒れたし、相賀との戦いで酷い目眩や血管の切れる音を聞いた気がする。言われてみれば念力を使った後決まって頭痛に見舞われていたり、知らぬ間に鼻血を出していたような気もする。
だが、今もこうして絶好調な奏はそれを『あー、お腹いたいなー』ぐらいの日常的な事象にしか思ってなかったのだ。
怪訝に見やる嘉神に、アヒル口に両手で頰を包んで非常にわざとらしく眼を瞬かせる。
「えー?心配してくれてるの?嘉神君やーさーしーいー。ぇえ?もう、ツンデレなの?ツンメガネなの?」
鼻に付く裏声で奏は言う。
「真面目な話です。強い力を使えば同じだけ肉体に反動が出ているんですよ!……君は内側から破裂して死にたいんです?十二指腸を僕達に掃除させたいんです?」
「そんな怖いこと言わないでーかがみん? 眉間の皺が戻らなくなるゾ☆」
「ほんっっとう、気持ちわるいから止めてください」
目潰し。
ーー楕円形のオムレツをスプーンで一直線に切り開けば、大振りな具材が流れるように出て来てブラウンソースと混ざり合う。半分に割られたマッシュルームとふわふわの卵をすくって口に運ぶと、嘉神の眉間に刻まれた皺がようやくなだらかになった。
悶え転げる奏と入れ替わりに充が青ざめた顔色で口元を抑える。
「うぇっぷ……勘弁してよ、かがみん〜しばらくソーセージ食べれない」
肉汁たっぷりジューシー。腸詰が乗ったプレートを遠ざけ、弾ける炭酸で迫り上がる想像と吐き気を胃の腑の底へ流し込む。空となったグラスに赤いストローで悪戯に息を吹きかける充は、ピチピチギャルから死んだ魚の如く澱み切った目に戻ったその人に、何故か安心するのだった。
足を組み、深く背にもたれ頰を突く奏は抗議の意味も込めて唇を尖らせる。
「んなの御免に決まってんだろ。あとカワイイって言え。『キャー奏君カワイー』ってほら、キャァワァイィイィだァるぉがァ‼︎ あぁ⁉︎ 」
「やめて! カワイイ子はガンつけないから! 可愛いをカツアゲしないから! 」
殴りかかろうと身を乗り出す奏を、充が羽交い締めにして押さえつけた。
鼻息荒くジタバタ暴れるその人を横目に右京は鋭い目を向け、呆れた風に眼鏡を押し上げる。
「では、その素晴らしい特殊技能に頼り切らない戦い方をするべきですね。検体になりたいなら大歓迎ですが」
「はいはいありがとうご忠告どうも、以後気を付けますとも。……くそ……このイヤミメガネが……」
ぼそり。
への字に曲げた口から零れ落ちた本音は、思いのほか声量があって奏自身も驚いていた。
スッと細めた瞼の奥、先程より剣呑な光を増した右京の耳には奏がうっかり呟いた小言が確実に届いている。
「ーー何か言いました?」
「いいえー何も言ってませんよ。嘉神さんステキ! 尊敬してる! 」
軽薄な言動は慎むべきだ。命が惜しければ。
何を今更、と思うが、今まで出会ってきた人間とは違う殺気を感じ取り、得体の知れない怖気が背後から迫っている気がした。
奏が最初に出会った異能者、秋声も似た空気を。……人間とも動物とも言えない、喩えて言うのであれば『目標を持たない得物』をその手に得ているような、そんな危ういプレッシャーを右京からも感じるのだ。
異能者特有の、人間とは違う何かか。
……それとも。
(いや、無駄に神経逆なでして、どうすんだよ)
あの奇妙な感覚は思考を巡らせる内にとうに消え去っていて、奏の前にはむんと不機嫌な表情を浮かべた右京が腕を組み立っている。
そこへ突然、空気の抜けた風船みたいに力の無い、吐息混じりの間延びした声が響いて三人は食堂入り口へ振り向いた。
「うぃ〜す。超眠ぃ〜すげぇ腹減った〜誰でもいいから誰か褒めてくんねぇ」
やって来た環が大きな口を開け欠伸をする。涙を蓄えた白目部分は赤みがかり、目の下で立派に成長したクマと、ボサボサになった髪の毛で彼が徹夜明けだと言わずとも十分伝わっていた。
千鳥足の環を心配する傍らの同行人、大我は自らの肩を貸そうか、手を差し伸べるべきか未だに悩んでいる様子で付かず離れずの距離を保っている。
「おっつータマ〜、お、大我氏も一緒なんて珍しい。ソーセージ食べるかい」
「マジか、ラッキー……ん? なんかあった? 」
まだ温かい皿に手を伸ばし、遠慮なくモリモリ頬張る姿を充は生暖かい何とも微妙な笑顔で見守っていた。
とてもじゃないが、さっきまで内臓デロデロ話をしていたとは言えないもの。それでも漂う、生臭い空気を察した環は件の二人にフォークをゆらゆら向けて聞く。
「「別に何も」」
一言一句違わず、同時に発せられた声は寝ぼけ眼をこする環の耳に届いた。
大音量で。
気まぐれにフォークを齧る環を尻目に、また険悪な雰囲気に戻った二人を大我は目を白黒させ遠巻きに眺めていた。
「……ま、どうでもいいけど。そんじゃ御幣島さん、お願いしまーーんぐぉおお」
秒でぐっすり。糸が切れたように眠りについた環から突然続きを任され、大我は目に見えて慌てている。
「え、ちょ……斎宮⁉︎ 嘘だろ……しゅ、出動の時間だ。ごほっごほっ、スカーレットアルファ、デレクタブルエコー」
焦って声が裏返りながらも続ける。
その場にいる皆から……いや、環以外の視線が自身へ一点に集中し、気まずそうな表情で大我は言葉を絞り出した。
「式見塚でまた、怪物が出たんだ」
………
………………
アリーナの中央に位置する、大小様々な光の粒を宙空に讃えるホログラム機構を備えた円卓を、食堂から来た五人と、遅れてやって来た内海の計六人で囲んでいる。
あの後すぐ目を覚ました環は、いそいそとヘッドセットを肩にかけ、腕の中のタブレットと睨み合いをしていた。オレンジ色に塗装された道具は自分専用にカスタマイズされた物だと彼は自慢気に親指を立て笑う。
しかし。
奏は顎に手を当て考える。以前の戦闘の際、"正体不明の怪物"をこの手で、全て倒していた。課せられた任務は達成した筈だった。社長の口からもそう聞いていた、なのに。
(また出て来た? 逃してたってか? )
まさか? あり得ない。
ーーいや、あり得ない事なんて、十年前からこの世界に存在しないのか。
ホログラムが式見塚の退廃した街並みを形成する。
「準備はいいすか? 作戦を始める」
そう言うと、環は唇の端をニィっと上げた。
「式見塚エリアに再出現したオルトロスの数は全二十体。攻撃性を表す値はクラスI、マップを確認してもらえれば分かるけど前とは違って出現域が広範囲に散らばってる。式見塚全域が戦闘地域として開放されたんだ」
全十五区画。
碁盤の目に区切られた小さな街を、環が両手で撫でつけ拡大する。
その中の一つに見知った風景があった。南西のはずれ、廃墟のビルが立ち並ぶ第一区。
奏は怪訝に眉をひそめ、流れる映像を掌で止めた。
「は? つまり、前俺達が行ったのはエリアの一部だけだったのか? 」
「らしいな。こう言っちゃあれだけど、柚木達が怪物を倒す以前は他エリアに出現が確認されてないんだよ」
「行動パターンが変わったと」
「殲滅後のデータはここに無かった。奴らの復活も行動の変化も今の俺たちには全部、変則的な出来事なんだ。あー、参ったな……」
「もう一度全域の調査探索をこなし、正体不明の怪物を掃討すれば良い話でしょう。斎宮君が頭を抱える必要はないのでは」
右京からは珍しい、フォローの言葉が環にかけられた。「それに……」右京はもっともらしい理論を付け加えて言う。
「情報が少ない現在、考えるより動くのが先です。今回殲滅をしても同じ事の繰り返しになるかもしれない。僕達がすべき事は二度と現れないよう怪物を"絶滅"させなければ」
「あん? 増える前にやればいいだけーー」
「ソレが出来てたら僕達は今ここに居ませんよ。……何の確証も無い、ただの空論に過ぎませんが怪物は"巣"を有していると僕は考えています」
「巣、なぁ……寝込みでも襲うつもりか? 」
「怪物に睡眠の概念があるのか不明ですがいい考えだ。策の一つにしてみては?」
売り言葉に買い言葉。
ようやく収まりかけていた腹の虫が暴れ出し、今度は内海が奏を羽交い締めに抑える。
全くこの男は、嫌味な言い方しか出来ないのだろうか。
やはり右京とは反りが合わない。奏は心の中で思い切り舌を出した。
「二人共やめれ。嘉神の考えも一理あるから頭に入れといた方がいいんじゃない。多武峰は? なんか意見ある? 」
「ないっ」
充は食い気味に首を横に振る。
一点の曇りもない綺麗な瞳だった。
「なるほど了解。あ、言い忘れてた。追加モジュールの使用が許可されたんで着けてって。積極的に着けて」
無造作に放り投げられた腕時計を手に取り、片眉を上げる。まるで……ずっと昔に作られ放置されていたような、昭和レトロな無骨さを感じた。
「第一から第三区画に多武峰。第五から第八区画に嘉神。第十から第十五区画を柚木が張れ」
色分けしたアイコンを街中に刺し、環は指示を続ける。
「御幣島さんと内海は三人の援護中心に回って。多分一番大変だと思うけど、まぁ二人なら大丈夫でしょ」
「……了解」
「わかった! がんばるね! 」
腕を組み伏し目がちな大我と、決意に満ちた表情の内海。二人は対照的な反応を見せた。
「帰還ポータルは三十分後に再起動される。君達の任務は怪物の掃討、調査だ。最優先はただ一つ、絶対に死ぬなよ。……ってカッコよくない? 今超キマッたわ」
「はいはい、オペレーションも心配しなくていいんですよね」
「ん? 当たり前じゃないの。ーー第二ターミナルから転送する。準備はいいか」
通信室からターミナルへ。転送を待つ五人に神経回路を通じ、音声が送られる。
パワードスーツの親和性は高水準で安定していた。細胞の特異性に変化は見られず、心拍、呼吸、脳波を可視化したパラメータは全て基準の範囲内。肉体に問題は無い。
中心で回る巨大なファンが一定の間隔で影を作り、奏は深呼吸して辺りを見回した。
皆、それぞれの得物を手に取り戦闘態勢に入っている。内海や大我は以前と変わらない物だが、さて。あの二人はどのような戦い方をするのだろうか。
緊張した様子をこれっぽっちも見せない充が背負っているのは……鎚矛のような棒だった。
ゴーグルの下、眉間に皺寄せる右京にちょっかいを出しつつ、奏の視線に気づいて手を振る。
『ーーハロー、ハローハロー。柚木君? "コデックス"の調子はどうかね』
支給された腕時計型の機械から、環の音声通信が入った。展開された画面は真っ黒で、真ん中には白字で『_No signal_』と表記されている。古びた外見から想像が出来なかったが、ビデオ通信が可能な代物だったとは……!
「コデックス? クソダセぇデザインにしちゃイイ名前だな」
『バカ柚木。それはマップ展開、ホログラム通信、そして軽いシールドを発動出来る優れものだぞ。倉庫にあったから持ってきたんだ、見た目より使えんのよ。ーーほらな』
瞬きの間に空気が、匂いが、景色が変わる。
今回は霧の無い、晴れた式見塚が五人を迎えてくれた。コデックスから表示されるマップが自分達の現在地を教える。
南西の方向、第一区画。人の気配を嗅ぎつけた"正体不明の怪物"オルトロスの群れが、早速奏達の周囲を囲んだ。
腰に掛けていたT字の剣柄を振り下ろし、射出された鈍色の刃を肩に置いて、奏は啖呵を切る。
「行くぞ! 」




