2.No Code[後]
「大我さん、これ…奏くんの…」
「…アイツ…!待ってくれ!どこに居る柚木!」
「…空、走ってるよ…?」
「なっ、何⁉︎」
『神経シンクロニシティ完了、血中のV.I.R濃度及びバイタルは正常値を示しています。身体に異常はありません。訓練を続けて下さい』
イヤホンを通じて合成音声のアナウンスが組み手をする2人の脳内に鳴り響く。
大我が繰り出す掌底を受け流し、肩口を掴んで脇腹に何度か膝を入れる。
攻撃をもろに受けよろめいた足元を念力で掬い上げ、重心が不安定になった相手を奏は躊躇なく背負い投げた。
「ハァっ!また俺の勝ちだな」
「ぐっ…柚木、お前本当に一般人なのか…?」
「毎日スムージー飲んでホットヨガ行っとけばそんくらい誰でもなれんだよ。休憩」
「巷の女子って…戦闘力高いんだね…」
ぐったり倒れる内海が納得した表情で瞼を閉じた。
ーー先日から始まったアリーナでの訓練は多岐に渡る。
体力作りの基礎から実戦を想定した武器を所持しての立会い、異能の制御方、果ては医務行為までを一から全て身体に叩き込むのだ。
「疲れたー!あ、ぼくドリンク持ってくるね」
「頼む。オレは動きをチェックしておこうか…」
平和な国で育ってきた2人は戦闘や能力の使用経験は皆無に等しく、訓練に苦戦を強いられているようである。
戦闘能力など皆無、言わばド素人集団が戦場へ赴いた所でせいぜい死体の山を作って終わりだと奏は思っていた。
(その時になりゃ、どうせ逃げるに決まってる)
いくつもの死線を切り抜けて逃げて来た終着地が社長と名乗る謎の男にお遊びに組まれたチームの一員とはなんとも情け無いと空笑いを浮かべる。
亜麻色の髪を一つに結い、奏は剣身がすっぱ抜かれて柄だけの剣を戯れに手に取り眺めた。
「御幣島、この剣壊れてる」
「ん?あぁ、それはだな…」
「"展開式ブレード"と申します。収納された刃に指を切り落とされぬよう、御気をつけ下さいませ」
タブレットを小脇に抱えた八雲がフロア二階からコツコツと下駄の小気味よい足音と共に降りて来る。
展開式とは如何な物だろうか。これまでに様々な武器を実際に見てきたという自負がある奏も初めて拝む長物であった。
当然と言えば当然だが、どう起動したらいい物か分からないのでへたり込む大我の目の前で柄をくるくると回し悪戯っ子のように笑う。
T字型のガラクタを投げる内、掴み損ねた柄の内部から歯車の機構音と鈍色の刃が飛び出し、神妙な面持ちで自身の端末を覗き込む大我の右耳を掠め髪の毛を散らした。
[カチッーージャキィィィンーー]
「あ、悪いやっちゃった」
「ひ、ひぃいっ…!」
肩を割る寸前でキャッチされた刃を見て大我はガタガタ震えて腰を抜かす。
「…御気をつけ下さいませ」
八雲は呆れてまつ毛を伏せ、それ以上何も言わなかった。
……
………
タブレットからホログラムスクリーンへ情報が送信され、直後にとある指令が三人に下される。
「"スカーレットアルファ"、実地任務の依頼です。場所はカナガワ県、式見塚。対象の攻撃性を示す値はクラスI、犬型であり名称をオルトロス。四体確認、エリア内から殲滅せよ」
殲滅対象、正体不明の怪物。
情報が少ない今、それ以上の何と表現すればいいのだろうかと奏は考えあぐねるが、思考はすぐに別の物へとすり替わった。
…鮮明に映し出されるその画像に生物的嫌悪を抱き、足首を掴み内臓の隙間からせり上がろうとする不快感に奏は不愉快に顔をしかめる。
ぶよぶよと柔らかそうな質感で構成された物体は、濃い墨汁をぶち撒けたような粘性のある表膜で辛うじて一つの個体として存在している。
夜が溶け出し狼になった"ソレ"は、石榴のように真っ赤な目を幾つもこちらに向け脳髄が凍り付くほどおぞましい顔でニタリと笑っているのだった。
ただ単純に気持ち悪いと思うだけでは肌が粟立ち、肺がのたうち回る事など早々無いだろう。
それだけではない何か…もっと奥底に眠る生物としての本能が、奏や二人に対し警鐘を打ち鳴らす。
ーーアレは、危険だ。
「か、怪物とは聞いてたが…まさか本当にこんな…恐ろしい姿だったとは」
「うぅ…夢に出てきそう」
大我は血の気が引き、内海は肩を抱えプルプル震える。
「…夢じゃないのか」
「……?奏くん?」
追憶に火の粉が弾け、燃え上がった炎は痛みを伴いあの日へと奏を誘う。
『ぅあああぁぁああああぁぁぁあ‼︎』
業火に包まれる我が家で蠢いていたのは何だった?アレは人じゃない、だが人の形をしていた。
…黒い、黒い、どこまでも漆黒な体で血のように真っ赤な目が幼い日の少年を歪んだ悪夢へ捉え、もう二度と離しはしない。
怪物だ。あの日からやはり存在していたのか。アレは何だ?何故居る?生きている物を襲うのなら、俺は何故今も生きている?母は…アレに、殺されたのか。
誰も答えを知らない、止めどない疑問が螺旋状に連なり視界をグルグルと掻き混ぜ酷く澱んだ色味へ濁らせる。
何もかも壊してこの世から消え去ってしまいたいような衝動は、今もなお背中に残る傷痕の鈍い痛みが搔き消し彼の意識を現実へと引き戻した。
鋭い目付きで前を見据え、奏は八雲へ言う。
「なぁ、その任務は俺が受ける。それなら俺も早く自由になれるしコイツらは戦わなくて済む。互いに得をするんだ、いいだろ」
「為りません、個人での任務受注は禁止されております。そして此れは、貴方ではなく"スカーレットアルファ"の首長である御幣島様が御決めになる事でございます。悪しからず」
殺気すら感じさせるナイフのような視線を身に受けても毅然と対応する八雲は大我を手で指し丁寧な一礼をした。
突如として注目を集めた当人は咳き込み、青ざめた表情で無理矢理笑ってみせる。
「え?あっ、ごほっごほっ!…ふっ…そうか、やはりオレがリーダーを務めるに相応しいという訳か…見る目があるじゃないか」
「ハァ⁈なんで寄りにも寄ってコイツがリーダーなんだよ!」
「社長の一存でございます」
そしてまた一礼。
どこまでも事務的な態度を貫く八雲に奏は噛みつき続けるも、機械が返答したようにまるで手ごたえを感じない。
もはや時間の無駄と感じたのか八雲は会話を一方的に切り上げ、任務受注のセクションを次へと進めた。
「受注後はターミナルへ向かい其方で武装をお済ましになりましたら、その場でお待ち下さいませ。では私は一度失礼いたします」
「待てっておい!…聞いてねぇのかよ」
「諦めろ、八雲はそういう奴なんだ」
水面を滑るが如く移動する白い影を見送り、大我は鬱々とため息を吐く。
アリーナから通路は八つに分かれており、その内の中央部で閉ざされていた扉がフシュウと空気が抜けたような音を立てて奏達に口を開いた。
ターミナルへと続く会議室と同じ白色を纏った長い廊下は誘導灯がぼんやり明滅を繰り返し、一層無機質に三人を飲み下す。
革靴の足音だけが響く中、不意に開けた視界の先に広がる空間に複数のドアが立ち並んでいた。
「あ、これ、ぼくの部屋ってことかな?奏くんと大我さんの部屋もあるよ」
内海が指差すプレートにはローマ字表記でそれぞれの名前が記されていた。
一見するとアパートのようだが、ドアノブが無い為にどこか違和感を覚える。
奏は自身のネームプレートが掲げられた扉の前に立ち、目線の高さに飾り付けられた青い宝石から発せられるレーザー光に眩く目を細めた。
[ジーーーーッピピッ、カシャン…]
網膜認証で開いた扉の内部は、さながら大国の軍が有する武器庫であった。
潤沢に用意された武器や防具が壁など部屋一面にディスプレイされているのは圧巻という他ないだろうか。
展開式ブレードを手に取り歩みを進める奏の目に入ったのは、橙色の液体に浸かった全身スーツだった。
「ははっ…すげぇな、本当…」
……
…………
重槍に身の丈ほどの盾を背負った大我が得意げに鼻を鳴らし、恥ずかしそうに眉を寄せる内海の肩を叩く。
重みにずり落ちかけた電磁砲を胸に抱え直し、内海はキョロキョロと自身の姿を見下ろした。
「ふっ、やはりオレは戦場が似合う男だ。そう思わないか」
「そうかなぁ…?ぼく、なんだかむずむずするよ」
体をよじる度、背骨を模した神経接続ユニットがカチャリと微かな金属音を立てる。文字通り全身と一体化したスーツは普段より筋力を高め、肌をつねれば痛みを通す不可思議な感覚であった。
慣れない感覚にもじもじする内海の背後から奏の不機嫌な声音が耳に届く。
「…お前ら、後悔しても知らないからな」
濃緋のパワードスーツに身を包み、腰には展開式ブレードの柄を帯刀した奏が挑戦的な態度で2人を見据える。
歴戦を制する強者のように泰然と着こなすその身のこなしに、ほう、と感嘆の息を吐いた。
「手練れか」
「ご用意が終わったようですね」
「居たのか八雲」
いつ現れたのか気配の無い相手に驚きつつ八雲がまた別の扉を手で指した。
深緑色に塗装された両開き扉のボタンを押し、ベルのけたたましい到着音で開いた扉を軽く押さえもう一方の手で入るよう促す。
「ポータルへご案内いたします。此方のエレベーターにお乗りください」
言われるまま乗り込んだ三人と八雲の間に会話は無いが、不思議な表情で視線を上へ泳がせた内海は背を向ける水先案内人に問いかけた。
「ポータル?車で向かうんじゃないんですか?」
「車では緊急時の対応が間に合わない地域もございます。ですので私共はポータルから戦闘部隊の転送をいたしております」
「転送⁉︎ってワープ⁉︎すごい!そんなのずーっと未来の話だと思ってたよ!すごいですね八雲さん!」
「ええ。……エントリーのご準備を」
扉が開き、瞳をキラキラ宝石の如く輝かせ興奮しフロアに設置された転送装置を見て内海は子供みたいに駆け出す。
中央部、円柱形のプロペラシャフトが暁光を讃えながら鼓動のように一定の明滅を繰り返していた。
八雲が大我にある物を手渡し、真剣な面持ちで深く一礼する。
「帰還の際は此方の携行ポータルをご利用ください。ご帰還が可能でございます。決して命を落としませぬよう深くお祈りしております。では」
掌に収まる円盤状のオブジェクトを人数分手にした大我は、悪戯に不安を煽る文言にソワソワと落ち着かない様子でフロアを出て行く八雲を見送った。
テーマパークを周るように楽しげに見学を終え戻って来た内海に奏は言う。
「なぁ、前から気になってた。何であんたみたいな虫も殺せない奴がココで文句も言わず戦闘員みたいな真似してるんだ?」
「ぼく?…ぼくはね、誰かのヒーローになりたかったんだ。今は弱くても昔助けてくれた人みたいに強くなって、今度はぼくがたくさん助ける番だと思っ、た……」
腕の中でライトの光を冷たく反射する銃砲は栗色の瞳にどう映っているのか。うるさいくらい豊かだった表情は消え失せ、人形のようにぼうっと動かない。
虚ろに現在を写す目は遥か彼方に通り過ぎて行った過去の記憶を愛しみ、内海はどこか寂しそうに微笑んで奏を見た。
「…ぼくはみんなも友だちも一緒に笑ってる方がいい。だから…そんな理由じゃダメかな?」
「……立派だな、あんた」
アナウンスと共にアラームの音が鳴り響いた。
別室でヘッドセットをした八雲がパネルの操作に忙しなく指を動かす。
『第二ポータル転送準備を始めます。転送地はC5+a、カナガワ県、式見塚。エネルギーインジケーターは異常ありません、カウント15.30.50.75.98…』
ーー瞬きの間に空気が流れてひやりと頰を撫でる。まつ毛に付いた露が滴り落ちるほど深い濃霧の中、隣に立つ二人の手足さえ見えないでいる奏は即座に周囲を見渡し戦いの時を待ち眠る柄に手を掛けた。
[……グゥオオオオオオオォオ]
何処からか獣の唸り声が木霊する。
ホワイトアウトに感覚を奪われる恐怖は、一寸先で盾を構える大我を強張らせてマチ針に括られたが如く動作をぎこちない物にさせた。
「聴こえたか?柚木、内海…?」
「あぁ…上だ!しゃがめ御幣島!ド頭ぶった斬るぞ!」
大我の頭上へ飛んできた無数の赤い光を咄嗟に展開したチェーンソードが弾き飛ばす。
態勢を立て直し獰猛に向かって来る怪物と真正面から衝突し、衝撃波を伴う爆発を引き起こした。
起爆点のすぐ側で爆風に巻き込まれて大きく数回転した奏が地面へ着地する頃には霧が晴れ、式見塚の全容が露わにされる。
「………!」
そこには倒壊したビルや家屋の瓦礫がそこかしこに点在しており、雨風に侵食され鉄骨が剥き出しになった人工物の山はまるで食い荒らされた屍肉が腐朽し残った肋骨を横たえるような、十年経った現在でも当時の死臭を匂わす凄惨さを感じさせた。
爆散させた黒い狼の残骸に群がる、同種である筈の怪物オルトロスが惨たらしい咀嚼音を立て塊に一心不乱に貪りつく。こちらの様子など気にもせず食事に在り付く光景は狂気に満ち満ちており、喉から絞り出し震える大我の声と砂利道を後退るジャリリという音だけが反響する。
「…オルトロス…!」
ピタリ。咀嚼は止まり、禍々しい視線が一挙として三人へ注がれた。
『ーージジッーーこちら八雲。中央通信局からスカーレットアルファへ通信中、確認次第応答せよ。繰り返す、確認次第応答せよ』
ノイズ混じりの音声がイヤホンを通じて瓦礫の隙間から顔を覗かせる奏達の耳に届く。
唸り声を上げ突進してくる黒い怪物を背面に避け、展開した銀色のブレードで漆黒の体躯を難なく真っ二つに裂き奏は涼しい顔で応答した。
「っ…こちらスカーレットアルファの柚木 奏。こっちは問題ない、内海!御幣島!俺1人で充分だからお前らは帰還準備しとけ!」
砂煙の中、激しい物音を聞きつけ集まってきたオルトロスが三体、奏の周りを取り囲んだ。
余裕綽々といった表情で剣をくるりと回し衝撃波を発生させる予備動作に瞳孔の収縮を開始するも、不意に背後から腕を掴まれ集中が途切れてしまった。
奏は顔だけ振り返り、攻撃を妨害した人物に対して明らかにイライラとしてみせる。
「柚木待てッ!単独行動はダメだとあれほど言った筈だぞ!お、俺も…戦うからな!」
大我は震える手で重槍と盾を構えてみせる。
逃げ腰で膝を笑わせる青年を横目に啖呵を切る奏は、心配そうな目でこちらを見つめる内海に自身の帰還用携行ポータルを投げ渡し右腕を振り上げた。
「無理に戦わなくて良いっつってんだから受け取っとけよ御幣島ァ!内海、ムダ死にしたくなきゃこいつ連れてとっとと帰れ!」
「な…柚木!俺がリーダーである以上、勝手な真似は許さないぞ!」
大我が言い終わるが早いか否か、目眩しに念力で瓦礫を吹き飛ばし、捻れた鉄骨を一体の犬型怪物に突き刺した奏はトドメに首を狩り取る。
散り散りに逃げた残りの怪物は、廃墟と化したビルの窓から奏の後頭部を抉ろうと飛びつくも大我が放った重槍を腹部に受け、衝撃で四散した。
バラバラ振る黒い物体を物陰に隠れたまま、怯えた瞳で上目に見る内海は険悪に背を向けあう二人をなだめるように声を掛ける。
「2人とも落ち着いて、今は言い合ってる時間じゃ…わわわ!たすけてっ!」
包み込むような優しい声音が一瞬の内に叫びに変わった。
涙目に助けを求める青年の足首に噛み付き、引き摺っているのは犬型の怪物…現れたのは三体、仕留めたのは二体。
…彼らが逃した獲物が、今まさに青年の鼓動を止めようと無防備な背中に爪を立てていた。
「「内海ッ‼︎」」
つい先程まで目も合わせなかった二人が同時に駆け出す。
鋭い鉤爪が皮膚を突き破り、切り裂かれた三本の傷口が火に炙った鉄棒を押し付けられたように熱を持つ。
生温い液体が脇腹を伝って傍に横たわる電磁砲の機構を鮮血に濡らした。
痛い、己の無力さに内海は死さえ覚悟し固く目をつむるが二人の呼び声を聞き、激痛に震える手でトリガーに指を掛けた。
「…ッ……!」
体を捩り今にも皮を食い破らんと大口を開けていたオルトロスに何発ものスチールコア弾を撃ち込み、弾け飛んだ所を大我が引力で引き剥がし内海の肩を支える。
携行ポータルのスイッチをセットし、マイクに対し声を荒らげる大我はふと奏の姿が無い事に気が付いた。
「こちら御幣島!緊急帰還する!…酷い傷だ……八雲!救護の準備を頼む!柚木…?柚木!」
『了解です。ポータル起動、帰還プロトコルは1分30秒後に再起動します』
「柚木、聴こえてるか!返事はしなくていい、帰還する!ポータルをセットしろ!」
自己修復を始めたスーツが内海の生傷を塞ぎ、これ以上の出血を留めた。
ぐったりしつつも幾分楽になったのか左手に抱える円盤状のケースを大我に渡し、もたれ掛かっていた肩から離れ空を仰ぐ。
「大我さん、これ…奏くんの…」
「…アイツ…!待ってくれ!どこに居る柚木!」
「…空、走ってるよ…?」
「なっ、何⁉︎」
内海が指差す先を弾かれたように見上げる大我は、豆粒までに小さくなったシルエットを見て恐々と表情を強張らせた。
無重力に漂う最後の敵種を追い、奏はビルの壁面を上へ上へと駆け上る。
爪先まで強く踏み込み、コンクリートを抉るジャンプで遥かな距離を寸の間に詰めた。
大我や八雲の通信を頭の奥で聴きながらブレードを展開すると、雲間から太陽が銀色の光を反射してオルトロスの表皮を焦がし煙を上げる。
『再起動まで1分』
音、動き、全てがスロウに移る。
蒼炎のベールが重力を取り込み、肉体を空虚な世界に開放するのは妙に心地が良かった。あの日のように感覚が麻痺した宇宙の中で一人取り残されたのなら、穏やかなまま消え去れたのではないかと行き場なく彷徨う少年が奏の耳元で甘い囁きを掛けて笑う。
…だが。
「グルルルル…」
「終わりだ」
伸ばされた白い腕を取る事は無かった。
幻覚を振り払い、一閃。
ーー細切れになった怪物は羽衣と共に地上へ堕ちる。
『再起動まで30秒』
天から吊るされる糸を失った奏は、全身の力を抜き墜落する。
頭を風除けに流線型に体を包む風が速度を上げ、ジリジリ火花を散らす摩擦熱が次第に白い肌を火傷寸前まで撫で付けた。
二人、地上で待つ大我がポータルのエンドスイッチに指を掛け、万一を覚悟し焦燥に奥歯を噛み締める。
空気を打つ衝撃波が音速に近い状態を指し示した。
『5、4、3、2、1』
カウントも終わりを迎え、転送が始まる。
耳鳴りに似た甲高い周波音と共に空間が指で引っ掻き回されたようにぐにゃりと歪んだその刹那、内海は目一杯手を伸ばして奏の右手を握った。
「掴まって!」
『ゼロ』
ーー暗転した視界が次に捉えたのは、プロペラシャフトの回転羽から洩れ出るチカチカとした点滅光だった。
「…うわあぁぁあっ!」
高さ数百メートルから真っ逆さまに、しかもジェット機並みの速度で落ちていた奏の真下にはしっかと手を掴みあう内海と驚愕に口を開ける大我が居る。
「ぎゃああぁぁぁぁ⁉︎」
確実に死ぬなと思った瞬間、二人と嫌にはっきりと目が合ってしまった。こういう時どうすればいいのだろうか、会釈?笑って挨拶?いや、素直に巻き込んですまんと謝罪した方がいい気がする。
しかしまぁ落ちている最中にこんな事をよく考えられる物だ。今際の際に高速回転する思考が走馬灯というのは信じないと奏は思った。
大我が両目を覆い隠した手を振り上げる。
その時放たれた群青色のベールがシャボン玉のように奏を包み、無重力に漂った。
「「……あーー!」」
いつまで経っても落ちて来ない奏が宙に浮かんでいるのを恐る恐る確認した二人はドッと安堵の息が溢れ、その場にへたり込む。
助かった、と同時に奏は思考するのだった。
無重力…クセになりそう。
………
………………
『ハローハロー!星の子諸君!初任務おつかれ様でしたー!そしてスカーレットアルファの諸君!いやぁ、まだ訓練を初めて数日とは思えないですよ!なんと何と⁉︎初出動でエリアの制圧をいたしましたー!すごーい!みんな盛大に拍手ー!ドンドンぱふぱふ!』
明朝。二期生と呼ばれる彼らにも通例となりつつあった朝礼会議の中で社長は大喜びにクラッカーとラッパを鳴らした。
全員から拍手と注目を一身に集め、照れ臭そうに内海は頰を薄紅色に染めてはにかむ。
奏の影に隠れ、居心地悪そうに咳き込む大我は目線を泳がせ何か言おうと唇をもごもご動かしたが言葉になる事は無かった。
そうこうしている間にも花吹雪を散らしまくっていた社長が、凪いだ海のような、晴れやかな笑顔で奏に言う。
『そうだ奏くん、八雲くんから話を聞いたよ。約束は守らなきゃね、短い間だったけど付き合ってくれてありがとう。……君は自由だ』
自由。あれ程聞きたかった単語を前にして奏の顔は曇ったままだった。
俯き拳を握り締めた声は微弱に震え、社長は悲しそうに鼻をすする。
「…やめる」
『みずくさいじゃないか、お別れの言葉なんて…へ?』
「止めるって言ったんだ。…借りが出来た。知りたい、俺はあの怪物が何なのか知らずにいる訳にはいかない。……お願いします。もう一度ここで戦わせて下さい!」
勢いよく顔を上げた奏の瞳には確かな決意の色が現れていた。
この選択が果たして正解か、後悔の無い物であったのか彼はまだ知らない。
社長がにまりと笑う。
ぶつり、ホログラムが音を立て消えた。