BLACKOUT/遠雷
ープロローグー
某国 カジノ場 2:33 P.M
シャンデリア、トランプが並ぶ台、ディーラー、そしてプラスチックと化した大金を賭けるふくよかな男とそれに寄り添うドレスの美女。
煌びやかに彩られた室内には、頭の奥が痺れるほど甘くて蕩けそうな香りを放つ紺碧の花が飾られていた。
レッドカーペットが敷かれた廊下を1人歩く青年の姿を、革靴の小気味よい足音と優美なクラシックがハーモニーを奏でる。
「”K”?K!逢いたかったわ!絶対に来てくれると信じてた!ずっと待ってたの!」
上等なタキシードに身を包んだ青年に黒髪の美女が駆け寄って抱きついた。玉を転がしたような声を出し、桜色に色づいた頬を緩ませる。
Kと呼ばれた青年は亜麻色の髪をかき分け、ほんのり赤みがかかった柔らかな唇を弓なりにしならせて微笑を作った。
「俺も君に逢いたかった。いいの?まだ仕事が残ってるんだろ」
女は熱に浮かされた表情でKの左腕に白い腕を絡ませて首を振る。
「仕事なんてもういいの…貴方さえ居れば……ねぇ、私は本気よ」
女は大きな黒い目を潤ませ、真紅に染まったKの艶やかな瞳を覗き込む。
脳裏に焼きつくほど真っ赤でやけに鮮明な唇が、口づけを交わそうとゆっくり数センチの距離を詰めるのを拒否する事なくKは見つめる。
肩に手を回し、女は耳に吐息を囁いて
「Kーー死んで」
目にも留まらぬ素早さでナイフを取り出し無抵抗な男の背中に突き刺した…筈だった、が。
「何…?手が……動か、ない…!」
女の振り上げた腕は空を突いて止まっていた。女の腕は四方から紐を括り付けられたように固まり、どんなに力を入れて足掻こうとその場から動かすことは不可能であった。
混乱する女の腕の中で静止状態だったKが、ようやく口を開く。
「どんなに香水付けようが隠しきれてなかったんだよなぁ、血の匂いってやつがさ」
「は…?」
奥歯を噛み締めてこちらを睨みつける女の腕を掴み、硬く握られたナイフを難なく奪って掌で弄ぶ。
頭を上げたKの表情は先程までの物とは比べ物にならないほど妖艶で残酷にも見える笑みを浮かべていた。
鋭く研ぎ澄まされたナイフがまるでスライムのようにぐにゃぐにゃと蠢き金属の塊と化す。かつては凶器だった物体を後ろ手に投げ捨て、恐々と身構える女へ歩を進める。
「…何者?どこから来たのよ」
「”ボアコンストリクター”って言やぁ分かる?御依頼が来たんでこちらのカジノを抹消、しに」
恐ろしい発言をしているにもかかわらず、不自然なほど自然な笑顔でKは言う。
ボアコンストリクターの名を聞いた女が愕然と目を見開き、そして睨みつけた。
「ボア…!そう?あんたが大蛇が飼ってる異能者だったの…ふふっ、可愛い顔した怪物に騙されたのね」
「怪物か…嬉しいね、最高の褒め言葉として受け取っとくよ」
一歩、二歩。革靴の小気味よい足音が鳴り響く。
女は同時に後退り…正体不明の怪物に銃を突きつけた。
「っ…化物!」
カチリ、軽妙な金属音と空気が抜けたような発砲音。サイレンサーは確実にKの眉間を捉えたが、またしても見えない壁に阻まれた弾丸はまるで両側から鉄板を押し当てられたようにひしゃげて殺傷力を失う。
ピアノの旋律が消え、いつの間にか静寂に包まれていた空間に見知らぬ足音と変に陽気な男性の笑い声が響いた。
「ハーイK!美女とのランデブーはお楽しみかなぁ?俺はお前が羨ましいよ全く、顔が良いって得だよな!」
「…あん?遅ぇんだよロイ、何してたんだよ。道草ですか、拾い食いですかこのヤロー」
茶髪にスーツ、如何にもホスト風の見た目でサングラスをかけた男…ロイは肩を回しわざとらしく疲労困憊アピールをする。
「外を片付けてたんだよ、雑魚相手にK様のお手を煩わせる訳には行かないんでね。あーしんどかった」
「それはそれはお疲れさまでした。次は早くお願いしますね、おっさん」
「次おっさんって言ったらみんなに恥ずかしいアレ見せるからな、思春期くん」
恥ずかしいアレと聞いて眉間に皺を寄せるKをからかいながらケタケタと愉快に笑う。
ひとしきり笑ったのち、未だ動揺に瞳が揺れている女に対しKは非情とも聞こえる言葉を発した。
「そういう訳だ。呼んでも外からの援軍は来ないし、あんたが俺の相手してる間に中は制圧済みだ。客も仲間ももう居ない、残念だったな」
「……っ…さい…る…さい…」
肩を震わせ息を荒くする女をなだめるようにロイが両手を前に突き出す。
「まあまあ落ち着いてよく考えてくれ、今投降すれば君の身の安全もこれからの暮らしも俺たちが保証する。どう考えても悪くないだろ?な?」
「るさい……っさい……!うるさい!」
女が息を飲み、血走った目をさらに大きく見開く。長い黒髪を振り乱し女は甲高い声を上げ狂乱に叫んだ。
「ッ…うるさいうるさいうるさい!黙れ!くそっ…ボア如きが!死ね死ね死ね死ね死ね!消えろクソ野郎!死ね!」
罵詈雑言と共に打ち込まれた銃弾は2人に届く訳もなく、いとも容易く弾かれカーペットの上に落ちる。
実弾を撃ち終わった拳銃を捨て、デバイスを操作した女は冷たく凍り付いたKの瞳を見据えた。
「一緒に死んでくれる?K?」
奇妙な起動音、次に地響きが鳴り、錆びついたような不快な金属音が辺りを支配する。
豪奢な装飾に丹精な油彩画が描かれた天井が真っ二つに割れ、深淵から戦車の如き機関銃がその重厚な躯体を覗かせた。
大量の粉塵が頭に降りかかり、異変を感じ天井を見上げたロイが腰を抜かす。
「うぉいマジか!け、K!こんなん聞いてないって!た、助けてくれるよな⁈マジで死ぬよホント‼︎なぁ!」
「おまっ、おまえ…!しょうがねえ奴だなホント!立てよロイ!逃げるぞ!」
「ムリムリムリムリ!腰爆発したから!」
プルプルと膝を笑わせる情けない相棒の首根っこを掴み立ち上がらせようとするも、当の相手は立てそうにないと千切れんばかりに首を振った。
「私がこの手を握ればぁ!あんたらと一緒に蜂の巣になれるの!最高!あはははっ!」
女の金切声がパニックを助長させる。静かに右手を上げた女の元に機関銃のレーザーが集まって強烈な光を放つ。
ピリピリと肌を刺す緊張感が肩に重くのしかかるKは、もはや逃げる道を諦め深く息を吸い、そしてゆっくりと空気を吐き出して瞼を閉じた。
「…………」
無音の中、鼓動が脳内に反響するほど集中を高めて意識の深層へ没入する。
ピンと張り詰めていた掌の小指が曲がった。次に薬指が曲がり、そして中指、人差し指…死へのカウントダウンが着実に進み、ロイの叫びが空気をつん裂く。
「ーーーー奏‼︎」
瞼が開き真黒の瞳が女を映す。
最後に残されていた親指が曲がり、ロイは思わず固く目を瞑った。
[ダダダダダダッダダダダダダダッ]
機関銃から爆発音と閃光が放たれ、刹那の間に何十発もの鉄の塊が発射される。
標的を持たない弾丸はシャンデリアの結晶を降らせて最期まで純潔を守っていた白壁を穿ち、花瓶は割れ蒼き花と共に砕け散った。
閃光、轟音、破壊音。
止まない狂気の雨が人間の身体を破壊することは、なかった。
「っ……?うぉ!なっ…うわぁ!」
恐る恐る目を開けたロイが観たのは眼前で留まる弾丸。視界に入るのはまるで死の直前で時間が止まったと錯覚してしまうほど異様な世界だった。
不意に止まった発射音がうるさいぐらいの静寂を作り、限界まで開ききっていたKの瞳孔は寸の間に収縮する。
「悪いな」
放たれた衝撃波は広大なカジノ場を飲み込み、百万ドルは派手な音を立てて脆くも崩れ去る。爆風が止み、ロイは立ち昇る粉煙に咳き込みながら大いに笑い続ける膝をなんとか黙らせて真っ青な青空を仰ぎ見た。
「…抹消とは言ったけど、物理的に壊せとは言われてないぞ」
「何聞かれても正当防衛って言うんだよ……ってぇ…頭いてぇ…」
苦々しい表情でこめかみを押さえるKを余所にロイは興味津々と瓦礫の山を覗き込み、遠く吹き飛ばされた女を見やった。
強烈な力の波を受け気絶した女は、先ほどまでの形相が嘘のように安らかな寝息を立てている。
「これで良いのか悪いのか…もったいないなぁ、綺麗なのに。なんか色々残念な人だったっつーか…いやまぁS気があるのは嫌いじゃないけどなんつって、おい…?どうした⁉︎」
「げふっ、ごほっ…おま、え…調子良すぎ…んだ、よ…」
血の気が引き、青白くなった鼻や口から流れ出た大量の鮮血が襟口を染め、支柱を失った肉体は力無く倒れる。
二重にこだまするサイレンと幾度も自らの名前を叫び続ける声を遠くに聴きながら、Kの意識は光も届かない暗闇に溶けていった。
………
………………
同日午前6:21分 トウキョウ 某所
眠っていたところを無理矢理叩き起こされたのか朝日に照らされた青年の目つきは猛禽類を思わせる厳しさになり、誰がどこからどう見ても酷く不機嫌な物である。
『ねぇ〜許してよ秋くん!お願いだから〜!なんでも一回だけ言うこと聞くから〜!』
決して広いとは言えない車内に泣くような縋る声が響く。空を漂うホログラムのウインドウには狗の面を付けたスーツの男性が手を擦り合わせ、青年に対し嘆願を続けていた。
「ん?一回だけ?」
切れ長の瞳が危うげに表示されるホログラムを捉える。
しなやかで無駄のない体つきに、腰まである濃紫色の髪を三つ編みで一つにまとめたその姿は一見女性と見違えるほど美形である。
黒曜石が如く鋭い殺気を放つ青年、秋は見た目よりドスの効いた声を発した。
「それマジで言ってんの?」
冷え冷えする声音に怖気が立ち、画面の向こうで男性は両肩を抱えて震える
『じゃ、じゃあ二回…』
「アぁ?」
『分かったよ!三回!三回言うこと聞くから、それでいいでしょ!あんまり言うと僕もおこだからね!お!こ!』
頬を膨らませ分かりやすく怒りアピールをする男性から予定通りの言葉を引き出して秋は妖しげに笑う。
「おこってあんた三十路だろ。…約束ですよ。不、二、木、社、長」
『怖いよぉ…並みの社長なら絶対言われないよこんなこと…』
「並みの係長でも言われないから、絶対に」
肩を落として項垂れる社長を横目に長くすらりと伸びた足を組み、およそ居心地が良いとも言えない座席へどっしり構えた。
寝起きの恫喝を無事に済ませて機嫌を直した秋は、そのまま手元の端末に視線を落とす。
顔写真、年齢、性別、生年月日。
行動や嗜好、過去に至るまでありとあらゆる情報に一通り目を通し、整えられた眉をひそめた。
「"Code:A.R.M.Sの疑いあり"。確証も無いのに行くんだ?」
『いや、確実だよ。その…ファイリングした人っていうか…対策庁はあまりハッキリと書くのが好きじゃないというか…先方との、問題も…あるし…』
中盤からもごもごと濁していた社長の声が後半になるにつれ聞き取れないほど小さくなった。
…軽く咳払いをし、気を取り直した社長はうつむきがちだった頭を上げ身振り手振りを加えながら言う。
『と、とにかく!君を呼んだのはこのサルベージが重要だと思っているからなんだ』
ホログラムがいくつかに分かれ、その内の一つに青年の顔が表示された。
亜麻色の髪に真紅の瞳。これといって目立った特徴の無い、強いて言うなら目鼻立ちがすっきりしていると思う程度の顔写真を前にし怪訝な表情の秋に社長は続ける。
『彼は強力な干渉能力…いわゆる念動力を有している。それこそ秋くんと張れるくらいに』
[甲型 相賀 秋声]と銘が打たれた無機質なドッグタグを秋は見つめる。
切り替わったホログラムは不安定に文字数列を映し出し、音声のみとなった画面は不気味にノイズを発生させた。
『この先彼が必要になる。他の組織に奪われる前に僕達が手に入れなければならない、絶対に。…意味は分かるね相賀君』
諭すように紡がれた一言一句は、この計画に未来を与えるか彼の奪取に掛かっていると暗に伝えていた。
「承知した、必ず連れて帰る」
『ありがとう。…通信終了』
終了を合図に閉じられたウインドウは瞬きの間に跡形なく消える。
退屈に手を放されたネックレスはカツンと音を立て裏返った。
もう一枚のタグにはオパール色の電子チップと"Umbra"の文字が刻まれている。
Umbra、境界線を超える異能。
行き場もなく、月の灯りさえ届かない暗闇の海を漂っていた孤独な少年の姿が脳裏によぎり秋は呟いた。
「……K。柚木 奏、か」
高速道路を走る小さな車内に朝日が垂らした淡いカーテンが揺れる。
歪んだビル群の頭上には目が眩むほど澄み切った青空が広がっていた。