ルイーザ 旅立ちの夜
かつて魔王と呼ばれる存在が居た。
魔族を統べし王。魔法を極めし王。魔界を征服した王である。当然のように魔界を支配するだけでは満足しなかった魔王は、次なる征服地として人間界へ目を向け侵攻を開始する。
――その力は、圧倒的であった。
人間は剣や槍といった対抗手段しか保有しておらず、魔法に対する抵抗力も知識も技術も全く足りていなかったのである。技術で勝る魔族はあっという間に世界の半分を掌握。数においては圧倒的に優勢だったはずの人間が滅びるのは時間の問題であった。
そこに救世主として立ち上がったのが竜である。
後に13支族と呼ばれる竜族の始祖たち12体の竜と、1柱の神竜が人間と共に魔王に戦いを挑んだのだ。竜の参戦によって形勢は逆転した。絶滅寸前だった人間は息を吹き返し、魔王軍を追い詰めていく。
かくして魔王は魔界へ逃げ帰り、人間界に平和が訪れた。一部の魔族や魔物は残ったものの、もはや人間にとって脅威ではなく徐々にその数を減らしていった。
――それから500年。
魔界からの侵略は一切なく、人間界は泰平であった。
しかしそれも永遠には続かず、世界には再び血の臭いが漂い始める。
人間同士の戦争だ。
当初こそ友好を目的としていた都市の合併・同盟は、明確に敵と味方を分け、その規模が拡大するにつれて軍備を拡張し、終には世界のあちこちで衝突が起こるようになる。
森は焼かれ、川は濁り、海は人間の血で淀んでいく。
そこで再び横槍を入れたのが竜人たちである。500年前の伝説に謡われている竜ほどには超然とした存在ではなかったが、人と竜の混血である彼らは「族」と称されるほどには増加していた。
そしてその膂力は人間の軍事力を軽く超える。
扱う魔法の技術も。
瞬く間に人間たちの国を併呑した竜人たちは連邦都市郡を分割し、各支族が国として強制的に統治した。
ただし神竜が治めるカピトリーナだけは国という形にはならなかった。世界を救った竜に対する信仰心が、当時すでに神竜に集まっていたのである。故に国家ではなく聖地というかたちで受け入れられ、その行政機能はカピトリーナ教の信者からの寄付によって全て賄われ続けている。
ある意味で世界唯一の竜統治の成功例だろう。
そして他の国においても、圧倒的な力による停戦状態は世界に強制的な平和をもたらした。
さらに500年後、……現代。
武力によって行なわれた強制平和は続いている。しかし一方で、竜による支配を望まない者たちは確実に存在し、その火種が静かに足元を燻らせていた……そんな時代。
マグナ・サレンティーナでのクーデターを未遂に抑え込んだ、レーゲンハルトとエルは、ルイーザを加えてさらなる旅を続けていた。
ヴィットーリアを宥めすかし、帰ってきたオルダーニさんに謝り倒して……なんやかんやで出発まで3日もかかった。
もともと急ぐ旅でもないからな。
そんな理由で、商隊の馬車に同乗させてもらうこともなく、徒歩で街道を進む。ヴァルシオンの東側から出て、すぐのところで分岐を北へ。本当はまっすぐ進むほうが近いのだがその先にある橋が、先の動乱で落とされたらしい。
翼のある2人はともかく人間の俺には越えることができない。
それにあの場所は竜血の影響が強い。ヴィットーリアは飛び越えられたらしいが、彼女より幼いルイーザとエルフリーデが竜人の擬体のまま無事に越えられる保証はない。
というわけで遠回りにはなるが、北寄りの山道を進むことにした。ちなみに商隊は南ルートを通るらしい。北ルートよりは遠回りだが、平坦な道なので馬車だと進みやすいんだそうだ。ただし荒野ばかりの暑い道程だから徒歩で行くには難がある。
選んだ北ルートをしばらく進めば次第に下草の背が高くなり、野原の先には木も見え始めた。
「あ、きれい~」
奥にある青い花を見つけたエルが道を外れていく。
「さっそくハグれようとしてんじゃねえ」
「ほんとですの」
首根っこを引っ掴んで引き戻したエルの横を赤い影が抜けていった。
「って、ルイズもかいっ!」
「ハルくん……」
上目遣いをやめてくれ。最近さらに幼くなってないか?
「わかった、わかった。行ってこい」
「わ~いっ!」
手を離すとルイーザの後を追っていった。隣にしゃがみ込んで何か楽しそうにしゃべっている。お尻から伸びる銀と赤の尻尾が同じリズムで揺れているのが微笑ましい。
あーしているのを見ると、ルイーザを旅に同行させたのはエルにとってもよかったんだと思う。やっぱり同世代の友達がいたほうがいいだろうし、エルが成長するにつれて男の俺じゃあ相談に乗れないことも出てくるだろう。
「ハルく~んっ!」
「なんだ、どうした?」
「おしっこ~!」
「…………」
成長……してくれるのかな。
「ルイズちゃんもだってぇっ!!」
「エ、エルちゃんっ! そんな大声でっ!!」
「え~だって、いつもハルくんが勝手に居なくなるなって……」
「そ、それはそうなんでしょうけど……」
こちらをチラチラ見ながら恥ずかしそうにしているルイーザを見て、見られたくはないよな、という事にようやく気が付いた。
「待ってるから、早くしろ~」
一声かけてから反対側を向く。
「は~い!」
「え、こ、ここで、ですのっ!? おトイレとか……」
「ん~? そんなのお外にあるわけないよ?」
とかなんとか喋っている声が背中側から聞こえる。
ったく、そんなにモタモタしていると夜に……。
「暗くなっちゃったね……」
「そうだな」
俺の膝の上に座ったエルが、焚火の火を見つめながらぼんやりと言う。平原で狩った野ウサギをみんなで食べた後だ。もう眠くなってきたのだろう。
森の中に入った時点で既に夕暮れ時。普通だったら猛獣を警戒して平原のほうで野宿をするところだが、こちらには真祖が2人もいるし俺もそこそこ強い。近づいてくるならむしろ夕飯にでもすればいい、と思いながらそのまま森へ入ったが、獲物を見つける前に完全に日が落ちてしまった。
「野宿ですの?」
「ああ、そうだよ。……そっか言ってなかったけか。1日で移動できる距離には限度があるし、路銀も節約しなくちゃいけないから大きな町じゃない限り基本的には野宿だぞ」
「え、えっと、ベッドはどこに……」
冗談ではなく、本当はその辺に眠れる小屋があるんでしょう? とでも言いたげに目を泳がせるルイーザ。
「ルイズには俺が魔法使いか手品師にでも見えるのか?」
「ハルト君なら何でもできそうな気がしますけれど」
「期待に応えられなくて申し訳ないが、さすがに家を建てるなんて不可能だぞ」
「えっと、それじゃどうやって眠るんですの?」
ルイーザが冷たそうな地面に視線を向ける。
「ぎゅ~ってするんだよ」
「ぎゅ~?」
エルが俺の腕に楽しそうにしがみついてくるけれど、姿勢がさっきからあまり変わっていない。ルイーザが意味が分からない、と俺に視線を向ける。
「ん……まあ、ほとんどこのままの体勢。体冷えないように抱き合って眠るんだ。あとは毛布被って寝るだけ」
馬車があればその中で寝ることが可能なのだが、俺たちは徒歩だ。簡易の寝所をこしらえる骨組みやら布やらを運ぶ余裕もない。
「なっ! ハレンチですのっ!!」
ルイーザの格好も十二分に破廉恥だと思うが、ここでそれを言ってしまったら、ますます照れてしまうだろう。
「夜は冷える。無理強いはしないけど、たぶん明日後悔するぞ?」
「いや、でもっ、そのぅ……シャワー浴びてない、ですし……」
ルイーザは首都ヴァルシオンの西町にあるとある研究所に一晩捕まっていたことがある。そこに助けに行った時に、俺が「汗臭い」と言ってしまってから異常に体臭を気にするようになってしまった。
いや本当に汗臭かったんだよ、あの時は。その研究所が竜人の汗を原料に……って、その話はいいか。
「それは俺たちも同じだ。運よく川を見つけたらその時汗を流すしかない」
「ルイズちゃんも一緒に寝ようよ? 楽しいよ?」
「あ……えと……あ……はい……」
おずおずといった感じで俺が座っている切り株の横に座る。
ただしお尻2つ分ぐらい離れてたところに。こっちに近づくつもりはあるのか尻尾の先だけがこちらを向いていて、むしろ怖い。
「しょうがねぇな……」
仕方なく俺のほうから近づいて膝の上に抱えあげた。尻尾があるので、正確には太腿の上に太腿をのせているといったほうが正しいか。座りが悪くバランスがとりずらそうだったので、後ろに倒れないように腰を支えてやる。
「あぅっ、あっあぅっ……」
(うわぁ、心臓バクバク言ってる……)
脇腹にくっついたルイーザの胸から、彼女の心臓が早鐘を打つ音が伝わってきた。反対側に座っているエルまでは聞こえていないと思う。近くに来たルイズの手を握って早くもうつらうつらし始めている。
(ついさっき「楽しい」って言ってたのに)
てっきり話し相手になって緊張をほぐしてくれるのかと思ったが、さすがにエルは限界か。日没から2時間は経ってるしな。
「ひゃわっ!」
どうしたものか、とルイーザの顔を窺うと至近距離で目が合って悲鳴を上げた。
「静かに……エルが起きちまう」
「すいま……せん……」
お互いの呼吸を頬に感じる距離で緊張するなってほうが無理か。
俺とエルのように兄妹みたいに育ってきたわけじゃないし。
「さすがに眠れないか?」
「ひぁ……はいぃぃ……」
声をかけられるたびに意識してしまうのか、心臓の鼓動が収まるどころかますます体を熱くするルイーザ。
このままじゃ眠れそうにない。俺にまで緊張が移ってきそうだ。
「なんか話すか……」
「いいんですの?」
さっき声を出すなって言ったことか?
エルのほうを確認したが、すでに眠りに落ちていて、くーくーと小さな寝息を立てているし、俺の背中に回った小さな手が独特のリズムでにぎにぎしているから大丈夫だろう。
「小さい声ならな……何か聞きたいこととかないか? 俺たちは旅慣れているから当たり前だけど、ルイズにとっては初めてのこともあるだろうし……」
今日1日でも新たな発見はいくらでもあったはずだ。ルイーザの視点で感じたことを教えてもらう事は俺にとっても意味がある。
それに、今の抱き合っている状況から目を逸らす意味あいもある。記憶のほうに意識を向けていればそのうち眠くなるはず。
「えっと、じゃぁ……エルちゃんのお母さんについて聞いてもいいですの?」
「エルヴィーネさんか?」
意外な切り口の質問が来て聞き返す。
「はい……その、既に亡くなられていることは存じているのですが……」
チラリとエルのほうを見る。
確かに、エルが起きている間は聞きにくい話題だ。俺ですらあまりエルヴィーネさんの話は出さない。エルのほうから振ってきたときに応える程度だ。
「その……わたくしは『母』を知らないので……」
そうか……そうだった。
彼女の母親……たしかヴェロニカだったか。彼女は死んでこそいないが、ルイーザを産んですぐに失踪している。全く覚えていないからこそヴィットーリアほど寂しく感じていないだけに、姉にも聞きにくかったのだろう。
ルイーザは母親がどういう生き物なのかを知らないんだ。
オルダーニさんやマリアさんに育てられたから寂しいわけではないのだろう。しかしいざ自分が卵を産んで子供を育てる、となった時にどうしていいかがわからない。
姉の姿を見ているから、人に任せたり失踪してしまうというのはしたくない、とも思っている。
妹がいるわけでもないし、自分自身も成長してしまった以上、養育に関しては人に聞くしかないのだろう。
(女って……こんな小さいころから考えているのか……)
こっちはエルやルイーザとの関係をどうするかの時点で悩んでいるというのに。既にルイーザはその先を考えている。
エルだってそうだ。
もう随分前から「夫婦になりたい」、「番になろう」と言っている。
(……自分が随分と子供な気がしてるな……と、今はまあいいか)
ルイーザの視線が不安の色に染まり始めたのを察して口を開く。
「俺が知っているのはエルヴィーネさんのごく一部だけど……それでもいいか?」
「はい……」
「じゃあ……」
――――5年前。
ジルバン・シュニスタッド領内の森の中。空気が日に日に寒くなっていく季節の変わり目。針葉樹が自身の葉を散らせ黒い幹や枝を寒空の下に晒している。
振り仰げば岩や雪の目立つ寒々しい山にへばりつくように灰色の建物が立ち並び、その最上部には尖塔を備えた城を確認することができる。そんな首都からほど近い……といってもそれは直線距離の話。あの切り立った山を蛇行する登山道を辿って行くとなると人の足では2日以上はかかるだろうが。
そんな森の中に、人が3人は並んで歩けそうな大きさの洞穴が口を開けていた。
その洞穴の前に2つの人影がある。
1人は人間のソレだが、もう一方は明らかに人間ではない。人間にないはずの器官……白い角が頭から伸び、お尻からは銀色の爬虫類を思わせるうろこに覆われた尻尾が生えている。
何度も洞穴に出入りしているからか、2人の立っている入り口前の地面は草が禿げて土が露出していた。
「いってぇぇぇっ!!」
レーゲンハルト13才。
ツンツンした短髪と体に張り付くような肩出しの黒いシャツを着て、逆に下半身はだぼっとした動きやすいズボンを穿いている。そんな少年が地面に転がり、手にしたソードを放り出して頭を抱えている。
「こらこら、エルフリーデを守ってくれるんだろう? この程度で弱音吐いちゃあダメだよ?」
先代女王エルヴィーネ。
大柄な女性だ。しかし筋肉質というわけではない。むしろ肉感的というのが正しいだろう。女性らしい豊満さというか母親らしい包容力というか、そういったものを備えている。ただし太っているわけではない。締まるところはしっかり締まっていて未だに若々しい。
その肉体を起伏がわかりやすい衣装……というかほとんど下着だろ、という服に包んでいるものだから目のやり場に困る。
いわゆる思春期である当時のレーゲンハルトには目の毒のはずだが、幼少のころから見慣れてしまっているのでいまさらという感じだ。
「でもさぁ、俺人間だぜ? 本気で殴られたら死んじまうだろうが」
加えて今は稽古の真っ最中。えっちな事を考える余裕はない。
「あっはっはっ!! 本気なもんか。本気って言うのは……」
どっごぉぉぉぉっ!!
無造作に横殴りされた、2抱えはありそうな木にあっさりと穴が空く。
幹を貫通された木は自重に負けて横に倒れ、昨日倒して薪に加工し始めた木の横に仲良く並んだ。
「こういうのを言うんだよ?」
「手加減して頂いてありがとうございますっ!!」
あんなもの腹に食らったら、穴が開く程度じゃすまない。胴体ははじけ飛び、頭と下半身は永遠にお別れすることになるだろう。
そして本気と言っておきながら、全力の半分も出していないであろう、余裕の表情が恐ろしい。
「ほら、さっさとかかってきなさい。夕暮れまでにあたしに1本入れられなきゃ、ご飯抜きだよ?」
そう言って一応構えるエルヴィーネ。しかし本来は構える必要すらない。竜に危害を加えられる存在など限られている。構えるという事は、攻撃あるいは防御に移行しやすいという事であると同時に、動きを制限することでもある。効率化とは裏腹に可能性を狭める行為。
わざとだ。
相手の構えから次の行動を予測して隙をつけ、と。
手加減され続けている。
だったら手を抜いてくれればいいのにとも思うが、それじゃあエルフリーデを守れる強さにつながらない。
それがわかっているからレーゲンハルトは立ち向かう。
「くっ! でぇぇぇぇぇぇいっ!!!」
いつか手加減なしのエルヴィーネに手合わせしてもらう姿を思い描いて、ソードを振り上げる。
「うーん、隙だらけだねぇ?」
「ほぐぅっ!!」
エルヴィーネのお尻から伸びてきた尻尾に両足を払われて、地面とキスをした。
「あぁ~~~」
顔面強打に始まり、左腕骨折。あばら骨が痛いのは骨折か打ち身か。
いや怪我がないところを探すほうが難しい。体のあちこちにたんこぶや擦り傷ができている。
「情けない声上げないの。男の子でしょ?」
ここは洞穴の中。
エルヴィーネが洞穴の中に入ると壁全体が淡い光を発する不思議な洞穴だ。きっと彼女が何か魔法を使っているのだろう。魔力を感知できない人間であるレーゲンハルトには原理がさっぱりわからないが。
その壁際で胡坐をかいたエルヴィーネの股の間に背中を丸めて座っているのがレーゲンハルトだ。上下ともに2人も素っ裸。
別にえっちなことをしているわけじゃない。
「子って言うなっ!」
「竜にとっては人間なんて皆、子供みたいなものだよ? ましてやレーゲンハルトはあたしの大事な息子なんだから」
体の治療をするにあたって直に触れあったほうが治りが早い、とエルヴィーネが言うから仕方なく昔からこうしている。
それじゃあ実戦で役に立たないじゃん、とか、魔法って一瞬で治るものなんじゃ? とか最近疑い始めてはいるものの、今更文句も言えないレーゲンハルト。
「っ……」
酷い怪我の箇所の治療を一通り終えたエルヴィーネがレーゲンハルトの体を後ろから抱きしめる。大好きなぬいぐるみに頬ずりする小さな女の子のように身を擦りつける。
「エルフリーデを守るって言ってくれたことはすごく嬉しい。だけど、覚悟はしておいて。人間は弱い。きっとレーゲンハルトはエルフリーデがまだ成長しきる前に先に老いて死ぬだろう。あたしにはどうすこともできない」
人は長くて80年、竜人はおよそ500年、そしてエルヴィーネやエルフリーデといった真祖……純血種の竜は1000年を超える時を生きる。その差は努力をしたからといって埋まるものではない。
「わかってる」
「そして、そのうち守られる側になってしまう。人間の生命力……強度や攻撃力は竜に遠く及ばない」
今ですら精神的に幼いから守ってあげられている。守らせてもらっているが、生まれた時点で戦闘力ではエルのほうが上だ。本来の肉体であれば、腕の一振りで致命傷を負わされるほどに人間は……レーゲンハルトは、弱い。
「それも……わかってる」
「それでも共に居てくれると……共に居たいと思ってくれるのだろう?」
「ああ、約束する。この命続く限り、エルフリーデが拒まない限り、俺は……」
さすがにエルが番となる竜を見つけたら身を引くべきでは、とは思っているが、せめてそれまでは。
「ありがとう。レーゲンハルトがそう言うのであれば、あたしはレーゲンハルトに協力する。泣き言を言おうが、骨が折れようが、レーゲンハルトを鍛え続けるよ」
ぎゅっとレーゲンハルトを抱く腕に力が入った。
はっきり言って痛い。
しかしその腕を物理的に振りほどけないほどに弱いのだ。
温もりをくれることは嬉しいけど、同時に圧倒的な実力差を見せつけられているようで情けなくなる。
「いや、そこは少し配慮してくれないかな?」
だからせめてもの抵抗に声を上げてみたものの、
「知ってる? レーゲンハルト。骨って一度綺麗に折ったほうが丈夫になるんだよ?」
そんな泣き言は許さない、とすぐに反論された。
「だから少しは手加減してくれ、と」
「ほら、あたし回復魔法得意だし」
そういって手をかざすと、レーゲンハルトの胸にあった擦り傷が完治する。
「そういう問題じゃねえっ」
痛いものは痛い。
「ん~? でもほら、怪我したらぎゅってしてあげるよ?」
「だ、誰が頼んでっ……」
さすがに露骨に言われると恥ずかしい。その温もりを心地いいと思っている部分があるだけになおさら素直になれない。
「ほら、おっぱい押し付けてあげるよ?」
むにゅん、と肉の塊が潰れる感触と共にエルヴィーネの体重が圧し掛かる。体を支えようと思わず手を突いたら、激痛が走った。
「いだだだだっ!? 腕っ! 腕折れてるからっ! まず治療してくださいっ、お願いしますっ!!」
「もうっ、照れちゃって。可愛いなぁ……」
ますます体重をかけながら肩越しに腕を伸ばして、レーゲンハルトの腕をひと撫で。それだけで痛みは消えた。やっぱりすぐ治るじゃないか、と言いたくなるが、きっとこう返されるだろう。裸で抱き合ってるからだよ、って。
「照れてないっ! 純粋に嫌がってるんだよっ!」
「えぇ~? ほんとかなぁ?」
脇の下に腕を通されて、レーゲンハルトの体が抱えなおされる。
完全に子ども扱い。
いや多少成長したからこそ、自分がまだまだ子供だと認識できてしまう。近づいたからこそ見える「大人」という壁の大きさが。
「エルヴィーネさん……」
「もう、そんな他人行儀な呼び方して……」
「じゃあ、おばさん?」
同年代、あるいは知っている子供の母親は総じて「おばさん」というのが子供の認識だ。女性は年齢や見た目で「おばさん」呼ばわりされていると思いがちだが、子供は「立場」で呼び方が違うだけという認識が強い。
「むかっ! あたし、そんな歳に見える?」
「見えないけど、実際それ以上だろ?」
当時のレーゲンハルトにとって女性の年齢なんて、大人か子供かくらいの区別しかしていない。それはそれとしてだ。エルヴィーネの見た目は人間年齢にして30代といったところだが、実際には1000年以上生きていることは周知の事実。
彼としてはお婆さんとか、長老とか言わない時点で結構お世辞を使っているつもりなのだが、女心としてはそれでも不満らしい。
「お姉さんって呼んでくれてもいいんだよ?」
「いや、それはない。変な関係に見られるかも……」
男娼とかそんな意味で。
「レーゲンハルト、えっち~……」
「いやっ、違っ!」
元々半眼気味の目をさらに細めてジト目になってはいるが、口元は笑っている。
「もう、そんな事を考える年になったのね」
えっちな事に興味が出たからどこかから情報を得てきた、みたいなリアクションのエルヴィーネだが、情報元は100%彼女だ。他の大人が近くにいないから当然といえば当然だが。
「でもそうね、仲良く裸を見せ合う仲だもんね」
「強引にひん剥いた、の間違いだろ?」
竜人化する際の体の参考として、エルヴィーネ共々エルフリーデの前で素っ裸をさらしたのがこんな関係の始まりだ。
真祖の2人からしたら今の外見なんて擬体でしかないから羞恥心もないのだろうが、レーゲンハルトの肉体は100%自前。自分の都合で身長を伸ばせるわけでも、筋肉ムキムキになれるわけでもない。年相応、と言われてしまえばそれまでだが、恥ずかしいのでさすがにそろそろ止めてほしい。
「あれからもう5年も経つんだね~」
「そう……だな……」
エルヴィーネに攫われ、卵から孵ったばかりのエルフリーデと触れ合ってきた5年間……。
「んふふ……」
「何?」
「いーや。楽しい5年間だったな、と思っただけだよ?」
レーゲンハルトの後ろ髪に鼻を突っ込んで愛しそうに体を撫でてから抱きなおす。
「…………」
少しこそばゆかったが、されるがままに身を任せて体重を預けるレーゲンハルト。
「感謝してる……2人の笑顔を見るたびに。2人が毎日、あたしの知らない世界を見せてくれた。新しいことをするたびに驚いて感動して……すごく嬉しくなった」
攫われてきたレーゲンハルトは、エルフリーデに殺されるはずだった。生まれたばかりのエルフリーデに最初に血の味を覚えさせる命になるはずだった。
しかし、どちらが先に手を差し出したのかわからないけれど、気が付いたら兄妹のように一緒に遊んで並んで寝る仲になっていた。
「勝手に攫ってきちゃったけどさ……」
エルヴィーネが後悔の色をにじませて呟く。
歴史的に見れば竜にとって人間は害獣に近いのだろう。自身の生活圏に入ってこないのであれば何の問題もないが、一度殖え出すと際限なく版図を広げて大地を川を海を汚す。
だから人間を管理しよう、制限しようと考えるのは当然の発想だ。
家畜に近い価値観になっていってしまうのも、為政者としてはしょうがないのかもしれない。
「前にも言ったけど、そのことには感謝こそすれ、恨んだりはしてないぞ?」
それはレーゲンハルトの本心だ。
過去のこの時点でも、そしてルイズたちと共に旅する現在であっても変わらない。
「でも、他の人間とはもう……」
「薄情と思われるかもしれないけど、もう親の顔もまともに覚えていないからなぁ。あんまり悲しいとか寂しいって感じはないな。……だいたいあの時エルヴィーネさんに捕まんなかったら、森に棲む動物にあっさり食われてたと思うぞ?」
実際、あの時エルヴィーネさんの周りに転がっていた死体の中には俺を丸呑みできそうなやつも居た……と思う。やっぱりそっちもはっきりとは覚えてないけど。
「レーゲンハルト……いい子だねぇ……」
腕の拘束を解いたエルヴィーネが頭を撫でる。その瞳には涙が浮かんでいたけど、レーゲンハルトは見ないふりをした。
「そんなんじゃ……」
つられて泣きそうになるのをごまかすように視線を下げる。
「あたしの事、お母さんって呼んでいいんだよ?」
「このタイミングで言うのはズルくないか?」
「ちぇっ、今なら呼んでもらえると思ったのに」
思わず突っ込んだセリフに帰ってきたのはいつも通りのエルヴィーネの声だった。
「おい」
「ふふん。レーゲンハルトもまだまだだねぇ。女の涙に動揺しているうちは」
そんなんじゃエルフリーデにいいように使われちゃうよ、と、今度は頬を撫でられた。
「この野郎……」
「でもね。感謝してるのも、感動したのも、嬉しいのも本当だよ?」
「お、おう……」
またすごく優しい顔で言うものだからレーゲンハルトの頬が一気に紅葉する。頬を撫でられている最中だから照れているのがまるわかりで、ごまかしようがない。
「ふふふ……可愛い、ちゅっ……」
固まっている間に頬にキスを受けてさらに身動きがとれなくなってしまう。
と、そこに小さな影が落ちる。
「あ~ハルくんばっかりじゅるい~、エルも、エルも~」
お昼寝をしていたエルが起きてきたらしい。「よいしょ、よいしょ」とアテレコしたくなる危なっかしさでエルヴィーネの太腿によじ登り、手を広げる。
(あれ? エルはこんなにちっちゃかったっけ? 所詮記憶だからな……)
「はいはい、でもちょっと待ってねエルフリーデ。今、レーゲンハルトの怪我治しているところだから」
「ん~? ハルくん、おけがしたの~?」
「お、おう……」
嫌な予感がして身を引くいたレーゲンハルトだったが、エルヴィーネの腕の中では逃げ場もない。
「エルがなおしてあげるよ~?」
ほわっとエルの両手の間に光が生まれる。
本来なら人間には見えないはずの魔力が高密度に集中した結果、光や熱として顕現した姿だ。
エルは昔から魔力を集中させることだけはうまかった。
おそらく防衛本能に近いのだろう。シルバードラゴンは防御に優れている。盾を厚くすれば厚くするだけ攻撃を防いでくれるのとおなじ論理だ。
「お、いいねぇ。やってごらん?」
「うん」
ただ待ってほしい。
大人であるエルヴィーネが治療を行っている時ですら「魔力の顕在化」なんて起きなかった。
つまりエルの手の間にはエルヴィーネが治療に使わないような無駄に大量の魔力がたまっているわけで。
「ちょっ、おばさ……あ」
慌ててつい言ってしまった「おばさん」発言に、エルヴィーネの顔に斜がかかる。
「レーゲンハルト? 女の子の気持ちをちゃんと受け止めてあげるのも、男の子の甲斐性だよ?」
口調が平坦だ。
顔はそのままなのに怒っているのが伝わってくる。
「いや、待っ! もう完全に暴走して……」
レーゲンハルトが逃げようと腰を浮かせたところで、腕を回されて固定される。
「エルフリーデ? ……やっちまいな」
死刑宣告。
「うんっ! ……あ」
「『あ』じゃねぇぇぇぇぇえっ!!!」
ちゅど~ん。
ありゃ?
エルヴィーネさんの思い出を振り返っていたはずなのに、なんでいつものエルの失敗で記憶が途切れているんだろう。
「……それって5年前ですわよね?」
つい最近同じ光景を見ましたわ……と寝ているエルの頭を眺めるルイーザ。
「ああ、そうだよ。あの頃からエルはエルだった。年々威力は増しているんだけど、回復魔法には近づいている気がしねぇな」
「あはは……」
「教える目途は立っているんだろう?」
ヴァルシオンに滞在している時にヴィットーリアとルイーザの王族姉妹に、エルの魔法をどうにかできないか依頼したことがある。
魔力を感知できない人間の俺にはエルの魔法に関して教えてやることができないからだ。
「ん……そうですわね。エルちゃんの場合、魔力の集中はできているんですけど、その魔力を自分の思い通りに動かす技術が未熟なので、そこを何とかすれば……いいと思うんですの……」
後半が尻すぼみなのは確信を持って言えないからだ。
人間からしたら同じ魔法という一括りの認識でも、レッドドラゴンとシルバードラゴンでは得意としている分野が違う。前者は攻撃、後者は防御と癒し。
根本的に魔力の使い方が違うらしい。
「結局故郷に戻らなきゃダメか……」
「……ですわね」
お米を栽培している人に、小麦の栽培方法を聞いているようなものなのだろう。聞かれた側も何となくわかるけれど、自信をもって確実な事は言えない。
「……エルヴィーネんさんだったら、なぁ……」
きっとあの時点でエルの問題点に気づいてはいたのだろう。
だけどあの時点で俺を鍛えようと思ってくれたのはエルヴィーネさんだけだった。
だから俺を鍛えることを優先した。俺の気持ちとエルの命の両方を守る母親としての打算の妥協点として。
「……おっきい人……ですのね」
「ん……そう……だな……」
俺が知っているのは母親や師匠としての彼女の顔だけ。それだけでも敵わないなぁ、と思うのに、それは彼女の一側面でしかない。
エルヴィーネさんからもっと多くの事を学びたかったけど、それはもう叶わない。
「すいません……」
「何を……言って……」
視線を戻すと泣きそうな顔のルイーザが俺を見上げていた。
エルに握られていないほうの手が伸びてきて俺の目じりを拭う。そこまでされてようやく自分が涙を浮かべていたことに気が付いた。
こんなに近くでは「欠伸だ」なんてごまかしようがない。
「そんな顔で話すハルト君にこれ以上聞けません」
「あ……はは、ルイズには泣かされてばっかりだな」
ヴァルシオンでもエルとの関係に真剣になれと叱られて、自分の本当の気持ちに気づかされて涙を流してしまった。
「すいません……」
「謝らないでくれ。それと……今後も聞いてくれると嬉しい」
母親と死に別れてしまったエルの手前、我慢しなきゃと勝手に気負っていたけど、俺だって悲しくなかったわけじゃない。
ただ目を背けて見ないフリをしてきただけだ。
格好つけていただけだ。
エルの前では意地を張って、エルを支えなきゃって思いながら、エルを支えることで自分を保とうとしていただけだ。
それに気づくことができたから。
「でも……」
ルイーザがすまなそうに瞳を伏せる。
「改めて思い出せばわかってくることもあると思う。子供の頃はわからなかったこととか、男だから気づかなかったこととか……さ」
もうエルヴィーネさんから直接学ぶことはできない。
でも記憶の中のエルヴィーネさんから学べることはまだある。この年になってはじめて理解できることはあるはずだ。
「…………」
泣き笑いのような微妙な表情のままのルイーザが顔を上げる。
「俺は嬉しかったぞ? エルヴィーネさんに会えたみたいで」
「もう、強がりばっかり……」
レーゲンハルトは可愛いなぁ、とエルヴィーネさんに言われたみたいだ。
女の子は本当に成長が早い。
「否定はしないけど……本心でもある。頼む……」
「頼まれました」
ようやくルイーザが笑ってくれた。ルイーザの心音も落ち着いているし、俺も眠くなってきた。
「もう、眠れそうか?」
「あ、はい……」
そういえばそのためにお話してくれていたんでしたね、と呟いて小さく身じろぎ。体の位置を調節して俺に体重を預けてくる。
「ハルト君……」
何かを思いついたようにふい、と顔を上げた。
「うん?」
「大好きですよ。ちゅっ……」
エルヴィーネさんにキスされた場所とほぼ同じ頬に口づけして顔を伏せた。
「なっ……」
「お休みなさい……」
一方的にキスをして俺の胸に頬を預けたルイーザからすぐに規則正しい寝息が漏れ出す。
……こっちが眠れなくなりそうだ。