熊と遊ぼう
「えーっと、フルーツいる?」
なんなら全部あげるよ。だから見逃して貰えないかな?
そっとフルーツが入ったパックを熊の前に置き、ジリジリと後退する。気分はさながら蛇に睨まれた蛙だ。
…あ、同じようなものか。どっちも捕食者と被食者だ。
こういう時、どうすればいいんだっけ?
確か熊の目を逸らさずに見ながらゆっくり後退、だったよね。小学校で散々習ったけれど、これって効果あるんだろうか?
結局さっきはリンゴに気をそらされていただけだよね?
そう思いながらも、他に方法は思いつかない。となれば実践あるのみ!
「大丈夫、絶対逃げ切れるから!」
と爽やかな笑顔で言い切った小学校の頃の担任、信じているからな!
熊の目を見てまた一歩、そっと後ろに下がる。
熊はフルーツに釘付けで、私が逃げていることに気づいていないみたいだ。ご飯の力、恐るべし!フルーツに感謝だ。
あ、もちろん小学校の担任の先生がにも感謝してますよ。ひとりは逃げ切れましたし。あなたが教えてくれた知識の中で、熊の知識が一番役に立ってます!
今度、先生が好きだったお饅頭でも送りつけよう。
そんなことを考えながら逃げていたのが悪かったのか。一歩退いたと共に、足がぬかるみで滑ったような嫌な感覚がした。
視界が反転する。
「う、わっ…⁈」
眩暈が酷くなり、頭の奥がズキリと鈍く痛んだ。
地面が近づいてくる。
熊のもさもさの太い足が近づいてくる。
足には鋭く大きな爪。
踏み潰されても引っかかれても、きっと私の命はない。
ヤバイ!今度こそ殺される…!
身体が勝手に強張る。
胃から苦いものがせり上がってくる。
あまりの恐怖にギュッと目を閉じた。
どうせ死ぬなら一瞬で!
ガサリと落ち葉を踏みつける音がする。
来た…!
ぶわりと汗が噴き出した顔に生温かい風が当たった。と同時にゴワゴワの硬い毛が頬を撫でる。
温かい。お日様の匂いがする。
まるで昔飼っていた柴犬に抱きついた時みたいな感覚だ。
でも、今私の目の前にいるのは熊だ。柴犬じゃない。
のに、頬に触れるのは鋭い爪や硬い牙じゃなくて、お日様の匂いがする硬めの毛だ。
…どういうこと?
訳がわからなくて目を開いて。
「…え?」
思わず私は疑問の声を漏らした。
いや、だって。私の勘違いじゃなければ、私は今、熊に頬擦りされているんだもん。
驚くなという方が無理な話だ。
「あの、熊さん?」
これは一体どういうことでしょう?
言葉が通じないとわかっていても、つい聞いてしまった。
野生の、しかも全然知らない熊に懐かれるなんて、理解の範疇を超えている。
完全にキャパオーバーだ。タダでさえサボリ魔の私の脳細胞が悲鳴を上げているよ。
それにしても。
熊って近くで見ると可愛いというよりはど迫力の凛々しいんだね。
軽く現実逃避をして、目の前の熊をまじまじと観察する。
…目の前にもふもふの毛玉がいる。ついでに毛玉はこちらを攻撃する気はないみたいだ。
それに相手もこっちに頬擦りしてるんだし、動物好きとしてはこの機会を逃すのは惜しい気がする。
ちょっとぐらいのお触りは許されるよね?
ゆっくりと熊の頭に手を伸ばし、ぽん、と頭に手を置いた。
熊の毛はやっぱり固くてごわごわ。でもその感覚もまた良い!
ゆっくりと手を動かせば、熊はちょっとだけ私を見て、それからまた頬擦りを始めた。
熊可愛い!見た目はごついけど!
「良い子ねー」
思わず甘い声になり、熊に抱きつく。ギュッと抱きつけば、硬い毛の下の柔らかい産毛まで手が届く。
まるで猫の赤ちゃんの毛みたいにふわふわだ。うふふ、最高ー!
初めてのもふもふを存分に楽しんでいると。
向こうから、
「そらちゃん!」
という声が聞こえてきた。
この声は…天野さん?もしかして本当に人を呼んできてくれた?
熊から手を離し、振り返ると。
ちょうど急カーブを曲がって天野さんと見覚えのある男子生徒が姿を現した。
「大丈夫か!」
私とぴったりとくっついている熊に驚いたのか、走ってきた男子生徒は顔を強張らせた。
あ、ですよねー。熊と戯れている女子とか、私も男子生徒の立場だったら引いている。
熊も天野さんと男子生徒の登場に驚いたのか、私にくっついたまま固まっている。
うわぉ、タイミングが。
「あの、えっとこれは…。事情がありましてですね?」
とりあえず熊は悪くないと言い訳しようとしてみたのだが…。この不思議現象を私も説明できないのだ。
でも、久しぶりにもふもふという癒しを与えてくれた熊が退治されるのは忍びない。
「熊さん、もうそろそろ山に戻ろっか」
話しかければ熊は名残惜しそうに私から離れた。
「良い子」
熊の頭をもう一回だけ撫でて、
「バイバイ」
と背中を押した。
熊は一度だけ低く鳴くと、のしのしと山の中に帰っていった。
いやぁ、私って猛獣使いの才能でもあるのかな。
という冗談はさておき。
まだ問題は残っている。
どう言い訳しようかな、なんて考えながら、駆けつけてくれた天野さんの名も知らぬ男子生徒の方に向き直った。