ひとりぼっちの抵抗
一定のめどが立ってから続きは投稿することにしました。長くなるかもしれません。
後悔しないためにはどう生きればよいのか。
どのような選択をしても、嗚呼、あの時違う選択をしていればという後悔がありそうなものであるが。
一方、充実した人生の送る方法と言われればなんとなく察しがつく。
自分から望んで積極的に動く。
きっと自らが望んで選んだ道ならば後悔などなかった。
思えば自分から積極的に選択をしたのは志望大学を決めた時が最初で最後であったかもしれない。
中学の頃は友達の誘いを断りきれずサッカー部に属し、親に勧められるままに進学実績の良い高校に進学した。
高校では文化祭や運動会など様々な行事があったが、もちろん出し物決めの時には意見などしなかったし、まして実行委員になど立候補するはずもなかった。余り物の係を請け負い、周りの決めたことをただ指示に従ってこなしただけであった。
要は周りの空気という得体の知れないものに乗っかって流されて生きてきただけである。
しかし大学受験に際して初めて自分で、ある大学の理学部に進学するということを選んだ。なんら青春とは無縁の高校生活であったものの、そこで人生における目標を見つけることができたことだけは幸いであった。
しかし、それきりである。
なぜこのような話をしているかというとそれは大学入学後、僕が周りの環境を変えようとなんら努力せず、ただ成るように成るさと過ごしてきた結果として絶賛人生を後悔している最中だからである。
順序を追って説明していこう。
三月九日、大学入試合格発表。
僕、見事第一志望に合格。親戚や学校の先生方、家族や友人からたくさんのお祝いの言葉と祝い金を賜り、ライトノベルとアニメの円盤を大量に買い込む。来るべき大学生活に向けての予習用の教材としてであって断じてオタク趣味ではない。
高校では友達はそれなりにいたが、勉強でめちゃくちゃ苦労して彼女だの何だの言っている余裕はなかった。特に何の感慨もなく、あっさりとした卒業式を終えて晴れて高校生という身分を卒業した。高校などもはや眼中にない。大学入ったらサークル入って、気の合う仲間たちと楽しい時間を過ごし、あわよくば性格が良くて可愛い女の子とキャッキャウフフとか考えて春休みを過ごしていた。
四月五日、夢いっぱい胸いっぱいの入学式。
通学路で同じ大学の生徒らしき人を見かけると心が弾んだし、入学式の学長の長くてつまらないどうでもいい話さえも耳障り良く聞こえたものだった。
サークルにすぐには参加できない事情があるにもかかわらず、わざわざ勧誘の海に飛び込みビラを山のように受け取ってライトノベルのような生活を夢想しては高笑い。
が、一回目の講義で僕はすぐに絶望することになった。大半の人間がすでに友達と連れ立ってきていたのだ。最初はワケが分からなかった。
今時はSNSというげに恐ろしきツールがあるらしい。
初っ端からお友達とベッタリ登校してきた連中は大学が始まる前からTwitterやLINEで連絡を取り合い、一回目の講義の前に会って遊びに行くという荒技で人間関係を構築していたことが全てが手遅れになった後に判明した。ガラケーユーザーに対してほんと冷たい社会になったものだ。
みんなが仲良く談笑し、友達づてにそのまた友達へどんどん人脈の輪を広げていく中で僕はひたすら寝たふりを続けてやり過ごした。いや、結果としては全くやり過ごせても、しのげてもなかったのだが。次々と余白が埋まっていき自分の居場所がなくなっていくのを感じた。そして自分の名前を書くスペースがなくなってしまった時、僕完全に浮いてそこにいてもいない存在として扱われるようになった。時々話のネタに尽きたリア充共が笑いのタネにするくらいである。
五月八日ゴールデンウィーク明け。僕、ぼっちである。
大学の講義室で僕の前に座った女子3人組が「いや〜、ウチ大学入る前ぼっちやと思っとったわ」「あ〜私も」「なんだかんだ友達できてよかったね」「でも今ぼっちの人辛くない、完全に出遅れみたいな」「あはは、そんな人この講義室にいないよ〜」
ギリッと奥歯を噛みしめる。笑い声が煩い。いくら寝たふりをしていても容赦なく楽しそうな会話は耳殻によって集められ、外耳道を通り鼓膜を振動させ、耳小骨によって増幅されリンパ液を通じて基底膜を揺らし、聴神経を興奮させる。煩い、煩い、煩いそして辛い。
春休みの気色の悪い妄想をしていた僕は遥か極限の彼方へと吹き飛び、暗澹たる気分で早く講義よ始まれと祈っていた。大学入学する前にライトノベルやアニメを使って十二分の予習をしていたはずなのにどうしてこうなったと頭を抱えたくなった。現実とはかくに厳しきものか。
よく僕は友達があんまりいないとか言っているのを聞いたりもする。だが、僕に言わせてもらえば甘過ぎる。
あまりや少ない、ほとんどなどの形容詞、副詞が付いているうちはぼっちとは言えない。胸を張って友達0人と言えて初めてぼっちを名乗ることが許されるのだ。ぼっちとは会話の中で軽い自虐に使われて良いほどお手軽な称号ではない。
ついゴールデンウィーク前まで実家から大学に通っていた。大学の付近に母方の祖父と祖母が住んでいたのでちょうど学校が始まるのに合わせてそっちに転がり込もうと思っていた。ところが僕がそっちに移り住むための準備に時間がかかるということで実家からバス、新幹線、電車と乗り継いで大体二時間半かけて通学していた。
朝は日が昇る前に起き、帰りは夜遅い。通学だけで疲れきってサークルだの、まして新歓だの言っている余裕など欠片もなかった。……いや、実際いくらでもチャンスはあったかもしれない。初めての講義の時に誰かの近くに座ってちょっと声を掛けてみるだけでもよかった。
だが、何かが高校の頃までと違ったと言うほかない。
その何かははっきりと分かっている。どうにも一言では言い表しがたいが空気感と呼べばいいだろうか。
理系でありながらチェックシャツを頑なに拒み、何かを勘違いしたとしかとしか思えない自称イケてるファッションに身を包み、大声で騒ぎ立てる生理的に受け付け難い男衆。眩しさの欠片もなく周囲に騒音をばらまく姿はまさにスター性のない目立ちたがり屋の言葉がふさわしい。
その連中を囲むこれまたどっかの雑誌で囓ったのであろう男受けしそうな(ちなみのこの男というのは頭スカスカの猿みたいなやつのことだ)ファッション、明らかに作り込まれたことが2秒でわかりそうな粗製の吐き気のする甘ったるい声に性格の女共。
まぁ、曰く大学デビューというやつなのだろう。太陽が東から昇り、西へ沈むという普遍的事実に等しいことからお互いに目を逸らし、お互いのことをこれでもかと飾り立てた美辞麗句で褒めそやし作り上げられた空間はまさに異様の一言。
僕は空気感に抵抗しようとした。お前らはおかしいとそれとなく伝えてやろうとしたのだ、まるっきり徒労である。彼らの宝石の中に混じった石を見るような眼がフラッシュバックする。
気分はさながら地球が太陽の周りを公転している明白な証拠を突きつけてやったのにキリスト教のお偉方にお前こそが異端なのだと宣告されたガリレオである。
なんとか馴染もうと試みたこともあったが如何にも心の底にへばりついたヘドロのような気持ちの悪さを取り去ることができなかった。
元々のコミュニケーション能力の低さと僕はこんな動物園に住んでそうな奴らとは違うという中二病的な斜に構えた態度が絶妙なハーモニーを奏で、目出度くぼっち佐武(理学部のごく一部の奴らからそう呼ばれているらしい)の名前を頂戴することになった。
なんとか孤高の佐武にならないものだろうかなどというくだらない思案のために講義まるまる2コマを空費した。
いっその事ライトノベルのように異世界とかタイムリープで人生白紙からやり直させて欲しい。
でも現実では過去を全て無かったことにしてやり直しなんかできっこないのである。現実でやり直すっていうのはたくさんの過去の負債を背負って、現実と向き合わなければできないものだ。すべて帳消しで0からできるならなんて楽なことか。
その時、講義室の扉がガラリと開きお待ちかねの講義開始、僕の思考は中断された。
今日の講義がすべて終了し、僕は真っ先に図書館を目指した。講義以外の時間ほぼすべてをここで過ごしているといっても過言ではない。ただひたすら様々な本を読み、講義の予習復習をし、余力でどんどん独学を進めていく。他にすることがないので学習の捗ること捗ること。……悲しくなんてない。
孤独であるといろいろ考えすぎてしまう。空虚な時間が耐え難い。何かで時間を埋める、有意義な時間を過ごしていると自分を納得させるためにたどり着いたのが今の僕のスタンスだ。
このままでいいのか? きっと何か行動を起こさない限り、この大学4年間、今と何一つ変わらないまま終わりを迎えるだろう。善い訳ない、善い訳ないのだが自分から何か起こしてやろうなんて気概は毛頭ない。そもそもあれば、今のこんな状況にはなっていないだろう。人は変わろうと思ってもそう簡単に変わることなどできない。もっとも稀に人はいとも容易くに豹変してしまうこともあるけれど。
6時半になったので図書館を出た。五月は新緑の季節である。桜の花びらは既に儚い命を完全に散らし、代わりに青々とした照り艶のいい葉が茂り春の終わりを告げていた。だいぶ暖かくなったがまだこの時間になると少し肌寒く、空気は乾燥していた。
空は夕方と夜の境目といった様相だ。近くには夜の藍が沈んでいて間もなく空を彩るであろう星々の来訪を待っており、遠くを眺めると茜色の光彩が水晶体を貫き網膜を焼いた。
歩いてすぐの大学前にあるバス停にたどり着き、頭の中の栓を抜き、思考という思考を全て排して、ただただぼんやりとバスを待つ。
バスが来る。乗る。バスに揺られながら、流れる窓の様子を眺めた。
自分の田舎とも都会とも言い難い中途半端に自然も娯楽も楽しめる我が愛しき故郷とは違う光景。僕が通う大学はかなりの大都市にある。初めて来た時はあまりの人の多さに吐き気を催し、必殺ダイレクトUターンをかます寸前でかろうじて踏みとどまった記憶がある。
見える景色はまさにコンクリートジャングル。素晴らしい表現だと思う。文章力のない人間でも大都市を見ればとりあえずコンクリートジャングルとでも言っておけば全て丸く収まる。初めて思いついた人には恭敬の念が絶えない。
狭い土地をなんとか有効利用しようと上へ上へと伸びた高層ビル群は林立した熱帯樹林を思わせる。ただそこには生気はなく、寒々しくどこか恐ろしい印象しか受けない。ともすれば巨大な墓碑を思わせる。
陽はとうに落ちていたが、街は暗くなってしまうことに怯えるように街は煌々と輝いて闇に抵抗の意を示していた。
今下宿している母の実家は大学前のバス停からバスで30分ほどの場所に立地している。自室もちゃんと与えられており、広さは7畳ほど。一人の大学生が過ごすのであれば十分過ぎるほどだろう。部屋の中は空疎なもので勉強机、椅子、教科書だけが収められたスカスカの本棚、レポート用のプリンタ、扇風機、ゴミ箱しか置かれていない。
その他一切のものは自分の実家に置いてきた。大学の勉強の邪魔になると思われたライトノベルやアニメ、ゲームの類はもちろんの事だが絶対に必要だと思われるもの以外も全て。
あってもなくても良いがどちらかといえばあったほうが良いと一般的には思われているものは実はないほうが良いと思う。
テレビとかエアコンとか学生の身の丈に合わないお金とか。あまりに便利で不自由のない暮らしは人の性質を殺す。
お年寄りに対して完璧なバリアフリー空間を提供するとむしろ寝たきりになるリスクや認知症の進行が早まってしまうのは有名な事実である。心身ともに張り合いがなくなってしまうために起こるのではないかと言われている。
適度の逆境や苦労こそ人の人生を実り豊かにするものだ。
しかし僕の今の状況は適量ではない。早く寝て明日に備えよう。
次の日、線型代数学Iの講義を受けていた。とうの昔に独学し終えた範囲であり、退屈極まりない。もちろんその分野を極めたなどとは口が裂けても言えないことだ。教養レベルの特に重要な部分をさらっただけである。ただ1年目の授業で習う範囲は全て押さえた。よって今しているのは内職、すなわち講義中にこっそり他の勉強をしている。
独学で最も力を入れているのは数学、すでに2年目に履修する予定の複素関数論に突入した。僕は数学者になりたい。
数学者と言っても一般的な数学、いわゆる純粋数学をやりたいわけではない。
ジョン・フォン・ノイマン。僅か30歳にして『不完全性定理』のクルト・ゲーデル、『相対性理論』のアルバート・アインシュタインと肩を並べてプリンストン高等研究所で27名の教授陣の一角を担った天才。「半神半人」「悪魔の頭脳」「火星人」などと評されることもあったノイマンが打ち立てた分野、応用数学の研究者にだ。
明確な定義はないが気象、宇宙、経済、生物統計、バイオインフォマティクスなど様々な分野に数学的知識を適用することを主眼とした数学である。
いつからそんな夢に目覚めたのかは曖昧模糊として判然としないが、おそらく高校に入ってからだと思う。中学生の頃はもっと漠然と科学者になりたいと思っていた。中学の卒業文集にもそのように書いてある。
高校1年目で当たった、いや外した数学の先生がとんでもない先生だった。名前は小塚。崇彦ではない。まず基本教科書を開かない。一年間で開いたのはわずか2回だった。カウントするまでもなく覚えている。一切の定義、公式の説明もなくいきなり問題集を開き、黒板に落書きのような板書を始める。初めて習った分野は確か二次関数だったはずだが、何の説明もなくいきなり平方完成などと言い出して、訳が分からなかった。何か式を変形をしているのはわかったし、二乗の部分を展開してみればなるほど、同じ式の戻るのは理解できる。けれど、いかんせんどのような基準に従って変形しているのか、どうしてこれで軸や頂点の位置がわかるのか皆目見当もつかなかった。これが一年間、全分野にわたって続いた。
Q.なぜ僕が数学が苦手になったか証明せよ。
A.自明である。 Q.E.D.
これで証明が済む。
ちなみにQ.E.D.は今時使われない。むしろ使うと恥ずかしいという風潮さえある。今賢しげにQ.E.D.など使っている高校生には辞めることを勧める。僕はゼミで発表するときにQ.E.D.とドヤ顔で叫んで失笑を買った。
そんなこんなで僕は数学が大の苦手だった。僕は一度テストで驚異の2点を叩き出し400人中の最下位を取ったこともあったし、追試にはほぼ毎回参加していたので追試仲間ができた、いやできてしまった。
その追試仲間はほとんどが同じクラスの人間であったのは言うまでもない。一年学期末に実施される進路希望で僕のクラスは理系志向の現代において前代未聞の人数を文系に送り込むことになる。僕はなぜか理系を選択した、意固地になっていたかもしれない。
僕がまともな成績をとるようになったのは2年の夏以降であった。
2年目に偶然僕の部活動の顧問が数学の先生に交代したのだ。この先生は名前を水越といった。この先生は僕を数学の地獄から救い出してくれた人だ。2年に進級した途端に行われた初年度の定着の度合いを測るのテストで8点を取った。さすがにまずい。丁度良く顧問が数学の先生に交代したのだから聞きに行こうという安直な発想だったが、このちょっとした選択で人生が変わった。
まず聞きに行って発覚したのは僕が公式の存在を知らなかったということだ。解と係数の関係、剰余の定理、ユークリッドの互除法。1学期後半から小塚先生の授業を一切聞かなかったせいであるが、今思い出しても全く笑えない。ちなみに水越先生は大爆笑していた気がする。
水越先生は公式の原理を僕に1から説明し、自作のプリントを僕にくれた。プリントには典型問題とその解き方が載っていて、それを解いては水越先生の元へ行った。毎日毎日飽きもせず、凝りもせず通いつめて夏休みが明ける頃には同級生に追いつくことができた。3年次には県内一の進学校であった僕の高校でも20番を割ることは無くなっていた。
しかし数学をいつ好きになったかと聞かれると不思議と水越先生に出会った後ではなく数学のテストで2点を取ったあの頃であったと断言できる。
訳が分からなくて、僕を一切寄せ付けてくれなくて。でもだからこそ魅力的で僕はあの頃本当に一日中数学のことだけを考えていた。
僕は小塚、水越両先生に感謝している。
一時期小塚と呼び捨てにして蔑んだ時期もあったものの小塚先生のおかげで数学の難しさ、分かりにくさ負の側面を散々味わうことができた。一年間さんざっぱら艱難辛苦したおかげであれ以来数学で苦労したことは一度たりともない。
水越先生は数学がわかる喜びを教えてくれた。ただなんとなく魅力的だと思っていた数学の本当の美しさを理解できたのは水越先生あってのことである。
今、僕が数学をしているのは天文学的偶然の出会いの元でなのである。
今日の講義は3限で終わり、図書館に直行した。
学内には学部ごとに図書館があるが、それに加えてもう一つ中央図書館という蔵書数120万冊以上の最大の図書館がある。僕がもっぱら利用しているのはここだ。最近建て替えられたばかりなので綺麗だし、設備も新しい。大学にはお金がたっぷりとあるようだ。
それもそのはず。実は、僕が通う大学は世間一般の認知度は高い。日本人であれば知らない人を探す方が難しい、それなりの大学のはずである。国からも結構な額の補助金を頂いているため研究費も国内有数、うん千万する設備も揃っていて研究者垂涎の環境である。そして大学側もいい研究者を集めようと東奔西走しているし、僕ら学生も学部生のうちからそのように教育を受ける。大学というよりも研究者育成機関の名称の方が合っているだろう。
講義で習った地球科学基礎Iの内容を演習用に買った問題集で解き進めていく。
高校では習わなかったけど、なかなか地学もいけるなぁ。ちょっと宇宙関連の本でも借りていこうか。
本の特有の独特の香りを嗅ぎながらぎっしりと歴史を感じさせるボロボロの理論書やわけのわからない英語やフランス語の文学書の詰まった棚をいくつも通り抜け、宇宙に関連する本が置いてある棚にたどり着く。その中からあまり専門的でない教養書を幾つか見繕い、抜き出してパラパラとめくる。
勉強も楽しい。でも一人ではやっぱり寂しいのだ。何十万年の進化の歴史の中で人間は孤独に耐えられないようになってしまったのだろう。無駄で、不合理で素敵なことだと思う。
もう一度友達を作るチャンスがあれば何かちょっとしたきっかけさえあれば、今度はつかんで離さないのに……。
未だに受動的に何かの訪れを待つ僕の頭を左手でコンコンと叩きながら自嘲気味に笑って、笑った後一人でニヤニヤしているキモい奴だとも思われていやしないかと周囲を確認した。右と後ろを確認し、ふぅと一息ついて何気なく左を向くと、北欧から来た妖精ですみたいなオーラを醸し出すどんでもない美人とバッチリ目があっていた。
肩口で切り揃えられた、俗にプラチナブロンドとかトゥヘッドとか言われるアホみたいに銀色に輝く眩い髪に青いヘアピンで留めていた。キラリと光る深い海を思わせる紺碧の瞳には何の感情も浮かんでおらず、ただかろうじて自分に焦点が合っていることだけは理解できた。表情筋が一切働いていないような無表情。手には何だか宇宙っぽいタイトルの本が何冊か抱えられていた。
数瞬の後、彼女は口を開いて
「ゔぇぇ……きもいぃ」
えずいていた。
突然のことに思考が追いついていなかったが、ようやく脳が回転し始めとりあえず謂れがないわけではないもののあんまりな罵倒を受けたことを理解した。
「ちょっと、その反応はあんまりじゃない?」
すると彼女は悪びれた様子もなく、というか徹頭徹尾の無表情でこう答えた。
「ごめんね。猿」
煽り性能高すぎないかコイツ。
おおよそ、一般の初対面の人間に対する態度とはかけ離れていた。
「急になんなんだよ。僕は君のことなんか知らないし初対面のはずだけど」
「私は知ってるよ。あなたのこと」
「えっ?」
「ぼっち佐武」
「おい」
気がついたときには、彼女に詰め寄って手首を掴んでいた。
すぐさまパァンと振り払われたけど。
「私の手に赤パンカビがついちゃった。後で次亜塩素酸で消毒しなきゃ」
「この状況でもブレない君に尊敬の意を表したいところだけど。それよりどうして僕の名前を?」
「有名だもん、よく同級生が話してるの聞くよ。根暗オーラ出しててキモいし、同じ空間にいるだけで空気を淀むのを感じるって」
彼女はポケットから液体の入ったボトルを取り出して触られた手首に何か液体を吹きかけながら言った。
「嘘だ」
膝から崩れ落ちる。全く注目されていないならまだいい。空気みたいな存在として扱って貰えばいいのだ。しかし、いるだけで不快だと……。
そんなのゴキブリ扱いされるしかないじゃないか、本当にありがとうございます。
「……はぁ。アルコールじゃ死なないんだよ。赤パンカビ」
未だにこの女は自分の手首のことを気にしていた。
もう怒る気は消失していた。ここまでくると逆に清々しい。
「君の名前、そろそろ聞いてもいいかな?」
「理学部一年。青木鷺 彗。青木は普通の青木。鳥の鷺あと彗星の彗」
は? ってことはつまり
「お、同じ学部じゃないか!」
こんな目立つ奴、今まで僕は見逃していたのか。一体どれほどいっぱいいっぱいだったのだろう。
「これからホントよろしくしないで下さい。お願いします」
「君なぁ」
ものすごくこちらを馬鹿にする口調で青木鷺は言った。顔の表情とはまるでマッチしていない。まるでアニメーションで間違った声を当ててしまったような違和感。
「一応名乗っておくけど、僕は佐武 邦彦。君と同じ理学部一年だ。佐武 一郎の佐武に小平 邦彦の邦彦」
「大層な名前」
「ほっとけ」
自覚はあるさ。自分とは遥かかけ離れた天才たちの名前だ。お前こそ青木 鷺水とかどこの浮世草子作家だよ。
「あと私は天体は好きだけど変態は嫌いです」
「なんで今のタイミングでそれを言った、なぁ!?」
僕の言葉を無視して彼女は身を翻して去っていった。ふわりと綺麗な髪が宙に舞い光を乱反射した。思わず見惚れていただろう、もし青木鷺を名乗るこの女が中身まで完璧な美少女であったのであればの話だが。
夜、布団に寝転がって青木鷺のことを思い出していた。神々しささえ感じさせる美しさではない。
あの女の目、僕と同じだった。周囲に絶望しきった目だ。深い海の深奥に見え隠れする拭いきれない濁り。
少女を貶める唯一の瑕疵。完璧であるからこそ何よりもその欠落が僕の目に焼き付いて、僕の心を刺した。
次の日、講義室に当たり前のように青木鷺の姿はあった。つまり僕がこれまでずっと下ばかり見て生活してきたせいでピカピカの恒星みたいな奴を見逃していたということだ。
青木鷺に軽薄そうな男が話しかけている。青木鷺は完全無視だが。
そうこうしているうちに講義が始まった。
講義の間、最後列でずっと講義室の様子を観察していて分かったことが三つ。
一つ目は、青木鷺が講義室中の注目を集めに集めまくっていること。
男子から眷恋、情欲、劣情その他もろもろ入り混じった好奇の視線を、女子からは憎悪、嫉妬、嫌悪のない混ぜになった感情を。考えてみたら当たり前だ。男子が1000人いたとすれば999人は青木鷺の現実離れした容姿を一目見た瞬間に恋に落ちるだろう。残りの一人は僕だ。僕には見てくれだけで女を選ぶ猿どもの気持ちは全くわからない。碌すっぽ話したこともないのに人を好きになるわけがない。……できればかわいい子がいいのは事実として認めざるを得ないにしてもだ。
ごめんね。猿
昨日の青木鷺の罵倒の中入っていたワードの意味はこれだったのか。
髪の毛を茶色に染め、ワックスで髪を逆立て、人工香料の匂いをプンプンさせ酒の席で積極的に女に擦り寄り、話しかけてLINEを交換する。まぁ猿という代名詞はふさわしいかもしれない。そんな猿どもの視線に一日中晒されていたら男=猿の大学生男子7割に当てはまる法則が一般的なものであるという結論にたどり着いてもおかしくない。
逆に女子からしてみれば気にくわないだろう。どれだけ自分を磨こうとも元々のポテンシャルでどう足掻いても敵わない。それだけだって嫉妬の対象だろうに、まして自分の気になる男まで青木鷺にぞっこんだったなんてことがあったりしたらなおさらだ。
おそらく学部で話題どころじゃない。大学全体、いやもっと広い範囲で注目されているはずだ。僕だったら1日だって耐えられない。青木鷺はムカつくが凄い奴だと認めざるをえない。
二つ目は青木鷺もぼっちだということ。現状を見ていれば、友達などできるわけがないだろう。男は同性からの牽制、足の引っ張り合いで動きづらいだろうし、そもそもそんな奴を青木鷺が気にいるとも思えない。女は男の獲得というサバンナより激しい生存競争で利害が青木鷺とかち合うのだ、男以上に話にならない。
青木鷺たった一人の存在であらゆる人間が理性というものを失い、獣になってしまったように思える。
しかし、青木鷺が悪いと言われればそうではない。もともとそういった感情が奥底にあるのが青木鷺の強烈な存在感によって強制的に発露してしまっているだけだ。
親友だと肩を組みあいながら裏では狙っている女に親友(笑)の悪口を吹き込み、ずっ友だよなんて言いながら狙っている男が一緒だとわかった瞬間にお互いをなじり合う。
大学での人間関係の大半がそんなそんなものだろう。ただ自分は孤独じゃないと誇示するためだけの薄っぺらい会話、大学生活を楽しんでいると思い込むための上辺だけの付き合い、講義ノートや過去問を融通してもらう為だけの自称友達。誰も彼も自分の為だけに他人を利用している。だから、お互いの実利が対立してしまった時、実にあっさりと手のひらを返す。嘘をつく、ハブにする、もっと直接的にいじめる。大学4年間を表面上楽しく過ごすための使い捨てのツール。
そんなうすら寒い馴れ合いをするためだけの仲良し子良しのお友達の集まりにも僕は劣ると認識されている。とても自然で当たり前のように。
そんなのは僕が許さない。
僕が欲しいのはお友達じゃない。お互いを高め合える、助け合える、励ませる、応援できる、注意できる、批判できる、喧嘩してそれで仲直りできる友達だ。
いつも何もせず、流れに身を任せては後悔ばかりだった。選択肢を間違えたのではない。誰かに選択を委ねてしまったことそれが間違いだったのだ。
今まで散々大学生活がつまらないことを周りの責任にして自分は違うのだと自分言い聞かせてきた。
しかしベクトルは違えど、本質僕自身も彼らと同じ主体性のないどうしようもない有象無象であることに間違いはない。
周囲もつまらないが自分自身も大概だろう。事実、ムカつくことにあの青木鷺は本当につまらなそうに僕のことを見ていた。
いい加減にするべき時だ、きっと今何もできないのならば。
僕がこの人生において成せることは何もできずに死ぬことだけだろう。
気色の悪い妄想ばかりしてないで現実を見ろ、現実を見た上で理想を追い求めろ。
何もせずとも自分が望むように周りが変わってくれるのだという幻想は捨てろ、
捨てた上で自分で変えてやると意志を持て。
自分を変えて、周りも変えろ。
そして三つ目。
僕と青木鷺以外にもう一人ぼっちを見つけた。
僕はもう二度と、今度こそ、このチャンスを逃さない。