01
「生きたいほど、愛してるの」
涙で瞳を潤ませながら思いを込めて彼女にこう言われた時、なんと返すのが正解なのだろうか。
正直自分は、愛の告白にもかかわらず、生きたいほどってなんだよと、全く面白くもないツッコミを入れてしまった。無論心の中でだ。そんなセリフを仮にも愛してくれている彼女に向かってなど言えるはずも無い。
だから自分は無言だった。正しいアンサーなど自分で見つけるしかないにしても、自分では見つからなかった。
それはともかく、目の前の彼女との馴れ初めでも話してみようか。と言っても、なんのことはない。彼女は富士愛理という中流階級の一人娘だ。
出会いは大学のサークル。と言ってもサークルの存在価値自体が出会いに終始する、人数だけは多い中身スカスカの膨らみ過ぎたスポンジケーキみたいなサークルだったが。
話しがすぐ逸れるが、きっかけもごく普通。自分が初対面で可愛いなと思ったので声を掛けて、興味を持って、ごく普通の交際に発展したカップル(死語)だ。
けれど、世の中全般に当てはまるように、彼女もまた普通ではなかった。今の世の中、普通なんてむしろ異常だろう。怪奇現象か都市伝説レベルのレアものだ。
だからといって、ここまで普通じゃないのも普通じゃない。もとい、珍しい。
彼女は不死だった。
いや、実際にはどうかすれば死ぬらしいが、十中十九寿命以外では死なない。それは数字が九つ増えるくらい。
推測に過ぎないが、百二十五年くらい生きられる。病気にならず、怪我は即座に治り、毒は自然中和されるまでのた打ちまわれる。推測に過ぎないが(大事なことなので二回言った)。
愛理は初め、そのことを隠そうとしていた。もちろん自分が不死です、なんて漫画やアニメにしか存在しない設定をリアルな人間界で言いたい人間はいないだろう。
しかし愛理は、隠そうとしても隠せなかった。知らなければ何一つおかしなことなどない、文句も一つも無い可愛い彼女だったのに。
なんの不幸か、彼女は自分の前で手首を切断されてしまった。それは事故だった。自分の身に降りかかった不幸な火の粉を、彼女が被ったのだった。
自分は単に、道路を歩いていただけだ。そこに、標識が落ちてきた。一時停止の赤と白が、今も目に焼き付いている。
何もしなければ、自分の肩や胴はスプラッター。真っ二つとはいかないかもしれないが、切断されていた。
愛理はそこで自分を突き飛ばした。物理法則に従い、代わりに愛理の手首がスパッと……落ちた。落ちるはずだった。あえて両方の表現を使おう。
その両手首は、血が滴るよりも早く再生し、何事もなかったようにくっついていた。切り離されたはずの手の先はどこにもなかった。
最初は目の錯覚で押し通した。かなり無理はあったが、愛理は事故のことは夢中だったから覚えていないと会話を拒絶したので、お茶を流し込んだ。
けれど二度目は不可能だった。標識が落ちてくるなんて九死に一生を得た直後、自分はまたも死にかけた。
今度は悪意ある殺意によってだったのだが、不愉快で長い話し故割愛する。
方法は毒殺。防いだのは当然、愛理だった。彼女のあの不自然な言動は今も脳裏に焼き付いている。
「きゅーくん、私はそれを飲まなきゃいけないって神様が言ったから」
きゅーくんとは自分の呼称だ。久成と書いて“きゅうせい”と読む。阿智字久成。よく“ひさなり”と読まれるが、それが普通だと思うので怒るに怒れないで慣れっこだ。
「は?」
自分が彼女を振り返った瞬間、自分の持っていた紙コップは彼女の手の中で、中身は胃の中だった。
因みに事故の三週間後にまたしても焼き付けることになったのだ。ここまで立て続けに死にかけるなんて、彼女が不死でもなければ死んでいた(冗談ではない上に笑えない)。
その五分後彼女は、喉とお腹を痕になるほどかきむしって膝をついた。病院に運ばれたのだが、致死量の毒を飲んだ彼女は、たまたま体に悪いものをうっかり飲んじゃった☆ で済まされ、その日の内に帰された。
誰も知る由も無いが、医者は恐らく良識とカルテを握りつぶしたのだろう。死んでいる量の毒を今現在生きている人間から検知してしまったなんて、どこにも言えないし相手にされない。何らかの故障だと思い込んだのかもしれない。
毒殺を図った男は死んだ。自殺だった。無関係な女を巻き込んでしまったことを、死んで償うと遺書にはあったらしい。警察に呼ばれた自分らは、なぜ無差別テロも起こさせる毒を一人の人間が飲んで平気だったのかについて、そうとうしつこく問いただされた。
なにせ遺書には愛理が飲み干したことを確認したと明記されていた。男はその百分の一の量できちんと死んでいる。
結局警察は、飲んだふりで実際は飲まなかったという彼女の主張を信じざるをえなかった。
見ていた自分は、彼女の主張が嘘だと知っていた。
「愛理はどうして、あの毒入りジュースを飲んだんだっけ?」
二人で警察からの帰り道を歩いていた。もう夜遅く、ご飯を食べる気にはなれない一日だった。
「喉が乾いちゃってたからだよ。それ以外ある?」
「神様が飲まなきゃいけないって言った……。んじゃなかった?」
自分が殺されかけていて、それを彼女に助けられていた。はずなのに、自分は冷たい言葉で糾弾していた。
愛理は困った顔で、ちょっとした失敗を取り繕おうとした。可愛らしい困った顔では時空の裂け目は繕えやしないが。
「それは、喉が渇き過ぎておかしくなってたんだよ。よくあるじゃない? そういうの」
「……わかった。じゃあどうして死なないんだ?」
それはまるで、味噌汁にネギが無いくらいに自然な形の問いかけだった。
「ええ? 私、ちゃんと死ぬよ? 人間だもん、ちゃんと……」
弱々しくはあっても、まだしっかりと意見を通す意思がある。そこで納得すれば良かったのに、追い討ちをかけるように質問を続けた。
「ならどうして、目の前で手首はくっついたんだ?」
それだけで、なんのことかは伝わった。
「目の錯覚、じゃない……?」
「そうだろうって、思ったよ。目がおかしいだけだって。でも無理だ。百人が死ぬ毒を目の前で飲み干されて生きていて、それでもまだあの標識は奇跡的に何も切断しなかったなんて、そんな奇跡は信じられない。あれは目の錯覚なんかじゃなかった」
きっとこの時自分は、あまりに異質で人間に似た何かに対する恐怖故に、恋人に……いや、人間にもっともしてはならない質問をしてしまった。かつて自分が似たような言葉をぶつけられているのに、人間とはずいぶん思いあがれるものだ。
「愛理……お前は人間なのか?」
愛理は己の体を縮こめて、祈るように胸の下で手を固く握った。
「生きたいほど、愛してるの」
「……………………」
無音の中、秋らしく虫の鳴き声がちらほらと聞こえてきた。風が吹く、過ごしやすい秋の夜長だった。
自分が何も言えないのを察してか、愛理は息を一瞬詰めて自分をまっすぐ見ると、か細い声を出した。
「私は今日の毒で百回は死んだよ。苦しかった。生きてる訳ないくらい、体が焼かれてるみたいに熱くて痛くて……でも耐えられたし、後悔してない」
「なんで?」
そんな陳腐な言葉しか出てこない。
「きゅーくんのためだよ! きゅーくんが死んじゃうと思ったら、飲むしかないって……こぼしてもまた同じ人が、きゅーくんを狙うだけだと思ったの」
自分が聞きたかった答えの一つは返ってきたが、なんで? と聞きたかったことは十はある。その中で、一番聞きたい質問を繰り返した。
「なんで、死なないんだ?」
愛理は固まった。そしてゆっくりと、何もかも諦めたような顔で笑った。涙を流しながら、唇を震わして言葉を紡いだ。
「さようなら。きゅーくん」
「愛理!?」
愛理はその場から逃げ出した。駆けて行く愛理を追いかければすぐに追いつけたはずだが、ショックが大き過ぎて意外にも足は動かなかった。