白の章・夜よりも暗い闇(2)
窓から外を見た。
海の上でいつもは優しく光る月。今は、夜よりも深く、暗い闇に隠されている。光を失った海岸には、人々の叫び声と、獣の遠吠えが響いている。
「ヴァリー…あの、『闇』は何…っ!?」
月を隠している闇。夜の闇よりもより暗く、禍々しくうごめく闇。その禍々しさにリマは身体が冷えていくのを感じ、震えが止まらない。
『あの『闇』は おそらく魔物を統べ この世界に混沌と絶望をもたらす存在 『魔王』だ』
―――あれが魔王…!?
双子の妹と同じ名前の魔王…噂だけは聞いていたが、遠めに見ただけで凍り付いてしまいそうな恐怖…絶望してしまうほどの禍々しい絶対的な闇を目の当たりにして、リマはただ立ち尽くす。
『助けに行かないのか?』
「………え?」
闇の恐怖に心を支配されて、一瞬ヴァルシータが何を言っているのか分からなかった。
『放っておいて良いのか? あそこでは恐らく 魔物達が人間を襲い 今もこうしている間に生命が失われている それを ただ見ているだけか?』
2週間前のあの日―――ヴァルシータに会ったあの夜までは、リマは何の力も持たない普通の少女だった。ヴァルシータに出会わなければ、このまま逃げるという選択は普通の事だっただろう。
しかし、今は『力』がある。その目的でヴァルシータを、『力』を手にした訳ではない。だが、今。確かに魔物と戦う『力』があるのだ。その『力』で失われなくて良い生命を救う事ができるのだ。それなのに、逃げる事なんてリマにはできない。
リマはヴァルシータを手に取った。
浜辺には、狼よりも二回りほど大きな黒い獣の群れがいた。獣の足元には、喰い千切られ、引き裂かれた人間の亡き骸…
海の上には、知らぬ顔でただ地上を見下ろす月―――あの、禍々しい闇の姿はもう無かった…
獣達は、逃げ遅れたと思われる人間達を今もまだ襲い続けている。黄色く濁った鋭い牙をその身に受け、まだ生きたいという思いが言葉にならない叫び声となり、息絶えていく人間達…
そんな中で、獣の断末魔が聞こえてくる所があった。断末魔の中心には、昼間リマを執拗に追いかけてきたあの銀髪の青年の姿。青年が剣を横に薙げば、剣風と共に刃となった水が獣を切り裂く。
「凄い…!あの人ただの変な人じゃなかったのね!」
『そのようだな あの人間からは水の精霊の強い加護を感じる それよりも まず自分の心配をしたほうがいい』
気づくと、リマの周りには数匹の獣達。獣は、低く唸りながら少しづつ、少しづつ、間をつめてくる。リマはヴァルシータを握る手に力をこめる。何度か魔物と対峙した事はあるが、やはり恐ろしい顔をした魔物と向き合うのは、まだ慣れない。手には汗が滲む。その怯えを敏感に感じ取ったのか、獣達が一斉にリマへと襲い掛かった。
獣の断末魔が浜辺に響き渡った。同時に複数匹の獣の声が聞こえてきた方を、銀髪の青年は何事かと振り向く。
そこには、息絶えた獣達の中心でたたずむ少女。手には華奢な少女の手には不釣合いな大剣。月の光はまるで少女の為だけに存在しているかのように、少女を照らしている。
大の男でも簡単に喰い殺してしまう恐ろしい獣を、あの少女が倒したのか…?
驚きと、それ以上に、少女のそのあまりにもの美しさに、呆然と立ち尽くす青年。時が止まってしまったかのように感じてしまうほど、その光景は青年の心に強く焼き付いた。
青年の時間は、腕に感じた痛みで動き出した。獣が青年の腕に噛みついたのだ。青年はすぐに水の精霊を呼び出し、しなる縄のような水が獣の首に巻きついた。強く締め付けるそれに、獣は鳴き声を上げることもできず、小さく呻いた後に息絶えた。なんとかその一匹は仕留める事はできたが、気づけば何匹もの獣に囲まれていた。利き腕を負傷し、思うように剣を振れない青年の額から冷たい汗が滲む。
『να Νёλλ ――… ΕΘ τψΙβ ――――…』
唄うような、水面に広がる波紋のような、優しい声が青年の耳に響いた。―――直後、海から幾本もの水柱が立ち、それは敵を滅する槍へと姿を変えた。槍になった水は、海岸にいた獣達を突き刺していく。近くにいた人間は、得体の知れない槍に恐怖するが、槍が人間に襲い掛かることは決して無い。まるで、槍が意志を持っているかのように獣だけを狙い、突き刺していく。しばらく獣達の断末魔が浜辺の至る所で響き続けた後、静寂が訪れた…
浜辺にいた人間達は、何が起こったのか理解できずに、呆然と獣の亡き骸を見ている。ただ一人、事の始終を見ていた銀髪の青年が、興奮した様子でリマの元へ駆け寄ってリマの手を強く握る。
「君!なんて素晴らしい女性なんだ!美しいだけでなく、強さと『神語』を操る知性も兼ね備えているとは!是非とも我が妃に!!」
「………え?」
翌朝、リマが宿を出ると、目の前には長細い赤いカーペット。カーペットの終着点には、絵本に出てくるような白い豪奢な馬車。カーペットの両脇には、おそらく騎士と思われる屈強そうな男達。そして…リマの前には、昨日の軽薄そうな印象など面影も無い、高貴そうな白い礼服に身を包んだ銀髪の青年。青年は片膝をつき、リマの手の甲に口づけをして微笑む。
「迎えに来たよ。僕の姫君。」
青年の名は、シフィアス・ヴァ・ネルルシータ。リマが生まれ育った国、ミネルスの第二王子だ。
まさか、初対面の少女に求婚して、3時間も追いかけて来た人間が王子だとは想像もつかなかったリマは、唖然としている。
「さあ!ネルサスに行き、僕達の婚約を国の皆に発表しよう!」
「え?いや、あの…私、他にしなければいけない事『ちょうどいい あの馬車に乗せて行って貰え』
王子様の頭の中では、すでに婚約しているという事に焦りを感じ、必死の思いで断ろうとした時、ヴァルシータが言葉を遮った。
『首都ネルサスへ行け』
いつものようにそれ以上は語らないヴァルシータ。しかし、有無を言わせない威圧感を感じ、渋々頷いた。
剣から声が聞こえるのを目を見開き見ている騎士達に比べ、銀髪の王子様は、目の前の美しい少女以外はどうでも良いようだ。頭の中では、すでに子供の名前まで考え始めている。
「さあ!行こう!」
強引に馬車に乗せられて、首都ネルサスへと向かう事になってしまった。
途中リマは、(『苦悩をもたらすもの』ってこの人の事かしら…)と、銀髪の王子様シフィアスの延々と続く甘い言葉を聞きながら思った。
『苦悩をもたらすもの』
シフィアスの事ではないのだが、それは、確かに近づいてきていた。