白の章・ぼくの こころに さく はな (2)
―――それは、心の泉を涸れさせていた青年のお話。
長い銀色の髪を襟元で纏めた青年は、焦土と化した火の国と地の国の国境の地を眺めていた。
甘やかされている弟とは違って、彼は各地を巡っていた。それは、見識を深める為でもあり、次期国王としての自覚を養う為でもある。それは彼も分かっていたし、自ら進んで各地へ赴いていた。国内から出る事は危険だと反対されていたが、それでも彼は世界の現状を知っておきたかったのだ。
そうして彼が見たものは、国内では決して知り得る事はできなかった『悪意』。
己の欲の為に人が人を殺し、平気で他を犠牲にする。どれだけ地を民の血で染めたとしても争いを止めない国々。知らぬ顔で動かない父王。やむ事無き力弱き民の泣き声。
彼の目に映る世界は、色の無い灰色の世界だった。
そんな世界に鮮やかな赤い華が咲いた。
火の国を過ぎようとした時に森の中で見かけた女性。匂い立つ華の香りを纏い、桃色の獣と戯れる姿は聖女のようだった。
決して綺麗ではないこの世界で、彼女だけは穢れの無い美しい華だった。
彼は思った。彼女が欲しいと。彼の心の中で咲いた、この世でたった一つの美しい華を。
しかし、彼と彼女は決して結ばれない身だった。和平条約が結ばれたとしても、彼は次期国王。彼女は他国の女王だった。
そして、彼は彼女に恋焦がれるあまり、憎んでいたはずのものを心の内に飼う事になる。
―――いっその事、攻め落として無理矢理従わせれば…
それは、己の欲の為に他を犠牲にしてもいいという『悪意』。
『悪意』が完全に彼の心を支配しようとしていた時、『それ』は現れた。
「あなたの望み。叶えてあげましょうか?」
それは深淵の闇。人々の恐れる闇は、その時の彼にとっては母の腕に抱かれているような心地良い感覚だった。
「私が、あなたに『力』をあげましょう。」
そして、彼は闇が差し出した『力』の種を受け取った―――…
―――彼、ヒューグは咄嗟に『眼』のある腕を、もう片方の腕で隠した。
「…ミネルス王…それは…?」
彼が恋焦がれる華―――エンカは消えそうな声で、目の前の異形の姿をしているものに問いかける。
「…ふ…はは…はははははははははははは!」
狂ったように笑い出すヒューグ。
彼女に見られてしまった。それはどうでもいい。しかし、彼女の自分を見る目はどうだろう。あの、異形のものを見る目は、恐ろしいものを見る目は、汚いものを見る目は―――…
「………もう、いい。もう、すべて、どうでもいい…みんな、みんな…」
ヒューグの身体が闇色に染まる。
「こ わ れ て し ま え」
瞬間、ヒューグの身体から黒い手が幾本も生えてきた。
それは、彼の服を、皮膚を、内臓をも喰い破り、醜い姿を現す。かろうじて人の形は保っているものの、腐ったような臭いを撒き散らし、泥のような全身には幾つもの血走った眼。
『ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛』
人では無い、おぞましい声をあげた。彼の突然の人外への変貌に皆驚き戸惑っている。彼の側近達は、叫び声をあげながら逃げ出す。それを黒い幾本もの手が彼らに襲い掛かり、脳を貫いた。
魔物になったヒューグは幾つもの眼をエンカに向けて、のそり、のそり、と歩いてくる。
『ぁ゛ぁ゛…わた、しの、おれ、の、ぼくの、はな…て、にはいらない、なら、ちって、し、まえ』
黒い手が今度はエンカに襲い掛かる。後方にいたリマとエイルが走った。ヒューグから距離をとっていたレンカは聖なる火を纏う。しかし、間に合わない。レンカが叫ぶ。
「姉様ーーー!!」
エンカは自らの死を悟り、目を瞑った。しかし、痛みはいつまで経ってもエンカを襲わない。不思議に思い、目を開けてみると…
「…シフィアス…様…?」
「大丈夫…ですか…?麗しい…ひ…と…」
エンカを貫くはずだった黒い手。それは、シフィアスの腹を貫いていた。
「シフィーーー!!」
リマが全てを切り裂く風を呼ぶ。腹を貫いていた黒い手は風によって刻まれ、さらに襲い掛かってきていた手を、レンカの燃える花びらが阻止する。黒い手から開放され、崩れ落ちるシフィアスをエンカが受け止めた。
『じゃま、する、なぁ゛ぁ゛ぁ゛!!』
魔物の叫びが、建物全体を震わした。
「ここは危ないわ!外に出ましょう!」
リマの声に反応して、エイルはシフィアスを担ぎ、レンカは呆然とするエンカを叱咤して走らせる。魔物は追って来ようとするも、リマが呼んだ風の精霊が吹かす風の強さで動けない。
下に着いた時、異変に気づいた騎士達が集まっていた。
「みなさん!気をつけて下さい!魔物が来ます!!」
リマが言い終わる前に、三階の壁が崩れた。そこから現れたのは、おぞましい雄叫びをあげる腐った魔物。飛び降りてきた魔物に騎士達は、傷ついたシフィアスと天使達を守ろうと果敢にも立ち向かう。ある者は黒い手を剣で斬り、ある者は水の魔法で結界を作り、ある者は水を刃にして飛ばす。レンカも姉を守る為に火で対抗するも、魔物は弱る様子は無く、徐々に騎士達は押されていく。
そこにシフィアスの応急処置を終えたリマが叫ぶ。
「みなさん!距離をとってください!レンカ様こちらへ!」
リマは騎士達が下がるのを確認すると、レンカの手をとり聖なる火に捧げる言葉を紡ぐ。
『νа Ρаλ ―――…』
「ああ…あああああ!!」
リマの言葉に反応して、レンカの身体から燃え盛る大きな華が現れた。
「やめ…やめろー!リマ!わらわを火に喰わせる気か…!?」
「大丈夫です。私を信じてください。」
会ったばかりの人間をどう信じれば良いのか。姉以外の人間を信じれない少女はリマの言葉に戸惑う。しかし、リマの瞳に一昨日の夜に会った魔王の瞳が重なった。全てを受け入れ、救ってくれそうな、そんな気にさせる瞳。いつしかそんな瞳に身体の力が抜けていく。
それを確認すると、リマは言葉の続きを紡ぐ。
『Φ Ωа ―――…』
聖なる火が辺り一面に広がった。リマとレンカ以外の人間は、迫り来る火に目を閉じる。
しかし、それはレンカのみならず他の人間も、建物ですら焼こうとはしない。焼かれているのは、ただ一つ。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!』
魔の存在、ただ一つを焼いていた。
『あ゛あ゛…はな…ぼく、の…』
騎士達は魔物が人の言葉を話すのに驚いている。リマとレンカはただ憐れな魔物を眺めており、エイルは改めてリマの力の凄まじさを呆然と見ていた。
その中でただ一人、エンカだけは魔物に歩み寄っていっていた。
彼女は、彼のもうほとんど崩れかけている手をとった。
「憐れな人。貴方は何を望んでおられたの…?」
彼の幾つもの瞳が彼女を映す。紅い炎の中で、彼女は一際鮮やかで、何よりも穢れ無き美しい華。
たとえ、彼の存在が彼女に受け入れられなくとも、彼は願う。
「…わら…って…ぼくの、はな…」
ちいさな、ちいさな、彼の言葉は、炎にかき消されて彼女に届かなかった。
そして、彼の願いも、想いも、誰にも知られる事無く…
彼は聖なる火の中に消えていった。