白の章・海に浮かぶ悪意(2)
◇◇◇◇◇
「火の国ファレグに総攻撃を仕掛ける。」
国の主要人物が集まった場で、ヒューグは声高らかに宣言した。場がざわめいた。それもそのはず、前国王は戦争を好まず、他の国と交われずともこちらから仕掛ける事は絶対にしなかったのだ。
「兄上、それは父上の想いに反します。」
「シフィアス、今は私が国王だ。国の方針は私が決める。それに、これは報復の為でもあるのだ!」
強く言い切るヒューグに、シフィアスは返す言葉を失った。
「もう一度言う!これは、報復である!我らが敬愛する亡き前国王を陥れた卑劣な火の国を討つのだ!我等には天使がついている!天は、我らに味方している!」
その場にいる全員がリマの方を向いた。
「………え?」
リマは、何故自分がこの場にいるのか分からなかった。しかし、ヒューグの言葉でなんとなくだが理解する。リマを、天使を、戦場に駆り出す気なのだ。
「兄上!!何を考えているのです!?リマはまだ14歳の少女ですよ!!」
「『天使』に年など関係無かろう。ここに『天使』がいる。それで十分だ。」
リマは、身体が冷えていくのを感じた。…自分が戦場に…?
つい最近まで、戦争など関係の無い穏やかな村で、心優しい村人達に守られ生きてきた少女。本の中でなら、その存在を知っていた。人と、人とが争い、人が沢山死んでいく―――…
リマの脳裏に、蛇のような魔物に殺された人々の無残な姿が過ぎった。手が、足が、全身が震え出す。
「わ…わた…し、むり…無理…です…」
冷たい汗をかきながら、必死に声を振り絞った。
「そうです陛下!こんな年端もいかぬ少女を戦場に出すなど道徳に反しますぞ!…可哀相に、こんなに震えているではありませんか…」
家臣の一人がリマを擁護すると、その場にいる者全員もまだ年若い少女を擁護する発言をした。
「…黙れ。」
静かに、けれど威圧感を感じる冷たい声で、その場は静寂に包まれた。
「これは、ネルサス国国王である私の言葉だ。一ヶ月以内に火の国へ進軍する。それを率いるのは『天使』。これに意を唱えるものは、私…ひいては国に逆らうものとして処罰する。」
そう言い残して、ヒューグは席を立った。それに続くように、家臣達も暗い面持ちで席を立っていった。二人きりになると、シフィアスは思いつめた様子でリマに近づく。
「…すまない、リマ…まさか、こんな事になるなんて…後で話がある。部屋で待っていてくれないか…?」
無言で頷いたのを確認すると、シフィアスもその場を去って行った。
部屋でシフィアスを待っているうちに夜になった。バルコニーに出て、空を見上げる。雲が月を隠し、とても暗い夜だった。扉を誰かがノックする音がした。開けると、相変わらず思いつめた様子のシフィアス。静かに部屋に入ってくると、黙ってその手に持っていたものをリマに差し出してきた。
「…シフィー?これは…?」
「ふふ、やっと自然にシフィーと呼んでくれるようになったのに、お別れしなくちゃいけないなんて、皮肉だな…」
「シフィー…?」
首を傾げるリマ。その仕草はとても愛くるしいが、以前感じた胸の痛みとは違う痛みがシフィアスの胸を締め付ける。
「君にお願いがあるんだ…この書簡を、火の国ファレグの女王に渡して来て欲しい…」
「火の国…?どういう事?」
「最近、火の国の女王が代替わりしたんだ。現女王はとても温厚で、戦争を望んでいないと聞く。その噂はとても信憑性があってね…つまり、今回の出来事は女王の意思ではないと思うんだ…その真偽を問いたい。」
渡された書簡はその旨が書かれているのだろう。しかし、何故自分に?という疑問がリマの頭に浮かぶ。その心中を察してか、シフィアスはとても苦い顔をして言う。
「兄上は、とても戦争をしたがっている…できるだけ、食い止めるように努力はするけれど、情けない話、今の僕には兄上を止める力が無い…使者を出したとしても、帰ってくるまでに進軍してしまっては意味が無い…でも、もし…火の国に、『天使』がいたらどうだろう?」
亡き前国王と同じ、深い海のような瞳がリマを見つめる。
「…私に…戦争を止めろ…と言うのね?」
シフィアスの筋書きはこうだ。リマが書簡を届け、事の真偽を確かめる。そのまま何事も無く戻って来れればよし。万が一戻ってくるまでに進軍してしまったら、『天使』という立場で進軍の中止を呼びかける…
「…君を…危険な目に合わせるかもしれない…でも…ああ…」
シフィアスはまだ葛藤の中にいるようだ。目の前の可憐な少女を危険な目に合わせたくなくて、腕の中に閉じ込める。リマはシフィアスの背中に手を回し、決意のこもった手で服を強く握り締めた。
「…私…行くわ。国王様が愛したこの国を…この国の人達を…守りたい。」
リマを腕の中から開放し、瞳を覗き込む。その瞳は、強く、そして希望に満ちていた。
「ふふ、心配したのは杞憂だったかな…?君は、強い。その、心も…」
シフィアスは、リマの額に口づけを落とした。
「早速だけど、出発してくれ。兄上に見つかってしまったら閉じ込められる可能性もある。」
誰にも見つからないように移動し、小さい門の前に着いた。
「心配いらないと思うが…危険を感じたら何も考えずに逃げるんだよ?」
頷くリマの額に、もう一度口付けをした後、道中使うであろう資金を渡した。
「…気をつけて。」
もう一度頷いて、去ろうとしたときだった。
「こんな夜更けにどちらへ…?『天使様』。」
大勢の騎士を連れたヒューグが現れた。戸惑うリマ達を見て、可笑しそうに顔を歪めて笑う。
「まったく。お前の考える事はいつも単純だな。こんな愚弟を持って私は恥ずかしいよ。おい、お前達天使を捕らえろ。」
戸惑う騎士達にヒューグの怒声が飛び、渋々リマの周りを囲んだ。そこへ、シフィアスが騎士達に体当たりをする。
「リマ!早く行くんだ!」
叫ぶシフィアスの腹を剣が貫いた。
「シフィー!!」
騎士達も戸惑いを隠せない。ヒューグが表情を変えずに、無情にもシフィアスを貫いたのだ。
「私に恥をかかすなよ。お前はしばらくじっとしていろ。」
その冷酷な姿にリマは戦慄する。こんなにも無慈悲な人間をリマは見た事が無かった。存在する事すら知らなかったのだ。ヒューグは地に這って呻くシフィアスには目もくれず、手を差し出しながらゆっくりと近づいてきた。暗い瞳がリマを捉える。
「さあ、こちらに来なさい。君には、『天使』として役に立って貰わなければならないんだから。」
目の前の人間から感じる『もの』―――その名は『悪意』。生まれて初めて感じる悪意にリマは動けない。
『飛べ!』
背負っている大剣から声が響いた。
『早くしろ 飛べ!』
ヴァルシータの叱咤する声に、反射的に空を舞う言葉を紡いだ。煌めく風がリマを包む。その風の強さに、その場にいた騎士達、ヒューグでさえ目を瞑ってしまった。目を開けると、そこにはもう少女の姿は無く、遥か空に煌めく軌跡が見えただけだった。