白の章・赤い世界、舞い降りる天使(1)
逃げ出した後、一人では広い城をまともに進むことができず、入ってきた正門とは違う出口に出てしまった。
「はぁぁぁ…思わず逃げ出しちゃったけど、これからどうしようヴァリー?」
『見ろ リマ』
前を見ると、城の前では憔悴しきった様子の大勢の人間が座り込んでいた。怪我をしている者もいるようで、白衣を着た者達が忙しなく走り回っている。
「…魔物から逃げて来た人達かしら…?」
『ああ どうやらこちら側が 東部へと続く道らしい 見ろ 煙が上がっている あそこに魔物がいる』
「………魔物を倒しに行け…と言うのね?」
『………』
人を助けるという行為なら喜んでやる。しかし、はっきりしないヴァルシータの態度と、また注目されるかもしれないという事に、リマは抵抗を感じる。
ヴァルシータは一体何を考えているのだろう…言う事を聞いていれば、本当に『真実』に辿り着けるのだろうか…関係の無い事をさせられているようにしか思えない…
「た…助けて!この子の怪我を…っ誰か…っ!!」
女性の叫び声が聞こえてきた。見ると、女性が幼い子供を抱きかかえてこちらへ走って来ていた。女性の腕の中にいる子供は、全身が焼け爛れてぐったりしている。すぐに医療班が駆け寄り、子供を見るが、医師は首を横に振るだけだった。
「そんな…っ…ぁあ…っ………ああぁぁぁ!!」
悲痛な叫び声が響き渡る。周りの者は沈痛な面持ちで下を向く事しかできない。そんな中、リマだけが希望を宿した瞳で歩み寄る。
「大丈夫ですよ…まだ、間に合う。こちらへ…」
慈悲の天使のように微笑むリマに、泣き叫んでいた女性は大人しく子供を差し出した。女性や医師、周りの人間が見守る中、リマは癒しの言葉を紡ぐ。
『να Νёλλ ―――…』
近くで噴き出していた噴水が、優しい光を放ち出す。光る水の飛沫がそのまま下には落ちず、子供を囲うようにして集まってきた。
『Υυ ρ ―――…』
光の飛沫が子供の中に吸い込まれ、子供自身が光り出す。すると、焼け爛れていた肌が見る見るうちに、元の張りのある子供の肌に戻っていった。その奇跡のような力に、周りの人間達は言葉を失ったかのように、ただ口をあけて見ている。
「………ぁ…」
ぐったりしていた子供が、目を開けた。そしてすぐに立ち上がり、母親を見つけると怪我をしていたのが嘘のように元気に抱きついた。
「ああ…ありがとう…ありがとうございます…っ」
泣いて喜ぶ女性に、胸を撫で下ろす。そして、同時に羨ましく思った。抱き合う母と子。リマが失ったものがそこにはあった。リマが亡き母を思い出していると、誰かが呟いた。
「………奇跡だ。」
それをきっかけに、周りも次々に言い出す。
奇跡だ。奇跡の子だ。いや、きっと神の使いだ。見たかあの慈悲に溢れた微笑を。天使だ。天使様だ。
「あ、あの!知識さえあれば、誰でもできる事ですから!」
必要以上に讃えられる事に居心地の悪さを覚え、リマは叫ぶ。しかし、その言葉も謙遜しているようにしか見られずに、また居たたまれなくなって逃げ出してしまった。
逃げ出したはいいが、リマはどこを走っているのか分からなかった。人の気配が無い街を見て、そういえばこちら側は東部だったか…と思い、引き返そうとしたが、先程の子供を思い出す。もしかしたら、まだあんな怪我をしている人がいるかもしれない。助かる人がいるかもしれないと思い、そのまま東部を進んで行く。
少し進んだ所で、それほど遠くない場所から魔物の不快な鳴き声が聞こえた後に、爆発音が聞こえた。魔物と戦うのは気が進まないが、手の届く範囲で傷つき、悲しむ人を見たくは無い。進む足を速め、曲がり角を曲がった。リマの足が止まる。
そこには、数人の人間『だった』ものが転がっていた。
首だけが無いもの…腕や足だけのもの…腹に穴が空いてはらわたがでているもの…そして、その下にあるのは…
赤い、赤い、血の海―――…
記憶の波に飲み込まれる。
赤い、赤い、四角い世界。散らばる、幸せの残骸。服を真っ赤に染めてたたずむ黒髪の少女。
その、手に、持つ『モノ』は―――…
「ぃ…やあぁぁぁっ!!!」
いつか見た光景。消し去ってしまった記憶の断片が、目の前の光景に触発されて、次々とリマに襲い掛かる。力なく座り込み、自分を守るように、何も見ないようにうずくまる。
リマの悲鳴を聞いて、数人の騎士達が駆け寄ってきた。その中には、シフィアスの姿。
「…リマ?どうしてこんな所に?」
シフィアスが話しかけても、リマは反応せず、自分を抱え込んで震えるだけ。シフィアスは周りを見渡す。目の前には血の海。人間の欠片が至る所に散らばっている。それを見て、いくら強くてもまだ14歳の少女には刺激が強すぎたのだろうと、いたわるようにリマを抱きしめた。
「…立てるかい?ここにいたら危ない。こっちにおいで。」
力が入らないリマを、半ば抱えるようにして物陰に連れて行き、そこに座らせた。
「僕は行かなくちゃいけない。まだ魔物が暴れているんだ。すぐ、迎えに来るからここでじっとしているんだよ?」
そう言って、優しくリマの頭を撫でる。全く反応の無いリマを置いていくのは心配だったが、彼は王族の務めを為さなければならず、心苦しい思いをしながら騎士達を連れて去って行った。
一人残された少女は、宙を見つめながら呟く。
「………ヴァリー…」
『なんだ』
「…私に、あの光景を、見せたっかたの…?」
『いや』
「…じゃあ…!じゃあ、あの記憶は何!?ねぇっ!あれを私に思い出させたかったんじゃないの!!?」
『違うと言っている』
「あれは、何!?あれは…私の記憶なの…?あそこは…あれは…おと…おとうさんと…あかあさんは…どこに行ったの………?」
「私が、教えてあげようか?」
闇の底の底から響いてくるような、心を凍りつかせてしまうような声が背後から聞こえた。振り向かずとも分かる、その禍々しい気配。港街で一度だけ見た、あの禍々しい『闇』が背後にいる。その『闇』の名は―――『魔王』…
全身を、恐怖と、絶望が支配する。逃げ出したい…逃げ出したいが、足が震えて力が入らない。
「…ねぇ、無視しないでこっち向いてよ。久しぶりの妹の顔を見たくないの?…ねぇ、リマ。」
はじけるように声の方を向いた。