「聖女の護符が燃え尽きかけている」と十二年言い続けた護符係ですが、誰も聞かないので煙の記録だけ取って辞めます ~前世二十三年、設備保全の点検記録を取り続けたおばちゃんの静かな置き土産~
「煙? 煙がなんだっていうの。聖女である私が祈っている限り、護符は壊れません」
謁見の間に、聖女マリエラ猊下の涼やかな声が落ちました。
わたしは読み上げかけていた報告書から顔を上げ、口を閉じます。十二年分の年次報告、残りは三十七行。どうやら読ませてはもらえないようです。
「……承知いたしました。では、年次報告の残り三十七行は、書面でご提出いたします」
「必要ない」
玉座の脇で、王太子アルヴィン殿下が手元の予算表を指で弾きました。いちばん下の行です。護符係の予算は、いつも予算表のいちばん下に書いてあります。
改革とは下の行から削ることだと信じている方の、実に自然な動作でした。
「煙の色を紙に書く仕事に、国庫から年七十二枚の金貨が出ている。無駄だな。護符係は本日付で廃止する」
——廃止。
わたしは腰の手帳を外し、表紙を開き、ペン先を舐めました。前世からの癖です。安いインクはこうしないと出が悪い。
「廃止、ですね。確認します」
「……確認?」
「本日付、第四千三百八十二日目をもって記録終了——で、よろしいですか」
殿下の眉が、ほんの少し寄りました。
「……なんだ、その数え方は」
「十二年、四千三百八十二日、一日も欠かさず煙を見てまいりましたので。中断なら中断、終了なら終了と、書き分ける必要があります」
会場が静まり返る——と思ったのですが、現実は違いました。
笑いが起きたのです。
「まあ。お掃除係が何か言ってるわ」
猊下が口元を押さえて笑い、貴族の方々がそれに続きました。さざ波のように、追従の笑いが広がっていきます。
「掃除もしております」とわたしは申し上げました。「焚き口の灰は、誰かが掻き出さないと詰まりますので」
「ふふ。ですから、祈れば直りますのよ。あなたの紙きれ、何枚貯めても煙は白くなりませんでしょう?」
「ええ。紙は煙を白くしません」
わたしは手帳に日付を書きながら答えました。
「——ですが、黒くなる日を教えてはくれます」
「……なんですって?」
「いえ。独り言です。記録係の癖でして」
笑い声の中で思います。祈りで設備が直るなら、前世の工場に神棚はいらなかったはずです。いえ、神棚はありました。ありましたが、それとは別に点検記録もありました。両方あって初めて、工場は回るのです。
申し遅れました。わたしはシエラ・ミルドレッド、十八歳。王立結界管理局・護符係、下級事務官。
前世は現代日本の工場で、設備保全の点検記録を二十三年取り続けた、ただのおばちゃんです。定年退職の翌朝、心臓発作で死にました。トラックには轢かれていません。
六歳の洗礼で授かったスキルは一行だけ。
『記録(対象の経時変化を数値化して保存する)』
攻撃力ゼロ、魔力微量。鑑定士に「ハズレですね」と言われました。わたしは笑って「当たりです」と答えました。
壊れる設備は必ず、壊れる前に小さな異常を出す。
それを知っている人間にとって、これほどの当たりはありません。
「話は終わりだ。下がれ」
「承知いたしました。では、引き継ぎ書を提出いたします。後任の方のお名前を、いただけますか」
「後任?」
殿下は、心底不思議そうな顔をなさいました。
「はい。焚き口の煙を、明日から誰が見るのかを記載する欄がございます」
「廃止だと言っている。後任などいない」
「……承知いたしました。『後任なし』と記載いたします」
誰も煙を見なくなる。
それだけを、頭の中に太字で書き留めました。
「まあ、律儀な方。そんなに書くことがお好きなら、神殿の写経でもなさったら?」
「恐れ入ります。わたしの字は汚いので、祈りには向きません。数字しか書けないのです」
わたしは一礼し、それから顔を上げました。
「殿下。最後にひとつ、受領印をいただけますか」
「なんの印だ」
「廃止通達を、本日、確かにわたしが受け取ったという印です。三部ございます」
「……三部も必要か」
「必要です。一部は管理局へ、一部は財務省へ、一部はわたしが保管いたします」
「好きにしろ。……ほら、押した」
「日付、よし。印影、よし。——ありがとうございます。確かに受領いたしました」
「あら、お辞儀まで丁寧。悔しくはありませんの? 十二年ですって?」
猊下が、美しく首をかしげました。
「悔しがると、字が乱れますので」
「……変わった方ね」
「よく言われます。では、失礼いたします。——猊下」
「なあに」
「三年前の第七月、猊下は報告書に受領印をお押しになりました。お覚えでしょうか」
「……知りませんわ。侍祭が差し出す紙に、いちいち目など通しません」
「存じております」
わたしは手帳を閉じました。
「——その月に、煙が薄灰から濃灰に変わりました。それだけ、お伝えしておきます」
「だから、祈れば直ると申しておりますでしょう」
「ええ。祈ってください」
一礼。
「わたしは、書きます」
*
その夜、官舎の狭い台所で、固くなったパンをスープに浸して食べました。
洗濯物を干し、灯りを落とし、いつものように眠りました。
枕元の手帳に、最後の一行。
『第四千三百八十二日。護符係、廃止。後任なし。異常、以上』
壊れていく国の中でも、人は飯を食うのです。
*
**第二章 引き継ぎ書に、一行だけ書きます**
翌朝も、わたしは焚き口の前にいました。
廃止は昨日付ですので、本来なら来る必要はありません。ですが記録というのは、最後の一日が欠けるといちばん困るものです。
夜明け前の大護符。高さ十二メートルの黒い符板が、王都の東門に立っています。その根元に、焚き口。護符が魔力を食うと、ここから煙が出ます。
白なら健全。灰色なら劣化。黒なら崩壊寸前。
この世界で護符の寿命を測る方法は、それひとつきりです。
今朝の煙は——濃灰。
指先ですくって匂いを嗅ぎます。焦げた鉄の匂い。三年前にはなかった匂いです。灰の量は、小匙にして三杯ぶん。十二年前は、月に一杯も出ませんでした。
「第四千三百八十三日。煙、濃灰。匂い、鉄。灰、多」
書いて、小瓶に灰を詰め、年月日を書きました。百四十四本目です。
*
管理局第三課。
「ああ、ミルドレッドさん。ご苦労さま。……その、謁見のほう、聞きましたよ。大変でしたねえ」
テオ・リンデル課長が、いつもの愛想笑いで迎えてくださいました。
十二年間、わたしの報告書を受け取り、受領印を押し、棚に積み上げてきた方です。悪い人ではありません。一度も読まなかっただけで。
「課長。規定様式三号、引き継ぎ書です。引き継ぎ事項の欄に、一行だけ記入しております」
「はいはい。ええと……大護符、焚き口、現在の……ええ、はい。受領印、押しておきますね」
彼の目は、紙の上を滑っただけでした。文字の形を眺めている速度です。
その一行には、こう書いてあります。
『大護符焚き口、現在の煙色=濃灰。前例に照らし、崩壊までおよそ六十日』
「はい。ありがとうございます」
わたしは控えを受け取り、印影を確認しました。日付、よし。印影、よし。
書類は必ず三部。受領印を取れ。現物を保管しろ。数えろ。
前世で二十三年、わたしが守ってきた四箇条です。工場の神棚の神様より、よほどよく働いてくれました。
「あの、ミルドレッドさん」
課長が、ふと顔を上げました。
「……怒らないんですね」
「なにをですか」
「いえ、その、十二年ですし。普通もっと、こう……」
「怒ると、記録が雑になります」
「……はあ」
「それに、わたしが怒る必要はありません。記録が残っていますので」
「……記録が、なんです?」
「記録は、わたしが黙っても喋りますので」
課長の愛想笑いが、少しだけ固まりました。
「……ご、ご苦労さまでした」
「ええ。十二年、ご苦労さまでした」
*
官舎に戻ると、扉の前に少年が立っていました。
炊事場の下働き、ギル。十一歳。くせ毛に小麦粉、手首に火傷の痕。腕に、ぱんぱんの布包みを抱えています。
「シエラさん! おれも行きます!」
「どちらへ」
「どこでも! シエラさんが行くとこ! 荷物まとめてきました!」
「お仕事は」
「辞めてきました!」
わたしは手帳を開きました。
「第四千三百八十三日。ギル、退職。……早いですね」
「そこ記録するとこですか!? そこ普通もっと止めるとこじゃないですか!?」
「大事な変化ですので。理由を伺っても?」
ギルは一度うつむいて、それから、ぼそりと言いました。
「……おれのパン、食べる人が、いなくなるから」
彼のパンは膨らみません。硬くて、酸っぱくて、焦げます。炊事場の誰も食べません。
わたしだけが、毎朝それを食べていました。
「……そうですか」
「……怒らないんですか。おれ、勝手に辞めたのに」
「十八回ぶん、書いてありますから」
「……え?」
「第三千九百十二日、一回目。硬度高、酸味強。改善点、発酵時間。——十八回、全部」
ギルの口が、開いたまま止まりました。
「ぜ、全部、書いてたんですか……? あんな、誰も食べない、失敗ばっかりの……」
「失敗は、いちばん価値のある記録です」
わたしはペンを戻しました。
「十九回目が近いので、辞めるのは惜しいと思っていました」
「……っ、うう……」
「泣くと、顔が腫れます。荷物をまとめてください。出発は明後日の朝です」
「は、はい! ……あの、先にどこか寄るんですか?」
「資料室です。——十二年分の写しと、灰の小瓶を百四十四本、預けに行きます」
「ひゃく……何本!? そんなの運んでどうするんですか!」
「読まれる日のために、燃えない場所へ置くだけです」
「読まれる日って、いつですか」
わたしは焚き口の方角を見ました。空が、少し煤けています。
「計算では、六十日後です。——行きましょう、ギル。急ぎませんが、遅れもしません」
*
**第三章 灰は、百四十四本あります**
国境の自由都市、冒険者ギルド〈資料室〉。
台車を押して扉をくぐったわたしを、丸眼鏡の老婆が睨みつけました。腰に鍵束、灰色のエプロン。四十年この部屋を守っている司書、ロゼッタ・ハーグさん。
「なんだい、その量は」
「寄贈です。規定様式七号、記入済みです」
老婆の目が、わずかに変わりました。
「……規定を踏んで来たのかい」
「はい。寄贈物、二点。一、記録写し一式——十二年分、四千三百八十三日分。二、灰標本、百四十四本」
台車の上で、小瓶がかちりと鳴りました。
ロゼッタさんは黙って近づき、一本を取り上げ、ラベルを顔に近づけました。
『第一年・第三月・灰量 小匙〇.八』
次の一本。『第一年・第四月・灰量 小匙〇.八』
次の一本。次の一本。
彼女は三十分かけて、百四十四本を数えました。わたしも横で一緒に数えました。ギルは途中で床に座り込み、口を開けて見ていました。
「……百四十四。合ってる」
そこで初めて、老婆は顔を上げました。
「あんた、誰にも読まれないのに十二年書いたのかい」
「読まれる日のために書きました」
埃の匂いのする部屋に、沈黙が落ちました。
老婆はしばらくわたしを見て、それから何も言わずに受領印を取り出しました。
どん、と重い音。
「うちは燃やさないよ」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。記録は所有者のもんじゃない。未来のもんだ」
彼女は控えをわたしに押しつけ、しっしっと手を振りました。
「早くおし。閲覧請求は規定通り受ける。誰が来てもね。賄賂も脅しも通らないよ、うちは」
*
辺境の町、ミルハ。
わたしは薬屋の帳場を手伝うことになりました。
朝はギルのパンを食べ、昼は帳簿をつけ、夕方は店を閉め、夜は窓から空を見る。
煙を見る癖は、抜けません。この町の煙突はみんな白い煙を上げていて、それを見るたびに、わたしは少し安心しました。
赴任四日目。帳場の前に、山が立ちました。
身の丈二メートル。左頬から顎に鱗。瞳孔が縦に細い。辺境守備隊長、カイン・ドラゴールさん。竜人の血を引く方だそうです。
ギルが椅子ごと後ろに倒れました。
「……薬」
「どちらの症状でしょうか」
「隊の分だ。傷薬、二十」
帳簿に書きつけているあいだ、彼の影がずっと動きませんでした。
見られているのは帳簿ではなく、その横。開いたままの、わたしの手帳です。
無遠慮に覗き込んで、彼はぽつりと言いました。
「……これ、三年前から色が変わってる」
ペンが止まりました。
「あんた、三年前から言ってたのか」
「十二年前から言っていました」
わたしは顔を上げます。
「三年前からは、強めに」
大男は、しばらく手帳を見ていました。
それから、太い指で、そっと表紙を閉じました。壊れ物にさわるような閉じ方でした。
何も言いません。
彼は店の奥へ勝手に入っていき、勝手に湯を沸かし、茶を淹れて、わたしの前に置きました。
「……飲め」
「ありがとうございます」
「おれは十年前、砦にいた」
湯気の向こうで、低い声がしました。
「煙の記録を本部に上げた。三回。無視された。結界が割れて、部下が四十三人死んだ」
わたしは茶碗を持ったまま、彼を見ました。
「名前は」
「……は?」
「四十三人の、お名前は記録されていますか」
彼の喉が、ごくりと動きました。
懐から、擦り切れた紙の束が出てきました。
「全部。出身地も、好物も」
「……立派な記録です」
大男の目が、見る間に赤くなりました。鱗の頬の上を、ぼろりと大きな雫が落ちました。
ギルが椅子の下から「泣いた!?」と叫びました。
「泣いてない」
「泣いてますよ!!」
「……行くぞ」
傷薬二十を受け取り忘れて帰っていきました。
翌日、彼はまた来ました。見回りのついで、と言って。
茶だけ置いて、帰っていきました。
*
その夜、窓から空を見上げながら、わたしは手帳に書きました。
『第四千三百九十二日。辺境ミルハ。煙、白。異常なし』
王都の方角は、よく見えません。
ですが、計算では、あと四十六日です。
*
**第四章 五十八日目、黒い煙**
黒煙が上がったのは、五十八日目でした。
わたしの予測より二日早い。灰の増加率を線形で引いていたせいです。実際には後半で加速していました。
前世でもよくありました。劣化は、終わりが近いほど速くなるのです。
報せは、行商人の口から町へ届きました。
「王都の大護符が、真っ黒な煙を噴いてる! 空が煤で灰色だ!」
薬屋の店先で、ギルがわたしの袖を掴みました。
「シエラさん……」
「ええ」
わたしは帳簿を閉じました。
「六十日の予測に対し、実測五十八日。誤差二日です。書いておきます」
「そこ!? そこ記録するとこですか今!?」
「ほかにできることがありませんので」
ペン先を舐め、日付を書きました。手が少し震えて、インクが滲みました。
滲みも含めて記録です。
*
後になって聞いた、王都の話です。
焚き口から噴き出した黒煙は、三日三晩やみませんでした。
聖女マリエラ猊下は、白い祭服のまま焚き口の前に跪き、祈られたそうです。
「わたくしが祈っております。祈っておりますのよ」
煙は黒いままでした。
「おかしいわ。わたくしが祈っているのに」
煙は黒いままでした。
煤が祭服の裾に落ち、袖に落ち、頬に落ちました。神殿の者が「猊下、お下がりを」と言っても、猊下は動きませんでした。動けば、祈りが足りなかったことになるからです。
四日目の夜明け、大護符が鳴りました。
鐘のような音だったと誰もが言います。
そして、結界が割れました。
王都の西側から魔物が流れ込み、市場の屋根を踏み抜き、三区画を食い荒らしました。騎士団が出ましたが、結界が前提の都市設計です。そもそも城壁が低い。
死者が出ました。
王城は即日、『原因究明』を命じました。
——ですが。
記録がありません。
誰も、煙を見ていなかったからです。
護符係は、五十八日前に廃止されていました。後任はいません。焚き口の前に立つ者は、十二年ぶりに、ひとりもいませんでした。
神殿は言いました。「聖女猊下の祈りが不足していたのでは」
猊下は言いました。「管理局が怠慢だったのです」
管理局は言いました。「そんな報告は、受けていません」
*
その夜、鎧も脱がずにカインさんが帳場の前に立ちました。
「王都が割れた」
「はい」
「……あんたのせいじゃない」
「ええ」
わたしは手帳を閉じて、顔を上げました。
「わたしのせいではありません。それは、十二年分の紙に書いてあります」
大男は、しばらくわたしを見下ろしていました。
「……悔しくないのか」
「悔しいですよ」
「顔に出てない」
「出すと、間違えますので」
わたしは立ち上がり、棚から茶葉を取りました。今日は、わたしが淹れる番です。
「十二年、誰にも読まれませんでした。それがいちばん、悔しかったです」
湯を注ぐと、草の匂いが立ちました。
「でも、もうすぐ読まれます」
「……なぜわかる」
「原因究明を命じたからです」
わたしは茶碗を彼の前に置きました。
「原因を探す人間は、必ず書類を探します。そして書類は——自由都市の資料室に、受領印つきで、全部あります」
*
**第五章 「聖女猊下の受領印があります」**
王城、大会議室。
その場の様子を、のちにわたしは宰相閣下ご本人の手紙から知ることになります。
*
「ですから、神殿といたしましては、やはり祈りの継続性に問題が——」
「管理局の怠慢でしょう。わたくしは祈っておりました」
「お待ちください猊下、我が局はそのような報告を一切受けておりません。なあ、リンデル課長」
「は、はい。受けて、おりません、はい」
責任の押し付け合いが三巡したとき。
ヴェルナー・アッシュフォード宰相閣下が、部屋の隅の台車から紙束をひとつ取り上げました。
どさり。
机の上に置かれました。
誰かが話し続けていました。閣下は、二つ目の束を置きました。
どさり。
三つ目。どさり。
四つ目。五つ目。六つ目。
話し声が、小さくなっていきます。
七つ目。八つ目。九つ目。十。十一。
十二個目の束が置かれたとき、会議室は完全に静まり返っていました。
「……宰相閣下。それは」
「年次報告書です」
閣下は老眼鏡を押し上げました。
「護符係ミルドレッド名義。十二年分。各月の写しが、管理局・財務省・神殿の三カ所に提出されております」
紙が、一枚めくられます。
「第一年。『煙、白。匂い、草。異常なし』」
また一枚。
「第九年。『煙、薄灰。灰量、前年比一・四倍。要経過観察』」
また一枚。
「第十年。『薄灰、継続。灰量、前年比一・九倍。要点検』」
閣下の声は、最初から最後まで同じ調子でした。
「第十一年。『濃灰に移行。前例に照らし、三年以内の崩壊を懸念。至急、符板の交換または予備符の手配を具申する』」
誰も何も言いません。
「第十二年。『濃灰、継続。具申、再掲。再掲、三回目』」
閣下は紙を置き、束のひとつを引き寄せました。
「——ここで、ひとつ」
老眼鏡の奥の目が上がりました。
「三年前、濃灰に変わった月の報告書に、聖女猊下の受領印があります」
*
誰も、何も言わなかったそうです。
「……わたくしは、そんなもの」
「印影は猊下の正式印です。神殿保管の控えにも、同じ日付がございます」
「侍祭が、勝手に——わたくしは、祈りの合間に、差し出された紙に印を押しただけで——」
「はい」
閣下は頷きました。
「読まずに押された。そういうことですな」
猊下の唇が、少し開いて、閉じました。
閣下は、次の束に手を移します。
「管理局。『そのような報告は受けていない』との先ほどのご発言ですが」
「……は、はい」
「十二年分、四千三百八十三日分の報告書、すべてに受領印が押されております。印影はこちら。第三課課長、テオ・リンデル殿」
テオ課長は、立ち上がろうとして、立てなかったそうです。
「……押しました。押しましたが、私は、ただ、受け取って」
「読んでおられない」
「……はい」
「ご苦労さまでした」
それは課長自身の口癖でした。十二年間、わたしに言い続けた言葉です。
閣下は、さらにもう一枚を置きました。
「加えて、本件の決裁書です。『護符係廃止の件』。意見欄——宰相、反対。写し三部あり」
紙がめくられます。
「承認欄——王太子アルヴィン殿下、ご署名」
*
自由都市の資料室には、問い合わせが殺到しました。
ロゼッタさんは、全部を規定通りに処理しました。閲覧請求書、身分照会、公開手続き。賄賂を持ってきた貴族は本の角で殴られ、脅しに来た神官は鍵束で追い返されたそうです。
「記録は所有者のもんじゃない。未来のもんだ」
十二年分の記録と、百四十四本の灰の小瓶が、公開されました。
灰は、雄弁でした。
年ごとの灰の量を並べれば、護符が魔力を食う速度が年々上がっていたことが、数字で出るのです。わたしが前世で何百回も引いた、あの曲線。終わりに近づくほど跳ね上がる、劣化曲線。
わたしは、一度も『誰かが悪い』と書いていません。
ただ毎日、色と量を書いただけです。
それが、いちばん残酷な告発になりました。
*
**第六章 九枚の小護符**
王都から使者が来たのは、崩壊から二十日後でした。
薬屋の帳場に立っていたのは、白髪を撫でつけ、老眼鏡を鼻の先に乗せた老人。宰相ヴェルナー・アッシュフォード閣下その人です。
ギルが薬研を落としました。
「ミルドレッド殿。王都への帰還と、男爵位の叙爵を打診に参りました」
「お断りします」
「……でしょうな」
閣下は本当にそれだけ言って、頭を下げました。驚きもしません。たぶん、来る前から答えを知っていたのだと思います。
「わたしは記録しかできません」
わたしは言いました。
「護符を直せる者ではないんです。直せる者を探してください」
「探しております。が、二百年、誰も符板の作り方を知らぬのです」
「——でしたら」
わたしは手帳を取り出しました。最後の数ページ。十二年のあいだに、少しずつ書き写した場所です。
「予備があります」
閣下の老眼鏡が、ずれました。
「なんと」
「辺境ジレア地方の廃村、カルヴ。二百年前、王都に大護符が建つ以前、各村の境に立てられていた〈小護符〉が九枚。第七十三代護符係の業務日誌に、保管場所と封印様式が記録されています」
「……なぜ、そのようなものを」
「引き継ぎのために、過去の日誌を全部読みましたので」
沈黙。
「全部、とは」
「全部です。二百年分、百十二冊。六歳で任官が決まってから、十八歳までに」
閣下は、しばらく口を閉じていました。
それから老眼鏡を押し上げて、言いました。
「……あなたを笑った者たちの顔を、今、全員に見せてやりたい」
「見せなくて結構です。急ぎましょう。小護符は小さい。王都の結界は張り直せません」
「では、どうせよと」
「辺境から張り直してください」
*
廃村カルヴへ向かったのは、カインさんの守備隊でした。
「六日で運ぶ」
「道が崩れています。日誌には、村の北の谷が落ちたと」
「迂回する。八日だ」
「八日ですね。記録します」
大男は、ふん、と鼻を鳴らしました。
「あんた、おれの約束まで記録するのか」
「約束は、守られたか守られなかったかを書くためにあります」
「……守る」
七日半で、彼は戻ってきました。
荷車に、黒い符板が九枚。苔と土に埋もれていたものを、布で包んで。
約束より半日早い。手帳には、そのまま書きました。
『第四千四百四十一日。小護符九枚、到着。予定比マイナス半日』
*
そこからの辺境は、祭りのようでした。
町の石工が台座を切り、冒険者ギルドが魔力線の測量を請け、薬屋の主人が炊き出しを出し、ギルがパンを焼きました。相変わらず膨らみませんでしたが、みんな食べました。腹が減っていたからです。
わたしは焚き口の設計に口を出しました。
「焚き口は南向きに。朝日で色が見やすくなります」
「煙なんか誰が見るんだ?」と石工が笑いました。
「毎朝、誰かが見ます」とわたしは言いました。「そのための穴です」
九枚の小護符が、辺境八つの町と村の境に立ちました。
結界は、王都の正門からではなく、辺境から張り直されました。
国の中心が、静かに移動したのです。
*
王都では、猊下がまだ祈っていらっしゃるそうです。
黒煙の消えた焚き口の前。人のいなくなった広場で、煤けた祭服のまま。
「祈れば直ります」
誰も見ていません。
王太子アルヴィン殿下は、廃嫡されました。
わたしは一度だけ、法廷に召喚されました。廃止決裁書に自分の署名があることを読み上げられたあと、殿下はわたしを見て、ぽつりとおっしゃいました。
「……私は、紙を読まなかっただけだ」
「ええ」とわたしは答えました。
「それだけです。それだけで、国は燃えます」
会場は、静まり返りました。
今度は、誰も笑いませんでした。
*
**第七章 第四千七百六十一日。煙、白**
一年後。辺境の町、ミルハ。
朝の薬屋の帳場に、どたばたと足音が駆け込んできました。
「シエラさん! シエラさん!!」
ギル。十二歳になりました。背が伸びて、前髪はやっぱり小麦粉で白い。
布巾をかぶせた籠を、どん、と帳場に置きます。
「食べてください、シエラさん!」
布巾をめくると、湯気が上がりました。
——丸い。
焦げていない。ひび割れていない。押すと、ふ、と戻ってくる。
「いただきます」
割りました。白い湯気が、ふわりと顔に当たりました。酵母の甘い匂い。中に、細かい気泡がびっしり並んでいます。
口に入れると、ほろりと崩れました。
「……うん。中がふかふかですね」
「ほんとですか!?」
「十九回目で成功です」
ギルが固まりました。
「……え」
「十九回目です」
「数えてたんですか!?」
「記録係ですので」
わたしは手帳を開いて、見せました。
『第三千九百十二日。パン、一回目。硬度高、酸味強。改善点:発酵時間』
『第三千九百四十日。二回目。焦げ。改善点:火力』
『第四千二十二日。三回目。わずかに膨らむ。発酵四時間』
……
『第四千七百六十一日。十九回目。膨張良。気泡均一。酸味なし。——成功』
ギルは、しばらく手帳を覗き込んでいました。
それから、ぽたりと、紙の上に雫が落ちました。
「あ、すみません、インクが」
「濡れたら、濡れたと書くだけです」
「っ……うう……」
「泣くと、顔が腫れて、明日の発酵の見極めが鈍ります」
「シエラさん、そこもうちょっと優しくできませんか!?」
*
店の戸が、ごとんと鳴りました。
二メートルの影が、朝日を塞いでいます。
「……茶だ」
カインさんは何も聞かずに奥へ入り、湯を沸かし、茶を淹れて、わたしの前に置きました。一年間、ほとんど毎朝、同じ動作です。
「隊長! 見てください、膨らみました!」
「……ほう」
大男はパンをひとつ摘み上げ、丸ごと口に入れ、咀嚼し——
泣きました。
「泣いた!!」
「泣いてない」
「泣いてますって!!」
わたしは茶碗を持ち上げ、湯気越しに彼を見ました。
茶碗を置いた手が、少し震えていました。
懐の名簿には、四十三人の名前があります。
この一年、一人も書き足していません。
書き足さなくていいから、震えるのだと思います。
「カインさん」
「……なんだ」
「茶、おいしいです」
「……そうか」
彼はそっぽを向きました。鱗の頬が、少し赤い。
ギルが「あーっ」と言いかけたので、わたしは残りのパンを彼の口に詰めました。
*
王都からは、今も時々、手紙が来ます。
宰相閣下から、年に四回。国の状況と、辺境への支援枠の報告。わたしは全部に受領印を押して、送り返します。読んだという証拠は、残すべきですので。
それから、一通だけ、別の筆跡がありました。
『ミルドレッド殿
煙の色の見分け方を、教えていただけませんか。
薄灰と濃灰の境が、わかりません。
王立結界管理局 護符係 テオ・リンデル』
課長——いえ、今は護符係です。降格のうえ、後任に任命されたと聞きました。毎朝、焚き口の前に立っておられるそうです。
わたしは手順書の写しを作り、同封しました。
『薄灰と濃灰の境は、紙に擦りつけて判定してください。白紙に煤を擦り、朝の光で見比べます。見本の紙片を三枚同封します。
それから、灰は必ず小瓶に取り、年月日を書いてください。色は目が慣れますが、量は嘘をつきません。
写しは三部。受領印を取ってください。
読んでくださって、ありがとうございます』
受領印を押して、送りました。
*
夕方、店を閉めて、町の北の丘に上がります。
そこに、小護符の一枚が立っています。
根元の焚き口は、南向き。朝日で色が見やすいように。
細い煙が、まっすぐに上がっていました。
白。
指ですくって、匂いを嗅ぎます。草の匂い。灰は、小匙に一杯も出ていません。
わたしは手帳を開き、ペン先を舐め、今日も一行だけ書きました。
『第四千七百六十一日。煙、白。匂い、草。異常なし』
丘を下りると、ギルが店先でパン種をこねていました。二十回目の仕込みです。
カインさんが門のところに立っていて、わたしを見て、短く言いました。
「……行くぞ」
「どちらへ」
「飯だ」
「記録してもいいですか」
「……好きにしろ」
わたしは笑いました。十八歳の顔に、二十三年働いた人間の皺が寄ります。
明日も、煙を見ます。
誰も読まなくても、書きます。
読まれる日のために。




