爵位も遺産も私には必要ありませんので、叔父様に全部差し上げましてよ?
「初めまして、ジェンドリン伯爵家前当主の一人娘、リゼット・ジェンドリンと申します。
思ったより賑やかな来訪を嬉しく思いますわ。
爵位も遺産も私には必要ありませんので、叔父様に全部差し上げましてよ?」
疎ましかった相手だった兄が亡くなったと聞き、今度こそ伯爵になるのだという野心を胸に、妻や子ども、そして妻の親戚達を連れて乗り込んだ懐かしい屋敷の前。
まさに玄関の前で元伯爵令息だった彼に告げたのは、姪だと思われる裾の解れたワンピースを着た少女だった。
貴族の家の令嬢として、あまりに相応しくない姿に本当に姪なのかと疑いを持った瞬間、貴族らしい優雅なカーテシーを披露する。
どうやら本当に姪だとは理解したが、そうなるとみすぼらしい服装である理由がわからない。
自分達はまだ彼女をドアマットにして虐げていないというのに。
それに今気づいたが、家財道具が屋敷の前に積まれている。
汚れないように気を遣ってか、地面には先にシーツらしき布を敷いてから置かれているが比較的新しいものばかりで、記憶に残っている年代物の家具が置いていないのは不思議だった。処分したのだろうか。
何よりわからないのは令嬢の近くに数人の王国騎士がいることだ。
名の通りこの国を守る騎士で、平和な今は国境の防衛や精鋭による王家の近衛騎士として職務に従事している。
まだ伯爵家にいた頃に参加した夜会や、平民となった今でも王都の見回りをする彼らの制服をみまちがえることはない。
もしや庇護を王家に求めたのかとも思ったが、それにしては敵意といったものを向けられないどころか、誰もが笑みを浮かべて歓迎ムードなのに戸惑う。
これは一体どういうことだと元伯爵令息だったしがない中年グレゴール・ブレンデルは首を傾げることになったのだった。
* * *
グレゴール・ブレンデルは今でこそ平民の、それこそ小さな雑貨屋の店主でしかないが、元々はグレゴール・ジェンドリン伯爵令息として不自由のない生活を送っていた。
嫡男ではないので後を継ぐことはできないと自覚しており、学園での成績は良かったことから城に仕官して自立しようと思っていたぐらいだった。
それが狂ったのは、早い両親の逝去だった。
まだ学園生活も半ばというところで、両親が亡くなってしまったのだ。
残されたのは兄のエドウィンと姉のエリザ、それからグレゴールだった。
これからは少しばかりお人好しな兄を助けて伯爵家を守らなければならないと思っていたのに、そのエドウィンが豹変して裏切られることになる。
助けと称して介入してくる王家の威光を借り、エドウィンはエリザの縁談を早々にまとめたかと思えば、婚約から三ヶ月後には家から追い出すように婚家へと嫁がせた。
エリザとグレゴールの抗議など聞く耳持たずでお構いなしだ。
そのグレゴールも学園を中退させられ伯爵家からも除籍されると、すぐに幾ばくかの金と荷物を持たされて家を追い出された。
グレゴールと入れ違いで屋敷へと入っていったのは、エドウィンの婚約者を名乗る見知らぬ令嬢だったが、それよりも明日の我が身が心配だった。
幸いにも街角で途方に暮れていたら雑貨屋の主人に拾ってもらい、そこで慣れぬながらも働くうちに、看板娘であったヒルダに気に入られて婿入りすることになった。
ちゃっかり者の息子と生意気盛りな娘が一人ずつ。
幼い頃に想像していた未来図から大きく離れたが、幸せかと聞かれれば家族の悪口を言いながらも胸を張れるだろう。
そんなグレゴールの人生の岐路に再び修正が行われようとしたのは、生活の中で耳にした兄の訃報だった。
どうも食材を仕入れている商会から話が漏れ始めていたらしく、ある日兄夫妻は眠るように亡くなり、速やかに死亡扱いの手続きが取られたという。
この瞬間に湧き上がった感情は悲しみなんかじゃない、ざまあみろという気持ちだけだった。
嘲り、喜び、満足。そういった感情が胸の中で広がる中、姉のエリザから手紙が届く。
既に姉は離縁していたがジェンドリンの名に戻ることを許されず、兄の知り合い預かりとなって小さな屋敷に押し込められていたらしい。
手紙には自身の状況と、伯爵家を手に入れたくないかという誘いだった。
兄には娘しかおらず後ろ盾が必要だそうで、その座にグレゴールとエリザが収まれば、以前のような暮らしをすることができるという内容が綿々と綴られている。
こんな美味しい話に飛びつかない奴なんていないだろう。
伯爵代理になれば、家族を満足に食べさせ、贅沢な生活と満足な教育を与えることができる。
兄の娘は適当に離れにでも放り込んでおけばいい。なんならあの最低野郎の代わりとして、贅沢しか知らない小娘に平民の生活が何たるかを叩き込んでやればいい。
すぐには無理だが適当なところで死んでもらえば、疑われることなく伯爵は自分のものだ。
けれど勇み足を迎えたのは肩透かしで。
「屋敷前で立ち話となって申し訳ないですが、早々に伯爵家の譲位に必要な書類と、私の除籍届に署名を頂けますでしょうか」
さあ、と近くのローチェストに書類が並べられた。
唐突に現れた叔父を名乗る男が本物かどうかも確かめず、伯爵位と財の一切合切を渡してくるリゼットと名乗った姪の意図がわからない。
訝し気な視線に気づいた彼女が上品に微笑む。
「私はこの家にも伯爵という立場にも執着がございませんの。
全て叔父様にお譲りいたしますわ」
そうして父親譲りの瞳を横へと動かす。
「叔父様は大家族ですのね。
大変喜ばしい限りですわ」
「本当に。これだけ大家族ならば屋敷も賑やかで困らないでしょう」
姪だけではなく家令らしき者まで微笑みを浮かべている。
家令は前にいた者と替わったらしく、よくよく周囲を確認すれば使用人の顔に誰一人見覚えがない。
いくら年月が経ったとはいえ、ここまで使用人に見覚えがないのも違和感を覚える。当時、既に矍鑠とした老人であった家令は仕事を辞めていて不思議ではないが、彼の息子が優秀だということで見習いとして勤め始めていた頃だった。
見る限り、彼もいなさそうだ。
兄が伯爵になって総入れ替えをしたのだろうか。
「あんた、ちょっとおかしくない?」
ヒルダがコソコソと耳打ち言葉は、グレゴールも感じていることだ。
屋敷の前の家財。城の法務官がいることの王家の介入。それに全てを捨てようとする姪。
何もかもが奇妙だったが、同時に奇妙だということ以外に問題が無いことから、グレゴールに断る理由がない。
家族を幸せにするためだと差し出されたペンを取る。
これに名を書けば幸せになれるのだ。
僅かに震えたままの手に力を込めて、久しぶりにジェンドリンの名前で名を書いた。
大きく息を吐いてペンを置けば、すぐさま書面の確認が行われ、使用人とは違う服装の人々が懐から恭しく印を一つとりだすと、書面の隅に朱が追加された。
姪は満足気に息を吐いて微笑む。
自身を見下ろしてワンピースのスカートを摘むと、これは他の人から貰ったので伯爵家の財では無いので安心してほしいと口にする。
「ここからは何一つ持ち出しませんわ」
「いくらなんでも身一つで出ていくのはどうなんだ。
多少の金ぐらいなら用立てるが」
さすがのグレゴールも罪悪感から声をかけるも、彼女は首を横に振って拒否の意を示すだけ。
「いいえ、結構ですわ。
既に叔父様はジェンドリン伯爵。ジェンドリンから頂くものは何一つありません」
「行く宛は?」
聞けば、やはり軽く首を横に振るだけ。
「暫くはゆっくりしようかと思っていますが、私の行き先など気にされても。
ジェンドリン伯爵がこれから気にするべきは、家を続かせることと、大切な家族のことだけでしょう。
この家を引き受けてくださったこと、本当に感謝しているのです。
私はもう行きますが、どうぞ息災であらんことを祈っております」
美しい礼をもう一度披露した姪は、軽やかな足取りで去って行った。
少しして歓声を上げたのは娘だった。
「あたし、本当にお貴族のお嬢様になれるんだ!
さっきのリゼットだっけ?何も持って行かなかったってことは、部屋にドレスを残しているんでしょ?
ちょっと着てみたいんだけど!」
スカートを摘んで裾を翻しながらクルリと回った娘は、興奮冷めやらぬ顔で近くの使用人に問いかけている。
いかにも平民ですといったマナーを知らない態度でも、使用人達は表情を変えることはない。
先程と変わらず笑みを貼り付けた家令が、先ずは応接間で休憩することを勧めてくれた。
そうしている間にも、使用人が家財を屋敷に戻していく。
メイドが家族を応接間に案内し始め、誰もが恐る恐るといった風に屋敷に足を踏み入れていくのを眺めていたら、他の使用人とは違う服装の男に声を掛けられた。
グレゴールと変わらないか少し年下かと思われる男は、儀礼的に頭を下げてから王家からの使者だと名乗る。
どこかで見たことがあるのだが思い出せない。
彼は大切そうに小さい箱を持っていた。
重厚な箱には壊れにくいように角に金属板が打ち付けられ、 頑丈そうな錠前が取り付けられている。
そこらの工具でも叩き壊すことなど難しそうな物々しさから、見た目よりも箱は重いのだろうと思われた。
手袋のされた指先が、箱の縁を一撫でする。
「こちらはキンサンと呼ばれるものです」
男の口から聞こえた固有名詞は全く意味のわからないものだった。
困惑するグレゴールを気にすることなく、男の言葉は続いていく。
「現当主様はご存知ないかと思いますが、ジェンドリン伯爵家の前々当主が王家の密命にて用意されました。
私共ではわかりませんが、東方の国の魔術もしくは相当の儀式、または道具と聞いております。
こちらは決して開くことなく執務室の金庫にお入れし、家族に見せぬように注意して、厳重に管理されることを推奨します」
視線を合わさず伏せられた目には深淵が陰りを見せている。
何を言っているのかわからない。
そもそも説明している相手すらよくわかっていないものを、どうしてグレゴールに理解ができるというのか。
「これ、は」
受け取ることを本能が拒否して、手を出すことが躊躇われる。
グレゴールの言葉に薄く昏い微笑みを浮かべた男に、どことなく見覚えがある気がした。
どこかで会ったことがあるのか思いながらも、口に出すことを嫌悪していることに気づく。
「キンサンは本来の性質から大きく変容しているそうですが、総じて金を生み出すものだそうです。
これがある限りジェンドリン伯爵家が経済的に苦労することは無いでしょう」
既に家族は皆屋敷の中に入り、玄関口を騎士が二人見張っている。
まるで逃がさないかのように。
「勿論、恩恵には対価を求められます」
目の前の男の表情が陰りつつある。
酷く嫌な予感がする。
聞いてはいけない。それなのに聞かないといけない。
「キンサンはジェンドリンの一族の命を寄越せと要求するのだそうです」
息が止まった。
「本来ならば正当な後継者であったリゼット様が継ぐところですが、彼女は婚姻どころか成人したばかり。
このままだとジェンドリンの血が絶えてしまうことを憂い、王家と相談してキンサンの譲渡を決意されました。
当主様の耳にまで噂がしっかり回ったようで安心しましたよ。
後はキンサンを譲渡するための準備をすればいいだけでしたから」
男が家具を指し示す。
「先々代の資料に書いてあった通りに家財を全て外に置いておいたのですが、どうやら上手くいきましたね」
謀ったのかと言いたいのに口が開かない。
開いても掠れた吐息が出るばかりで、ヒューヒューと音がするだけだ。
「キンサンが対価を求めるタイミングは気まぐれですが、数年に一度か二度ほどで、要求される数もそう多くありません。
先ずはご高齢の方から差し出せば、お坊ちゃまとお嬢様は息災でしょう。
無事に次のお子を産んでもらいましたら、伯爵らしくあるために家庭教師の手配も王家でしてくださいます」
次のお子、という言葉に禍々しさを感じる。
それは新たな生を祝うのではない。
生贄が絶えないための、命の生産ラインを確保する目的でしかない。
「信じられない、と仰るかもしれませんが本当の話です。
だからこそジェンドリンのお家騒動には王家が介入するのですよ」
肩に手が乗せられた。
思わず跳ねたそこを、逃がさないとばかりに力が込められる。
顔の中で作られる歪んだ三日月から、言葉となって絶望が垂れ落ちていく。
「グレゴール様がご家族を沢山連れて来てくださって、本当に良かった」
騎士に背中を押されて屋敷の中へと重い足を運ぶ中、今話していた男がかつて家令見習いとして家にいたのをようやく思い出した。
* * *
「きっと着たい服じゃないと思うけど」
そう言って差し出されたのは、教会への寄付として持っていくはずだったという色褪せたワンピース。
けれどリゼットにはどんなドレスにも負けない魅力的なワンピースだった。
あの日、両親と初めて口論になった切っ掛けは些細なことだったと思う。
そこから家出にまで発展したのは、ジェンドリン家に隠された薄ら暗い部分を、両親の利己的な部分を指摘してしまったせいだろう。
たかだか一時凌ぎのために生まれたくせにと、父親に叩かれた頬がまだ痛む。
そうだ。彼らにとって子どもは自分達が平和に生きるための生贄でしかないのだ。
リゼットは忘れてなどいない。
後継ぎになるはずだった健やかに生まれた弟が五歳のときに亡くなったことや、次こそは大事にしようと思っていた妹までもが三歳で亡くなったことを。
前日まで確かに元気であったはずなのに、朝起きたら亡くなっていたのだ。
どう見たって不審死であるにも関わらず、両親達は医者に多めの金貨を渡して帰らせ、その後は淡々と葬式を執り行った。
涙を流すことなく棺が埋められるのを冷ややかな目で見守る両親の姿。
政略結婚で愛情が無いのは知っていたが、それでも子への愛情が一片も感じられないのは異常だ。
なにより、子を喪った瞬間から、新しい命を宿そうとする執念だけが薄気味悪かった。
何かがおかしい。
そう思ったリゼットは原因を探ろうと、後継者として領地経営の手伝いをするのだと称して、執務室に入り浸るようになった。
いつまで経っても婚約者を見つけない父親や、夜会にもお茶会にも連れて行かない母親に何か言うつもりもない。
リゼットが知りたいのは真実だけだ。
そうして退廃と怠惰に溺れた両親からキンサンを初めて見せられた時、気が狂うかと思った。
不審な死を遂げた弟妹。新しい子を成そうとする両親の思惑。
これで新しい命が芽吹かない場合は、容赦なくリゼットを犠牲にするのだろう。
自分達が助かるために。
折り悪く雨が降り始めたが、リゼットはどこにいけばいいのかわからない。
大降りではないが、視界が煙るほどには細かな雨が降り続けている。
どうしようかと途方に暮れた時、霧雨に包まれた視界の外から声が届いた。
「……濡れたままでいると、風邪をひくよ」
少しだけ気遣うような調子で。
滲む視界は雨のせいか泣いたせいかはわからない。
よく見えない先を見ようと目をこすり、やっぱりよく見えない先を少しだけ歩けば、建物の輪郭が形を作り始める。
「こっち、空いてるから」
声の主はそう言って、石造りの小さな倉庫の扉を少し開けた。
中には麻袋に詰められた服や、束ねられた毛布の山。
恐らく教会へ寄付されるものなのだろう。
リゼットは戸惑いながらも、会釈をして物置のような場所へと足を踏み入れた。
雨宿りには充分な空間で、湿った空気の中で微かな雨音だけが静謐に色を添えている。
少年は彼女を見ることなく、袋の上に腰を下ろしていた。
そして、手近な麻袋から一着のワンピースを取り出して軽く笑う。
「着たい服じゃないと思うけど」
差し出されたのは、色褪せたワンピース。
裾にあった刺繍が解れて、でも寄付する為か清潔に洗われているようだった。
「濡れたままでいると、体調崩すからね。
嫌じゃなかったら、着替えた方がいいよ」
手渡すでもなく、彼はそっと隣に置いた。
それだけでリゼットの心にあったささくれが消えていくようだった。
先程まで希薄なくせに息苦しい空気の中にいたせいか、向けられたささやかな気遣いが酷く優しいものに感じられた。
雨はまだ降っている。
けれど、さっきまでよりも少しだけ世界が静かになった気がした。
明らかに場に不相応な服装をしているリゼットを見ても、彼は何も言わない。
豪奢なドレスにお金や物を強請るのではないかと不安だったが、彼の表情は変わらずに外の天気を気にしてばかりいる。
彼が口にするのは急な雨によって身動きができないことへの不満や、ここにある荷物についてだ。
リゼットが想像した通り、ここにある荷物は教会のバザー用の品々だった。
少年に倣って、服が詰められた麻袋の上に座る。
家のクッションのような柔らかさは無かったが、その素っ気なさが逆にリゼットを何者でもない個として扱っている気持ちになれて安心する。
「私、両親と喧嘩して逃げてきたの」
ぽつりと落とした言葉に、彼はリゼットを見て何か言うこともなかったが、静かに耳を傾けているような気がして再び口を開く。
「そこにいると私はいつか死んでしまうの。
家はきっと私が死んだら大きくなるわ。
それに新しい子どもが生まれて、きっと、私がいなくても続いていくの」
両親にはそれぞれの弟妹が残っている。
でもそれを口にしたことはない。呼び寄せることもしない。
「お父様には弟も妹もいるけど、大切だからこそ家に置かないの。
だって近くにいれば死んでしまうもの」
あの人達は大切な家族を殺さなければいけないという選択と向き合うのが嫌なのだ。
「でも私や弟達は死んでもいいと思っているの。酷い話だわ」
彼らにとって、リゼットと他の子ども達は消耗品に過ぎない。
「それが嫌で、とても怖くて、喧嘩をしたなんて建前で、本当は犠牲になんてなりたくなくて逃げたの」
雨音よりも少しだけ大きな声は、静かで小さな場所でよく響いた。
「逃げられるのなら逃げたい。
死にたくない」
まったく自分を知らない相手の前だからこそ、きっと二度と会うことのない相手だからこそ言える本音。
死にたくなんてない。
「逃げていいと思うよ」
ぽつりと雨垂れのように言葉が返ってくる。
少年と視線が合うことはない。
それだけで重苦しい湿気の中でも息がしやすかった。
「俺だったら逃げる。
死にたくないもん」
握りしめたワンピースに皺が寄る。
「だから生きなよ」
ストンとリゼットの心の中に落ちた言葉は、素っ気なくて、でも救いに似ていた。
そして、それはリゼットの初恋になった。
* * *
「いやあ、とてもよく似合うよ」
東方訛りの喋り方の男がリゼットの肩を抱く。
追っ手に見つからないようにと派手な赤毛のカツラに、胸元の大きく空いた派手なドレス。
高級娼婦にしか見えない服装は男が面白がって用意したものだ。
周囲にバレないようにリゼットは男の足先を思いっきり踏みつけた。
伯爵家を出てすぐにリゼットを拾った馬車は、乗り合い馬車を装った小さな馬車だった。
たかだか小娘の足で逃げることなど出来ないと思った王家の者達は、姿をくらましたことに焦っているだろう。
財を手にするために伯爵家一つを潰すことに躊躇しないのだ。
リゼットも簡単に解放してもらえるなんて思ってなどいない。
王家から逃れるために接触を図ったのは、東方からの異邦人で、あちらから接触されたのが切っ掛けだった。
どうやらキンサンと呼ばれる儀式の資料を管理していた一族らしく、気づけばキンサンと一緒に盗まれていたことから、手掛かりを追って辿り着いたのだという。
状況を把握したらしい彼の判断は奪取から観察に変わったようだったが、同時に変質した呪術がどのような形に生まれ変わるのかを知るために、全ての資料を頭に叩き込んだリゼットの保護を申し出てくれたのだ。
これとて裏があるわけだが、貴族令嬢が一人で生きて行けるわけもなく、今の時点では死が約束されたわけでもない。
どうしたって彼の手を取るしかなかった。
後悔はしていない。
叔父はそこまで悪人ではなかったが、だからといってリゼットが自分の命と比べたときに優先したい相手でもなかった。
顔を合わせたことのない親戚など赤の他人でしかないのかもしれないし、自分が薄情なのかもしれない。
このまま馬車を乗り継いで船に乗り、この国を出ていく。
あの時の少年にはもう会えないだろう。
解れたワンピースが入った鞄をそっと撫でる。
晴天の下、少しだけ雨の気配を感じた。