エピソード10話:ぴょんが生まれた日
──その夜、Cafe Pyonの灯りは遅くまで消えなかった。
星は雲の向こうで瞬いていたが、広場の灯りは風にゆれて、 まるで何かを思い出そうとしているように揺れていた。
都市のフェスは終わり、人々は笑い、帰路についた。 魔獣の影も退いた今、 広場には静けさと、わずかな名残惜しさだけが残っていた。
都市のフェスが終わり、魔獣の影も退いた今、 広場には静けさと、わずかな名残惜しさだけが残っていた。
「……なあ、ぴょんって、どこから来たんだと思う?」
ゆうとは、ぬるくなったオムライスの皿を手にしながら、 ぽつりとそんなことを言った。
「はじめはさ、俺、ただの“お客”だったんだよな」
焚き火の火が、彼の頬にちらちらと映った。
「ただメニュー選んで、笑って、また来て…… それだけだったのにさ。なんで今、こんなに“ぴょん”に本気なんだろうって」
焚き火を囲みながら、ゆうとがぼそりと呟いた。
「へ? ぴょんは、ぴょんだよ?」とミウ。 「キラ☆キラしてて、ぴょんってしてて、ぴょんって生まれて……うぅん、なんだろ?」
「秋葉原、だろ」とマキがコーヒーをすする。「あの街の片隅にあった、小さな店」
「Cafe Pyonの、はじまりだぴょん……」とミウが目を細めた。
──そして、誰からともなく、静かに語り始めた。
それは、異世界に来るずっと前。
ネオンのきらめきと喧騒があふれる、 あの夜の秋葉原にあった── 「ぴょんが生まれた日」の話だった。
* * *
アスファルトの夜は、熱を抱えて光っていた。
レトロゲーム屋、同人CDショップ、ラーメン屋の排気口から流れる豚骨の匂い。
人の声、電光看板の瞬き、キャッチのメイドたちの笑顔。
そのすべての中に、確かにひとつの粒があった。
ネオンの海に、ぴょんの粒が、キラキラ沈んでいた。
* * *
──ミウ、という名は、秋葉原の片隅で与えられた。
初めて袖を通した、真新しいメイド服。
リボンの位置が落ち着かず、鏡の前で何度も整えては崩した。
「ご主人様……えっと……おかえりなさいませっ」
声は、震えていた。
笑おうとした口元はうまく曲がらず、
目線はカウンターの隅に逃げた。
“キラキラ”なんて、程遠かった。
店内にはネオンの色が流れ込み、
制服の白がうっすらと染まっていた。
人の声、油の匂い、電子音──
ぜんぶ、少しだけ怖かった。
──その頃の私は、まだ「ぴょん」に出会っていなかった。
アスファルトの夜は、熱を抱えて光っていた。
akibaカルチャーズZONE、コトブキヤ、油のにおいのケンタッキー。
人の声、電光看板の瞬き、キャッチのメイドたちの笑顔。
そのすべての中に、確かにひとつの粒があった。
ネオンの海に、ぴょんの粒が、キラキラ沈んでいた。
──その頃の私は、まだ「ぴょん」に出会っていなかった。
それは、ある日のこと。
「おまじない、かけますね……おいしく──あっ!」
滑った指先。傾いたトレイ。ぐらりと揺れたオムライスは、見事な放物線を描いて、客の膝に着地した。
「ごっ、ごごごごめんなさいっ……!!」
頭を下げながら、涙が出そうだった。
奥のカウンターで先輩が小さくため息をついていたのも見えた。
──私、向いてないかもしれない。
店の隅で、制服の袖を握りながらそう思った。
そのときだった。
「……あのさ」
声をかけてきたのは、制服姿の少女だった。
年は私と同じくらいか、少し下。
彼女は笑っていた。怒っても、呆れてもいなかった。
「さっきの、かわいかったよ」
一瞬、何のことかわからなかった。
でも彼女は続けて言った。
「とっても緊張してたでしょ? でも、その“おまじない”の声、わたし、ちょっと元気出たんだ」
──元気。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
その夜、私は鏡の前で、小さく跳ねてみた。
「ぴょんっ……」
リボンが揺れて、スカートがふわりと広がる。
おかしい。でも、なんだか、少しだけ心が軽かった。
翌日からだった。
おまじないの最後に、ほんの少しだけ跳ねてみた。
「……おいしくなぁれ、ぴょんっ!」
最初は照れくさかった。
けれど、それを見たお客さんが、笑ってくれた。
「今の、かわいかった!」「ぴょんって、いいね」
少しずつ、少しずつ。
「ぴょん」は、店に、ひとりずつ、広がっていった。
アスファルトの夜は、熱を抱えて光っていた。
高架下、パチンコ屋の喧騒、油のにおいのケンタッキー。
人の声、電光看板の瞬き、キャッチのメイドたちの笑顔。
そのすべての中に、確かにひとつの粒があった。
ネオンの海に、ぴょんの粒が、キラキラ沈んでいた。
* * *
──マキは、ずっと完璧であることに慣れていた。
「トレイさばき、Sランク。ケチャップの線も直線。衛生管理、パーフェクト」
先輩として、後輩を指導し、笑いながら毒を吐き、笑顔で帳尻を合わせる。
けれどその裏側にあるのは、ただの空白だった。
「昔、ちょっとだけ夢を見てたんだ」
ある日そう呟いた自分の声が、意外と冷たかったのを覚えている。
店に入った当初は、逃げ道のつもりだった。
──どうせ長くは続けないだろう、と心のどこかで思っていた。
だけど、制服のトレイが、いつしか自分の“盾”になっていた。
ミウの失敗をかばって、ケチャップの軌道をなぞる自分の手元が、
不思議と、誇らしかった。
「マキさんのトレイ、いつも助けられてます」
そう言ってくれたのは、よく来るOLの常連だった。
疲れていた。顔に出ていた。笑顔の奥が、ちょっとだけ滲んでいた。
──この人は、私のトレイで守れる。
そのとき、初めて本気でそう思った。
その夜、トレイでケーキをキャッチした。
ふいに傾いた皿、崩れかけたスポンジケーキ。
けれど私の手は迷わなかった。柄の端を持ち替え、重心をずらし、銀の縁で受け止める。
──カチリ。
トレイがケーキを受け止めた音に、店内のざわめきが一瞬止まった。
次の瞬間、
「すげぇ……」「あれ、マジでやったの?」「見たか、今の……!」
どよめきが笑いに変わった。
拍手のような音が散って、ミウが目をまんまるくして私を見ていた。
「トレイ姫!」
誰かがそう呼んだ。軽口のように、でもどこかあたたかく。
少しだけ、肩の力が抜けた。
いつも張っていた背筋が、ほんの少し、呼吸をくれた。
──守れた。
この空間も、ミウも、お客も、そして、私自身も。
“トレイは、ただの道具じゃない。”
そう思えたのは、あの夜が最初だった。
たったそれだけのことで、店の空気が笑いに変わった。
「さすが、トレイ姫!」
誰かがそう呼んだ。
少しだけむず痒かったけど──
たぶん、あの頃の私は、それを必要としていた。
* * *
──ゆうとが「お客」だった時代。
最初に注文したのは、萌えドリンク(魔法付き)。
でも、一番印象に残るのは改めて来店した時に頼んだ、なんてことのないオムライスだった。
たぶん、手が空いていた店員が適当に盛りつけたもの。
ケチャップの文字はかろうじて「ぴょん」と読める程度。
それでも──嬉しかった。
都会の雑踏のなかで、誰かが「おかえりなさい」と笑ってくれた。
その言葉が、オムライスの湯気に乗って胸に染みた。
「……通っちゃってるな、俺」
気づけば、週に一度が三日に一度になり、
店の名前を、いつの間にか“うちの店”って呼ぶようになっていた。
「バイト、興味ない?」
ある日、マキに言われた。
ケチャップを運ぶ彼女の手つきがやけにかっこよく見えて、
なぜか「いいっすよ」って答えていた。
そこから始まった。
皿洗い、掃除、そして──オムライス。
「₍ᐢ‥ᐢ₎……また失敗した……」
絵がうまく描けなかった日。
マキに「減点10」と言われて落ち込んだ日。
でも、ある日。
「味より、心だ」
そう言ってくれたのは、疲れた顔をしたサラリーマンの常連だった。
その一言で、手元のオムライスが、
ほんの少しだけ、自分のものになった気がした。
「これが……絆かもな」
そう思った瞬間だった。
厨房の片隅で、
俺は密かにケチャップを持つ手を強くした。
──それからの俺は、少しずつ、“店の人”になっていった。
注文を受けるたびに緊張して、ミウのフォローに回って、
マキには毎度ツッコまれた。
「厨房、焦げてんぞ」「ケチャップ、文字じゃなくて迷路か?」
それでも、なんだか、あったかかった。
お客の笑い声、皿を出すタイミング、湯気の向こうのぴょん。
それらが全部、俺を“こっち側”に連れてきた。
──気づいたら俺も、
誰かの「おかえりなさい」を作る側にいた。
* * *
──そして、今。
異世界の夜。
Cafe Pyonの看板の灯りが、星空の下で静かに揺れていた。
厨房の奥で、ゆうとはフライパンの柄を握りながら、ふとつぶやいた。
「……あの頃のこと、思い出してたんだ」
「秋葉のカフェっすか?」
マキがトレイを拭きながらちらと目をやる。
「うん。俺がまだ“客”だったときの話。ミウが跳ねたあの“ぴょん”が、全部を変えたんだよな」
ミウは椅子の上で足を揃えて、ちょこんと頷いた。
「ご主人様が、おいしそうにオムライス食べてくれて……“ぴょん”って、最初は、笑ってほしくて出たんだよ。あたし自身が、泣きそうだったから」
マキがそっと笑う。
「私もね、あのトレイがなかったら、たぶん、途中で投げ出してたよ」
トリオの間に、ひとつの沈黙が流れた。
けれど、それは寂しさではなく──温かい、灯りのようなものだった。
ゆうとは小さく息をついて、窓の外を見た。
「……でも今、こうしてまた集まれてる。Cafe Pyonもあって、ぴょんもあって、俺たちがいる」
ミウが、くるりと跳ねて、スカートをふわりと広げた。
「ぴょんは、泣かないのっ!」
「うるさい。コーヒーの味変わる」
マキが軽くツッコミを入れたそのとき──
カフェの奥の壁に、ふわりと青白い光が滲んだ。
幾何学的な模様が、まるで夜空とリンクするように浮かび上がっていく。
「……来たか」
ゆうとは、まっすぐにその光を見つめた。
神官の声が、風のように響いた。
『メイドの心よ。過去を知り、次の扉を開きなさい。』
ミウとマキが、ゆっくりと立ち上がる。
三人は顔を見合わせて──うなずいた。