ドラゴンを探して
「何を探しているのかな? 少年」
僕が彼女と出会ったのは、星が綺麗な夜だった。
閑静な住宅街に備え付けられた、ありふれた小さな公園。追いかけっこをする子供たち、犬を散歩させる母親、塗装の禿げたベンチに腰掛ける老夫婦。夜の闇が彼らを帰るべき家へと追いやり、日中の喧騒は鳴りを潜めて、虫の声と草葉が風で擦れる音とが夜の公園を支配していた。
そんな公園の片隅で、僕は彼女と出会った。
僕はブランコに乗っていた。ブランコは僕には小さくて、靴先が地面を擦る。僕の足の動きに合わせて吊席はゆらゆらと揺れ、錆びた鎖がキィ、キィと小気味良い音を立てていた。
彼女が誰だとか、いつからそこにいたのかとか、僕には当然いくつもの疑問があった。けれど、そんな質問をするのも億劫で、ひとまず彼女の質問に答えることにした。
「そうですね、ドラゴンを探しています」
「この公園でかい?」
「わかりません。どこかで」
「そうか、私もだよ。奇遇だね、少年」
冷たい夜風が吹いて、僕と彼女の髪を揺らした。この夜、公園は僕らだけのものだった。
これが僕と彼女の出会いだった。この話において、彼女の具体的な名前(ミサキとか、サオリとか)は重要でない。そもそも僕は彼女の名前を知らないのだ。そこで、一貫して僕のことを「少年」と呼んだ彼女に倣って、ここでは僕も彼女を「女性D」と呼ぶことにする。
とにかくこの話は、「少年」と「女性D」との、ある夜の思い出だ。
*
「それで少年。ドラゴンは見つかりそうかい?」
「いいえ」
「足跡とか、剥げた鱗とかは?」
「見つかりません」
ふーむ、と女性Dは手を顎に当てて考え込む。探偵みたいだ、と僕は思った。探偵なんてものを見たことはなく、漫画で得たイメージと照らし合わせてだが、とにかく僕はそう思った。
少しして、女性Dは人差し指を立ててこう言った。
「それでは少年、場所を変えよう」
僕は彼女に連れられ、山の麓にやってきた。
眼前には雄大な山脈と、それらを覆う広大な原生林が広がっていた。
「ドラゴンといったら、やはり山だろう」
そう言って、女性Dは腰あたりまである下草をかき分けて進んでいく。僕も彼女に従った。
歩き始めて間もなく、地面は次第に傾きを持ち始め、僕らの道行は山登りの様相を呈した。鳥の鳴き声と虫のさざめきが聞こえるが、背の高い植物に遮られてその主は分からない。湿った草と土の匂いが鼻腔をくすぐる。空は木々の葉に覆われ、隙間から漏れる月明かりがかすかに僕らを照らしていた。
しばらく進むと、途端に視界が開け、山肌にぽっかりと開いた大穴が顔を出した。洞窟だ。
洞窟の中は途端に別世界だった。あれほど繁茂していた植物はすっかり姿を消し、樹冠の隙間から覗いていた星々も隠れてしまった。より深い闇と湿った空気が洞窟を満たしていた。
「洞窟はいい。涼しいからな」
女性Dはそう言って、地面に座り込んだ。僕も彼女に倣って、湿っていない場所を選んで座った。彼女との間には、少しの距離が空いた。確かに洞窟は涼しく、体温がゆっくりと奪われる感覚が心地よかった。
「いませんね。ドラゴン」
「そうだな。だが焦ることはないさ。洞窟はまだ奥があるし、山頂に巣をつくるタイプかもしれない。夜はまだ長いしな」
それもそうか、と納得して僕は目の前の岩壁を見た。滑らかな曲面に、いつ書かれたともしれない意味不明な文字列と、足が三つで頭がやたら大きい生き物の絵があった。
「あなたは、どうしてドラゴンを探しているんですか?」
僕は彼女に初めて質問をした。少し遅れて、彼女の答えが返ってきた。
「寂しいからな」
年上の女性がそんなことを言うのは意外で、僕は少し驚いた。寂しいという感覚を、久しぶりに思い出したような気がした。
「少年、君は?」
僕は答えた。自分でも意識したことなんてなかったが、口にした途端、ずっとそう考えていたように思えた。
「ドラゴンに殺されたら、仕方ないじゃないですか」
そうだな、と女性Dが言った。
彼女はやはり、寂しそうに見えた。
洞窟を抜け、僕らは山頂にたどり着いた。
ドラゴンは見つからなかった。
遠くに砂漠と、石の建築物と、格子の集合体と、ブランコが見えた。
「では次だ。行こう、少年」
僕は彼女に続いて、山頂から飛び降りた。
*
僕と女性Dは、砂漠を歩いていた。
「気をつけたまえよ、少年。砂漠とはいえども砂だけではない。枯れ枝や小石など、異物が混じっているからな」
僕らは砂の海を進んでいく。先ほどの山とは打って変わって植物はほとんど見当たらず、夜空一面に広がる星と月がよく見えた。だが決して地面は平坦でなく、所々にある砂丘が僕らの視界を遮る。じゃりじゃりとした砂を踏みしめながら、昔訪れた海を思い出した。
「いないねえ」
「そうですね」
僕らはそんな会話をしながら進み続けた。
風に吹かれて砂粒が飛んでゆく。これではドラゴンの足跡も、剥がれ落ちた鱗も、すぐに砂に埋もれてしまうだろう。それでも僕らは歩き続けた。
「上手いじゃあないか、少年」
「誰でもできますよ。これくらい」
僕らは歩き疲れて休憩していた。砂地を歩くのはアスファルトの上よりよっぽど大変なのだ。
最初は二人ともただ座っていたが、僕が砂を集めて山を作り始めると女性Dは興味深そうにそれを見て、褒めてくれた。
手のひらを滑らせ、砂を集めて掬い、山に足す。足した砂のほとんどは下に落ちてしまうが、山は少しだけ高くなる。凝った装飾も何もない、ただの砂山。そんなものを、手放しに褒められたのが気恥ずかしくて、僕はつい謙遜してしまう。
「そんなことはないさ。私は苦手でね、すぐに崩してしまうんだ」
そういって彼女は砂を積み上げていくが、確かにすぐに崩れてしまった。おどけるように両手をあげて、ほらね? とでも言いたそうな彼女の様子が面白くて、僕はつい笑ってしまった。
砂を足す。女性Dが褒める。僕は調子に乗って、さらに砂を足す。
そんなことを繰り返し、いつのまにか砂山は周りの砂丘より大きくなってしまった。砂を積み上げただけなのに、ここ最近で一番の達成感を僕は感じていた。
「やるじゃないか、少年」
女性Dはいよいよ呆れたような様子だった。
まだまだいけますよ、と僕は手を砂に突っ込み、違うものを掬い上げた。
糞だった。
「……ドラゴンのですかね?」
「いいや、猫のだね」
今度は彼女が僕を笑う番だった。
*
「悪かったって少年。いやしかし、君のあの表情はだね……」
へそを曲げた僕を宥めながら、女性Dは笑いを堪えるのに必死な様子だった。
「付けますよ、これ」
「それは勘弁」
すっと僕から距離をとる彼女がおかしくて、僕は少し機嫌を直した。
僕は彼女に連れられて、石でできた建築物を訪れていた。
高所にある、長方形の広場。広場の外周は少し高くなっており、長辺にあたる場所には一際高い壁がそびえ立っていた。石畳は所々苔むしており、その歴史を感じさせる。女性Dいわく、ここで手を洗えるらしい。
「でも、水なんてどこにもありませんよ」
「まあ見ていたまえよ」
そう言って彼女は壁へと向かっていく。目を細めてよく見ると、壁には小さな蛇口が付いていた。僕の納得も束の間、女性Dは蛇口を捻った後、全力でこちらに向かって走ってくる。
「走りたまえ! 少年!」
彼女はそう言い残して走り去ってしまう。意味が分からなかったが、蛇口の方を見て理解する。開かれた蛇口からは溢れんばかりの水が流れ出し、轟音と共にとてつもない勢いで広場を埋め尽くしていく。僕は迫り来る大量の水に背を向けて、全力で端の高台目指して走りだした。
「……先に、言っておいて、ください」
「……少年の驚く顔が見たくてね」
僕は息も絶え絶えになって倒れ伏す。幸い排水システムはあったらしく、水が高台を越えて広場から溢れることはなかった。広場は泉へと変わってしまったが。僕はしぶしぶ手を洗いながら、確かに驚きましたけど、と言った。
そうだろう、そうだろう、と彼女は満足げに頷いていた。
手を洗い終わった後、僕と女性Dは広場の下にある空間にやってきた。
背の高い木々の間を通り抜けていく。地面は緩やかな傾斜になっており、最初の山登りを想起させた。遥か上の広場を支えるように、石造りの壁が地面から伸びている。壁と天井に囲まれた空間は非常に暗かったが、木々は懸命に生えていた。
ドオオォという音が次第に大きくなっていく。空気も次第に湿り、水の気配を感じさせた。
坂道を登り終わると、壮観な風景が広がっていた。少し奥、壁に沿って走っている管(おそらく広場の排水口とつながっているのだろう)の一部が割れ、そこから大量の水が滝のごとく降り注いでいる。音も湿気も最高潮に達し、水飛沫がここまで飛んできていた。降り注いだ水は円形の建築物に当たり、その周辺の土を侵食しながら川となって坂道の下へと流れていく。ここの森林は、この川の水で育っているのだ。
「時折蛇口を捻ってやらないと、ここの植物は枯れてしまうからね。美しいだろう? お気に入りの場所なんだ」
そう言って女性Dは近くの岩に腰掛ける。
彼女はいつも一人でここにきて、こうやってこの景色を眺めているのだろうか? そう思ったけれど、口には出さなかった。僕がこの景色を見た。それで十分に思えた。
「綺麗ですね」
そうだろう? と女性Dは言った。
*
「いませんでしたね、ドラゴン」
「ああ、そうだな」
僕らは、初めのブランコに戻ってきていた。
もう片方のブランコには、女性Dが座っている。ゆらゆらと、不規則に揺れる二つのブランコ。相変わらずキィキィ音を立てる錆びた鎖。月はまだ、頭上で輝いていた。夜は長いんだな、と僕は思った。
ふと横を見た。女性Dは出会った時と同じ顔をして、ゆっくりとブランコを漕いでいた。
よし、という掛け声と共に彼女はブランコを一際大きく漕ぎ、飛び降りる。体操選手みたいに両手を上げて着地して、くるりと格好つけながら僕の方を向いて言った。
「それでは少年、次の場所に……」
「今日はありがとうございました」
僕は彼女を遮って、言った。僕のブランコは止まって、彼女の乗っていたブランコはゆらゆらと揺れていた。
「なぜだい、少年。まだ夜は長いよ」
「でも、朝が来ないわけではありません」
「眠いのかい、少年」
「眠らなければいけないんです」
少し黙って、女性Dは言った。
「ドラゴンは、見つかったかい?」
僕は言った。言わなければいけなかった。
「ドラゴンなんて、いるわけないんです」
朝は来る。僕が望む望まないにかかわらず。それなら僕も、夢を終わらせなければいけないのだ。来るべき朝に備えるために。
ドラゴンはいない。常識だ。空想上の産物だ。だから、それを探しているなんて、めちゃくちゃな出鱈目なのだ。初めから。最初から。そしてずっと。足跡も、鱗も、ドラゴンそのものも、見つからなくて当然だ。
「ほんとうに?」
でも、女性Dの返事は予想外のものだった。
「そんな呆けた顔をしないでくれよ、少年。ドラゴン、いるかもしれないじゃないか」
彼女は大真面目な顔で続ける。
「今夜、私たちはドラゴンを見つけられなかった。それだけじゃないか。ドラゴンがいないって証明したわけじゃない」
「でも」
僕が口を挟む隙を、彼女は与えなかった。
「この世界の全てを隈なく探すなんて、不可能に近いからね。存在証明のほうがよっぽど簡単さ。見つければいい。そうだろう?」
第一、と切って女性Dは言う。
「ドラゴンがいないなら、君はどうやって生きていくつもりだい?」
しょうがないじゃないか。
ドラゴンがいなくたって、殺してもらえなくたって、僕は生きていくしかないんだから。
「おおっと、泣かないでくれよ。少年。せっかく泣き止んだというのに」
泣いた? 僕が? いつ?
「出会った時さ。君、ブランコに乗って泣いていたじゃないか」
なんだい、気づいていなかったのかね、と彼女は言う。知らなかった。それじゃあまるっきり不審者じゃないか。彼女の方が不審者だと思っていたのに。
涙でぐちゃぐちゃな僕に、女性Dは人差し指を立て、自慢げな顔をする。
「そこでだ、少年」
「……なんですか」
聞かないとずっとそのままな気がして、僕は涙を袖で拭って尋ねた。
ふっふっふ、と彼女は笑って、言った。
「実はね、私はドラゴンだ」
やっぱりあっちが不審者だったのだろうか?
「そんなに残念そうな顔をしないでくれよ。ドラゴンだってたまには人間のフリをしたい時だってあるさ」
僕の表情を読み違えた自称ドラゴンは自慢げに続ける。
「だからね、少年。もし君が死にたくなったら、生きていられなくなったら、その時は私が君を殺してあげよう。唐突に。避けようもなく。まるで朝が来るように。それはもう、ドラゴンらしくね」
ほら、これなら「仕方ない」ってやつだろ? と彼女は言う。
優しい言葉だと思った。ドラゴンらしいかはともかく、女性Dにはぴったりだ。
「それなら、もし他にドラゴンを見つけたら、あなたに教えてあげます」
そしたら、寂しくないでしょう? と僕も言う。
それはいい考えだ、と彼女は笑った。
涙の跡はもう、乾いていた。
僕は、彼女と一緒にジャングルジムを登った。昔の記憶より随分小さくて、かえって登りづらかった。鉄の匂いが手に付いた。
それでも、一番上まで登ればそれなりの高さがある。僕は女性Dと最上段に腰掛けて、星を見た。夜はまだまだ終わりそうにない。それでも、僕と彼女の夜はここまでだ。僕らはしばらく風に吹かれた。ほんの少し、寒さを感じた。
「指切りだ。少年」
彼女にそう言われて、僕は指切りをした。
子供っぽい、何の保証もないその約束が、僕をしっかりと繋ぎ止めてくれる気がした。
「期待しているよ、少年」
ジャングルジムを降りた僕に、ジャングルジムの上から彼女がそう言う。
「ええ、期待しておいてください」
そう言って、僕は公園を後にした。
夜は長いが、朝は来る。おやすみなさい。そう呟いて、僕は日常に戻った。
それから、女性Dには出会っていない。ただ、公園に行くとあの夜のことを思い出すだけだ。二人でドラゴンを探した、あの夜のことを。
あなたのドラゴンが見つかりますように。