ことだま
(言霊)
ことだま。
言葉に宿っている不思議な霊威。
(広辞苑)
三年たっても返事は来ず、ただ味気ない空転の日々を送るうちに私の脳内のシナプスはバラバラに解体し繋口がどこだったかもさっぱり分からなくなり混迷の風体を成しているのだった。
第一に私の望むところの妖怪じみた選書のページは脳内の一部を簡潔に一掃したはずが実はとんでもない夢物語の筋書きだったことは今初めて気づくことなのである。妖怪じみた選書とはいつどのような形でつくりあげられたものなのか、ときどき反芻してはいるがいつも時世の格差の破壊にあって消滅を繰り返してきたようだ。
長屋の横丁を曲がりいつものように銭湯へ行く道すがら私は考えた。返事が来ないということは相手が返事するに価しない無味乾燥な戯言と思ったのかもしれなかった。しかしそうとも思えない。確かにあの選書は彼も同調し、出来れば一緒に解明したいと喜んでいたはずなのだ。ところが、三年間も何の返事もないということは実は最初から関心がなかったということなのか。
やけに今日は暑く、汗が横丁の乾き切った貧乏長屋の家屋に馴染むようにしたたり落ちた馬鹿言っちゃいけない、三年間も待たせるなんてこれはどう考えてもあり得ないことであって、そもそも手紙が相手に届いていないのではないのだろうか。考えは急に変わる。着いていないことを想定するのが半分、着いてはいるがわざと返事をよこさない疑いが五十パーセント。脳内のシナプスはもつれつつ、身体は汗ばみ、横丁の路地はいつもの狭い曲がり角をいくつも通り抜けてやがて「太閤の湯」の玄関にたどり着いた。
銭湯には身分の脅威が張り詰められていないのが好きだ。彼らの表情に一様として飾らない大らかさが滲み出ているのが何よりも私の脳内のシナプスを和やかに振り解いてくれる。三年間の苦痛や妬みなどが湯船で隣人が交わす会話のなかに混じって、更には桶が弾ける音のなかで緩やかに砕けていくのが伝わってくるのがわかるのだ。
鼻歌の一つでも口ずさみたくなるこの習性は人間って案外単純なものなのかもしれない。私は湯船につかりながらまたぞろ阿呆になったように妖怪じみた選書に憑りつかれた自分を不思議な存在だと半ば夢遊病者の己の姿をしみじみと反省するのである。
私が選書と称する魔物を大切に心のうちに取り入れたのは、まさに自分自身の実証主義としての方針であり、言い換えれば誰にもわかるはずのものではない凡そ夢物語の化身であり魂であり予言者であり、選書をつくりあげた作者自身であるといって過言ではない。その戯けた夢物語の賛同者がこの世にいることを図らずも知ったとき、現世も捨てたものではないとぬか喜びに脳内のシナプスは躍り上がったものだった。考えてみれば誰でも成し得なかった男としての大事業を一つや二つは持っているもので、それが現実的に俗人に受け入れられるか否かは別にしても、やはりこの世に生を受けたからには、絶対的な運命とは別に、万人に与えられた自由を信じ切っているに違いない。そう考えると、三年間温めてきた私が選書と称する魔物は誰にも非難を浴びるものではないし、決して他人を不幸に陥れるような思想でもなければ宗教でもないはずなのだ。確信はいつ届けられてくるのだろうか。思うのはそればかりなのである。
「太閤の湯」から出ると、次に向かうのは「珍竹亭」という寄席をやっている小屋へと私は歩を進めるのである。湯上がりあとの爽快とした気分に往来の動きが輝いて見える。珍竹亭の片隅で両足を投げ出し、名声には凡そ縁のない入門したての修行階級から華やかな舞台の陰で苦汁をのんできた古参まで、その彼らの語る落語を聴くのが銭湯帰りの日課になっている。このお決まりのコースはこのあと寄って酒を呑む「わらじ屋」まで含まれているのだ。わらじ屋で私は常に選書を磨いてきた。研ぎ澄まされた音色や形象、情景と風や雨や雪の色までもその夢物語の題材に彩りを添えてきた。必ずそれは未完であり、継続中を意味し、できれば同調者の出現をこころ密かに待ち望みつつ酒を温めては喉を潤したのだ。
大通りに再び出て、今度は商店街を抜けやけに自転車の往来が混雑するなか、小さな和菓子屋の路地を入ると、こころばかりの幟がその建物の前に申し訳なさそうに棚引いているだけの簡素な木造建築が現れる。右側にある木の階段を上っていくとそこが珍竹亭なのである。ぎしぎしと小さく軋む音をたてながら無心で上っていく姿はいつみても侘しさが半分同居しているような気分になる。
ある日の夕暮、私はいつものように階段を上っていくと一人の女がちょうど同じように上ってくるのが眼に映った。女の来ている赤い袢纏が強烈に私のこころに突き刺さった。哀れというか見窄らしいというか、悲哀に見えたからである。しかし彼女は若い顔をしている。寄席にこんな女が通ってくるのはどう見ても不自然とさえ思った。それとも珍竹亭の芸人の端くれなのか。私は脳裏を巡らせながら入口までたどり着いた。
いつものようにくたびれた畳敷きの広い座敷には太閤の湯のときと同じような頭の禿げた老人たちや仕事を終えた労務者が思い思いの恰好をして舞台に眼を向けている。相変わらず、修行階級の序の口が声高に噺をつづけるなか、私はいつもの場所から時折、先ほどの女の姿を見つけようと周囲に眼を走らせた。彼女はやはり反対側の隅に膝小僧を抱えて座っていた。笑い声が起きても彼女は笑わずじっと舞台を見据えていた。私の耳に入ってくる噺家の落語は次第に遠くで喋る宣伝カーの音調のように響いていた。彼女は何かを狙うかのような、それでいて澄んだ穏やかな瞳を輝かせていた。それが最初に出会った彼女の印象だったそして己のくだらない選書の悩みのシナプスの緒が突然プツリと切れた瞬間でもあった。
彼女の身を包んでいる赤い袢纏こそ私の求めていた髄液の原点を収めるものといえた。歳に似合わず彼女のやつれた髪の生え際には神々しいほどの素朴さが宿っているように見えた。近寄って行って声をかけたい衝動に駆られたが、いったい何と表現すればいいか迷った。その赤い袢纏を身にまとった彼女をどのように評すればいいのか。私の三年にも渡る悩みの糸口を解きほぐすようなその彼女の習性に私のありきたりの髄液の流れは変わった。長年棲みついていた概念だ。もはや返事のこない彼に対する不信よりも眼の前に現れた稀有な衝撃にこそ捉われずにはいられなかった。落語をひとりで聴きにくる。素朴で純真。どこか悲哀に満ちた陰り。瞳に不思議なほど豊かな光の潤いを秘めている。それだけで私のこころは選書に匹敵するくらいの微妙な直観力に魅せられた。
私がまだ前向きで選書づくりに取り組んでいたころは、他人を大いに信用し自分も積極的に仲間に加わって言葉を磨いてきた。言葉はあらゆる次元で散乱し、選ぶと姿を変えてまた違った部署へと引っ越していった。層が格段と増えていくのである。
「結局、文章とは表現力の問題だな」
仲間であった油井氏はこう述べた。いろいろ考えた結果、単純にそう言っただけでお終いだった。私はそれからずっと表現力と取り組んできた。そしてさまざまな妖怪じみた夢物語を描きつづけてきたのだ。
「各々が体験したことを表現すれば素晴らしい作品集が出来上がるんじゃない?」
油井氏は提案した。三年ほど前の話だ。そして実際に書いたものを私は大切に保管し、時々開いてみては熟成具合を見計らいつつ更に推敲を重ねた。私が自分史なるものをまとめてみたいと思ったのはいろいろな経緯があるが、そもそも自分とは何を求めて生きてきたのかということを作品で実証してみることだった。油井氏によれば、言葉は選ぶこと、表現には型があり、それを絶対的なものとして我々に強要した。文章の表現力について偏屈な持論によってそのことを洗脳しようと試みたのである。例えば文章で「私の父は」とあるのを絶対的に「私の」を省略すべきだというように。私は軽蔑的にこれを否定した。それは油井氏が何をやってきた人物なのか、実績はあるのか、まったく謎に包まれた人物だったからである。いったい油井氏は万人から認められた功績者なのだろうか。
彼女を見ていると油井氏に懐くすべての霞のような膜から私は解放され、いったい彼女と珍竹亭とはどんな関係を持つのだろうかという強い好奇心が湧き起こった。次第に風呂上がりの爽快感は抜け、新たな発掘意欲と直観力が熱を帯びてきて、噺家の声は愈々耳に溶け込まなかった。
寄席が終わって、ぞろぞろと客が動き出す機会を見計らい私は彼女に近づいた。
「君、ちょっといいかな?」
女は少し驚いた様子を見せた。
「よかったらすこし話しをしたいのだけど、時間ある?」
これが私が最初の彼女にかけた言葉だった。
彼女の名前は古館ナナと言った。まだ二十歳になったばかりで、二年前九州の大分から横浜に出てきて歌の勉強をしていると語った。バイトをしながら独学である。珍竹亭を出たあと私の通いつけの居酒屋に誘い、それ以来彼女と付き合うようになった。彼女と会っていると、直観力は裏切られずそれまで苦悩していた選書の件が風がやむように消えた。彼女の求めている姿勢が私の脳内のシナプスに新たな電流を注ぎ込み、私の好奇心はその圧倒する源流について考え始めていた。私は人々の心に響く歌を歌いたいの。私だけのもの、私だけが感じたもの、私だけが涙し私だけが憧れたこと、私だけが信じたことを。シンガーソングライターを目指す彼女は最後にはいつも同じ台詞を語った。
その後しばらくのあいだ、私の眼の前から突然彼女の姿は消えた。相変わらず珍竹亭へは出かけていたが彼女は現われなかった。通いつけの居酒屋にも来なかったし、連絡先も聞かなかったので何の手だても講じることができなかった。彼女にもう一度会いたいと思った。彼女はなぜ落語を聴きにやってきていたのか、なぜ彼女の歌と落語が結びついていたのだろうか、彼女のことを考えるともう私は選書の困難な編集のことなどどうでもよくなっていくのであった。
「自分史なんてものはさあ、自分の生きざまを書くんだろ?そんなもの何の価値があるんだ?」
あるとき親友の楽太郎がぼそっと呟いたことがあった。
「書いたものは残る。ただそれだけの価値さ」
「残るったっていったい誰が読むんだい?」
「わからないさ。ただ書いたものは永遠に残される」
「だからさあ、何のためにだよ」
「自分が生きた証しとしてだよ」
楽太郎は苦笑いを続けながら私を見つめ、それ以上私を問い詰めなかった。自分史とはよく言ったものだと我ながらあとで後悔したが仕方がなかった。奇々怪々の夢物語が本当のところなのだがそうとでも表向きに表現しなければならない理由があった。よくわからないが単なる体裁だったのかもしれない。
とにかく楽太郎に対して宣言したことも彼女の出現でもはやどうでもよくなった。由井氏の正体も信じられなくなった今、珍竹亭で見た彼女の面影だけが私の脳内のシナプスを発光させているのみであった。どこか孤独で、貧しく、すべての華やかさから取り残されたような一人の若い女が毎日夕方、下町の寄席小屋に落語を聴きに足を運ぶ。これだけで私の目指す選書はじゅうぶんなはずだ。いや、赤い袢纏と彼女が語った歌手の夢、そして何よりも彼女の瞳に宿った魂の輝きが私の目指すテーマと合致しそうな予感がするのだった。
私はいつものようにジョニ黒を飲み、深夜の一定の時間にラジオのスイッチを入れ、亡くなった牧師のことを考えた。彼はヘブライ語を勉強し、多くをイスラエルで過ごした。彼が生涯に残したものは渾然と輝き、告別式の教会にはイスラエルの大使が参列し、集まった信者のこころにその彼の功績が間違っていなかったを刻み込んだ。
「ぼくはヘブライ語を学ぶためにこの世に生まれてきたんだ」
彼は生前そのようなことを私に告げた。柔和で謙遜な彼の語り口調に一片の疑いも曇りもなく私はその言葉に彼の持つ人生の意味について考えさせられた。その彼が先日亡くなったのであった。ラジオは静かにオープニングテーマを流しつつ始まっていた。私は蒼い表紙の冊子のページをめくりながらグラスに二杯目のための氷を抛り込みジョニ黒を適量注ぎ込んだ。蒼い表紙が今夜の友だった。薄っぺラな十数ページの冊子で私の以前取り組んだ仲間たちの文集である。活字が本来であれば忽ちのうちに、その作者の辿った人生が画となって浮かび上がってくるのだが、紙面に印刷された今夜の活字は少しも動き出さない。亡くなった牧師のことが先客として未だうまく整理されていないことが頭にあったからだ。
「神を知れば自分の存在理由が理解できます」
「と、言うと?」
「何のために生きているのかという回答が示されているからです」
「何のためですか?」
「ヘブライ語でアニー・フーと記されています」
「どういう意味ですか?」
「神こそ、それなり」
嘗て彼が私に説教してくれた言葉が廻り続けていた。私はグラスのなかの氷を眺めて沈黙に閉ざされ、耳を塞いでしまった今夜の自分の正体を見極めようとしていた。
「ヘブライ語か…」
氷のように解けそうもないこの言語を何度も不思議な物体を見つめるかのようにこころのなかに描いていた。遠くで囁いていた声が次第に耳に入ってきて、蒼い表紙も開いたまま活字もうわの空のなか、それは次のように語っていた。
「…一生懸命やるのです。私は目指します、きっと人々の心に響く歌を歌い続けたいのです、だから頑張ります。私にはもう帰る故郷はありません。この横浜で、そして運河の片隅で静かに降り続ける雨を眺めながら…辛い仕事をしながら…でも作り続けて歌いたい…と思っています。ということでね、はい。お便りは横浜市にお住いの古館ナナさんのお便りを紹介させていただきました。…彼女頑張っていますね。シンガーソングライターね、ぜひ頑張って欲しいですね。応援しています。では次の曲、サイモンとガーファンクルでスカボロ・フェア」
私は目覚めるようして我に返った。ラジオは確かに古館ナナと言った。数カ月ぶりに甦る彼女の面影が稲妻のように襲ってきた。彼女の名前が電波に乗って私のところに戻ってきた瞬間だった。私は慌てた。問い合わせてみようと決めた。スカボロ・フェアのメロディーがこころに沁み渡ってくるのを感じつつ、その風景が鮮やかな運命の彩りを描き、偶然とはこういうものなのだと噛みしめていた。ヘブライ語のアニー・フーが降りてきたのではないかと錯覚しつつも、とりあえず彼女の居所を調べたいと思った。
「今、放送されたお便り紹介の件でお伺いしたいのですが…」
放送局に電話してみた。ところが番組の編集部署に廻され、編集部署から広報に繋がれ、また一から説明し、また番組の企画、お問い合わせ部門に廻され、あちこち堂々巡りをしているうちに、その定時番組は終了した。
私はすっかり現実の世界の興醒めたシステムを呪い、その責任の不明瞭なメカニズムに歯ぎしりした。しかし、彼女は今も頑張っている、電波が私にだけ伝えてくれたのだからそれだけでもじゅうぶんだと冷静に思えば考えられた。
ジョニ黒を三杯呷り、氷を見つめ、蒼い表紙の活字は追わぬまま、私は次第に安息の境地へと押し入ろうとする精の誘いを待ち受けていた。人々の心に響く歌を歌いたいと語った彼女の魂の精がラジオの音量に合わせて舞っていた。
「私にとって故郷はもうありません。でも、そこへどうしても還りたいと思うときがあるの」
通いつけの居酒屋で彼女は語っていた。故郷を捨て、見知らぬ街へやってきてシンガーソングライターを目指す彼女の本当の正体とは何なのか。私の脳内のシナプスに灯りをつけたその為せる根源はいったいどこからやってきたのだろうか。安息の境地は周りの静けさのなかでただラジオの音量とともに漂いつづけ、私は必ず彼女ともう一度会えるような気がしてならなかった。それは亡くなった牧師の「アニー・フー」という言語の持つ響きにも似た誰にも知り得ない確かな約束事のようにも思えた。
毎日が退屈だった。
楽太郎と相変わらず酒を呑み、私は酔うと決まって彼女のことを話した。
「しかしさあ、その彼女このあいだ横浜エイベックス・コンテストで優勝した子じゃないの?」
あるとき、彼は妙な情報を語った。
「いわばシンガーソングライターの卵ばかりが競う大会でさあ、そこから大物になったミュージャンもいるくらいだよ」
「で、何で彼女だと分かるんだ?」
「確か、出身が大分で、でももう私にはその故郷はありません…とかなんとか語り、すごく憂いを含む歌でさあ…」
「名前は?」
「なんて言ったっけなあ」
「肝心なことだよ。その彼女の名前を思い出してくれよ」
「さあ、何だっけ忘れちゃったよ」
私の脳内シナプスに再び発光しようとする青色ダイオードが期待に満ち溢れていた。それが古館ナナであって欲しいという夢想である。酒は天空に精をばら撒き、あの竹林亭の座敷の隅で眼だけ輝かせて落語に聴きいっていた彼女の様子が浮遊した。通いつけの居酒屋で何のために生きるのかを語った彼女の言葉も先週偶然に深夜ラジオから流れた彼女の手紙もすべて私の持ち続けていた秘宝の慰めであった。
「何という歌だったの?」
「故郷へ帰りたい、という歌だよ」
「いい歌か?」
「いい歌だよ」
「でも、その故郷はもうない?」
「そうだよ」
「なぜ?」
「さあね」
彼女がプロの歌手デビューすれば私の存在は彼女のどの位置に飾られるのか、ふと妖怪じみた詮索が頭をもたげた。あの古びた寄席小屋の階段を上っていく赤い袢纏を着た少女が遠い世界に昇っていく感じがした。押しも押されぬ人気歌手になり、もはや私の手の届かないところにまで行ってしまうと、私は多分、大満足して選書の続きに再び取り組めるのではないのだろうか。そうすれば、油井氏も「私の父は」と書くよりも「父は」のほうが絶対正しいと言ったことを訂正するだろう。とりとめのない錯誤や誤謬や意味難解な脳内シナプスの単語が互いに交錯し、縺れあって天空に舞い続けた。そしてその根源はまさしく自分が誇らしく自負している選書であることは確かなことだった。
自分の取り組んできた選書はとっくに諦めたはずであった。油井氏との主観の相違と言ってしまえば角が立つので頭の隅にじっと仕舞ってきた。しかし、彼の実績の不明確なことや過去の履歴を明かさないことが大きく影響していた。そして三年が経過していた。
彼女が有名になればなぜ私は選書を復活することが出来るのだろう。私自身の夢物語が完成するという歓びからか。自分の直観力を賛美しその魔性に満ちた想像力を発表したいためなのか。
天空に酔い彷徨う酒の精はいつも彼女の将来像であり、運河の暗闇に澱む故郷を捨てた少女の姿は常に装飾されていた。
「しかし、横浜エイベックス・コンテストってそんなに有名なのか?」
「新人歌手の登竜門さ」
「優勝したってことは…」
「そのうちデビューだよ」
「名前は?」
「そんなことは知らねえよ」
「古館ナナでデビューするのかなあ」
「分からないよ」
「気になるんならエイベックスに聞いてみたら?」
楽太郎は呆れるように言い放った。
数日後、私は大手レコード会社エイベックスに電話した。会社のほうでは確かにそのようなコンテストが横浜で開催されたことは答えたが、詳しい内容については即答しなかった。
「大分出身の女性で名前は古館ナナ。私の故郷はもうないというような歌を歌った…」
「ちょっと分かりかねますが」
「だからそのコンテストの優勝者の名前くらいわかるんじゃないですか?」
「手前どもでは多くの場所でコンテストを行なっているわけでして」
「横浜ですよ、横浜で開催された分ですよ」
「いつでしたでしょうか?」
「ですから先月だったか、先々月だったか、あったでしょう?」
「横浜のどちらで行われたものでしょうか?」
「えっ…??どこだったかそんなことは忘れたよ、覚えてないよ」
「失礼ですが、お客様はどういうご関係の方でいらっしゃいますか?」
私は逆に詰問されているような錯覚に陥った。楽太郎にもっと詳しく聞くべきだったと思い少し後悔していた。それにしても会社も会社だ、始めから情報は握っている。公開することをためらっているのが感じられた。
「ちょっと彼女を知っている者だよ」
「お調べいたしましてご返事をさせていただいてよろしいでしょうか?」
「お願いします」
私は連絡先を伝えて電話を切った。問い合わせるのも簡単でないことをしみじみと知らされる思いだった。会社の応対に何か打ちひしがれたような思いに襲われ、自分はいったい何を渇望しているのかという新たな核心が闇のなかで燻り続けた。それは彼女を知っている者だと位置付けた己の正体こそが既に育ってきている強かな思いあがりがそうさせているのである。彼女をなぜ追い求めるのか、電話を切ったあと、私はやりとりした会社ではなく、何か別物に確かに打ちひしがれていると思った。
その後、相変わらず夕方になれば「太閤の湯」に浸かり、その足で「珍竹亭」で長閑な空間を過ごし、通いつけの居酒屋で様々な思索を巡らせた。その大手レコード会社から返事が来たのは問い合わせてから二日後のことで会社は次のように答えた。
「優勝者はおっしゃる通り古館ナナさんでございます。詳しい連絡先ですが当方ではお伝えすることはできません。ただ彼女は現在、長者町のライブハウスで歌われているご様子です」
「長者町の何というライブハウスですか?」
と、私は尋ねてみた。
「申し訳ありません。当方では店の名前等については詳しくは把握してございませんので分かりかねます」
それ以上は聞けなかった。それだけでもかなりの収穫といえたからだ。長者町を調べれば判明できる。私はこの新たな進展について心を躍らせた。闇のなかに眠る深い核心の謎のことなど再び霧散していくのだった。
「長者町にライブハウスがあるらしいが、お前知ってないか?」
楽太郎に聞いてみた。
「きっとフランシスコじゃないかなあ。伊勢佐木町の不二家の角を入って行けばあるよ。割と大人のムードの漂う静かな店だよ」
言われたとおり私はその店へ行ってみた。店は狭い階段を下りていき、洞窟のような入口の前には演奏者らしき写真のポスターがひときわ目のつく場所に貼り付けてあった。その日の写真は彼女の姿ではなく別のミュージシャンだった。
店のなかはなるほど楽太郎が言ったように上品な格調が皮膚の隅々まで鋭く伝わってくるような重圧を感じたが、明かりに慣れてくるとそれは反ってゆったりした癒しの空間を滲ませた。フロアに並んだ丸いテーブルが舞台に向かって一見不均等に位置するように見えたがよく見ると実は均整がとれており、全体のバランスをとっていた。また少し離れたところにあるカウンターのなかに居るバーテンダーの蝶ネクタイ姿が店のすべてを象徴していた。
入口の写真にあったミュージシャンがチェロを弾いている。
「ちょっと聞きたいのだが」
私はカウンターでバーテンに声をかけた。
「この店で古館ナナっていう女性シンガーの演奏はいつやっているの?」
「古館ナナ?」
彼は首を傾げた。
「そう、シンガーソングライターの古館ナナ」
彼はよく知らない感じのように思えた。大手レコード会社のコンテストに優勝した歌手の卵の名前くらい覚えておけと言ってやりたかったが、もしかしたらこの店ではないのかもしれないという戸惑いもあった。
「シンガーソングライターですか?」
「そう」
「ちょっと存じあげないですねえ」
「ここの演奏スケジュール表を見せていただけないですか?」
内心私は狼狽していた。狼狽と言うより光を失ったスポットライトが頭のなかで点滅しやがてそれは長者町のライブハウスと答えたレコード会社の返事を疑い始めていたのだ。手にした店の演奏予定者の載ったパンフを眺めながら、店内に流れるチェロの音色が妖しく私の心の核心を撫でまわすのを覚えた。彼女は既に私の核心に深く棲み込んでいた。それを占有する己の正体はもはや引き返すことが出来なかった。レコード会社が不審そうに尋ねたように、このバーテンダーも呆気にとられたようにその光景を眺めた。私の眼光に異様な影を見つめたに違いなかった。
「その方がこちらで演奏なさっているとおっしゃったのですか?」
「いや別に。本人から聞いたわけじゃないのだけど」
「女性の歌い手さんはそこに載っている方のみですねえ」
私は他のライブハウスの店を想像した。頭のなかのスポットライトの点滅がやがて収まりつつあった。楽太郎やレコード会社の言葉が自分の秘宝をわざと困惑させているかのような存在に思えた。その日私はカウンターで浴びるほど酒を飲んだ。バーテンダーがそっと肩を叩いて「お客様、そろそろ店を閉めますので」と聞かされるまで、夢の淵を何週も巡り、チェロの音色の同じ調べの旋律を少なくとも三回は聞き、選書の壁を反芻し、油井氏への不信を肯定し、更には亡くなった牧師の遺した「アニー・フー」というヘブライ語をお守りのように思い浮かべた。不思議なことに彼女の着ていた赤い袢纏は一度も登場せず、僅かにグラスのなかで鳴る氷の欠片の音だけが響いていた。
長者町のフランシスコには彼女の姿も演奏予定者のリストにも載っていなかったので、他の店に違いないと勝手に理解した私だったが、よく思い返してみればレコード会社の情報は果たして正しいのか、疑問を持たざるを得ない。それと楽太郎にももう一度フランシスコのほかにどんな店があるのかも聞いてみる必要があった。
その後毎日夕方になれば太閤の湯、竹林亭の落語と相変わらず変化のない日課の繰り返しを続け、深夜になるとラジオのスイッチを入れてジョニ黒のオンザロックで味気ない朦朧とした日々を送った。片付けなければならない問題は眼の前にぶら下がっているようで視線を集中しようとするとそれは幽かな形象だけを残して霧散した。立ち塞がるものは例えば虚栄心であったり自尊心であったり、あらゆる根源は脳内の葛藤でしかなかった。選書の完成を中途にして先ず片付けなければならない問題は既に最初にあったのではないだろうか。
その日。私は楽太郎と長者町の寿司屋に入った。
「フランシスコのほかといえば青い鳥があるけど。このすぐ近くだよ」
「それだけか」
「そうだよ。長者町のライブハウスはこの二軒だと思うよ」
「流行っている店か」
「フランシスコよりは少し地味な感じだけど…あまりパッとしないように思うなあ」
黙って寿司をつまんだ。
「その古館ナナって本当にライブハウスで歌っているのかい?」
「レコード会社が言うのだから間違いないよ」
ビールが苦かった。私はその青い鳥へ行くつもりになっていた。
「しかし何でそんなに彼女を追っかけるんだ?」
楽太郎の歯が笑っていた。軽蔑の微笑というふうに見てとれた。昔から彼はそんなふうな目つきをするのだ。決して悪気はないが夢のない奴だった。私がアフリカへ行ってキリマンジャロの見えるコテージでロッキングチェアに背を傾けマックス・ウエーバーの合法的支配の価値類型を読んでみたいと軽い冗談を言ったときも彼はピンとこないでただ軽蔑の眼差しと歯を見せていただけだった。私はその冗談を愚弄でもなく本気で自分の浪漫を語ったつもりでいたが、あまりにも彼の反応に手応えがない現実に熱気は冷め次元の相違をしみじみと味わった。
それは例の選書に関してもいえることで、彼は古館ナナという幻のシンガーソングライターと同じように私の取り組もうとしている選書に冷ややかな愚弄を抱いたに違いなかった。何のためにそのような行為に没頭するのか、私の野心を例えば遠隔的な視野でそれを探り始めているような雰囲気を漂わせた。
「話は変わるけど、自分史の仲間の選書はどうなっているの?」
楽太郎は何気なく言った。暇を持て余している若年寄のような口調、そして本当は興味はないのだがとでも言いたげなトーンで尋ねた。ただ話の合間をつなぐために尋ねたに過ぎなかった。
「それと、三年ものあいだ返事のない人のことは…」
私の天空に彷徨う酒の精が頭をもたげ始める。選書は中途挫折。挫折の原因は己の懐疑癖、いや返事が来ないという不信よりも確固たる己の目的の脆弱性、不明瞭性、強いては脳内シナプスの特異な気質の顕われとみてよかった。私は黙っていた。楽太郎には分かるまいと思っていた。油井氏が私に見せた正体はあまりにも簡略的で粗野で単純で議論などの対象にならないつまらないことだったからであり楽太郎に説明しても恐らく私の本心を分かってもらえないと最初から考えていたからである。
「返事なんてもう要らないよ」
「何と書いたの?」
「つまらん質問だよ」
「自分史の選書をやっていくうえでその返事は必要なの?」
「もう必要のないことだよ」
半分は自虐的になっていた。「私の父は…」を「父は…」と表現するほうが文章表現として正当だと主張する彼の流儀にはついていけなかった。
「選書は諦めたよ」
「辞めるのか?」
「そうだ」
私は再び天空に巡らす酒の精のなかで己の核心と浮遊する本性との葛藤に眼を凝らし、彷徨い続けることに徹した。楽太郎はそれ以上何も言わず黙って酒を飲んでいた。飲みながら時折、自分史なんて所詮慰みもんさと洩らしているのが聞こえた。
「そろそろ行くか?」
楽太郎に青い鳥の店を案内してもらうため私は腰を上げた。外は暗くなっており、店ではもう演奏している時間だと思った。
「まあ待てよ、慌てることなんかないよ」
「うむ」
「それより、自分史ってやつをちょっと教えてくれないか?」
「何だよ」
楽太郎は少し酔っていた。と、いうより元来彼は酒を飲んでも少しも顔に出ないので気づかないことが多い。しかし、今夜の彼は相当酔っていた。
「お前のやっている選書って何だよ?」
「編集だよ。仲間の書いた自分史をまとめて本にすることだよ」
「何かテーマがあるのかい?書く自分史に」
「ないよ」
「そんなことねえだろう?」
楽太郎は少し興奮していた。彼が絡んでくると饒舌になることは長年付き合っていれば分かっている。
「自分史は自分史だよ。自分の体験したことを書くのさ」
「それをなぜ編集するのさ」
「文章を直すのではなく、全体を一冊にまとめる作業だよ」
「そしたら、三年も返事のない人は誰?何のため必要なの?そもそもその人物とお前とはどんな関係なの?」
「この会を発足させた人物だよ。みんなから先生と呼ばれている偉い人だよ」
わざとらしく私は答えた。実際三年前、油井氏はこの会を立ち上げた。人生も終わりに近づいた人々が寄ってきそうな題目であった。文章をどのように書けばいいのか、目的は明瞭であり実用的であることは誰の眼にも明らかである。結果、数十人集まり私もそのなかの一人であった。
油井氏の講義は三年間続いた。彼は一人一人の文章に眼を通し例の「私の父は…」より「父は…」と表現すべきだというふうな細かな添削を数多く行ない、文章の書き方についての指導を重ねていったのである。ところが数十人の作品を一冊にまとめて本にすると提案した彼がプツリと姿を晦ました。同時に数十人の仲間も分散し、私に作品の原稿だけを残して遠ざかってしまった。
「先生がいなくてもお前がまとめればいいんじゃないの?」
「ところがそうはいかないんだよ」
「なぜ?」
「みんな先生があっての会だって思っているんだよ」
「じゃあ、みんなして探せばいいじゃないか?」
話はまた元に戻ったように感じた。これ以上進むことは出来ないと思った。私の三年間の結論と仲間が希求している事柄との間に本質的に同調していない核のようなものを感じたことを今、楽太郎に説明しても恐らく彼も正確には理解しないだろうと思った。つまりは単に「私の父は…」を「父は…」のほうが絶対的に正しい文章だと決めつける態度に壊滅的な反発感をただ覚えたに過ぎなかったためだったからである。
「先生ってそんなに有名な人物なの?」
「ただ、熱心なだけだよ。詳しい経歴を言わないのでよく分からないが、書くことに関しては知識が豊富なことは確かなようだよ」
「本を出しているの?」
「まあな」
「どんな」
「詩集だよ」
二人の間に奇妙な沈黙が訪れた。沈黙はもつれた糸のように空中を這い二人の接点をすり抜けては私の天空の酒の精のなかで舞い続けた。詩集は絶対的に韻文であり、我々の目指す作品の根源を揺るがすものに見えた。楽太郎にはその外輪しか理解してもらえないだろうとも思った。
「詩人か?」
「いや、絵も描く」
「絵?」
「絵のほうが先生としては正しいんじゃないのかな。昔、日展に入選したことがあるとチラッと聞いたことがあるような気もするけど」
「本職はどっちなんだよ?」
「分からないよ」
「謎なんだな」
「そう、謎の多い人だよ」
「それでも返事を待つのかい?」
「いや、もう待たないよ」
「作品の編集はどうするんだよ」
「やめたよ…」
私はこの三年間、己がやり遂げたかった自分という存在を書き遺すために懐古、模造、発掘、回想を繰り返し、それが完璧なまでに自分といえる自分の物語が完成するものと思っていた。しかしそんなことはもう必要のないことだと分かったような気がしてきているのである。文章によって己の何が存在としての価値を有すべきかがとても困難なような気がしてきたからであった。
「さあ、行こうぜ」
私は再び楽太郎を促して腰を上げると、その寿司屋を出た。
青い鳥の店のなかには客が数人しかいなかった。店の雰囲気もどこかの学食のような感じでかなり質素で飾り気も何もなくただ所々に演奏者らしき写真のポスターが貼ってあるだけだった。
「見ろよ、彼女が居るかい?」
楽太郎は一枚のポスターに眼をやって私に尋ねた。
「居ないね」
私はその店の壁のすべて点検してから答えた。
「長者町のライブハウスって本当に言ったの?」
「言ったよ」
「じゃあ、フランシスコのほかはここしかないないよ」
二人は空っぽのステージを眺めた。演奏は何も行われていなかった。テーブルのプログラムには本日の演奏者の紹介が載っていて、それは彼女の名前ではなくそして演奏が始まるのはもう三十分ほど待たなければならなかった。
追い求めている彼女の実体とは私にとってそれほど価値のあるものなのか。数か月前に僅かばかりの閃きに攪乱された幻想は果たして私に何を啓示しているのか。執拗にこだわり続ける心の核心と彼女への真相がますます得体の知れない暗闇に覆われていきそうだ。
酒の精は依然と頭のなかでその勢いを拡充し、楽太郎に告げたはずの寿司屋での議論の決着も実は本当はまだ縺れたままになっていた。自分にとって選書という目標はやり遂げられなければならない課題であり、自分の最も求めるべき最終目標であることには間違いなく、本心としては途中で放棄すべきではないことは分かっていた。ところが、酔うと嘘っぱちなことを放言してみせるのである。結局、この三年間で己のなかに棲む清澄な野心と信念と情熱とが全部何かに惑わされてしまって挫折したのである。そしてそれは怠惰に過ごし、新たに挑戦を試みようとはせず遂には崩壊を望もうとしているのではないか。
「彼女のことを聞いてみたら?」
「そうだな」
「あそこに若いグループがいるじゃん」
「そうだな。聞いてみよう」
私は席を立ち、彼女らに近寄っていった。常連なら何か情報が得られるかもしれない。私はその三人の女子高生らしきグループのテーブルの端に、隣りの椅子を引き寄せながら座った。
「ちょっと聞きたいのだけど、君たちよくこの店に来るの?」
あっけにとられたような三人の表情を無視して私は続けた。
「実は古館ナナっていう歌い手を探しているのだけど、知らない?このへんのライブハウスで歌っているって言うんだけど」
「彼女は今年の横浜エイベックスコンテストで優勝したシンガーソングライターなんだけど」
彼女らは怪訝な眼で私を見つめた。
「長者町のライブハウスっていうと、こことフランシスコだよね」
声にならない反応が彼女らの表情に出ていた。私は何者なのかを探っている迷いとが交錯していた。
「若い歌い手でさあ、大分出身で、故郷を捨てたっていう歌を歌っているんだけど、すごく寂しい感じの韻律なんだけど、どこか魂に訴える清純な輝きがあって、…知らない?」
私ひとりが一方的に熱かった。三人は一様に首を傾げ、古館ナナという名前は愚か、そもそもエイベックスコンテストがどのようなステータスを持っているのかを正直、理解していなさそうだった。
「聞いたことないです」
仲間の一人がやっと小さな声で代表するようにして答えた。
「ああそう」
期待はここでも裏切られ性懲りもなく追い続ける己の幻惑が周囲の冷笑の渦とともに打ちのめされる絵を想像せずにはいられなかった。天空に響く冷笑がやがて嘲笑に変わり、温めてきた灯がいきなり真空管のタングステンが炭と化した思いだった。店のライトが落ち、やがてステージが始まろうとしていた。元の席に戻った私は楽太郎に告げた。
「聞いたことがないって」
「彼女、ライブやっていないんじゃないの?」
楽太郎はうんざりするようにして答えた。店内にマイクのテストサウンドがこだまし、スポットライトがステージを照らしだすと一人の女性がギターを持って現われた。
「今晩は。○○です」
「本日はようこそ青い鳥にお越しいただきましてありがとうございます」
滑らかなトークが流れ始め店内の空気がステージ一点に集中した息遣いを伝えていた。
この店に来る前まで持ち続けていた光をすっかり失ってしまった私は虚ろな視線をステージに向けたままただ無感動な虜に包まれその彼女の語りに耳を傾けようとした。しかし、響くのは天空に舞う古館ナナの歌う姿であり、身近に迫ってくるような幻想がまだ性懲りもなく浮かんでくるのだった。
手元に残った作品集の原稿は単なる紙屑に過ぎず私にとってはその膨大な彼らの記録はもはや何の感動ももたらさない腐敗物に似ていた。なぜこれらを貴重な財産の一部だと油井氏は語り、評価し、絶賛したのか。今となっては私の当時の意気込みもすっかり萎えた状況にあってはその分析を前向きに肯定していくことすらできなくなってしまった。
選書の作業は暗礁に乗り上げ作品集の原稿はそのままになっていた。青二才の私の二倍ほど生きた会員たちの原稿をふるいにかけるかのような作業に何の価値もなく、たとえ謎の人物である油井氏の指導があったにせよ私にとっては意義もなければ名誉にもならないことだと思った。
意気消沈した暗澹な日々を送るうち竹林亭で出会った一シンガーソングライターの卵に異次元の世界を彷彿と感じ、結果これも謎のような虚構に振り回された挙句そもそも自分とはいったい何を求めて彷徨っているのかを再び原点に返って見つめなおさなければならないのではないか。
それから二、三か月はそんなことをぼんやりと考えながら私はいつものように夕刻には太閤の湯へ出かけ、帰りには竹林亭を覗いて落語を聴いた。
その日は特に土砂降りの日で折からの台風が接近していたにもかかわらず洗面器を抱え片手に傘を差しながら太閤の湯へ向かった。雨音が激しく叩きつけ、下半身はその水滴で濡れた。雨に濡れてまでしてなぜ銭湯へ行くのか、理不尽な己の深層がしきりに頭をもたげてきたが私にとってはこれが日課だというしかなかった。古館ナナの幻もこの雨の音のように永遠に掴み取れない気体の神秘であり、私にとっては唯一の安らぎに似た偶像でもあった。そして偶像は矛盾だらけだった。竹林亭で日常の厭世や反感や焦燥を無にしてただ長閑で一本調子の音階に絵を添えるような流暢な世界に浸っていると少しのあいだだけ自分の居所を見つけることが出来た。広い畳の上で胡坐をかき、ときには寝そべって湯上がりの解放感を委ねる空間があることに私は時ならぬ幸福感を味わった。選書のこと自体考えることが無意味とさえ思えてくるのだった。
自分史の編集に選ぶ作業なんて要らないと思った。油井氏はみんなの作品集は恥ずかしくないものを作るべきでそのためには推敲が一番重要だと力説していた。つまり例の「私の父は…」は「父は…」に絶対すべきで、それが推敲というものです、というようなはたから見ればどうでもいいような点に彼はひどく偏向していた。いわばその強制的な趣意に私は最初から気づかないうちに彼に対する反感を抱いていたと言えそうだった。
舞台では次々と若手落語家が登場し、古典や新作落語に汗していた。私は確信を持とうと決めていた。私が求めているのは作られたものではなく稚拙なものであろうと魂の存在の有無を問題にしたいという結論であった。彼の言う恥ずかしくないものとは何なのか、推敲そのものが自分史の本質を果たして変え得るものなのか、迷いを解く出口はすぐ眼の前まで迫っていた。それは三年間待った返事はもはや必要のないことのようにも思えた。
彼らが汗する古典や新作落語の背景には、確かに彼らの工夫も活かされてはいるが所詮作られたものに過ぎなかった。それが芸というものである。しかし、私が取り組む選書は芸ではない。
笑いが畳敷きの客席に広がり、溶解しつつある私のこころを洗っていった。その年老いた疎らな群衆の和やかな息遣いはやがて波となって私の編集を待つ仲間たちの姿と重なるのであった。
「はーい、今晩は。今夜もお送りしますポップな話題とリクエスト特集…」
喧騒な一日が過ぎ、静寂に包まれた部屋のなかで、眼にするのは灯りとグラスと流れるラジオの音だけである。晩秋の真夜中を私はいつものようにジョニ黒のオンザロックを手にロッキングチェアに身を沈める。何もかもが冷たく錆びれてしまった野心の傷口をまるで癒すかのようにただこの時間だけが唯一の四次元の世界のように思えた。
ラジオの語り口調は無意識にこれまでの自分が葛藤し続けてきた脳内シナプスの短絡的希望を僅かに補ってくれるような、そして自分自身が描こうとしている化身の輪郭を今夜も電波に乗って流れ来る。
「驚きましたねえ。この秋最も注目される期待の新人、彼女の名は古館ナナ…」
私は耳を疑った。グラスを持つ手の感覚が一瞬止まった。
「たちまちオリコンチャート二週連続第一位。今最も巷で若い層の心を揺さぶるシンガーソングライターの出現といっても過言ではありません…」
ラジオの声は淡々と続く。
「では、彗星のように現れた彼女の歌をお聞きください。曲は『故郷はもうない』…」
まるで天から激しい稲妻が私の頭上に降臨するかのような衝撃である。イントロがあり彼女のギターが遠くから始まり、彼女の魂が宇宙の彼方から聞こえてくる寸前になったとき私の高揚は息を呑むのも忘れるかのように放心していた。
古館ナナは存在していた。繰り返し私は心のなかで叫んだ。プロデビューを飾ったと叫んでいた。自分が温め続けていた直感の合致にその感激は天空に向かって感謝するかのような狂乱の美酒に酔ったのであった。
歌は正確に彼女の第一印象をなぞるかのように流れていき彼女の言っていた心に響く歌、魂の唄、翳りの色、彩、叫びの声、そして全体に様々な人生を織り込んだ孤独の影を滲ませていた。
ラジオから流れる電波でしか彼女と再び会えなかったというこのとき(・・)の悪戯は何を意味しているのか。歌は静かに進行し、私は偶然の衝撃に打ちひしがれ、耳を澄まし、そしてグラスのなかの琥珀色の液体を凝視し、深いしじまのなかでいつまでも固まっていたのであった。
もう油井氏のことなどどうでもいい。諂う(へつら)ことなどない。みんなは偉大なる指導者として崇めているが私は私のやり方で行くしかない。私に見えるカラスが白であったのならあくまでも白で行くという変哲を貫くのだ。この歌がそう諭している。今、彼女が見事にプロデビューを果たし私の前に予想だにせず姿を見せたということはまるでドラマだ。そして、彼女に対して抱いた直感がまさに矢を射るごとく的中したことはそれを大いに援護するに余り得る。
私はその夜、興奮したまま眠れなかった。
楽太郎とはその後しばらく会わなかったが、次に彼に会ったときは自分の変貌を伝えておきたいと考えていた。「人生、如何に生きたか」よりも「人生、いかに生くべきか」の方針に沿って選書に取り組む考えでいることを。それはひとつには私の反骨表明でもあり、油井氏との絶縁することを意味したのである。各人の人生の記述を詳細にわたり、あれこれ添削を加える作業は凡そ私には出来ないと判断したからである。出来上がったとしても更に彼はそれらを今度は自分の眼で推敲する魂胆であることは明らかであった。何しろ自分の力量を示すための最終段階の権力を保持したいことは見えていた。三年間の空白がそれを証明しているといえた。結局絶縁を決意した大きな理由は私は任された以上、私が最終段階の推敲者でありたかったと思ったからであった。そのことも含め私は楽太郎に告げたかった。勿論古館ナナがプロデビューを果たし、今や話題の新人歌手であることもだ。
相変わらず、午後にはお決まりの日課は続いた。その時間は太閤の湯に集まる人間も同じ顔なのでお互い短く目で挨拶するか、時候の慣用句を交わすのが習わしとなる。暮れも押し迫ったその年、いつものように私は太閤の湯に出かけ、日常の手順を無意識に遂行するかのように履物を玄関の下足箱の番号札三十三番に入れ、ガラス戸を開けて中に入った。
番台の女将が「いらっしゃい」と声をかけ、磨きたての脱衣所の床と沸かしたての一番風呂の香りを感じつつ、二、三人のいつもの老人の姿を目に留め、下足番号と同じ番号三十三番の扉を開く何気ない同じ行動である。しかし、よく見ると今日は脱衣箱三十三番の扉に鍵がかかっていた。これは何かの間違いではないかと咄嗟に思った。三十三番は私の長年独占して使用してきた脱衣箱だ。なぜ今日に限って既に使用されてしまっているのか。
すでに誰かに使用されている。こんなことは珍しいことだと思った。特別に時間が遅かったわけでもない。この時間に来る人間は大抵決まっていて、今脱衣所で着替えている老人だっていつもの人たちである。彼らにしてもほぼ毎日使用する自分の脱衣箱は決まっているかに見えた。三十三番を使用している人物は今、浴槽内にいるのであろう。私はふとそんなことを考えながら突然破られた日常の些細な現象に半ば刺激的に囚われながらほかの空いている箱を探した。
常連の客はほぼ一定しており、この時間以外に私は出かけたことがないので顔を見ればすぐ分かる。浴槽場に足を踏み入れる瞬間までの淡い期待らしき好奇心が私の眼の奥で幽かに漂っていたことは確かであった。三十三番を無意識に使用した人物とはどんな人物なのか。この一年、選書のことで格闘を続け、幻のシンガーソングライターと出逢い、油井氏との決別を決めた今、そのすべてを洗い流すべくこの唯一の空間に出くわした思わぬ不順。最後のまとめでジグゾーパズルの一欠けらがどこかでそぐわないような気がして、それは偶然であり、取るに足りないことであるにもかかわらず、それは運、不運、ゆく川の流れと同じことで、極めて独断的、無意味な内容とはいえ脳裏をかすめたのである。
湯船には三人の先客が湯に浸かっていた。洗い場には誰も居ず、湯気だけが微風の漂うがごとく全体に浮遊し、天井に浸かっている客たちの心地よさそうな呆け切ったような嘆息音が小刻みに跳ね返っていた。よく見ると湯船のなかにやはり初めて見る顔がある。白髪の老人である。首から上しか見えないが如何にも頑丈そうな健康体であった。やがて、洗い場で距離を狭めて時折観察すると最初は気づかなかったある種の異変に私の眼は驚愕せざるを得なかった。彼の右の脇腹に鋭く抉られたような傷跡がくっきりと表れていたのである。傷口の長さは優に三十センチはあった。彼は黙々と身体を洗い流していた。穏やかな表情を浮かべ、傷口の憂いを悔やむではなく、過去の苦痛を背負うでもなく、今をただ従順に生きるかのように汗を洗い落としていた。彼の生きてきた過去が傷口に代表されようが、そんなことは一切虚無の世界に葬られ反って躍動するような彼の動きは見る者の胸を熱くするような所作を有していた。
湯から上がって、私はその老人の動きに関心を持ちつつ着替えをしながら自分がまとめようと決意した選書のある部分を思い出していた。それは自分史というものが果たして自分が生きてきた証しとして永遠に残り、その実体こそ何物にも代えがたい唯一絶対的な真実として存在するものであるのかということであった。
青二才の私が表現を好み、表現の世界に魅せられるかのように文章そのものへ精魂を込めたとしても、彼の傷口ひとつ眺めただけで文章よりも多くの彼の生きざまを感じ取れるという事実。そしてそれに極めて瞬間的に遭遇した衝撃が私のこころを揺さぶっていた。
脱衣所の少し奥に床板の休憩所がありそのガラス張りの部屋から外の庭の景色が眺められた。彼は着替えてから珍しそうにその休憩所へ移動してしばらく庭を眺めていた。私も久しぶりにその部屋へ赴いた。師走の寒空から白いものがいつの間にか降り始め、庭一面に散らついていた。
「降ってきましたか」
「そのようですね」
初めて会う人間同士の会話にしては親近感があった。
「今年も終わりですね」
「一年って早いものですなあ」
窓の外を眺めながら、お互いがお互いの素性すら臆することなく、感慨深げにつぶやくのだった。しかし、私は彼の横顔から過ぎ行く一年の重さ、質感、更にはその色や味覚等にいたるまで私のそれとは明らかに違った年輪の重圧を読み取らずにはいられなかった。神々しいというか、恐らく彼の右脇腹の傷が私の眼を射たように彼の言葉のなかにはその幅にしろ深さにしろそれに似たものが隠されているかのように響くからであった。
「お仕事は年内いっぱいですか?」
彼は微笑むように私に向かって尋ねていた。
「いえ」
私は躊躇してしまった。無職の自分が生意気にも人生の余暇を謳歌している会員たちの「自分史」の編集を仕事などとは到底言えなかったからだ。「仕事はしていません」と心のなかで返答するしかなかった。流れるかのようにそして天高く舞うかの如く降り注ぐ小雪を私たちは無言で眺め続けた。
「でも、世の中無事で過ごすことが一番ですねえ」
彼は感慨深そうにつぶやいた。私は太閤の湯の庭がやがて覆われていく白い景色の奥に彼の脇腹に残る傷跡を重ねていた。昔は色々あったと、もうひとつの彼の言葉がそこに隠されているかのように思えるからであった。
二日後、楽太郎と二人だけの忘年会をやった。伊勢佐木町の本通りからかなり南にある吉野町の居酒屋で、以前二人で飲んだことのある侘しい店である。暮れの喧騒から逃れるのにふさわしい質素かつ瞑想の漂う店構えだ。
「とうとうデビューしたねえ」
「勘があったね、最初から」
古館ナナの話から始まった。
「でも、長者町のライブハウスで本当に歌っていたのかねえ」
「エイベックスもいい加減なもんだよ」
フランシスコではバーテンダーに怪訝な顔をされながらも酔いつぶれるまで飲み、青い鳥では若い女子グループからも同じように知らないと言われた。キツネに抓まされる思いだった。
「確かにいい歌だよ」
楽太郎が彼女の歌を褒めていた。具体的には触れない。私と楽太郎がお互いに抱く感慨の中味に彼女の歌が融和しているのだった。故郷を捨てた彼女の姿が少しも暗い翳りをみせずのびのびとした魂が煌めいている。最初に出会ったときの彼女の面影は私の期待を裏切らなかったことがそして楽太郎にも、更に世情の支持も予想通りの反応が成就されたことが何より嬉しかった。
「彼女と連絡は取れないの?」
楽太郎はせかすかのような質問をしていた。調べれば今度こそ確実な情報が得られることを示唆していた。
「エイベックスにか?」
冗談を言って私は苦笑いをした。
「いいんだよ。陰で応援してやるよ」
私は眩いほどのスポットライトを浴び、万雷の拍手のステージに立つ彼女の姿を思い浮かべながら焼酎を呷った。人との出会いはほんの一瞬であり、それが運命を決めるとなれば私と古館ナナとはどんな道を辿ることになるのか。単なる出会いに過ぎないのなら、日常と同じでゆく河の水は絶えずして…と大して特別な意味を持たない。しかし、私はこの不思議な出会いに賭けたいという思いがあり、謎のままそれは私の人生の断片的な出来事として仕舞って置くことに決めていた。
「でもさあ、彼女のほうも一度会いたいと思ってるんじゃないの?」
楽太郎はにんまりとした表情を浮かべていた。
「デビューを飾って、下積み時代の頃を思うとやっぱり懐かしいと思うだろうよ」
「そうかな」
「そうだよ」
吉野町の居酒屋に静謐な音調が広がっていた。短い間だったけど彼女と付き合った頃の思い出がそれに交じる。眼は純粋で、故郷を捨てたとは到底思えない。声は幽かに清澄で控えめで、心に秘めた望みは常に私の夢幻性の領域を侵攻した。私のどんな要素がこれらと同調していたのか今しみじみと思い返してみると不思議なことではあった。
「今年も終わったな…」
「早いね。一年って」
それから私と楽太郎はしばらく黙り込んで酒を飲んだ。選書の編集も過ぎゆく年とともにお仕舞にしようと思った。完成したわけでもない。たった数日前に決意した最後の推敲者たる自分の傲慢さが急にみすぼらしくてちっぽけな野心だったことに、酒の味が教えてくれていた。突然の豹変ではあったが酌み交わしているうちに私は遠くで反省していた。人の人生がひとつの作品とするならば、推敲を加えることはその作品の校閲者たる行為であり、作者の自分史はこれにより私の主観の混じった自分史と変わってしまい兼ねない。
「やめたよ、選書の編集。ちょうどいい見納めさ」
「理由は何だよ。考えが変わったのか?」
「自分史なんて作品の良し悪し云々ではない、ってことだよ」
「では、その先生っていう人はなんて言っているの?」
「決別だよ。もう相談しないことにした」
楽太郎は最初は驚いていたが、それ以上何も聞かなかった。私はこの一年の溜まり溜まった大きな埃を振り払うかのような気持ちになっていた。楽太郎に告げたことで酒の味も格別な香りが漂うような気がした。そして何故か太閤の湯で出会った老人の無事で過ごすことが一番という言葉が急に複雑な重みを持って甦り酒精のなかに融けいくのである。
その話を楽太郎にした。
「本当にその人物が本当に三十三番の下足箱を使用したのか?」
謎解きのような台詞を楽太郎はつぶやいていた。
爽やかな風が入ってくる。あれから十数年が経っていた。窓の外は新緑のキャンパスの匂いが広がる。私は懐かしく過ごした横浜の地をそして大学を卒業してから定職にも就かず謎のような日々を送ったその出来事を懐かしく思い出すのである。
ここ関西に仕事を得てからすっかり忘れていたものが再び隆起してきてそれが現在の私を作り上げていた。今、このキャンパスの自分の部屋から眺めているとつくづくそれを感じ取ることが出来る。私の受け持つ講義は源流を辿ればその横浜での三年間にあったといえそうだった。この大学で非常勤講師とはいえ今感じることは充実した自分の姿が確認できるということであった。
三年間の不毛な活動はそれ自体は実らなかったかもしれないが今から思えばその当時の無職時代こそが貴重なことのように思える。謎の人物と見えた油井氏は当時でいえばベンチャー企業の発案者であり、時代を先取りする先駆者であったかもしれなかった。つまり儲けるための手段として老人層を狙ったひとつの提案を大学出たての私に手伝わせたのである。根底に商売としての足掛かりがあったことは否めない。いま巷に蔓延るカルチャーセンターの氾濫を思えばそのことは頷ける。自分史というものはそれだけ特殊な階層にとっては魔力を持っていた。
しかし、一方でその時期、邂逅した古館ナナとの件は自分にとっていかなる意味を持っていたのか。単なる幻影に過ぎなかったのか。否、それは横浜での就職浪人時代の私自身を照らし続ける奇妙な羅針盤ではなかったのか。つまり抽象的な言い方をすれば信じたものこそ真理に近く、その操られたものへと惹かれていく、そしてその世界は限りなく天を支配するものの御業であるということに落ち着かざるを得ない。それは今もって心騒がす奇妙な幻想であったことだ。
楽太郎にも関西に移ってからはほとんど会わなくなった。多分、今はすっかり変貌してしまった横浜の伊勢佐木町のどこかで相変わらず飲んでいるだろう。確か彼の勤めていた百科事典の会社も最近になってつぶれたと聞いた。運河近くにあった寄席の竹林亭も和風庭園を有した太閤の湯も恐らくもう存在していないだろう。すべては不毛な三年間の出来事とともにこの世からその形をとどめることなく消滅してしまったに違いない。
長閑なキャンパス内の日溜まりを眺めていると過ぎ去ったものにはもはやそれ自体の形象は眼の前に無く、その臨場感の効果すら今や再現することはできない宿命を背負っていることがよく分かるような気がした。言い換えればそれは文字において表現し得たとしてもその臨場感は決して甦らない。それは唯一、心のなかにだけ残っているものであり、嘗て自分史の選書に真っ向から取り組んでいた私の姿勢を基本的に否定するものであった。言葉で過去の気持ちのそのときのすべてを表現することは不可能であった。それはひとつにはいわば「言語論」の限界であった。自分史という主旨は分かっても果たしてそれが真の自分の姿を述べているかについては限界があるということであった。それを今、私は飯の種にしている。そして講義する内容はドイツの哲学者、ショペン・ハウエルの「言語学としての限界性について」という論文を私なりに脚色し、週に二回、この大学に来ていた。
「先生、そろそろお時間です」
部屋をノックする音が響き、大学の女子事務員が呼びに来た。本日のレジメを私は新しいものに変えていたので若干の不安はあったが意を決して教室へ向かうべく腰を上げた。三年間の彷徨を意味ある体験としてその成果に結びつけなければならない。机上の理論のなかで最も説得力を伴うものは過去の哲学者曰く…ではなく自分自身の体験を混ぜることだ、と確信していた。私は本日のレジメのなかで太閤の湯で出会った老人の話について語るつもりであった。彼の脇腹の傷が表現されない多くの人生を語っていることを述べたかった。ショペン・ハウエルにある「紙上に書かれた思想は砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない…」云々を噛み砕いて説明するにはどうしても私のその体験が必要であるように思えたからである。
教室には多くの若者が待ち構えていた。彼らは自由奔放に自分自身の世界を持ち、お互いに混じり合いながら未知数に溢れる眼と未熟に満ちた理性を研ぎ澄ませて座っていた。
「今日は言語学における表現とはいかなるものかということについてお話をしたいと思います」
私は順調に滑り出した。頭のなかに一点の曇りもなかった。配布したレジメも完璧に私の本日の講義内容を補完しているという自負があった。ところが最初は気付かなかったのだが、二、三十名の学生のなかで一番前に座っていた一人の女子学生の姿がどことなく妙に引っ掛かった。眼の前で垣間見えているその赤い色は確実に私の忘れているようで実は未だに初々しく息づいている皮質のような気がしたのである。それは彼女の着ていた赤い袢纏にあった。多種多様な現代感覚の今日びの若者にとってそれは特に珍しくはなかったが、私にとっては衝撃的な古い皮質を目覚めさせる色彩でありコスチュームだったのである。
講義を進めていくうち私は忽ち数年前の竹林亭で最初に見た古館ナナの赤い袢纏を思い浮かべていた。途端に暗記したはずの講義ノートの脈絡が次々と剝がれ散っていくような動揺が走り過ぎた。教室という場所全体があの運河近くの竹林亭の畳敷きを思い起こさせた。噺家が私でそれを眼の前に居る赤い袢纏の女子学生がじっと聴いている光景なのだ。
不思議な妄想に駆られつつ私は時折、彼女の様子を垣間見た。彼女はただ熱心に講義に耳を傾けている。私の脳裏に残っている赤い袢纏が当時の葛藤を浮き彫りにしていた。しかし、それはやがて古館ナナに対する強烈な印象だったことが甦りそれは自分だけが秘めてきた大切な金字塔だったことを同時に思い出していた。
自分を取り巻く世界に突然大きな壁が立ち塞がっていた。ショペン・ハウエルも答えられない次元の違う難問題であるかのように思われた。講義を続けながら私は数年前の古館ナナに関する出来事に囚われていたのである。霊感を何と表現すればいいのか。恐らく彼らに伝えても到底理解を得ることは不可能であった。しかし一方であのとき自分の眼が捉えた赤い袢纏は幻覚と言われようが私にとってはすべての始まりであったのだ。
やがて講義は終了し、私は教材を畳み何気なく教室の周りを改めて見渡した。部分的にショペン・ハウエルのまるでその墓場から届くような苦言が緩やかに舞っていた。地上に書かれた思想は砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者の辿った道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには自分の眼を開かなけばならないという予め用意した私の講義ノートは大幅に脱線していたことは明らかであった。
私はカラカラに乾いた喉を潤そうと思いつつふと前を見た。そしてこのとき教室のなかにまだ一人だけ学生が残っていることに初めて気付いたのであった。最前列に座っていたあの赤い袢纏を着た女子学生だった。私は意表を衝かれたかのように彼女を注視した。
「何か質問がありますか?」
私は声をかけた。
「いえ」
何か含み笑いを浮かべながら彼女は立ち上がり、そして軽く一礼をして席を立とうとした。季節柄としてはとっくに外れている赤い袢纏が不調和で最初から私の眼には古館ナナの化身としか思えなかった。
帰りかけて彼女は急に私に向かって尋ねた。
「一つだけ聞いていいですか?」
「はあ?」
「先生の趣味って何ですか?」
その眼が輝いて見えた。
私のほうでも彼女に対して真っ先に確かめてみたい言葉を用意していた。それは「君は落語が好きですか?」という質問をかけてみたかったのだった。