いつまでも身を固めない皇太子に業を煮やした侍従は、決闘裁判に訴えることにしたようです
「ディルフェイル殿下、帝国法と教会法に則り、あなたに決闘裁判を申し入れます」
飛んできた左の手袋をディルフェイルが受け止めると同時に、するどい語が浴びせられた。
周囲の人々は、世界のつぎなる主たる皇太子へ手袋が投げつけられた、しかも直属の侍従からという、ありえざる事態へにわかに反応できず、ただ硬直している。
「この俺に、決闘をせよと?」
「わたくしには決闘裁判の申し立てをする資格があります。むろん、殿下には代理人をお立ていただいてかまいませんが」
その言のとおり、帝国の臣民たる者には、裁定神アービタの名のもとに決闘を以って紛争解決手段とする権利が認められていた。
帝都駐在の各国公使を招いての、定例茶会のさなかに皇太子ディルフェイルへ手袋を叩きつけたエリーデは、リンドブルム公爵の娘であり、主君相手であろうと提訴する権利を有している。
エリーデはディルフェイルの母フェリア皇后の姪であり、皇子から見れば従姉であった。フェリア皇后が息子の側仕え兼護衛役として選んだ、ディルフェイルにとっては生まれたときからずっと近くにいる腹心でもある。
身内びいきの人事ではなく、5歳にして〈剣聖〉たる資質を示した麒麟児エリーデは、皇后の初子が皇子でも皇女でも、側付になることが定められていた。
ディルフェイルはエリーデの剣技に一度ならず救われており、従姉が自分より強いということを知っている。ゆえに、エリーデは「代理人を立ててかまわない」と述べたわけだ。
女だてらに近衛団最強、〈皇后の懐剣〉と称される男装の麗人へ、皇太子はその身分にふさわしい不敵な表情で応じた。
「バカを言うな、他人に自分の運命を委ねられるか。……で、エリーデ、いったい俺のなにを裁こうというのだ?」
「帝国の継嗣として、いいかげん身を固めていただきたく。わたくしが勝ったあかつきには、以前オススメしたにもかかわらずお断りになられた、アステリーシャ大公女との縁談を進めていただきます」
22歳となっていながら、婚約者すら決まっておらず、女性に見向きしない皇太子は、姉代わりのエリーデにとって心配の種であった。帝国の継承者としては、女たらしの遊び人であってくれたほうがいくらかマシだ。
一時は、女性は恋愛感情の対象外で、男性が好みなのだろうか、とまで勘ぐったこともあったが、いくら観察してもそのような様子はない。起きてから眠るまで、ディルフェイルと一番長く時間をすごしているのは、近侍兼護衛であるエリーデなのだ、隠しとおすことはできないはず。
エリーデにとって皇太子ディルフェイルは自慢の弟――というといささかおこがましいが、ひいき目抜きでも、やや巻きぎみの銀髪と涼やかな蒼い眼、高い鼻にあごの線はシャープで、声は高すぎず低すぎず細すぎず野太すぎず、背丈こそずば抜けてはいないが手脚が長く、贅肉のない引き締まった体格……とまあ、およそ外面に欠点らしい欠点がなく、中身も帝王にふさわしい、自信家で決断力がありつつ沈着な思慮もできる怜悧な頭脳の持ち主であった。
その上つぎの皇帝となる身である。女性はいくらでも群がってくるのだ。
にもかかわらず、ディルフェイルはさわやかに手を振ってみせるばかりで、外交儀礼上、親しく言葉を交わす必要のある相手でも、無難で面白くないことしか口にしない。
エリーデに言わせれば、ディルフェイルは「人見知りがすぎる」のである。実際には初対面の相手でもすぐさま胸襟を開かせることのできる、洒脱な話術の持ち主なのに、なぜだか女性に対しては。
皇太子は、おせっかい屋の侍従の鋭い視線に対し、あっさりうなずいた。
「よかろう。俺が勝ったら、嫁はおまえだ」
「……あ"い"?」
最前までの玲瓏のごとき声はどこへやら、素っ頓狂なダミ声を上げたエリーデへ、ディルフェイルはこともなげに言う。
「要するに、帝国の継承者として格好がつけばいいのだろう? 相手はだれでもかまわんはずだ。おまえは公爵家の娘、身分として問題はない」
「もっと真剣に考えてください! 世界に冠たる帝国の次代領袖としてのみならず、ひとりの人間として!」
「帝室の品位、権威を保ちながら〈真実の愛〉まで見つけろと? 俺が場末の酒場の踊り子や、農奴の娘を連れてきて『これがわが運命の伴侶だ』とか言い出したらどうする」
「資質をあらためさせてはいただきますが、その愛に偽りがなければ否定はしません。皇太子妃、皇后として、できるかぎりの作法を身につけていただくために、わたくしもご協力いたしましょう」
しごく真面目な顔でエリーデはそう述べたが、ディルフェイルは冷めた目でかぶりを振る。
「帝国は広く、世界はさらに広い。人間を作るのは生まれより育ちの環境だ。いくつもの意味で離れたところに生まれ育った者が、この帝都、皇宮に馴染むのは無理だろう。仮に、そんな相手と愛を貫くとならば、俺のほうが皇太子としての立場を捨てるほかあるまい。だが……」
「……そればかりは」
「そう、叶うまい。だから俺は真の愛など求めん。帝嗣としていますぐ体裁を整えろというなら、おまえで充分だ」
女性が見れば100人中ほぼ100人が心奪われるだろう、甘さと野趣が絶妙に溶け合った表情を浮かべてみせたディルフェイルだったが、あいにくと目の前にいるのは例外中の例外であった。
双眸に瞋りの炎を揺らめかせ、エリーデは声を震わせる。
「形式だけの結婚をして、これまでどおりフラフラしたい、わたくしに飾り物の妻になれと……」
「すぐに決めろと急かすからだ。結婚が30すぎになった男子皇族は、帝国の歴史を振り返ってみて、そうめずらしくもない」
「アステリーシャさまは素敵なかたです! アステリーシャさま以外の選択を認めないとまでは言っていません、せめて一度だけでも、お互いの理解ができるだけのお話をする席を設けてください」
「その結果、やはり生涯の伴侶とするにはいたらず、という結論が出たら、つぎの候補者と顔合わせだろう。そういうことに時間を浪費したくない」
時間の無駄、自分の嫁はだれでもいい、でも皇太子としての立場くらいは自覚している、だったらおまえでいいだろう――というディルフェイルの態度が、エリーデの怒気を沸々と煮え立たせる。
「あなたのそういうところが、腹に据えかねる! 決闘裁判でわたくしは絶対に勝ちます、お覚悟を」
エリーデは勢い込んでまくし立て、ディルフェイルの応答を待つことなくきびすを返す。そのまま、茶会が開かれている広間を突っ切って立ち去った。
定例茶会が荒れたことはこれまでなかったので、どうすればいいのかわからず黙りこくったままの各国公使へ、ディルフェイルは椅子を立って優雅に一礼してみせた。
「失礼、お騒がせした。リンドブルム公爵令嬢がこの場を選んであのようなことを述べたのも、決闘裁判には、中立的で社会的信用のある証人がそろうのが望ましいからだろう。……つぎのアービタの日って、いつだったか?」
皇太子に小声で訊ねられ、近侍のひとりモイヤーが答える。
「3日後です」
「3日後の正午、大聖堂の前庭で私とリンドブルム公爵令嬢の決闘裁判が行われる。しいてのご予定がなければ、見届人としてお越しいただきたい」
茶会に出席していたのは、帝都駐在の各国大使とその関係者、ホストがわの皇太子と侍従に給仕を合わせても、100人に満たない数であったが、人の口に戸は立てられないもの。
明くる日には、帝都中に皇太子ディルフェイルと〈皇后の懐剣〉エリーデが決闘におよぶと知れ渡っており、人々は思い思いに想像の翼を広げ、うわさ話に花を咲かすのであった。
+++++
定例茶会を中座したエリーデは男物の礼装を脱ぎ捨て、割り当てられている私室のベッドに飛び込んで枕に顔を埋めていた。
皇太子の警護という務めを、急病以外で中途放棄したのははじめてだ。
「でん……ディル、いつのまにあんな聞きわけのない子に」
ディルフェイルはエリーデにとって、第一に仕える対象であったが、同時にかわいい弟のような存在でもあった。
利発で、いたずら好きだけれどそれ以上に猫をかぶるのが巧く、ゆえに実際ディルフェイルがことを起こすと、皇宮じゅうが大騒ぎになった。
そんなときでも、エリーデだけは皇子のかたわらで、共犯者として従いながらも安全確保のため目を配っていた。
味方ではあるけれど二重スパイ、皇子の冒険が真に危険を冒さないよう制御していたお目つけ役――そんな立場だったから、本当の信頼を得られなくなってしまったのだろうか。
皇太子ディルフェイルの周囲に女性の影がチラつかないのは、〈皇后の懐剣〉エリーデが排除しているからだ、などといううわさが市井に飛び交っていることは、当の本人も知っていた。
隣国の大公女アステリーシャはじめ、周辺諸国の王侯、帝室に近い大貴族や社交界上流の令嬢たちは、むしろエリーデが、皇太子とお妃候補の仲を取り持とうと骨折っているのをわかってくれているが。
しかしディルフェイルは女性に見向きしようともしない。かといって男性愛の傾向があるわけでもない。
ひょっとして、ディルフェイルには恋愛感情そのものがないのだろうか。あるいは、ひと目視線を交わした瞬間、雷に打たれたかのように運命を感じる、真実の愛を信じていて、初見で痺れなかった相手に、それ以上時間をかける意味はないと考えているのか。
……そういえば、茶会の席で手袋を投げつけてからの会話で、ディルフェイルは〈真実の愛〉に言及していた。次期皇帝の地位とは両立しえないのだから求めない、という言いかたで、どちらかといえば真実の愛の存在には肯定的だったような気もする。
「もしかして、殿下が視察に熱心な理由って……」
ディルフェイルは皇太子として、帝国各地を精力的に訪問し、現地の実情を自らの目で確認して回っていた。当然エリーデも警護要員として随行しており、これまでに3度、皇太子の身を狙った分離主義者や過激派のテロ攻撃を阻止している。
帝国の統治が高圧的なものでなくなってからそろそろ2世紀になるが、束ねるのを放棄すれば相争うことを再開するであろう地域もあり、ただ求められるままに独立を認めればそれですむというほど単純ではない。そもそも帝国の創建は、紛争の調停と平和を求める各地の民草からの訴えがあってのことであった。
それゆえに、アービタの司る決闘裁判にはいまもって正当性が認められているのだ。
「……ちがうちがう、考えが脇道にそれた」
ディルフェイルが各地の視察に熱心なのは、皇太子としての務めもさることながら、どこかにいるであろう真実の愛の相手を探しているからなのか。
だから、すぐに決めろと急かすからだ、と言ったのだとしたら……。
「たしかに、皇太子としてはともかく、ひとりの人間として、22歳はまだ慌てるほどの齢じゃない。でもね……こっちは」
ディルフェイルより7歳年上のエリーデは現在29、アラサーである。
そしてエリーデは見た目によらずロマンティストだった。お話のような大恋愛がしたかったのだ。
「早急に世間体のために結婚しろ? だったら、面倒なんでおまえでいい」と、弟同然のディルフェイルから言われて、素直にハイと応じたくないのである。たとえ人類としては上限いっぱいの超イケメンで、皇太子殿下であろうとも。
そもそも、帝国の継承者たる貴公子を巡っての、激しい恋の鞘当てを、特等席から観覧したいというのが、エリーデがこれまでこの職務に励んできた最大の動機、役得チケットのつもりだった。
アテがハズれまくっていたのである。仕方ないから自らキューピッド役を務めようとしても、ディルフェイルは顔合わせの席そのものを袖にする。
あげく帝都出版のゴシップ誌には『帝国全土、いや全世界の少女たちを熱狂させる、われらが皇太子ディルフェイル殿下だが、その脇を固めて譲らないのが〈皇后の懐剣〉リンドブルム公爵令嬢。彼女の狙いは皇太子妃に収まることなのか? 皇后フェリア殿下は承知の上で送り込んだのか? 調べてみました』などと書かれてしまう始末だ。
「……とにかく、決闘裁判でディルを圧倒して、アステリーシャさまに会ってもらう」
お姫さま、という言葉をそのまま具現化したような、華やかであり同時に可憐なアステリーシャ大公女は、エリーデの推しだった。
絵になるから並べてみたい、という、わりと自分本位な動機であったが、アステリーシャのがわにディルフェイルへの興味と好感があるのは確認ずみだ。
もちろん、強制する気はない。ディルフェイルの各地巡察が、本当に〈真実の愛〉の相手を探すのが目的であるなら、見つかるまでつき合うのも、姉代わりとしてのエリーデの役目だ。
ただ……
「その場合は、さすがに婚活させてもらうけど。殿下の運命の伴侶が見つかるまで、何年かかるかわからないし」
近侍として、自分の結婚はあとまわしにするつもりだったエリーデの考える、それが精一杯の妥協であった。
そう、もう決闘裁判には勝ったつもりでいたのである。
+++++
3日後――
週に一度の裁定神アービタの日、ふだんは帝国各地からもたらされた各種調停・裁定願の審理・裁決をするだけの、事務的な意味しかない平日だが、今日ばかりはお祭り騒ぎになっていた。
決闘裁判が行われるのはじつに70年ぶり。完全に廃れたので、むしろ正式に廃止することもあるまいと放置されていた、化石のような制度がにわかに脚光を浴びたのだ。
その上、当事者は皇太子とその筆頭侍従、否が応にも盛り上がる。
帝国の継承者として、銀糸に要所を綴られた黒の正装をまとって大聖堂へやってきたディルフェイルは、荘厳さや厳粛さがかけらもない周辺の雰囲気に唖然となった。
「……なんだ、これは」
「そりゃまあ、みな面白がりますよ。ちなみにオッズは、殿下が3倍でエリーデ嬢が1.02です」
苦笑しながらのモイヤーの返答に、ディルフェイルは屹っと振り向いた。
「だれだ神聖なる決闘裁判を賭博の対象にしたやつは?!!」
「むかし、貴族どうしが領地争いや痴情のもつれで決闘をしていたころは、開帳されるのがいつものことだったらしいですよ。ちなみに、自分はちゃんと殿下に賭けましたから」
「賭けとる場合か!?」
「がんばってくださいよ殿下。自分は3倍獲れるから軽くしか張ってないですけど、エリーデ嬢に賭けた連中は利が薄いんで大枚はたいてますからね。あいつらが盛大にスッて真顔になるところが見たいもんです」
……いやはや、こいつを股肱の臣と信じてきた俺がバカだったな――己を嗤って、決闘会場となる聖堂の前庭へ視線を向けたディルフェイルの目に、いつもどおりに近衛の制服を着込んだ、エリーデの凛々しい姿が映った。
紅髪を短く切りそろえ、女性としてはかなり背が高く、遠目ではにわかに男女の判別がつかない。帝都の人々にエリーデの存在はよく知られているが、訪問先の地方、諸外国では、皇太子の侍従に女性が混ざっているとおどろかれることもしばしばだ。
エリーデの紫の眼はつねに鋭いが、今日はひときわ決意に満ちているようにも見える。
大聖堂の前庭とその周りの広場のみならず、近隣の建物のバルコニーやベランダ、屋上にまで臨時の観戦席が設えられ、数万の人々が見守る中、ディルフェイルとエリーデは相対した。
裁定神アービタに仕える大判官ライブラが、ふた振りの剣を手に決闘裁判の前口上を述べる。
大判官自身執行経験はなく、古文書館から決闘裁判の手順に関する書物を引っ張り出してきて、一夜漬けしたことだろう。
「裁定神アービタの名のもとに、これよりリンドブルム公爵令嬢エリーデの申し立てに基づき決闘裁判を行う。原告エリーデ、被告ディルフェイル、両者異存ないか?」
決闘裁判に上告や再審はない。勝敗がそのまま確定判決となる。
覚悟を問う大判官に対し、
「ございません」
涼やかにエリーデは応じ、
「ない」
とそっけなくディルフェイルは答えた。
「太陽の光が両者を偏りなく照らしていることを、大判官ライブラが確認した。用いられるこのふた振りの剣に、長さ、重さ、強度の優劣がないことを、大判官ライブラが保証する。被告ディルフェイル、爾よりいずれかを選べ」
「残ったほうでいい」
「そうか。原告エリーデ、爾が選択せよ」
「では、こちらを」
エリーデはごく自然に、自分に近い大判官の左手から剣を受け取り、ディルフェイルがもう一本を把る。
刃こそついていないが、きちんと鍛えられた鋼鉄製の剣だ。かつては決闘裁判で生涯残る傷を負ったり、生命を落とした者もめずらしくなかったという。
「裁定神アービタの名において、決闘裁判を開始する。両者、偽りなく己が意志をその剣に籠めて証しとせよ」
大判官の開戦宣告に、対峙するふたりが同時に剣を構えた。
技を繰り出すタイミングをはかってにらみ合いになるかと思われたが、ディルフェイルは間合を探ろうともせず、無造作に跳んで得物を振り下ろす。
その剣撃の鋭さと伸びは、エリーデの予測をはるかに超えていた。
(迅い!?)
打ち合わせるも一瞬、ディルフェイルは鍔迫り合いに持ち込もうとせずに剣を引き、つぎつぎと連撃を繰り出す。
中天の太陽が燦々と光を投げかけているにもかかわらず、剣の激突ではっきりと火花が宙に舞い散った。
踊っているかのように身体を回転させながら剣を振るうディルフェイルに対し、エリーデは防戦一方で、じりじりと押されていく。
予想外の展開に、観衆から帝都中を揺るがすかのような大喝采が巻き起こった。実際に、帝都の城壁の外側にいても歓声が聞こえたと証言が残っている。
……まあ大半は、近衛団最強である〈皇后の懐剣〉エリーデの圧勝を疑わずに、1.02倍の払い戻しで利ざやを得るべく大金を賭けた連中の悲鳴だったわけだが。
皇太子の勝利に賭けていた次席侍従のモイヤーは、いいぞいいぞとほおを緩めながらも、彼自身読めていたわけではない戦況を冷静に分析していた。
もちろんディルフェイルは、帝王たる者としてきちんと武芸を身につけている。しかし王侯貴族として一般的なたしなみの域であって、専門的に打ち込んでいるわけではない。
対してエリーデは毎日鍛錬しているのみならず、武神マイトの加護によって〈剣聖〉の資質を持っている。
剣技だけならエリーデと同等、男女の膂力の差を加味すれば彼女をしのぐ強さとなるはずの者は近衛団内にすくなくないが、実際に剣を交えた場合、武神の加護のぶんまで覆せるものではない。
にもかかわらず、ディルフェイルが押しているということは。
「殿下のご意志は本物か」
モイヤーがつぶやいているうちにも、ディルフェイルがまた一歩エリーデを追い込んでいる。
エリーデも、決闘裁判においては当事者の信念と正義が問われることはわかっていた。
単に強いほうが勝つのなら、そこに公正な裁定などない。アービタは、正しき者に力を与え、同時に貫く覚悟があるかも試してくる。
かつては、法的には正当性がなかった小作農による土地専有が、決闘裁判で認められたこともあるのだ。
手続きとしては適法だったが私腹を肥やすことしか考えていなかった領主より、家族を守るために抵抗した農民たちの意志が強かったために起きた逆転である。もちろん、代表者として選ばれた決闘者は領主がわのほうが断然手練だったが、神が関与するだけに、純粋な腕力や技量だけでは決まらない。
(皇太子としてふさわしい結婚をしてほしいというわたくしの意志より、愛のない結婚をするくらいなら、手近な護衛の女を飾り物にして時間の無駄を省くと考えるディルフェイル殿下の意志のほうが、アービタにとって説得力があるというの)
何十合めか、ディルフェイルの剣撃をさばくも、腕が痺れてくる。
(いえ、それだけでこれほどの力が宿ることはないはず。もしや、殿下は運命の伴侶がどのあたりにいるのか、もう見当がついている? ……そういえば、各地の巡察って、8割がた回って、あと1年か2年くらいで終わりそうだったっけ。真実の愛が見つかるかもしれないタイミングでわたくしが急かしたから、怒った?)
激しい攻防でエリーデは息があがりはじめているのに、ディルフェイルは一見では呼吸をしているのかも定かでないほど涼しい顔をしていた。
開幕直後のような苛烈な連撃を受ければ、もうエリーデに防ぎ切る余力は残っていないのだが、ディルフェイルに攻め急ぐ様子はない。
エリーデが降参するのを待っているかのようだ。王者らしい態度といえる。
(わたくしはディルのしあわせより、自分の都合を考えていた? そろそろ嫁き遅れになると焦って、ディルが「そんなに急かすならおまえでいい」と言ってくれたことに無意識で安堵している? だから気持ちが不純で、剣に力が籠もっていないの?)
もしかすると、自分は敗北を望んでいるのか。エリーデは心ににじみかけた迷いを、歯を食いしばって振り払った。
(……そんなのじゃ駄目、まるでゴシップ誌に書かれているとおりになってしまうじゃない。ディルは、わたくしにとってかわいい弟であって、囲い込もうだなんて下心を持ったことはない)
受け太刀のために下げていた剣を高く掲げ、エリーデはディルフェイルへ真っ向から視線をぶつける。
「殿下、わたくしが軽率でした、先日の非礼をお詫びします。ですが、他意や邪念があって申しあげたことではありません」
「そうか。べつに謝ることはない、俺もすこし思慮が足りなかったようだ」
「決着を」
「望むところだ」
つぎの瞬間、渾身の力と意志の籠められた一閃が交錯し――澄んだ高い音を発してエリーデの剣が半ばから折れ、虚空へ切っ先が舞い上がった。
全力で激突した勢いが剣身の破砕で思わぬ方向へ逸れ、体勢を崩したエリーデを、自分の得物を投げ捨てたディルフェイルが抱きとめる。
「だいじょうぶか、エリーデ?」
「……まいりました、わたくしの完敗です」
剣に籠めた意志の力はアービタへの訴えの強さ。それが折れたということは、持ち主の敗訴を意味する。
裁定神が全面的に支持している場合、たとえ木の枝であっても決して折れはしないのだと伝えられていた。
決闘裁判の様式が公平さを期したものに統一される以前、本身の大剣どころか重甲冑まで身に着けた不当訴求者が、木剣一本の正当訴求者に打ち負かされたことがあるという。
決闘の途中から声を出すことも忘れ、固唾を飲んで見守っていた観衆から、この日最大の、そしておそらく、帝都史上最大の大歓声が沸きあがった。
まあ、やはり半ば以上は、賭け金が泡と消えたエリーデ持ち勢の悲鳴だったのであるが。
+++++
勝者たる皇太子に対し、エリーデは片ひざついてかしこまった。
「殿下のお気持ちを考えることなく、差し出がましくもご結婚を強要しようとしたこと、このエリーデ、深く反省いたしております。今後は殿下の〈真実の愛〉を見つけるため、全力でお手伝いすることを誓います」
「……意味がわからんぞ、なにを言っているエリーデ?」
唐突に理解不能の話がはじまって、首をかしげたディルフェイルへ、自分の頭の中で結論を出してしまっているエリーデは早口で述べ立てる。
「殿下は真実の愛を求めて国内各地を巡察なさっていたのでしょう? その道も8割がた終えていたというのに、わたくしが、すぐに皇太子として身を固めろなどと僭越なことを申し上げてしまったばかりに、お怒りになられた」
「おい、往生際が悪いぞ。決闘裁判で負けたのはそっちだろう、エリーデ。俺が勝ったときの条件を忘れたとは言わせん」
「ですから、真の愛がないなら結婚相手などだれでも同じだから、それならわたくしで充分だと、そうおっしゃったのでしょう? もう差し出口はいたしません、帝国内で見つからなければ世界中あらゆるところまで、殿下の真実の愛探しにお伴いたします」
完全に真顔だったので、エリーデはとぼけたり見え透いた言い逃れをしたりしているわけではないのだ、とディルフェイルは了解した。従姉にじゃっかん夢見がちで地に足のついていない部分があることを、従弟のほうは知っているのだ。
「決闘裁判の勝敗は絶対だ、おまえに選択権はない。エリーデ、あきらめて俺の妻になれ」
「……ん"あ"っ?!!」
「その汚い叫び声やめろ」
「だって、だって殿下……わたくしは身分に問題がないだけの、帝嗣として体裁を整えろというなら面倒だからおまえでいい、そんな存在なのでしょう? 警護員としての地位を利用して皇太子妃に収まろうだなんて下心は、わたくしにはありません。もう急かしませんから、どうぞ納得のいくお相手を探してください」
「くどい! ……なあ大判官、決闘裁判で負けたくせにここまで悪あがきする敗者って、前代未聞じゃないのか?」
いきなり話を振られて目をしばたたかせた大判官ライブラだったが、3秒ほど考えてからおもむろにうなずいた。
「私は今回が初のことですので、決闘裁判に関する広範で正確な知識があるとは申しあげられませんが、いくつか目をとおしたことのある過去の文献中には、なかったかと存じます」
「そうだろう? ……ほら、エリーデ、無駄な抵抗はやめろ」
「わたくしは……殿下より、7歳も年上で……」
そういって顔をうつむかせかけたエリーデのおとがいをつまんで、ディルフェイルは自分のほうを直視させる。
「そんなことか。いいやちがうな、齢の差は言い訳だ。エリーデ、あなたは俺のことを弟だとしか思ったことがない。俺のことを男だと意識したためしが1秒たりとてない。そんなに厭か、ずっと保護してきた相手の嫁になるのは」
「そ、そんな……ディル、わたくしは……」
「俺がずっとあなたのことを愛していると、まったく気がついていないから、あんな無神経なことが言えたんだよな?」
「でぃ、でぃゆ……ディルが、わたくひを、あ、あふぃ……??!」
脳回路がクラッシュして舌が回らなくなったエリーデを強く抱き寄せ、ディルフェイルは勝者の権利を行使した。
……はじめてのキスに腰砕けになったエリーデを支えたまま、ディルフェイルは彼女の耳元へささやく。
「俺にも悪いところがあった。5年前に立太子の儀をすませた時点で、結婚してくれとすぐに切り出せばよかった。あなたの望みは劇的な恋をすることだっていうのを知っていたから、すぐそばにいる相手からじゃロマンがないと断られるかもしれないなと、怖くて」
「それなら、どうしてわたくしが手袋を投げつけたときに『おまえは妥協ラインの女だ』みたいな言いかたを」
「正直、釣るつもりもなかったのに勝手に決闘裁判の申し入れをしてきたからおどろいたんだが、本当に俺があなたを好きなことに気がついていないのか、すこしくらい想うところがないのか、確認したかった。……一切そういう気がないとはっきりして、けっこう傷ついた。まさか怒り出すとか」
「すみません……」
「こっちは10年ひたすら見つめていたのに、まったく振り向いてもらえなかったんだ、埋め合わせはしてもらうぞ」
鈍感すぎる自分の無神経さへの指摘と、はっきり愛する気持ちをぶつけられて、やや異なる2種類の羞恥に顔を赤くするエリーデの口を、ディルフェイルがふたたびふさぐ。
公衆の面前で2回も熱くくちびるを重ねた皇太子とその想いびとへ、財布への手痛い打撃も忘れて人々は温かい歓声と拍手を送った。
大聖堂の正面がわ、公式の見届人として各国公使はじめとする各界お歴々が並ぶ貴賓席では、皇后フェリアがにんまりと微笑み、大公女アステリーシャは、きましたわー、と拳をぐっと握ったという。
・・・・・・
のちの歴史書の中で、〈剣聖武后〉エリーデの章は、帝国の歴代皇后でもっとも長く、皇帝を加えても初代〈仲裁帝〉ザインリデルに次ぐ厚みを誇っている。
帝国の統治に不満をくすぶらせる各地の不穏分子を洗い出し、すべて捕らえた上で、ひとりひとりと堂々たる決闘裁判に臨み、全員を打ち破って帝国1000年の平穏の礎を築いたことは、あまりに有名である。
もっとも多い日には連続して70人と立ち合い、相手に傷ひとつ負わせることなく全戦完勝したという。
それでも2年のあいだ、1日も休むことなく決闘裁判はつづいたと年代記は伝えている。
拘留中の未決囚たちの健康管理になによりも気を遣い、決闘裁判に備えて鍛錬を望む者には用具と運動場まで与えたエリーデの処置には、お人好しさというよりは、公正と帝国の正義を重んじる信念が感じられる。
敗れた反乱分子たちは帝国への敵対行為を禁じられただけで、残らず放免されたというからおどろきだ。
しかし解き放たれた元叛徒はだれひとりとして反体制運動に戻ることなく、地方の名士として帝国の治世に貢献するようになった者もすくなくなかったという。
みなが、決闘裁判を通じて〈剣聖武后〉の訴えた帝国の信義と公正を認めたゆえであろうか。
そんなエリーデだったが、プライベートではロマンティックな恋物語をなにより愛好し、夫帝ディルフェイルとのあいだに生まれた皇子皇女たちが無難な結婚をするたびに、「つまらない、ドラマがない」と愚痴を言って周囲を困らせたという。
末娘アステリーシャ(終生の親友であった大公女アステリーシャからもらった名である)が羊飼いの青年と恋に落ちたさい、皇宮の人々は〈剣聖武后〉の顔を思い浮かべて最初から諌めることをあきらめていたが、エリーデは「わたくしを悦ばせるために見つけてきた相手なら、やめておきなさい」と、ここでは母親らしい科白を口にしたそうな。
アステリーシャが、本心から羊飼いのロイと惹かれ合っていると知って、エリーデはあきらかに当人たちより目を輝かせていたというエピソードは、さもありなんと思わせるものだ。
無敵の剣聖エリーデに、生涯ただ一度の敗北を味あわせた、夫君ディルフェイルには〈最強帝〉の称号が奉られたが、それが実を伴っていないことは、当の本人が一番良く承知していた。
了