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美少女名探偵☆雪獅子炎華 (6)アストラッドの百合

作者: 夢穂六沙

   ☆1☆


 運が悪いことに、嵐は間近に迫っていた。

 台風十三号チェルシーの接近である。

 我輩と炎華が風雨に悪戦苦闘しながら山道を歩いていると、双子の姉妹が目深に被ったカッパ越しに我輩たちを興味深そうに眺めていたが、勝ち気そうな娘が我先にという調子で、

「ねぇ、そこの超キュートで可愛らしいゴスロリ少女ちゃん。あなた、雪獅子炎華って子じゃない? その黒猫はユキニャンでしょ!」

 炎華が疲れきった表情で、といっても、バス停から歩いてほんの十五分ほどの距離だが、ともかく、炎華の華奢な体躯では、この山道は少々骨が折れるのだ。

 炎華が勝ち気そうな娘に憔悴した目を向けながら首肯する。

「私は雪獅子炎華。この子はユキニャン。鬼頭警部が迎えを寄越してくれたのかしら?」

 勝ち気そうな娘が嬌声を上げる。

「すっご~いっ! やっぱり鬼頭警部の言った通りチョー名探偵だよっ! よく分かったね、炎華ちゃん! チョーすごいよっ!」

 いやいや、それぐらいの事は例え猫でも分かるのだ。

 名探偵無用である。

「ウニャ、ニャ~~~ウ」

 我輩はその意思を込めて切なげに鳴いた。

 我輩の意図を察した炎華が、

「その通りねユキニャン。でも、今はそれどころじゃないわ。このままじゃ、私もユキニャンも濡れネズミならぬ、濡れゴスロリ、アンド猫になるわ。とにかく、迎えに来てくれたのなら助かるわ。早くホテルまで案内してちょうだい。ホテルについたら鬼頭警部に一言、言わないといけないわね」

 炎華の不穏な空気にビクビクしながら、双子のもう一人、気弱そうな娘がおっとりとした口調で、

「な、なにを~、言うつもり、ですか~?」

 炎華が即座に、

「死ねっ、って言いたいだけよ。台風の接近も推理出来ない、無能なクズ警部にね」

 火のように輝く炎華の目力に圧倒された双子の姉妹が、炎華と我輩を足早にホテルまで案内したのは言うまでもない。

 ちなみに、勝ち気そうな娘の方は双子の姉で礼門土八重という。

 気弱そうな娘の方は妹の美亜という。

 容姿はパッと見そっくりで、ほとんで見分けが付かない。

 が、一応、姉の八重は赤リボン、妹の美亜は青リボンを非対称のサイドテールにして髪を結っている。

 さて、我輩と炎華の関係についていえば、

 我輩は飼い猫である。

 名前は、

 ユキニャン。

 探偵であるゴスロリ少女、雪獅子炎華の相棒を務め、探偵の真似事をしている猫探偵である。


   ☆2☆


 ホテルに着いた頃には、すっかり日は暮れていた。

 この暗さは台風接近にともなう大量の雨雲と風雨が日差しをさえぎっているせいでもある。

 炎華がホテルに入ると鬼頭警部が青冷めた表情で出迎える。

 炎華が不満を爆発させる前にホテルの女将が割って入る。

「ホテル穴路具館へようこそ~。雪獅子炎華ちゃん、その飼い猫のユキニャン。長旅お疲れ様でした~。穴路具館は猫も大歓迎だよ~、炎華ちゃんもユキニャンも、ゆっくり、くつろいでいってね~。あたしは穴路具館の女将、礼門戸八千代だよ~、よろしくね~。館内を案内したいところだけど、そのビショ濡れの格好じゃ、まずはお風呂よね~。穴路具館名物、穴路具大露天風呂で、よく温まってくださいね~」

 結局、炎華は鬼頭警部をひと睨みしただけで、女将の礼門戸八千代の後に付いて行く。

 穴路具館は一昔前の、七十年代初頭のホテルのような内装で、そこかしこに無駄にモダンな昭和の雰囲気が漂っている。

 つまり、どこかドギつくてケバケバしい、だけど、どことなく懐かしい、不思議な感じのするホテルだ。

 時折、八千代が壁に手を触れるのを炎華が目にして、八千代に質問する。

「八千代は目が不自由なのかしら? ケバい内装に目がいって、なかなか気づきにくいけど、さっきから八千代が手で触れている壁にある物は点字よね?」

 八千代が驚いたように、

「さすが名探偵炎華ちゃん! 鬼頭警部の言っていた通り本当に鋭いわね~。普通のお客さんはほとんど気付かないんだけどね~。そうよ~、炎華ちゃんの言う通りよだ~。十年ぐらい前から年々、目が悪くなってきていているのよ~。もう、明かりを感じるのがやっとなぐらい。でも、住み慣れたこのホテルなら点字に頼らなくても普通に生活する事が出来るわ~。ただ、お客様を案内する時だけは、しっかり点字で確認しているのよ~」

 炎華が感心しながら、

「八千代の歩き方には迷いが無いわ。八千代が点字を確認しなかったら、この私でも八千代が目が不自由な事に気がつかないでしょうね。たぶん、健常者だと思ったわ」

 八千代が笑いながら、

「名探偵炎華ちゃんにそう言ってもらうと光栄だわ~。でも、あたしに迷いが無いのは娘の、八重と美亜のおかげよ。二人がいるから、あたしは生きていけるのよ~。今は娘も十三歳、中学生になってからは、ホテルの手伝いもしてくれるのよ~。本当に良い娘たちよ~。あたしはいつも神様に感謝しているの。目が見えなくても、夫がいなくても……あたしには二人の娘がいるから、本当に幸せよ~」

 炎華が少し萎縮する、

「プライベートな事に立ち入り過ぎたわね。八千代が幸せなのは会った瞬間に分かったわ。鬼頭警部が八千代に肩入れする気持ちも分かったわ。参考までに、もう一つだけ質問していいかしら?」

 八千代がうなずく。

「旦那さんは亡くなったのかしら? それとも、まだ生きているのかしら?」

 八千代が遠い目をし、

「あの人はトラさんなのよ~。いっつも、フラフラしているけど、でも、最後は必ず家に帰ってくるのよ~。そして、あたしはいつでも、あの人を笑顔で迎えるのよ~」

 つまり、旦那は生きている。

 という事である。

 炎華が肩をすくめ、

「あらあら、つまり、鬼頭警部は失恋したというわけね、可哀想に」

 炎華がそう言い残し、笑いながら二人は露天風呂へと入って行く。

 我輩は入り口の前で背中を丸める。

 それにしても、鬼頭警部もなかなかスミに置けない男である。

 愛する家族がいながら、こうして辺鄙な田舎街のホテルで、美人女将と一夜の逢瀬を楽しもうというのだから。

 まったく、男は猫にも劣る醜い獣である。

 フラれてザマ~見ろである。


   ☆3☆


 湯上がりの炎華は髪をアップにまとめ、さらりとした浴衣に身を包む。

 上気した頬が桜色に染まり夢か幻か天使かといった風情である。

「たまには浴衣も悪くないわね、ユキニャン」

 そう言いながら炎華が我輩を抱っこする。

 穴路具館は和洋折衷のホテルだが、食堂は畳敷きの奥座敷になっている。

 鬼頭警部と合流して夕飯を済ませたのち、穴路具館名物、朗読会に我輩たちは参加する。

 大広間に通された我輩たちは、様々な音響機器に目を奪われる事になる。

 八千代と、あの双子の気弱そうな娘、美亜が音響機器をいじっている。

 鬼頭警部が得意げにウンチクを披露する、

「穴路具館の名の由来は伊達ではないのだ。この大広間に設置してあるオーディオ機器の全てはアナログなのだ。デジタル機器は一切無いのだ。今じゃ滅多に聞けないレトロな黒い円盤式のレコードも、ここでは真空管のアンプを通して聴くことが出来るのだ。音質はデジタルに遠く及ばないが、昔懐かしい音色は、生演奏に匹敵する優しい暖かさに満ち溢れているのだ。他にも、ブラウン管の三十二型テレビなどがあるのだ。液晶テレビのバックライトと違って、ブラウン管の光は画面自体が光るので、画質は荒くても光の表現は液晶テレビを遥かに凌ぐのだ。映像を画面に直接表示しているので動きも滑らかなのだ。部屋の隅には昔懐かしい巨大ラジカセもあるのだ。今ではマニアックなラッパーぐらいしか使わないシングルデッキなのだ」

 とドヤ顔で解説する。

 百聞は一見にしかず、懐古趣味に浸るオッサンの説明をいくら聞いても、どこが良いのか我輩にはサッパリわからない。

 そんな鬼頭警部のショウモナイ解説を炎華がバッサリ切る。

「昭和生まれの鬼頭警部の言うことはさっぱり分からないわね、ユキニャン」

「ウニャッ!」

 我輩は同意の声をあげる。

 あなろぐ、だの、だの、しんくうかん、だの言われても、我輩にはさっぱり分からないのである。

 鬼頭警部がなだめるように、

「ま、まあまあ、百聞は一見に、一聴にしかず、なのだ」

 最初からそうすれば良いのである。

「と、とにかく、聴いてみれば、その良さがすぐに分かるのだ。まるで、昔のジャズ喫茶に戻ったような気分に浸れるのだ」

 昔のジャズ喫茶と言われても困るのだ。

 そんな太古の遺物など知らないのである。

「その頃の八千代ちゃんは超美人だったのだ。まだ、ワシが貧乏学生じゃった頃の話なのだ。八千代ちゃんは当時流行していたジャズ喫茶のジャズボーカルあ~んど美人ウェイトレスとして超有名だったのだ」

 炎華が唇を可愛らしくすぼめ、

「急に鬼頭警部の恋話が始まったようね。年寄りの昔話は長いわよ、ユキニャン」

「ウニャン!」

 炎華の皮肉な言葉や我輩の鳴き声にもめげず、鬼頭警部が遠い目をしながら、遠い昔の青春の日々、遥かな過去の恋話を語りだす。

「ワシら貧乏学生の仲間うちでは、八千代ちゃんは、まさしくマドンナ的存在だったのだ。ワシらにとって高嶺の花だったのだ。その八千代ちゃんが結婚してジャズ喫茶を辞めた時は、自殺未遂を図った男子学生が何人もおったのだ。まあ、ワシもその中の一人だったのだ。それはともかく、そんなワシも今は一児の父。こうして穴路具館へ時折訪れる年老いた老年観光客の一人でしかないのだ。時の流れは矢よりも光よりも速く感じられるのだ」

 炎華が呆れながら、

「ジェネレーション・ギャップも甚だしいわね。ところで、八千代が持っている手の平サイズの機械は何かしら? 気になってしょうがないわね、大きなスマホみたいに見えるけど」

 鬼頭警部が目をキラキラと輝かせながら、

「おおっ! あれは昔懐かしいウォークミュージックなのだ。歩きながら音楽が聴ける当時は画期的な携帯型・音響機器だったのだ。ワシも購入を考えたが、発売当初は値段が高すぎて、結局、安い再生専用機を買ってお茶を濁したのだ」

 炎華が驚愕に瞳を見開く。

「あれで携帯サイズなの? 信じられないわね。大きすぎるのではなくて? あら、八千代があの箱の中から四角い変なケースを取り出したわ。黒い、テープのような物が、その中でクルクルと巻いてあるわね。あれは一体何かしら?」

 鬼頭警部がしたり顔で、

「あれはカセットテープという磁気テープなのだ。テープの表面に磁気が付着しているのだ。その磁気に音声を記録したり、または再生したりするのだ。あのテープを円盤状にした物がフロッピーディスクといって、昔のパソコン用の記録メディアなのだ。さらに、それを大型にしたものが、今もパソコンで使われているハードディスクなのだ」

 鬼頭警部のくだらないウンチクに対し炎華が、

「音楽を聴くだけならレコードがあれば充分ではなくて?」

 円盤状の黒いレコードの事なら炎華も我輩も知っている。

 ある事件を解決したさい、お礼に大量にもらったのだ。

 レコードは我輩の爪を研ぐのに丁度良いのでる。

 とても重宝しているのである。

 鬼頭警部が悲しそうな表情を浮かべ、

「レコードだけでは駄目なのだ。実はな、炎華くん。我が愛しのマドンナ、八千代ちゃんは目が悪いのだ。だから、重要な話はラジカセやウォークミュージックを使って、カセットテープに録音するのだ。この朗読会も八千代ちゃんは欠かさず録音しているのだ」

 炎華がすかさず、

「八千代の目が悪い事には、とっくに気づいているわ」

 鬼頭警部が得心したように、

「さすが炎華くんなのだ。良く気がついたのだ。相変わらず君は鋭いのだ」

 炎華が話題を戻す、

「ところで、八千代がウォークミュージックの箱の底をいじっているけど、あれは何をしているのかしら?」

 鬼頭警部が慌てて八千代に向かう、

「行ってくるのだ。たぶん電池が切れているのだ」

 鬼頭警部が八千代からウォークミュージックを受け取り、電池を取り出したあと、再び入れなおす。

 すると、再びウォークミュージックが動きだす。

 炎華の元に戻った鬼頭警部が、

「電池が切れかかっていても、入れ直すと案外もう一度使えるものなのだ。壊れた家電を叩くと治ってしまう、という、あれと同じ原理なのだ」

「ニャニャフ、ニャ、ニャフン、ニャア!」

 我輩は『鬼頭警部の頭を叩いて直したい』と鳴いた。

 炎華が不思議そうに、

「スマホにすれば、すべて事足りるのではなくて?」

 当然の疑問である。

 いちいち電池を交換する手間暇をかけるより、充電だけですむスマホのほうが遥かに効率的だし便利である。

「穴路具館の女将がデジタル機器を使うわけにはいかないのだ。それに、目の悪い八千代ちゃんにとっては、使い慣れた昔の機械のほうが断然扱いやすいのだ。使ってみれば、カセットテープだって馬鹿に出来ないのだ。A面、B面の両面を使えば、最長、二時間も録音出来るのだ。二時間あれば映画の音声を録音する事も出来るのだ。ビデオが無かった時代に、ワシはテレビ映画の音声をよくカセットテープに録音して何度も聴いたものなのだ」

 炎華が不思議そうに、

「両面を使うというのは、どういう事かしら? CDやDVD、BDは片面しか使わないわよ」

 鬼頭警部が意外そうに、

「今の子供は昔のカセットテープという物をよく知らないのだ。カセットテープを裏返すと逆方向にテープが回転して、もう一度、録音する事が出来るのだ。再生も同じ事なのだ。ただし、その仕組みはワシにもよく分からないのだ。ちなみに、VHSのビデオテープは一方通行なのだ。ワシはよくカセットテープと間違えてVHSビデオテープをひっくり返してビデオデッキに無理矢理突っ込んでは、よくビデオデッキを壊したのだ。若さゆえの過ちなのだ」

「ニャフン!」

 VHSビデオテープという物が、すでに何なのか分からないのである。

 説明不足にも程がある。

 やはり鬼頭警部の頭を叩いて直したほうが良さそうである。


   ☆4☆


「穴路具館名物、朗読会を始めます。今日はハードボイルド小説の大家、レイモン・チャドラーの《湖中の少女》です。台風の影響で、お客さんは鬼頭警部と炎華ちゃんだけだけど、いつも通りテンションアゲアゲで始めま~す」

 八千代の言葉に対し、

「ウニャニャッ!」

 我輩は抗議の声をあげる。

 八千代がハッとし、

「あら、そうそう、黒猫のユキニャンもいたわね~。ごめんなさい。とにかく、いつも通り楽しい朗読会にしますから、心ゆくまで楽しんでくださいね~」

 女将の礼門戸八千代の挨拶が終わる。

 炎華が残念そうに、

「今回の台風十三号チェルシーのせいで、宿泊をキャンセルした客も多いみたいね。十二畳ほどの大広間が閑散としているわ」

「ウニャッ」

 我輩も残念だと鳴く。

 客は我輩を含めて三人だけ。

 寂しいことこの上ない。

 しばらくすると、双子の気弱そうな娘、美亜が本を抱えながら小さなステージの上にあがる。

 マイクの前に備えられた椅子にチョコンと座る。

「客はユキニャンを含めて三人だけ。それなのに美亜は妙にオドオドしているわね。これで朗読なんて、本当に出来るのかしら」

 炎華の疑問に対し鬼頭警部が自信満々に、

「フッフッフ、美亜ちゃんを甘く見てはいけないのだ。何しろ美亜ちゃんは将来、声優を目指している素晴らしい美声の持ち主なのだ。昔の八千代ちゃんの再来なのだ」

 炎華が裏方にまわった礼門戸八重を見ながら、

「てっきり朗読会の本読みをするのは、勝ち気そうな姉の八重の方かと思っていたわ、意外なキャスティングね」

 我輩も心ならず驚いた。

 だが、そんな心配は杞憂に終わる。

 どっしりとした昔ながらの巨大スピーカーから、ウーハーの効いた重低音で、バックグラウンド・ミュージック《ツィゴイネル・ワイゼン》の哀しげな曲が流れ腹に響く。

 生演奏を思わせる真空管アンプのナチュラルな音色に追随するように、礼門戸美亜の玲瓏な、透き通るような美声が、大広間の隅々に響きわたる。

 マイクを必要としないほどの大音声である。

 さすがは声優の卵らしく、発声に関しては相当な鍛錬を積んでいる。

 今の美亜は本読み前の美亜とはまるで別人だ。

 女神のような神々しさに満ち溢れている。

 礼門戸美亜にこんな才能があるとは、驚きを通り越してアメイジング(奇跡)である。

 美亜が、

「金髪の少女が泣きながら、俺の耳元に『さっきからずっと追われていて、近くに誰かいるの。助けて探偵さん。もしかしたら、マフィアの殺し屋かもしれないわ』と泣きつく。俺は冷静に、『いや、単なるストーカーだろう』と、どう応えるか一瞬、迷ったが、安心させるために適当な返事をする」

 その美声を八千代がラジカセで録音している。

 壁際の棚にはズラッとカセットテープが並んでいる。

 ラベルには朗読会と書かれている。

 今日、録音した朗読会の音声も棚に置いて大切に保管するのだろう。


   ☆5☆


「なかなかの奇景ね、この穴路具湖という湖は。そう思わない? ユキニャン?」

「ウニュン!」

 我輩は炎華に同意する。

 穴路具館の目と鼻の先に穴路具湖という巨大な湖が広がっている。

 岩盤が崩れて出来た湖で、その周囲に大小様々な岩が転がっている。

 大きな岩だと六、七メートルはある。そんな、岩に囲まれた湖に沿うように、板敷きの通路が工事現場のキャットウォークのように設置されている。

 我輩と炎華は嵐が過ぎ去った翌朝、穴路具湖の奇景を一望すべく、早速、朝の散歩に出掛けたのだ。

「見て、ユキニャン。妙な組み合わせよ。一人は青いリボンだから、礼門戸美亜ね。でも、もう一人の乞食じみた薄汚い格好のオジサンは誰かしら?」

 炎華が入り組んだキャットウォークを軽やかに進み、美亜と会う頃には、乞食じみたオッサンは消えていた。

 美亜の瞳にうっすらと涙がにじんでいる。

 炎華が控えめに、

「具合の悪いタイミングで来たのかしら? さっきいたオジサンと何か関係があるの、美亜?」

 美亜が目をこすりながら、

「あの人はパパンなの~、すっかり落ちぶれちゃったけど、美亜のパパンなの~」

 炎華が腕組みし、

「何があったか知らないけど、何で美亜が悲しんでいるのか、あなたのパパが何で落ちぶれたのか、私に話してくれるかしら、相談に乗るわよ」

 美亜がすがるように、

「名探偵炎華ちゃんなら解決してくれる~?」

 炎華が小首をかしげ、

「内容によるわね」

 美亜がたどたどしく語った話によると、過去にも様々な事業に手を染めては失敗を繰り返してきた礼門戸茶戸羅亜が、ちなみに茶戸羅亜はオッサンの名前である。

 今度の失敗ばかりはニッチもサッチもいかなくなり、ついにヤミ金に手を出して多額の借金をしてしまった。

 にもかかわらず会社は倒産。

 多額の借金だけが残った。

 ヤミ金の厳しい取り立てから逃れるため、乞食に身をやつして奥さんである八千代のもとまで、ホウホウのていで舞い戻ったが、会う決心がつきかねて穴路具湖周辺をウロウロと逡巡していた所、たまたま娘の美亜と偶然出会った。

 仕方がないからオッサンは美亜に事情を説明した、というわけである。

 炎華が美亜に問う、

「借金はいくらなのかしら?」

 美亜がオドオドしながら、

「そ、それが、その~、……い、一千万円……なの~、ヒッ!」

 美亜が小さな悲鳴をあげる。

 森の中から突然イカツイ黒尽くめの男が現れたのだ。

 グラサン越しに我輩たちを一瞥し、男は再び森の中へと消え去る。

 美亜が脅えながら、

「き、きっと借金取りに違いないの~、こ、怖いの~」

 炎華が端然と、

「お金を払えば問題ないのでしょう。一千万円程度のお金なら、私のポケットマネーでなんとかなるわ」

 美亜の瞳が輝やきを取り戻す。

「ほ、本当なの~、炎華ちゃん、本当なら助かるの~」

 炎華が美亜に指示する、

「今夜、一千万円を用意するから、茶戸羅亜にそう伝えなさい」

 美亜がはしゃぎながら、

「ありがとうなの~! パパンを捜して話しておくの~」

 これでひとまず一件落着である。


   ☆6☆


 再び穴路具湖へ向かったのは、軽い昼食を済ませたあとである。

 気だるい午後にもかかわらず鬼頭警部が意気揚々と、

「さあさあ、今日は昨日の失態を取り戻すのだ。炎華くん、遠慮せずにこのボートに乗りたまえ。手漕ぎボートで優雅に穴路具湖へ繰り出すのだ。さあさあ、さあさあ!」

 両手でせがむように炎華を呼び寄せる鬼頭警部は、まるで恋人気取りのヘボ役者である。

 鬼頭警部を尻目に、炎華の視線はボートの沈み具合を測っている。

 転覆寸前までボートが沈んでいるのはボートのせいではあるまい。

 もはやボートが可哀想なレベルである。

 炎華が諦め顔で、

「沈没した豪華旅客船タイタニックの二の舞いにならないよう、ボートの上で両腕を広げて立たないようにするわ」

「ニュフ~ウ」

 我輩も清水の舞台から飛び降りる覚悟でボートに乗り移る。

 炎華が我輩の頭を力なくなでる、

「良い子ねユキニャン。死出の旅路には親しい友達がいるほうがいいわよね」

 鬼頭警部が不思議そうに、

「何を言っておるのだね、炎華くん。この美しい穴路具湖と、紅葉の季節にはまだ少し早いが、赤く染まりつつある雄大な大樹。その上、頼りになる優秀な警部が付いているのだ。大船に乗ったつもりで楽しんで欲しいのだ」

 炎華が皮肉げに、

「敵を知らず、己を知らず。まるで昔の日本軍のようね。鬼頭警部はお気楽でいいわね。昨日の台風で湖は澱みまくっているし、強風で根本から倒れている木々はあるし、どう考えても頼りになるとは思えない警部と一緒なのだから、心配するのは仕方がないことよ。嵐の海に浮かぶ枯れ葉になった気分ね」

 鬼頭警部が炎華を制し、

「まあまあ、この大空を見たまえ、台風一過の素晴らしく良い天気なのだ。抜けるような青空なのだ。今日は他のボートも見えないし、美しい大自然の下、二人だけで穴路具湖を満喫するのだ。こうしていると、まるで恋人同士みたいなのだ」

 満面の笑みで語る鬼頭警部に対し、我輩の怒りが爆発する、

「フギャアア!」

 我輩を無視するとは許せない! 我輩はボートを漕ぐ鬼頭警部の二の腕に噛み付く。

「んぎゃっ! ご、ごめんなのだ! ユキニャンを忘れていたのだ!」

 炎華が我輩をたしなめる、

「そのぐらいにしておきなさいユキニャン。鬼頭警部も反省しているようだから。だけど、恋人は言い過ぎね。せめて、親子ぐらいにしておくべきだったわね」

 炎華の言う通りである。

 姫君とその下僕にすべきである。

「フニャン!」

 我輩は鬼頭警部から離れて炎華の膝の上に座る。

 炎華がつぶやく、

「鬼頭警部の言う事は何もかもが無茶苦茶だけど」

 炎華が空を見上げる。

「今日は本当に、吸い込まれそうなぐらい、綺麗な青空だわ。『空は、誰の物でもない』そうよね、ユキニャン」

「ニャウン?」

 我輩は返答に迷う。

 炎華が突然、にわか詩人になったので、困惑するほかない。

 しばらく湖上を進むと、炎華が岩の上を指さす、

「あら、あれは何かしら? 礼門戸八重と妹の美亜が何か言い争いをしているようだけど。鬼頭警部、一旦、岸に戻ってくれる。二人が心配だわ」

 鬼頭警部が即座に、

「了解なのだ! ヨーソローっ! マーク・トウェインっ!」

 トム・ソーヤ気分である。

 どこまでも緊張感の無い駄目警部である。


   ☆7☆


 巨大な奇岩の上にあがると、礼門戸八重の姿は見えず、青いリボンをした美亜だけが残っている。

 炎華が問いかける、

「八重はどうしたの? 美亜と一緒だったはずだけど?」

 美亜が涙目で狼狽しながら、

「や、八重は、お父さんを捜しに森に入ったの~。お父さんが近くに来ている事を美亜が話したら、私もお父さんに会いに行くって、八重が怒りだしたの~、や、八重はファザコンで短気なの~」

 炎華が美亜のリボンを見据え、

「そう。ところで、あなたの青いリボン、少し泥で汚れているようだけど、何かあったのかしら?」

 美亜が慌てて青いリボンに触れ、

「な、何でもないの~、昨日の台風のせいで、ぬかるんだ場所を歩いていたら、そこでチョット転んだだけなの~、し、心配ないの~」

 炎華が美亜の衣服に目を転じ、

「転んだ割には服は全然汚れて無いようね」

 美亜がハッとし、

「ふ、服は洗濯したの~、今日は別の服なの~、リボンは洗濯するのを忘れていただけなの~、あとで洗って別のリボンと交換するの~」

 炎華が納得顔で、

「そう、それならいいわ」

 美亜が慌てて、

「み、美亜はもう帰るの~、サヨナラなの~」

 炎華が鋭く美亜を制し、

「美亜、もう少しいいかしら」

 美亜の声が裏返り、

「えうっっっ! なっ、何なの~?」

 炎華が疑わし気に、

「あなたのパパに渡す一千万円、キャッシュで用意したわ。あなたの部屋に置いておくから、あとで茶戸羅亜に連絡しなさい」

 美亜が呆けたように、

「えっ? 何なのそれ~?」

 炎華の瞳が鋭く美亜を射抜く、

「今朝、そう話したはずよね。忘れたのかしら」

 美亜が炎華に話を合わせ、

「え、えっと、そ、そうだったの~! ウッカリ忘れてたの~、お父さんに連絡するの~、炎華ちゃん、あ、ありがとうなの~」

 挙動不審なぐらい目をキョトキョトさせながら美亜が立ち去る。

 キャットウォークをミシミシ鳴らしながら、あとから追いついた鬼頭警部が不思議そうに美亜を見やる、

「なんだか、いつもの美亜ちゃんと違う感じなのだ。確かに普段からおっとりしている不思議ちゃん系の娘じゃが、今日はより一層不思議ちゃんに磨きが掛かっているのだ」

 炎華が鋭く、

「あれは美亜じゃないわ。美亜に化けた八重よ。美亜は茶戸羅亜のことを『お父さん』とは言わないし、一千万円の大金の事を忘れるほど馬鹿じゃないわ」

 鬼頭警部が驚愕の表情を浮かべ、、

「な、なんの事じゃね、その一千万円の大金というのは? 何で美亜にそんな大金を渡すのかね? 本当は八重じゃったとは、どういう事かね?」

 炎華が肩をすくめ、

「茶戸羅亜の借金を帳消しにするために美亜に渡すつもりだったのよ。私のポケットマネーだから気にしないで、それより、何で八重が美亜に化けたのか? その方が重要よ」

 炎華が我輩を抱っこする。

「さあ、ユキニャン、とにかく私たちも帰りましょう。これから、昨日の台風以上の嵐が来そうだものね」

 鬼頭警部がキョトンとし、

「む、今日は台風一過で良い天気なのだ。嵐など、もう来ないのだ」

 我輩は無邪気過ぎる脳天気な鬼頭警部に飛びかかり、

「フギャウウウッ!」

 ネコパンチを連打した。


   ☆8☆


 美亜が戻らない、と、にわかに騒ぎ始めたのは、夜もかなり遅くなってからのことだ。

 礼門戸八千代が血走った瞳で鬼頭警部に泣きつく。

「美亜がこんなに夜遅くまで帰らなかったなんて事は、今まで一度だって無い事だわ、美亜は一体どうしたのかしら? 何か悪い事件にでも巻き込まれたのかしら? あちこち捜したけど結局どこにもいなくて……お客さんにこんな事を頼むなんて、どうかしているけど、お願い鬼頭警部、美亜を、美亜を捜してください! お願いします!」

 鬼頭警部が八千代をなだめ、

「お、落ち着くのだ八千代ちゃん。美亜ちゃんはきっと捜してみせるのだ。とにかく、今は大人しく待つのだ!」

 鬼頭警部も突然の八千代の申し出に動揺しながらも、元来の警察官としての本領を発揮し、近隣の県警に連絡。

 数人の警察官、それに近所の人々を数十人、瞬く間に狩り集め、美亜の捜索に乗り出す。

 深夜の山々に捜索用のライトの光があちこちに飛び交う。

 窓越しに捜索隊の様子を覗いていた炎華が八千代に言葉をかける。

「部屋に戻ったほうが良いんじゃないかしら? 穴路具館ロビーに仮設置された捜査本部にいても、バタバタして落ち着かないだけでしょう」

 八千代がやつれきった表情で、

「ありがとう炎華ちゃん。でも、このままでいいわ、どちらにしろ心配でどうにもならないから」

 炎華が問う、

「八重はどうしているのかしら?」

 八千代がつぶやくように、

「八重にも話したわ。八重も捜しに行くと言って聞かないから、部屋に閉じ込めておいたわ」

 炎華が嘆息し、

「そう、美亜が早く見つかると良いわね、少し八重に会ってくるわ」

 八重の部屋は、例の朗読室の隣にあった。

 炎華が扉をノックし部屋に入ると、照明もつけない真っ暗闇の中、八重がフローリングの床に座り込んでいる。

「入るわよ、八重」

 ぼんやりとしながら八重が炎華を振り返る。

 髪はグシャグシャ目は焦点が合わず虚ろだ。

「重症ね」

 炎華が八重の目の前に座り、

「美亜が見つかるといいわね、美亜が生きていれば、だけど」

 その言葉に八重が身体を固くする。

「あなたは美亜がまだ生きていると信じているのかしら八重? 八千代はあなたが美亜を捜しに行くと言って聞かないと言っていたけど?」

 八重の唇が震える。

 何かを話そうとする。

 が、その時、八重のスマホが鳴り響く。

 スマホの画面に《美亜》と表示される。

 八重がビクビクしながらスマホを手に取り耳に当てると、

「美亜? ど、どうしたの? な、何があったの? 今どこにいるの! 美亜っ!」

 通話が切れたようだ。

 八重が耳からスマホを離す。

 炎華が八重のスマホに手を伸ばす。

「通話は記録しているのかしら?」

 八重が頷く。

「今の音声を再生してちょうだい」

 八重がスマホを操作し炎華に渡す。

 炎華が絹のような髪をサラリとかきあげ小さな耳にスマホを当てる。

 我輩もスマホに耳を寄せて内容を聞き取る。

『……美亜……だけ……ど……追われて、いるの……殺され……る……いや……』

 炎華がスマホを指さし、

「このスマホを鬼頭警部に渡していいかしら? 八重?」

 八重が頷く。

 炎華は素早く立ち上がり部屋を出る。

 すると、ガチャッ! という、何か物を落としたような音が、隣の朗読室から聞こえる。

 我輩は炎華と別行動を取り朗読室に入る。

 そこには八千代一人だけがいた。

 八千代はウォークミュージックの電池を取り替える最中だったのか、古い電池をゴミ箱に捨てていた。

 先程の物音は電池を落とした音だろうか? その後、八千代はラジカセに近づきカセットテープを取り出して横に置くと、ウォークミュージックと一緒に手に持っていたカセットテープをラジカセに入れる、その際、我輩に続いて炎華が朗読室に入って来る。

 ラジカセを操作している八千代に向かって炎華が問いかける。

「朗読室に何かあるの八千代?」

 炎華が素早くゴミ箱の中に捨ててある電池を確認し、

「ウォークミュージックの電池切れかしら?」

 八千代が戸惑ったように答える、

「ええ、そ、そうよ。最近電池切れが多くて……たいした事じゃないのよ~、でも、こんな時だからこそ、昨日の美亜の朗読テープを整理しておきたくて~」

 炎華が八千代をシゲシゲと眺め、

「ふうん、美亜の大切な肉声ですものね」 

 炎華が適当に話を合わせる。

 ラジカセの横に昨日録音した朗読会のテープが置いてある。

 炎華がラジカセの中を覗き、

「デッキの中のテープには、まだラベルが貼ってないわね」

 八千代がとっさに、

「そ、それは今夜の朗読会で使うつもりだったテープなのよ~」

 炎華が落ち着いた口調で、

「そう、それはともかく、八重のスマホに美亜から電話が掛かってきたわ。誰かに追われているような、なんだか要領を得ない内容よ。鬼頭警部に渡してきたから、八千代も一緒にその電話を聴いてみて」

 炎華に促されて八千代は部屋を出る。

 その瞳に涙を浮かべながら。

 我輩は朗読室に残る。違和感を感じたからだ。

 その違和感の正体は、ラジカセの中のテープである。

 不審に思いながら我輩はそのテープをよく見る。

 すると、テープの面がB面である事に気づく。

 あとで炎華に知らせねば、と思いながら我輩は朗読室をあとにする。


   ☆9☆


 早朝までかかった美亜の捜索は、最悪の結果を迎える。

 穴路具湖に沈む美亜の遺体を捜索隊の一人が発見したのだ。

 頭部に複数の打撲の痕跡が認められ、後頭部陥没が主な死因と判明する。

 死亡推定時刻はかなり曖昧で、その理由は穴路具湖の水温が、この時期でも零度近くまで下がるため、腐敗の進行が遅れたせい、と鑑識から説明される。

 悲嘆にくれる我輩たちの前に、別の捜索員が飛び込んでくる。

 付近をうろついていた怪しい男を捕らえた、と言うのだ。

 男の取り調べに鬼頭警部が当たる。

 普段、温厚なオッサンである鬼頭警部が豹変、鬼の鬼頭として鋭く厳しい取り調べを行う。

 鬼警部としての本領発揮である。

 その様子を炎華と我輩が扉越しに覗く。

「昨日、穴路具湖周辺をふらついていたイカツイ黒尽くめの男ね。鬼頭警部の鬼の取り調べにも屈しないわね。なかなか根性がある借金取りだわ」

 炎華が我輩をヒョイと抱き上げ、

「もう終わったみたいよ、ユキニャン。鬼頭警部から取り調べの内容を聞かせてもらいましょう」

 顔を真っ赤にして汗ばむ鬼頭警部が取り調べの内容を炎華に話す。

「まったく口の固い奴なのだ。ガンとして自分は犯人じゃない、ただの借金取りだ、と、それしか言わないのだ」

 炎華が感心しながら、

「なかなか骨のある借金取りね。鬼の鬼頭警部も形無しだわ」

 鬼頭警部が汗を拭き拭き、

「とにかく、奴は借金取りなんて世間じゃ毛虫みたいに嫌われているが、金は取っても命は取らない。ましてや、何の関係もない女の子を殺すはずがない、と、その一点張りなのだ。このワシでもこれ以上は聞き出せそうにないのだ」

 炎華が納得顔で、

「まあ、そうでしょうね。彼は犯人じゃないのだから」

 鬼頭警部が呆けた顔つきで、

「ど、どういう事なのだ炎華くん! き、君は犯人の目星が付いているのかね? 分かっているのなら教えて欲しいのだ!」

 炎華が上の空といった調子で、

「確信は無いけど、だいたいの見当は付いているわ。だけど、今回は教えるわけにはいかないのよ。ごめんなさい、鬼頭警部」

 澄ました顔でそう答えると、フワリと漆黒のスカートをひるがえす。

 踊るように窓辺に寄ると、窓の外に見える乞食じみた一人の男を指差す。

「さあ、もう一人、容疑者が増えたわ。今度は私も同席するわね」

 仮設の取調室で我輩を含む三人が対面したその乞食じみた男の名は、礼門戸茶戸羅亜。

 美亜の父親である。


   ☆10☆


 礼門戸茶戸羅亜が語る自らが犯人であるという自白は、鬼頭警部を大いに満足させる。

「ふむふむ、その話に間違いはないのだろうな茶戸羅亜、本当にお前が娘の美亜を殴り殺し、無残にも穴路具湖に沈めた。と、そういう事で良いのだな?」礼門戸茶戸羅亜が小刻みに頷く「よしっ! これで事件は解決なのだ。今回は炎華くんの出番はなかったのだ。一件落着なのだ」

 手錠を掛けようとする鬼頭警部を制し炎華が、

「一つだけいいかしら? もう一度、動機を聞かせてくれないかしら」

 茶戸羅亜がささやくように喋る。

「借金取りに追われていた私は、知らず知らずのうちに妻の経営するホテルに近づきました。ですが、穴路具湖の周辺で逡巡し、妻に相談するかどうか迷っていたところ、偶然、娘の美亜と出会い、その事を話したのです。ですが、娘は泣くばかりで話になりません。借金取りの気配を感じた私は美亜を置いて一旦山に姿を隠しました」

 炎華が、

「昨日の朝、私が散歩をしていた時のことね」

 茶戸羅亜が首肯し続ける、

「日が暮れた頃、私はそんな美亜に段々と腹が立ってきて、山で偶然、美亜を見つけた際、怒りにまかせて美亜を殴り殺してしまったのです」

 炎華が静かに、

「美亜は、私が一千万円を用意すると、あなたに話さなかったのかしら?」

 茶戸羅亜が動揺しながら、

「えっ!? なっ!? 何の事ですか? それは?」

 炎華が華奢な腕を広げ、

「そのままの意味よ。私のポケットマネーであなたの借金を返すと、昨日の朝、美亜に約束したのよ」

「ま、まさか……お嬢さん、そ、そんな冗談を言って、良い時ではありませんよ」

 炎華が分厚い封筒を取り出し、その中から一千万円を取り出す。

 一千万円をテーブルの上に縦に置いてのける。

 さすがに一千万円は安定感が違う。

 が、我輩にとっては猫に小判、興味なさげに、

「ニャーウ」

 と鳴く。

 炎華が茶戸羅亜に告げる、

「美亜との約束は守るわ。この一千万円を受け取りなさい。この一千万円は今からあなたのお金よ。これで借金を全部返しなさい」

 茶戸羅亜が動揺を隠さず、

「そ、そんな事が……、そうと知っていれば、美亜を殺すなんて事はしなかったのに……」

 炎華が疑いの眼差しで、

「美亜がその事を話さなかったのはおかしな話ね」

 茶戸羅亜が弁解がましく、

「い、いえ、美亜が何か言おうとしたのですが、余計にカッとなってしまったんです」

 炎華がさらに追及する、

「美亜を湖に沈めた場所は覚えているかしら?」

 茶戸羅亜がしどろもどろに、

「あ、穴路具湖です。詳しい場所は、暗くてよく分かりませんでした」

 炎華が諦め顔で、

「そう、あなたは自主してきたわけだけど、殺した場所からここまで歩いて来たわけよね。何分掛かったか? わかるかしら?」

 茶戸羅亜が不安げに、

「えと? た、たしか三十分……ぐらい、いえ、それも、よく覚えていません。ともかく、混乱していたので……」

 炎華が茶戸羅亜をにらみ、

「まるで記憶喪失か嘘をついているかのようね」

 茶戸羅亜が慌てて、

「嘘じゃありません! 私が犯人です! 私が娘の美亜を殺したんです! 間違いありません!」

 炎華が嘆息し、

「そういう事にしておくわ。鬼頭警部、あとはよろしく頼むわね」

 鬼頭警部の頭の上にはハテナマークが無数に飛び交っている。

 それもそうだろう。

 真実は他にあるのだから。

 炎華が仮設の取調室を出ながら、

「さあユキニャン。それじゃ真実を確かめに行こうかしら。真犯人がお待ちかねよ」

「ウニャン!」

 我輩は元気よく答え、朗読室へと颯爽と入って行く。


   ☆11☆


 炎華の薔薇の花弁を思わす唇が開き、鈴の音のような美声が朗読室を震わす。

「茶戸羅亜が自白したわ。いずれ正式に逮捕状が出るでしょうね」

 備え付けの座席に緩く腰掛けた八千代が放心したように応える。

「そう……これで、全てが終わったのね。あの人の事は信じられない事だらけだけど、何があったのか全然分からないけど、きっと何かが二人の間にあったのね」

 炎華がステージに歩み寄り、八千代を澄んだ瞳で見据える。

「何もかもが憶測だらけじゃ、殺された美亜が浮かばれないわよね」

 八千代が力なくつぶやく、

「美亜は、あの子は優しい子だから、酷い殺され方をしたけど、きっと、誰も恨んでいないわ」

 炎華が肯定する、

「そうね、美亜は何も知らずに亡くなったのだから、そうでしょうね」

 八千代が同意する、

「そう、きっと苦しむ間もなく死んだはずよ……何も知らずに」

 炎華がうなずき、

「美亜の死亡推定時刻はハッキリしないのよ。この事件の最も混乱した原因の一つよね」

 八千代が少し身構える。

「それは、はっきりしているわ。美亜から八重のスマホにメッセージが掛かってきたあとよ」

 炎華が反論する、

「あのメッセージは死亡推定時刻を誤魔化すトリックよ。鬼頭警部もあっさり騙されたけど」

 八千代が心外だと言わんばかりに、

「あれがトリックだと言うのなら、美亜はいつ殺されたって言うの? 名探偵炎華ちゃん?」

 炎華が八千代を見据え、

「少なくとも、昨日の朝までは生きていたわ。そして、昼ごろには殺された。私と鬼頭警部が穴路具湖へボートで乗り出して、美亜と八重が岩の上で何か、言い争いをしているのを見かけた直後ぐらいにね」

 八千代の眉間に深い皺が刻まれる。

 小刻みに身体が震える。

「炎華ちゃん、は……八重が……八重が美亜を殺した、と……そう言うの? 証拠はあるの?」

 炎華が少女らしい華奢な肩を軽くすくめ、

「私と鬼頭警部が岩の上に着いた時、その場には美亜しかいなかったわ」

 八千代がホッとし、

「なら、その時間まで美亜は生きていた、という事になるわよね~」

 炎華が即座に、

「あれは八重の変装よ。とっさに思いついた割には、よく出来たアリバイ作りよ」

 八千代の声が怒りに震える、

「何で炎華ちゃんはそんな事を言うの! 八重が美亜を殺したっていう証拠があるの!」

 炎華が眉をひそめ、

「証拠は無くても推理は出来るわ。あの日、台風が通過したせいで、岩の上には土砂が残って滑りやすくなっていた。八重が、ふとした弾みで美亜を突き飛ばしたら、そのまま足を滑らせて岩の下に転落したとしてもおかしくはない。つまり、美亜は岩の上から転落し、数メートル下の岩に後頭部から激突して、後頭部陥没で死亡したのよ。これは殺意のない過失であって、悲しい事故というわけよ。八重は近づいてきたボートと私たちを見て、とっさに岩を降りる。美亜の青いリボンを外して、自分の赤いリボンと取り替える。あの時、青いリボンが泥に汚れていたのは、そのためよ。そのあと、八重は岩を登り直して、美亜のフリをして私たちに会う。たぶん、その後、一人で散々悩んだあと、あなたに全てを話した。違うかしら?」

 八千代が怒りの形相で、

「八重が殺したっていうの?」

 炎華が再び肩をすくめ、

「殺したんじゃないわ、あくまで事故よ」

 八千代が叫ぶ、

「同じことじゃない!」

 炎華が澄ました顔つきで、

「全く違うわね。これは不幸な事故なのよ。それは、誰にでも起こり得る事よ。運が、ほんの少しだけ、運が悪かっただけ。誰も悪くないわ」

 八千代が歯を食い縛る。

 瞳が怒りに燃えあがる。

「世間じゃそんな風には言わないわ。八重は一生、美亜を殺した人殺しの烙印を押されるのよ。妹を殺した殺人犯と噂されるのよ」

 炎華が八千代を見据え、

「だから、あなたは八重をかばった。あなたのやった事は、決して褒められる事じゃないわ。だけど、神様はきっとあなたを許してくれる」

 八千代が頭を振る。

「それじゃ駄目なのよ! 誰にも知られちゃ駄目なの! たとえ、たとえ炎華ちゃんであっても!」

 八千代が炎華につかみ掛かろうとにじり寄る。が、

「私をどうにかする前に、もう少し私の推理を聞きなさい。あなたは致命的なミスを犯したのだから」

 八千代の表情が曇る、

「ミス? 私が?」

 炎華が推理を展開する、

「そうよ。八重から事故の真相を聞かされたあなたは、現場へ行って八重の身体を傷つけた。何者かの傷害事件に見せかけるためね。それから、現場から大きく離れた場所に運んで、穴路具湖に沈めた。水温は低く、死亡推定時刻は混乱する。悪くない手際だわ。事が済んだあと、旦那の茶戸羅亜に全てを話し、八重の身代わりになって出頭するよう頼み込んだ。借金取りに追われていた茶戸羅亜は借金取りから逃げられるのなら、と即座に同意する。その後、茶戸羅亜は出頭してチグハグな自白をする。無理はあるけど、警察が真犯人を見つけられない以上、とりあえず茶戸羅亜を逮捕するわよね。これも有効な手段だわ。だけど、八重のスマホにメッセージを送ったのはやり過ぎだったわね。昨日の美亜の朗読をラジカセで流し、それをウォークミュージックで録音、つまり編集した。例の美亜からのメッセージを作ったのよ。そのメッセージを八重のスマホに電話で流す。それを終えたあなたは、カセットテープを巻き戻しメッセージを消去しようとした。だけど、ちょうどそのタイミングでウォークミュージックの電池が切れた。そこであなたは、ウォークミュージックからテープを取り出し、ラジカセでメッセージを消去しようと試みる。ところが、あなたはテープを床に落としてしまう。あの時、床に何か落ちる物音がしたのは、電池が落ちた音じゃなくて、カセットテープを落とした音よ。あなたはテープを拾ってラジカセに入れる。同時に消去ボタンを押す。ラジカセの横に美亜の朗読のテープが置いてあったのはそのためよ。私が朗読室に入った時には全てが終わっていた。一見、完璧に見えるけど、あなたはやってはいけない大きなミスを犯したわ」

 そう、炎華はラジカセの中のカセットテープの秘密に気づいていたのだ。

「ニャ~ウ、ニャッ!」

 我輩はラジカセの横で『B面』と高らかに鳴く。

「その通りよ、ユキニャン」

 炎華がラジカセに歩み寄る。

「普通の健常者なら、そんなミスは侵さない。だけど、目の不自由なあなたは気づかなかった」炎華がラジカセからテープを取り出す。「テープの面はB面になっていたのよ。健常者ならテープに書かれたB面の印ですぐに気がつくわ。だけど、あなたは落としたテープを拾った際、それに気づくかなかった。あなたは何も録音されていないB面を消去したのよ」

 炎華がテープをひっくり返す。

 A面を表に向けてラジカセに入れ直すと、巻き戻しボタンを押す。

 テープが巻き戻った所で再生ボタンを押す。

『……美亜……だけ……ど……追われて、いるの……殺され……る……いや……』

 八重のスマホにかかってきたのと同じ美亜のメッセージがラジカセから流れる。

「私の口を塞いでも、このテープが見つかれば、いずれ警察は本当の殺人犯である八重にたどりつくわ」

 八千代の瞳に涙が溢れる。

「……どうしても……その時間まで、美亜が生きている事に、したかったの……八重の……八重のアリバイが……どうしても必要だと思ったのよ~」

 炎華が優しく八千代に話す。

「この事件には、悪い人間は一人もいないわ。ただ、運が悪かっただけ。真犯人なんてどこにもいないのよ。だから、私も、誰も告発する気はないわ」


   ☆12☆


「ユキニャン。美亜が生きていたら、きっと、超・人気声優になっていたでしょうね」

「ウニャッ!」

「だって、編集したメッセージですら鬼頭警部を欺くほどの迫真の演技に満ち溢れていたのだから、生きていれば、きっと歴史に名を残すような、最高の声優になっていたはずよ。そう思うわよね、ユキニャン」

「ウニャ~~~~~~~ンッ!」

 我輩は炎華に同意するために長い長い鳴き声を上げた。


   ☆完☆

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