断罪され路頭に迷っていた私は『悪役令嬢』とかいう存在らしいです
このお話は『甘い言葉に耐えられなかった転生ヒロインは愛しのアサシンを探すことにしました』と対になっています。
また、シリーズのもののため、説明を端折っている部分もありますがご了承くださいませ。
君となシリーズ4作目。
「はぁ、はぁ、はっ…」
大通りから一つ脇道に入り、胃の中身がせりあがるような息苦しさと痛いくらいの動悸に耐える。
尤もここ何日も水さえまともに口にできていないのだから、せり上がってきているのは胃酸だけだろう。
つい3ヶ月前まで何不自由なく暮らしていた身には、その事実だけでも酷く惨めに思えた。
ハーティア国の公爵令嬢だった私は王太子であるオスカー様の婚約者だった。
幼い頃から結婚を約束されていたその関係に互いに納得し、良好な人間関係を築けていたと思っていたが、オスカー様が平民でありながら王立学園に特待生として入学してきたシャーリーと出会ったことで全ては壊れてしまった。
オスカー様はシャーリーのこと以外に興味を示さなくなり、私が意見すれば「シャーリーに嫉妬しているが故の発言の、なんと醜きことか」と言われ侮蔑の視線を向けられた。
それでも私は国王様との果たさねばならぬ約束のためにと耐えていたのにオスカー様は私にありもしない罪を着せて拘束し、シャーリーを妃に迎えたいと父君であられる国王様に願い出たのだ。
国王様はすぐに冤罪だと見破り酷くお怒りになって、私をすぐに開放して訴えを起こしたオスカー様を謹慎処分とした。
あまりの出来事に、彼を推す周囲の者でさえ彼の身分違いの恋を諫めた。
すると何故かオスカー様はそれを嫉妬に駆られた私の凶行であると断じ、あろうことか謹慎を破って父が不在だった我が家に押しかけ、強制的に私を隣国ディアへ追放した。
突然隣国に追放された私は行く当てもなく、残念ながら知り合いもいないので路頭に迷っていた。
助けを求めようにも追放時ディア側の国境門番に「王太子様の命令で追放となった女だから二度とハーティアに入れないように」と説明されてしまったので、彼らに頼んで国境を戻ることもできない。
結局身に着けていたドレスを古着屋に売り、代わりに平民が着ている綿のワンピースと靴を買い求めなんとか食い繋いできたが、世間知らずの私はドレスが一桁安く買い叩かれていたことも、飲食の料金を通常より割高に請求されていたことにも気づけず、あっという間に一文無しになってしまった。
そして今、限界を迎えようとしている。
「十分頑張ったわよ、ね?国王様との約束は守れなかったけれど、もうどうしようもできないわ…」
薄汚れた路地に座り込み、私は人生を振り返った。
ああ、あんなに身近だった煌びやかな世界は遥か遠く、誰にも顧みられないこんな路地で終わってしまうだなんて…。
あまりにも自分が惨めで、涙すら出てこない。
一体自分は前世でどんな罪を犯したというのだろう。
そう思って目を閉じた時、ふと自分の思考に引っ掛かりを覚えた。
前世って、なにかしら。
そんな言葉聞いたこともなければ意味もわからない。
けれど確かに今、自分は前世で罪を犯したからこんな目に遭っているのだと思った。
何故、と考えたところで。
「…つぅ!?」
突然頭に砂嵐のようなノイズが走り、その隙間に見たことのない服を着た見たことのない人間が見えた。
その人間はこちらに向かって何かを言っている。
必死に私に話しかけている。
彼女は何と言っているのだろう。
『…ぬな!鈴華!!』
「…え?」
『死ぬな!私を置いて、行かないで!!』
その言葉を最後に私の意識は途切れた。
「あの、大丈夫ですか?」
ゆさゆさと軽く体が揺さぶられる感覚と共に控えめな女性の声が聞こえてきた。
意識を失っていたのは数分だったようだが、その間に路地に倒れていた私を見つけ、親切に声を掛けてくれたらしい。
だが先ほどの不思議な経験によりクラクラする頭を押さえながら、私は返事どころか呻くことしかできなかった。
「アディ、あまり揺らさない方が良さそうだよ」
「そのようですね。ごめんなさい、お姉さん」
穏やかな男性の声と先ほどの女性が謝罪する声が聞こえたが、彼女は一切悪くない。
それを伝えたくて口を開けば、言葉よりも先に胃液が出てきてしまった。
なんとか彼女たちにかからないように後ろを向けたが、鼻を突く酸っぱい匂いは隠せない。
「やだ!」
女性が嫌悪したような声を上げる。
それはそうだろう。
いくら親切な人とはいえ、いきなり胃液を戻すような女は忌避されて当然だ。
そう思っていたのに、彼女から発せられた続く言葉に私は驚く。
「大変!早くお医者様に見せなくちゃ!ライカ様、一度戻ってもよろしいでしょうか」
なんと、この女性は素性の知れないこんな薄汚れた私を助けてくれようというのか。
死の間際に女神に出会った気分だ。
「うーん」
しかし、やはりと言うべきか、男性の方は難し気な声を上げる。
恐らく通りすがりにそこまでする必要はないと思っているのだろう。
私もそう思うから、彼を咎める気もないし、恨む気もない。
「どっちかっていうと、間借りしている屋敷に戻るより直接王宮に連れて行った方がいいんじゃないかな?医者や薬師も常駐しているだろうし」
と思っていたのに、こちらも私を見捨てる気はないようだ。
彼女が女神なら、彼は神か。
というか、今王宮に連れて行くと言ったような…?
何かの冗談か、もしくは隠語だろうか?
「あ、そうですね!流石ライカ様」
女性ははしゃぐように手を叩くと男性を褒める。
吐き気が収まってきたのでまた振り返って顔を上げれば、2人は抑え目ながらも身形が整っており、それなりの階級の貴族なのだとわかった。
特に女性は公爵令嬢だった頃の私と同じような服を着ていたので、彼女が様付けする男性はさらに身分の高いだろうと思われる。
それならば王宮と言う言葉は文字通りディア王宮を意味していてもおかしくはない。
おかしくはないが、この状況は明らかにおかしい。
何故高位貴族が汚らしい身形の行き倒れなどを助けるのか。
「ど、して…?」
私は掠れる喉で懸命に言葉を紡いだ。
酷く聞き取りづらいはずのそれは、幸いなことにきちんと2人に届いた。
「どうしてって、当たり前でしょう?」
「他国とはいえ民が傷ついているのだから、助けるのは王族の務めだよ」
そして心底不思議そうな顔をする女性と穏やかに微笑む男性を見てようやく私は合点がいった。
あ、これはきっと、走馬灯的な夢だ。
他国で追放された元公爵令嬢を別の国の王族が助けるなんて偶然、あるわけがない。
何故こんな夢を見たのかわからないが、最期に人の温かさを感じられたのはよかったな…。
そして私はまた意識を手放した。
次に目を覚ました私の目に映ったのは、知らない天井だった。
「気がついたのね」
「よかったぁ。一瞬駄目かと思いましたよ」
状況が掴めずぱちぱちと瞬きをしていると、ベッドの横から2人の女性の声が聞こえた。
1人は先ほど助けてくれた青い髪の女性。
もう一人は目が覚めるような鮮やかな深紅の髪の女性だった。
「あの…?」
どう声を掛けていいか迷い、中途半端な疑問形となってしまったが、2人の女性は私の心情を読み取ってくれた。
「ここはディア国の王宮ですよ」
「意識を手放した貴女をアデルちゃんとライカ様が運んできたの」
そして告げられた言葉は夢だと思っていたことが現実だったと教えてくれる。
どうやら私の命運はまだ尽きていなかったらしい。
「お医者様のお話では栄養失調と過度の疲労とストレスだろうとのことでした。治るまでこちらで休んでいていいそうですよ!」
「もう陛下にも許可は取ってありますから、遠慮なさらず療養してくださいな」
どころか爆上がり中のようだった。
死にかけが一変、王宮で療養なんて、婚約者時代にも味わったことのない好待遇だ。
厚かましいとは思ったが、頼るもののない自分にはこれに縋るしか術はない。
「お心遣いありがとうございます。益体もない我が身ではございますが、お言葉に甘えさせていただきとう存じます」
私は上半身をベッドから起こし、心からの感謝を込めて2人に頭を下げる。
こんな体勢では失礼にしかならないかもしれないが、気持ちを最大限に彼女たちに示す方法が他にない。
その時に垣間見えた自分の身は拭き清められており、綺麗なこの部屋を汚していないことに安堵した。
「そんな、気にしないでください!」
青髪のアデルと言う名前らしい女性が慌てて私を優しくベッドに戻してくれる。
高位貴族が平民にしか見えない女にここまで気を配れるのかと再度驚いた。
もしかしたらハーティアとは貴族の在り方自体違うのかもしれない。
少なくてもあの国ではそんな光景を見たことがなかった。
「そうそう。それに多分、貴女は私たちと同じだから」
そしてもう一人の赤髪の女性も恐らく王族に連なる人物だろうに、気さくに声を掛けてくださる。
直接言葉を交わすのは本当なら不敬なのだろうが、彼女はそういったことを気にしないようであった。
けれど先ほどの言葉の意味はわかりかねる。
『同じ』とはどういうことだろう。
「えっと、どういう…?」
「ルリアーナ様、どういうことですか?」
私が問おうとした問いかけに被さるようにアデル様が同じ疑問を呈する。
ルリアーナ様と仰るらしい美女の言葉の意味がわからなかったのは私だけではなかったようだ。
「んー、アデルちゃん。この女性に見覚えはない?」
「え?」
ルリアーナ様の言葉にアデル様が私を振り返る。
そして穴が開くのではないかというほど見つめられること30秒弱。
「あっ!?」
突然アデル様が声を上げる。
「貴女、イザベル・バートランド!?」
彼女は酷く驚いた顔をしながら、面識などなく、名を示すものも持っていないはずの私の名前を言い当てた。
「気づいていて連れて来たのかと思っていたわ」
「いや、放っておいちゃいけない気はしたんですけど、まさか無印の悪役令嬢だったとは思いませんでした…」
何故か自分の名前を知っていたアデル様とルリアーナ様が言うには、私は『君のとなりで』というゲームの悪役令嬢なのだそうだ。
全く意味はわからなかったが、2人はどうして自分がこんな目に遭ったのか、その答えを知っているらしい。
「この世界はね、私やアデルちゃんが前世、今の人生の前の人生で生きていた世界で流行していた疑似恋愛を楽しむ遊び…っていうとなんだかいかがわしいけれど、そういう物語みたいなものの世界なの」
「…はぁ」
「貴女が出てくる物語ではシャーリーという女の子が主人公で、貴女の婚約者だった王太子様や彼の学友や護衛の内の誰かと恋愛して結ばれることを目指すの。そしてそれを邪魔するのが悪役令嬢であるイザベル、つまり貴女よ」
「そして最後にはシャーリーをいじめたって責められて、国外に追放されちゃうんです」
「ああー、なるほど…」
2人の説明は所々わからないものの、今の自分の状況と一致していることが多かった。
つまり私は初めからそうなる運命にあったと、そういうことなのだ。
「でも私、本当にシャーリーには何もしてなかったのに…」
話を聞いてまず思ったことはそれだった。
オスカー様にも言われたが、私はシャーリーをいじめてなどいない。
それでも関係なく物語の筋書き通りに世界は動くと、そういうことなのだろう。
本当に、なんなのだろう。
そんなの、自分の意志で生きているとは言えないのでは?
「…何もしなかった?」
項垂れため息を吐く私にアデル様が不思議そうに言う。
しなかったはずだ。
少なくともシャーリーには。
「彼女に何かするとオスカー様に目をつけられると学園で有名でしたから。私はオスカー様の行動を諫めるだけにしていたのです」
それなのに。
「オスカー様はそれを嫉妬故の醜い言葉だと一切耳を貸してはくれませんでした。そして私ではなくシャーリーとの結婚を望み、国王様に願い出ました。しかし国王様はお認めにならず、頭を冷やすようにとオスカー様に謹慎を言い渡しました。ですが何故か、彼はそれを全て私がそのように画策したのだと思い込んだのです」
私はぐっと上掛けを握る。
皺ひとつなかった柔らかいアイボリーのカバーに幾筋もの線が走った。
「オスカー様は謹慎を破り私の家に押しかけました。そして私を無理やり馬車に乗せ、この国に放り捨てたのです」
あの時の絶望を今でも鮮明に覚えている。
この先どうすればいいのかわからず、呆然とするしかなかったあの時を。
「幸いにも親切な方が今着ている服を売ればしばらくはお金に困らないだろうと教えてくださり、その通りにしましたが、二ヶ月ほどでお金も尽き、あそこで行き倒れたのです」
ついでと思い、これまでにあったこともまとめて話した。
助けてもらっておいてこちらの事情を伝えないのは不義理だと思ったから。
「そうだったんですか…」
「大変だったわね」
アデル様もルリアーナ様も我が事のように辛そうな顔で私を見る。
初対面の私の気持ちを理解して同調してくれるなんて、なんて優しい人達だろう。
「いえ、そんな…」
でも辛い顔はしてほしくないと2人の言葉を否定しようとした時。
「……あれ?」
私の頬を温かなものが伝っていく。
学園に居た時も、オスカー様に詰られた時も、この国に追放された時ですら涙なんか流れなかったのに。
「どうして…」
止めようにも何故か涙は拭う先から溢れてくる。
涙腺が壊れたみたいだ。
焦り戸惑う私にアデル様はそっと近づき、ハンカチを差し出してくれる。
「張り詰めていた気持ちが楽になったんですよ、きっと」
綺麗なそれを汚してはいけないのではと躊躇い受け取れないでいたら、アデル様はそのままそれで私の頬を拭ってくれた。
「その涙は貴女が頑張って耐えてきたものの結晶よ。今後不要になるんだから、今のうちに全部お出しなさいな」
そしてなんとルリアーナ様はこんな私の髪を梳き、抱きしめてくれた。
私は寝ているからやりにくいだろうに起こすこともなく、私に体重をかけることもなかった。
ただただ優しい2人に囲まれて、私は年甲斐もなく涙を流し続けた。
「調べましょう」
「な、なにを、でしょう?」
「ハーティアの王太子が今どうしているか、そしてシャーリーがどうなったのかを」
ひとしきり泣いた後、その間中私を抱きしめていてくれたルリアーナ様から思わぬ言葉が飛び出した。
驚きすぎて最後までぐずついていた涙が止まったのはよかったが、一体何故そんなことを?
「気になるじゃない。ヒロインを選んだ男の末路がどんなものなのか」
そう言って私から離れたルリアーナ様の顔を見て、私は涙ばかりか呼吸まで止めてしまうところだった。
にやりともにたりともつかない黒い笑みがその美しい顔を彩っている。
それがまたこの上なく美しくて、私は思わずぼうっと見惚れてしまった。
「ルリアーナ様、悪い顔してるぅ~」
アデル様はルリアーナ様のお顔を見てそう言ったが、彼女もまた美しい顔に同種の笑みを浮かべていた。
模範的な令嬢のような佇まいながら、今はまるでいたずらな少女のように見える。
「ほほほ、だって私、悪役令嬢ですもの」
元々正義側の人間じゃなくってよ?と笑うルリアーナ様もいたずらを思いついた子どものようだった。
それから数日、私は与えられた王城の一室で手厚い看護が受けられたお陰で、徐々に体調を戻しつつあった。
痩せ細った身体はまだ以前のようには動かないが、短時間にゆっくりとであれば部屋の中を歩くこともできるようになってきた。
そんな中ルリアーナ様とアデル様が改まって部屋に訪ねてきたのは、私が保護されてから5日後だった。
「貴女に事情を聞いた日、実はすぐにバートランド公爵家に手紙を書いたの」
『貴家令嬢イザベル・バートランド嬢を当家でお預かりしている。事情を聞けば貴国の王太子殿下の手で国外追放となったというが、真偽は?』
ルリアーナ様は私の事情をゲームを通じてある程度知っていたから私の話を微塵も疑っていなかったけれど、バートランド公爵であるお父様が王太子によって国外追放された私をどう思っているのかわからなかったため、このように記したのだという。
確かに国王様から悪いのはオスカー様だったと聞かされても、やはり公衆の面前での婚約破棄は外聞が悪い。
なのにそこに国外追放まで加わったら見捨てられても不思議はないと思った。
今まで自分を探しに来てくれないのがその証左かもしれない。
「その返事がさっき届いたのよ。そこには王太子のこともシャーリーのことも貴女のことも書いてあった。貴女にとって良くない報せもあるかもしれないけれど、どれから聞きたいかしら?」
ルリアーナ様は届いたばかりの手紙を手に持っていたが、どれから読むか私自身に選ばせてくれるようだ。
心の準備ができたものから聞けと言うことだろう。
「……では、シャーリーのことから」
正直まだハーティアに関することを聞くのは怖い。
だから卑怯かもしれないが、自分から一番遠い話題を選んだ。
「わかったわ」
ルリアーナ様は私の考えなどお見通しなのだろう、大丈夫だと言うように私の頭を軽く撫でてくださる。
その温もりに心を決めると、顔を上げてルリアーナ様に話を促した。
「シャーリーは行方不明だそうよ」
「…え?」
なのに予想外の一言で、私の心はすぐに綻ぶ。
縁遠くても顔を知っている人間が行方知れずだというその事実が心に重く圧し掛かってくる。
「行方、不明…?」
「ええ。騒ぎの後学園をやめて、それから彼女に会った人はいないみたい」
そしてルリアーナ様の言葉を聞いて、その重みが増した気がした。
だってきっと、彼女が学園をやめたのは私のせい。
私にオスカー様を諫める力があって、彼の心を自分に引き寄せられていたら、こんなことにはならなかったはずだから。
「イザベル様…」
押し寄せる後悔に耐えるようにぎゅっと握っていた私の拳に、温かく柔らかなものが触れる。
「あまり強く握ってはいけませんわ。手が傷ついてしまう」
そう言って労わるように手を握ってくれたのはアデル様だった。
彼女は強張る私の手をそっと開き、その手のひらについた爪の痕を痛ましそうに見た。
やはりアデル様は女神のように心優しい。
「イザベルちゃん、恐らく彼女が学校をやめたのは他の攻略対象者のせいよ」
「え?」
「保健医と司書。その2人も攻略対象者だから、学校に残ったら面倒臭いことになると思ったんじゃないかしら?彼女はきっと、王太子だけじゃなくその2人にも好意を持たれていたはずだから」
アデル様に手を握られたまま、私はルリアーナ様からの言葉を反芻する。
……そういえば。
「国王様からシャーリーは同級生や私の従兄弟、オスカー様の護衛騎士にも追いかけられていたと聞きました。教員の方は存じ上げませんでしたが、可能性はあるかもしれません」
私は国王様から聞いた話を思い出した。
シャーリーは断り続けていたが、オスカー様や数人の男性がシャーリーを我が物にしようと執拗に追い回していたと。
確かに自分も学園で走り回る彼女を数度目撃した。
オスカー様はああいう天真爛漫な様子に惹かれたのかと淋しい気持ちで見ていたが、本人は本気で嫌がり、逃げ回っていただけだったと聞いて申し訳なく思ったものだ。
「あの、追いかけられて、って?」
「どういうことでしょう?」
国王様の話と自身の記憶を振り返っていた私は2人の問いかけにハッと意識を戻すと、今思い出していたことを2人にも伝えた。
シャーリーもまた被害者だった、と。
「ああ、なるほど。そうきたか」
「え?なにがですか?」
「いや、こっちの話」
それを聞いてルリアーナ様が得心がいったという顔をしていたが、アデル様も私もその理由はわからなかった。
「そういえば今まで聞かなかったけれど、貴女は転生者?」
2人で首を傾げていると、ルリアーナ様からよくわからない質問をされた。
「テンセイ、サ?」
それは一体何なのだろうか。
「あら、違うのかしら?日本とか地球って聞いて、何か思い出すことはない?」
「いえ、特には…」
私はやはり聞き覚えのない言葉に首を振る。
アデル様はどうなのだろうとそちらを見れば、彼女は少し淋しそうな顔で私を見ていた。
きっと彼女はそれが何か知っているのだ。
ということは出会った日に彼女たちが言っていた前世に関わることなのかもしれない。
「あ、でも」
そう思った時、私はあることを思い出した。
「以前シャーリーにもそのテンセイサ?かと聞かれたことがありました」
ある日前触れもなしに私の前に現れた彼女はこう聞いたのだ。
『イザベル様も転生者ですか?』と。
「やっぱり、そうなのね」
「えっ!?ルリアーナ様、わかってらっしゃったんですか!?」
私の言葉にルリアーナ様は納得したように頷き、アデル様は酷く驚いていた。
これはなにか重要なことなのだろうか。
「さっきイザベルちゃんが言っていたでしょう。シャーリーは逃げ回っていたと」
ルリアーナ様は謎を解き明かすようにアデル様に語り掛ける。
アデル様も理解しようと一心に耳を傾けていた。
「多分、彼女には別の目当てがいたのよ」
「別の目当て、ですか?他に好きな人が…?あれ?でもそんな話ありましたっけ…」
アデル様はルリアーナ様のお話を聞きながら、なんとか自力で答えに辿り着こうと頑張っていた。
ルリアーナ様もそれがわかったのか、答えを言わずに導き出す方向へと話し方を変える。
「そう。アデルちゃんも知っていたでしょう?私の名前」
「え?えっと、ルリアーナ、様?」
「違うわ。前世の名前で貴女が知っていたものよ」
「え?えーっと…?」
アデル様は左上を見上げながら思い出そうと人差し指でこめかみをトントンと叩いた。
それは遠い記憶を呼び起こそうとしている様に似ている。
「あ!わかりました!『流離うメイコ』ですね!!」
「正解」
少し時間をかけたものの、該当する記憶を思い出したアデル様は「やったー!思い出せたー!」とはしゃぎ、ルリアーナ様も「おめでとう」とにこやかに拍手を送っている。
それを邪魔する気はないので黙っているが、現状私には彼女たちの会話の内容が何一つわかっていない。
「さて、アデルちゃんはなんで流離うメイコの名前を知っていたんだったっけ?」
最後の仕上げと、ルリアーナ様はアデル様に問いかける。
彼女はその問いにまた「うーんと」と左上を見上げ、
「イベント特典である暗殺者ルートの攻略法を発見した人だから!」
今度はすぐにそう答えた。
そしてハッとした顔でルリアーナ様と私を交互に見る。
「まさか…」
「そう、そのまさかよ」
そしてルリアーナ様も私を見て、
「前世の記憶があったシャーリーはイザベルちゃんが差し向けるはずだった暗殺者を追って行方をくらませた可能性が高いわ」
なぜ今シャーリーが行方不明なのか、その謎を解き明かして見せた。
「さて、じゃあシャーリーの件はいいとして、次は何が聞きたい?」
自分が出した結論はあくまで推理だとしながらほぼ正解だろうと言ったルリアーナ様は「この件は放っておいても大丈夫」と言って、話題を次へと進めた。
残るは父の私の処遇に関する返答とオスカー様のこと。
「…すみません、オスカー様のことを聞きます」
やはりまだ父の言葉を聞くのは怖いと、私はダメージが少ない方を選んだ。
「わかったわ」
ルリアーナ様はそれをお見通しだったのだろう、気遣うように私に微笑んでくださった。
「彼は今も王宮で謹慎中だそうよ。今でもシャーリーを求めて叫んでいる時があるみたい」
彼女はあえて軽い口調で今のオスカー様の状態を教えてくれる。
それも私が気にしないようにとの配慮だろう。
「そう、ですか」
けれどその気遣いを無下にするように、私の声は沈んだものになってしまった。
彼を深く愛してはいなかったが、それでも長らく将来の伴侶になる相手として過ごしていたから特別な思いはある。
そして同じものを返してもらえていたとも思っていた。
だからこそ愛してもらえなかった自分自身と愛されているシャーリーに対して、一言では言えない複雑な感情が絡み合い、いまだに消化できていないのだ。
それが私の声を重くさせる。
「でも、今は魔法が解けている最中みたいね。時々貴女の名前も口にするらしいわ」
「……え?」
「手紙には『前日には「シャーリーはどこだ!?」と騒いで暴れたのに、次の日になると「今日はイザベルは来ないのか?」と訊ねられたりする。この頃は情緒や記憶が不安定なようだ』と書かれているわ。恐らくこれはシャーリーの魅了が離れたことで薄れているせいだと思うの。つまりもっと時間をかければ、もしくはショックを与えれば、彼の魔法は解ける可能性が高い」
ルリアーナ様はヒラヒラと手紙を振って「よかったわね」と言う。
よかった、のだろうか。
国にとっては間違いなくよかったのだろう。
けど、私にとっては今更だ。
「…よかったのかどうか、私にはわかりません」
だから私は素直に自分の気持ちを吐き出した。
それに、多分誤魔化して「よかった」と言っても、きっとルリアーナ様にはバレただろう。
「あら、絶対によかったわよ」
ルリアーナ様はそう言って「ふふふ」と笑うと、
「いつかのライカ様のように、自分のしでかしたことに気がついて恥も外聞もなく婚約者に土下座をする、なんて光景がまた見られるかもしれないわ」
ルリアーナ様は「楽しみ~」と鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌に言った。
ライカ様って、あのライカ様よね?
クローヴィアの王太子殿下で、アデル様の婚約者の。
そう思ってちらりとアデル様を見れば、
「……実はライカ様も、以前別の女性に魅了の魔法をかけられたことがありまして…」
遙か遠くを見るような虚ろな目をしながらその時のことを語ってくれた。
「ええと、それはどうやって解決なさったんですか?」
「それは…」
なんと言えばいいのかわからない私の苦し紛れの問いに、何故かアデル様はルリアーナ様を見た。
私も一緒に視線をルリアーナ様に向ければ、彼女はにっこりと微笑み、
「衝撃を与えればいいと言っていたから、思いっきりぶん殴ったわ」
ぐっと右手を握り込みながら力強く宣った。
わあ、いい笑顔。
「……ところで、魅了ってなんのことですか?」
ゆっくりとルリアーナ様の輝く笑顔と拳から目を逸らし、私は気になっていたことをアデル様に訊ねた。
先ほどから頻繁に出てきているが、一体何のことかと。
「ああ、説明してませんでしたね」
アデル様もルリアーナ様から目を逸らし、ポンと手を打ってそれの説明をしてくれる。
これは逃避ではない。
ええ、決して。
「ゲームのヒロイン、そちらで言えばシャーリーですね。彼女は無意識のうちに異性を虜にしてしまう『魅了』と呼ばれる魔法を使うことができるんです」
「……はぁ」
しかしその説明に私が返せたのはそんな気の抜けたような返答だけだった。
いや、だって、理解が全然及ばないのだもの。
「まあ、魔法が使える人が稀なこの世界ではすぐに信じるのは難しいですよね」
アデル様は私の態度にも気を悪くした様子もなく、苦笑と共に寛大にも許してくださる。
「すみません…」
私は混乱する頭でただ謝ることしかできなかった。
「じゃあ王太子の件もこのくらいにして、最後ね」
握り拳を収め、手紙に視線を戻したルリアーナ様のその声にドクンと心臓が大きな音を立てる。
残るは我が家からの返答のみ。
それには一体、何と書かれているのだろうか。
「えーと、『確かに我が家にはそのような娘がおり、この3か月間ずっと探しているがまだ見つかっていない。もし本当にそれがイザベルなのだとしたら家に帰したいので、どうか直接確認させてほしい』だそうよ」
「……っ」
私は今度は何も言えなかった。
ルリアーナ様が読み上げた言葉を聞いた後からどんどん零れてくる涙が、私の言葉を奪っていた。
「よかったですね、イザベル様。お父様はちゃんとイザベル様を心配して探していらっしゃったんですよ」
そう言ってアデル様が優しく抱きしめてくれたから、ますます涙が酷くなった。
だって、信じられなかった。
公爵である父が家名に泥を塗ったにも等しい私を心配して探してくれていただなんて。
「どうやら公爵様は貴女が国境の町から王都まで移動しているとは思っていなかったらしいわ。ここはどちらかといえばクローヴィア寄りだから、探し出せなかったのも無理もないわね」
ルリアーナ様は手紙を捲ってそう付け加えた。
そういえばまだお金があった頃に思い切って馬車に乗って王都に来たから、私がお金を持っていないと知っていた父はこんなに離れたところまで移動する手段があると思っていなかったのかもしれない。
だから今まで公爵家に関係のある人と出会わなかっただけなのだ。
そう思うだけで、探してもらえなかったんだと悲しんでいた私が溶けて消えた。
「ふふ、実はこの手紙ね、貴女のお父様が持ってきてくださったのよ」
「……ぅえ?」
私がルリアーナ様を見ると、彼女は楽しそうに笑っていた。
私は彼女の言葉をまだ理解していない。
その手紙を、父がここへ持ってきた?
つまり今、父はここにいるということなのだろうか?
「というわけでご登場いただきましょう。バートランド公爵でーす」
ルリアーナ様はそう言うと部屋の扉を開けた。
「え、えええ!?」
私は理解できないまま、あまりにも突然のことに驚いて思わず奇声を上げてしまった。
もしルリアーナ様の仰った通り本当にここに父がいれば「公爵令嬢にあるまじき」と叱られていたかもしれない。
だが今回の言葉は冗談だったのだろう。
扉の向こうには誰一人立っていなかった。
「……あれ?」
私がびっくりした、と胸を撫で下ろしていると、ルリアーナ様がきょろきょろと扉の外を見回す。
そして誰かを見つけたらしく、大きく手を上げた。
「ヴァルト様~、ここにハーティアの公爵様がいらっしゃったと思うのですけれど、知りませんか~?」
そう言いながらルリアーナ様は途中で廊下へ出て行き、声がどんどん遠くなる。
その言葉は、まるで先ほどの言葉が冗談ではなく本当だったというようなもので、私はまた混乱した。
するとルリアーナ様に返答する声が徐々に近づいてきた。
「今あちらでライカと話しているよ。ハーティアの王太子の身に何が起きたのか、実体験で語り中」
それは穏やかながらもはきはきした聞き心地のよい声で、何度か聞いたルリアーナ様の旦那様であるこの国の王太子殿下ヴァルト様のものだった。
ちなみに現在この城には王太子殿下が2人いるため、畏れ多くも私は区別をつけるために名前で呼ぶことを許可いただいている。
「そうでしたの。せっかくいいタイミングでドアを開けたのに誰もいらっしゃらないから、私ハズしてしまいましたわ」
ルリアーナ様はそういうことなら仕方ないと納得しつつも自分の演出が上手くいかなかったことに少しお怒りのようで、廊下からポカポカと何かを、恐らくはヴァルト様を叩く音が聞こえる。
いくら奥様と言えどそれは拙いのでは、と思っていれば、
「ごめんね。でも、そんなリアも可愛いよ」
というヴァルト様の声と「きゃっ」というルリアーナ様の小さな声が聞こえ、叩く音が聞こえなくなった。
何があったのかは詮索しないでおこう。
「…君たち、こんなところでいちゃついてる場合じゃないでしょう」
ややして、そこにまた別の誰かの声が加わった。
それは耳触りのいい落ち着いた優しい声で、あの日瀕死の私を助け出してくれた人の声だと思った。
「ライカ様の声だわ」
それを聞いたアデル様の嬉しそうな言葉が私の推理を肯定する。
この2組は本当に相思相愛で、私とオスカー様の関係が如何に希薄であったかを気づかされる。
これではシャーリーに奪われてしまっていなくても、いずれどこかで破綻していたかもしれない。
だからきっと、これでよかったのだ。
何故か今になって、それがすとんと胸に落ちた。
「お客様も来ているんだし、早く会わせてあげないと」
すっきりした気持ちでいると、お声通り優しいライカ様がそう言ってこちらに近づいてくる。
そうだった、今はお父様が私のところに向かってきているのだった。
一度収まった動悸がまた復活してくる。
そしてとうとう、部屋の中にいる私からライカ様のお姿が見えた。
「イザベル嬢、お待たせしてごめんね。お父上が迎えに来てくださったよ」
少しも悪くないのに謝罪を述べてくださったライカ様の後ろには、3ヶ月ぶりに見る父のやつれた姿があった。
「…イザベル?」
父はソファに腰かけていたみすぼらしい女が誰か一瞬わからなかったのだろう。
疑うように恐る恐る私の名前を呼んだ。
「…お父様」
しかし私が立ち上がり、父を呼んだ瞬間、
「!!間違いない、この子は我が娘のイザベルです!!」
そう言ってライカ様の後ろから出てきて、私を力いっぱい抱きしめた。
「イザベル、よかった、無事だったのか」
ぎゅうっ回された腕は小さく震えており、最後に抱きしめられた時よりも細くなっていた。
胸も少し薄くなったようだ。
「…お父様、随分お痩せになられましたね……」
それほどまでに私を案じてくれていたのだと思うと、申し訳なさと嬉しさが込み上げてくる。
この人は私を見捨てないでくれた。
それを少しでも労わりたいと私からも抱きしめ返せば、
「…なに、お前ほどではないよ」
父の安堵と疲労に満ちた頼りない声が耳に届いた。
私はそんな父の声を初めて聞いた。
それから3日後、私は父とともにハーティアへ帰れることになった。
「家の者もこれを案じておりまして、そろそろ限界なのです」
急なことで私はルリアーナ様やアデル様に何もお礼をできていないが、ヴァルト様にそう辞去を告げる父の言葉を聞いては従わないわけにはいかない。
私だってずっと家族のことは心配だったから。
「死の淵から救っていただいたにもかかわらずなんのお返しもできず去らねばならぬこと、心よりお詫び申し上げます。いずれ改めてお礼を」
「あー、そんなの気にしなくていいから。早くご家族の元に帰りなさいな」
「そうですよ!今はおうちに帰れることを喜んでください!」
父に倣い、ルリアーナ様とアデル様に辞去の言葉を告げようとすれば、2人の優しい言葉に遮られた。
この人たちと知り合えたことは、今までの人生で一番の宝だと思う。
「ありがとうございます。もうお会いすることはできないかもしれませんが、皆様に救っていただいた命を大切にいたします」
私は胸に迫る感情を殺して最後に精いっぱいの感謝を込めて笑顔を作ると、2人に深く頭を下げた。
ただの公爵令嬢と他国の王太子妃が会うことは容易ではないから、きっとこれが今生の別れになると思う。
だから、泣かないようにしなくては。
出会った時はぼろぼろだったけれど、最後くらいはできる限り美しく笑顔で別れたい。
そう思って頭を上げれば、2人はきょとんとした顔で私を見ていた。
「…イザベルちゃん」
「…はい」
「貴女、もう私たちと会わないつもりなの?」
「…はい?」
きょとんとした顔から一転、すんと真顔になったルリアーナ様にちょっとだけ恐怖を覚えていると、彼女はそう言って私の肩を掴んだ。
「もしそのつもりなら、私は貴女をハーティアには帰さないわよ?」
「はいぃ?」
ルリアーナ様は一体どうしたのか、そう言ってますます私の肩を掴む手に力を込めた。
なにかお怒りのように見えるが、はて、私は何故彼女を怒らせたのか。
「そうですよ!なんならクローヴィアに連れてっちゃいます!」
「ええ?」
すると今度はアデル様が私の腕を抱き込み、頬を膨らませながら私を睨んだ。
こちらも怒りの原因がわからず、私は困惑した。
「お2人とも、どうしたんですか?なんでそんなこと」
おろおろと助けを求めるように殿下たちを見ると、ヴァルト様は笑い、ライカ様は苦笑し、その隣に立つ父はポカンとしていた。
どうやら殿下たちは2人が怒っている理由を察しているらしい。
「だって!」
そう言うとルリアーナ様はアデル様と反対の腕を同じように抱き込んで、同じように頬を膨らませた。
「イザベルちゃんがもう私たちとは会わないなんて言いうから!!」
「酷いです!私たちの絆はそんなものだったんですか!?」
2人は両側から私に言う。
なるほど、先ほど「もう会うことはできないかもしれない」と言ったせいで2人はこんなに怒っているのか。
だがそれは仕方がないことなので、私は2人にそれを伝える。
「いや、そうは言っても、私の身分じゃあそうそうお2人に会うことは難しくてですね!?」
「「関係ない!!」」
だが2人はきっぱりとそう言って同時に私にしがみついた。
「友達に会うのに身分がどうとか関係ないでしょう!?」
「悪役令嬢が身分とか気にしないでくださいよ!!」
「「私達、友達でしょう!!?」」
2人がそう言ってくれた時、私はどんな表情をしていたのだろう。
きっと先ほど見た父のようにポカンとした、間抜けな表情をしていたに違いない。
それくらい信じられなかった。
2人が私を友達と言ってくださるだなんて。
「…ちょっと、なんとか言いなさいよ」
「…イザベル様?」
そう言った2人の声は聞こえたのに、私は微動だにできなかった。
でも、意志とは別に身体が勝手に震え始めた。
そして込み上げてくるなにかが、私の口から溢れ出る。
「ふぐぅ…」
それは汚い音で、気品の欠片もなくて、でもその音を漏らさないと、もっともっと大きな音を出してしまいそうで。
「うぅ、ぐ、ふぅ…ぅっ」
私はなんとか小さく音を抑えようとした。
でもそんなの、両脇にいる2人に聞こえないわけがなくて。
「…イザベルちゃん、泣く時は大声で泣いてもいいのよ?」
ふ、と小さく笑ったルリアーナ様が「本当に仕方のない子ね」と言って私を抱きしめた。
彼女の手はまるで魔法の手だ。
抱きしめられただけで、私は簡単に心の全てを曝け出されてしまう。
「だって、私、こんななのに、と、友達って、言ってもらえるなんて、思ってなくて、う、うう、嬉しくて、えぇ~」
私は彼女にしがみつき、小さな子供のように声を上げて泣いた。
実の母にもこんな風に泣きついたことなどないのに、彼女の包み込むような優しさがさらに涙を呼ぶ。
「わ、私だって、また会いたいし、離れたくない、けど、私は、ただの、公爵令嬢で、2人は王太子妃で、もう、会えないって、会っちゃダメだって、そうお、思って~!」
わんわんと感情のままに泣く。
胸の閊え全てを押し出すように。
それを許してくれるこの人と、私は離れたくないと思った。
「それなら!」
そう思っていたら、さらにもう一つの温かな手が私を抱きしめた。
「イザベル様も王太子妃になってくださいよ!!そうしたら気にせず会えるでしょう!?」
そう言ってあの日私を救ってくれた手で、また私を救ってくれる。
あの時は命を、今度は心を。
「ハーティアの王太子殿下だって、きっとルリアーナ様が殴ればすぐに元に戻りますよ!!」
アデル様がそう言った瞬間、向こうで吹き出す声と呻く声が聞こえた。
正直空気ぶち壊しだが、少し冷静になれたお陰で涙が止まりそうだ。
「…そうね、そうしましょうか」
すんすんと鼻を啜っていると、目の前にいるルリアーナ様から先ほどとは違う低い声が聞こえてきた。
「…え?」
驚いて顔を上げれば、いつかのように悪い顔で笑うルリアーナ様が見える。
彼女は私と目を合わせるとにっこり笑い、
「大丈夫、私が全部解決してあげるわ」
そう言ってまた、ぐっと拳を強く握り込んだ。
「イザベル、私がどうかしていた!どうか、また婚約者に戻ってほしい!!」
その後、ハーティアの王宮の一室でそんな声が響いていたが、それを知っているのはオスカー様と国王様の他、当事者の私と私の父、そしてオスカー様を正気に戻したルリアーナ様とその付き添いのヴァルト様だけだった。
「ほらね?殴れば全て解決よ!」
そう言って笑うルリアーナ様は今日も美しかった。
読了ありがとうございました。
短編ではありますが、対小説とつながる後日談を別日に投稿する予定です。