58:世界のために鐘は鳴る
冷たい不定形の物体が唇に触れた。
力なく開けられた口内に入り込もうと前歯に当たる感触はグミに似ていてるものの、固体といった印象はない。ゆらゆらとそれが揺れているのが、目を閉じていても空気を震わせて伝わってきた。
口に入り込もうとするソレは、幾度もその進入を失敗したかと思うと、なんの前触れもなく口内に滑り込んできた。唇には、今までとは違った弾力のある感触があり、それによって逃げ場を失った不定形の物体は舌の根に触れ、反射的に呑み込んだ。ミイラのように乾燥した喉を流れ落ちていく感覚は、なんてことはない、水を呑む時とまったく同じだった。
砂漠で乾涸らびていこうとしていた身体は、それこそ砂が水を吸うように、急速に水を取り込んでいった。
水、と。自分が呑まされているもののことを理解して、陵 千歳は目を開いた。
最初、眼前にある女性の顔に戸惑った。レムリアの目と自分の目がぶつかってしまいそうなほど近い。彼女と見つめ合って、千歳は唇に触れている柔らかい感触が、レムリアのものであると悟った。
どうして、とまだ微睡みから醒めぬ頭で千歳が困惑していると、レムリアの顔が離れた。彼女の唇の後をなぞるように伸びる水を見て、名残惜しいと千歳は男として当然の感想を抱いた。
蓋の外れたペットボトルを片手に、千歳の目の前をふわふわと浮いているレムリアが手の甲で自身の口を拭った。
「ようやく起きた。平気?」
「何が何だか判らない。夢かこれは」
「頭は駄目みたい」
レムリアはたいした感情の起伏も見せない。彼女は水のはいったペットボトルを千歳に放り投げる。咄嗟に千歳は受け止めようとするが、右手に力をいれると激痛が走り、ペットボトルは放物線を描いて千歳の胸を叩いた。跳ね返って宙で揺れるペットボトルを眺めながら、千歳はここが宇宙であることを思い出す。〈天斬〉のコクピットには酸素はあっても重力はなかった。
朦朧としていた脳内で、いくつもの記憶が連鎖的に瞬く。いくつもの稲妻の輝きが靄を払い、意識という輪郭を浮かび上がらせる。
「そうか、俺は気絶していたのか、あの後」
「ようやく理解してくれたようで何より。それ、飲んだら。そのままだと危ないし」
「それも、そうだな」
千歳は頷き、改めて手を伸ばしてペットボトルを掴もうとする。重力というものがないと腕を上げる力が少なくてすみ、それは助かったのだが、手の不自由を消してくれるものではない。赤黒く焼け焦げた手は動かず、ペットボトルは指先に当たって千歳の手が届かない所までくるくると回っていく。
レムリアは座席を手で押してふわりと舞えば、軽々とキャッチして戻ってくる。レムリアはペットボトルのストローからこぼれて宙に浮かぶ丸い水滴を目で追ってから、千歳の掌に目をやった。ずっと熱した操縦桿を握り締めていた千歳の手は、常人なら目を覆ってしまいたくなる有様だった。皮は燃え尽き、露出した筋繊維は真っ黒に炭化している。コクピットに漂う鼻をつく臭いには、白い脂肪の焼けた臭いも混じっていた。動かないのも当然だった。
苦々しく表情を歪めて自身の掌を眺める千歳に、レムリアが訊ねる。
「飲ませてあげようか」
「恥ずかしながら、お言葉に甘えさせてもらおう。さっきみたいのをそう何度も、は流石に困るが」
「何度も、ね」レムリアは意味ありげに、口端をわずかに持ち上げる。「もう少し早く目が醒めるべきだったかも」
千歳はレムリアの手の中にあるペットボトルに目をやる。既に五〇〇ミリリットルのペットボトルの中身は、半分ほど減っていた。
「まさか」
「こうしなければ呑み込まなかったんだから仕方ない」レムリアはペットボトルの飲み口を千歳の口元まで持ってきた。「やっぱり今も同じ方法がいい?」
「やめておくよ。あとで誰かに殺されそうだ」
レムリアが悪戯そうに微笑を浮かべて差し出してくるペットボトルのストローに口をつけて、千歳は中の水を吸い上げる。目覚めたばかりで気づかなかったが、身体は異常に水に飢えていた。一度呑み込むと次々肉体が水分を欲して、瞬く間にペットボトルの中は空っぽになった。
ストローから口を離すと、千歳は息を吐く。まだ物足りなかったが、随分と身体は楽になった。まだ脱水症状のせいで目眩がして、頭がくらくらとするが、一時期と比べれば随分とマシだ。
「間接キス」
「え」
レムリアのつぶやきに、千歳は声を上げる。
「なんでもない」
「顔が意地悪く笑ってるぞ。まさか、あの何度もって、嘘か」
そういえば、ペットボトルの中身を減らしていたのは千歳のせいだとは一言もいっていない。
「さあ。どうだろう。嘘かも。どれかはいわないけど」
「こんなことでからかうなよ。子供じゃないんだから」
レムリアの悪戯に千歳は呆れて苦笑する。宙に雲のように浮いたレムリアは、珍しく上機嫌ととれる表情だった。
「こんな時くらい、子供らしくてもいいと思う。だって終わったんだから」
レムリアが綺麗な金髪を尾のように引きながら、モニターに向き直った。モニターに映し出されているのは、蒼い星。
遠い昔、と千歳は思う。遠い昔、初めてこの光景を目撃した人々の感動は、きっと今の自分と同じようなものであったに違いない。
終わったのだ。確実に、ひとつの物事が集結したのだ。
宇宙は広い。この美しい星ですら、ちっぽけで、弱く、儚く、脆いと、そう言わしめるだけの途方もない冷たき世界だ。それでも、と。それでもこの世界は美しい。
千歳は胸に広がる達成感に、しばし心を委ねた。これから、まだ困難は続くだろう。だから、今はこの光景を戦いの報酬として胸に刻みつけよう。
「そうだな。たまには子供らしくはしゃいだっていいだろうさ。こんな時くらい」
「きっと、この輝きは」レムリアは珍しく、感傷的だった。「数え切れない世界によって支えられたのかもしれない。世界各地で発掘された〈機神〉は、他の世界からの贈り物で。未来視という力の持ち主がいたのも。私たちがここでこうしていられるのも」
〈機神〉――それは一機一機が、現代の科学力から逸脱した戦闘能力を持っていた。いや、仮に〈機神〉を人類が作り上げようとすれば、可能かもしれない。全世界の技術を一カ所に集めれば、一機くらいは。
〈機神〉は別世界で、〈天斬〉のようにギルトに挑んだものなのかもしれない。だが、敗れて、なにがどういう軌跡をたどったのか、この世界までたどり着いた。偶然か。あるいは別世界に想いを託した人々による必然か。それは判らない。
だがきっと、この世界は最後の希望だったのだ。
〈GA〉は、他の世界で人間同士が争うために作られた、強欲なる利権の許に生み出された人殺しの兵器だったのだろう。だが、幾多もの分岐の末に、それが希望となり人を救った。それは人の可能性を象徴しているように思えた。
ここは最後の希望であったが、今は新たなる分岐のスタート地点だ。これから、ここから世界が新たに始まっていく。
千歳は、レーダーが捉えた、〈天斬〉に接近してくる〈鬼神〉を見つける。
「……さあ、帰るか。あそこに」
「うん」
それでは、帰るとしよう。あの蒼く輝く世界の中へ。
千歳は動かない掌で操縦桿をなぞる。撫でたつもりだった。〈天斬〉はなにも言葉を話さない。
ただ一度。ゴォンと機体を轟かせる。その力強い振動は、〈天斬〉が頷いているように思えた。