57:陵千歳は世界滅亡の夢を見る
「…………」
その沈黙は誰のものだったか。千歳か那殊か全員か。
誰もが口をつぐんでいる中、饒舌だったのはギルトだけだった。剣を交えている間は一切意志を感じさせず、黙々と刃を振るっていただけの相手は、ここにきて余裕を見せて舌を動かしていた。
『だから隠しておきたかったのだろう。君だけには』
千歳は裂夜の頑として話さない様子を思い出し、あの行動の意味を理解する。どうしてあそこまで千歳にそのことを伝えようとしなかったのか。那殊から裂夜は〈狂剣〉の正体とやらを聞かされていたのだ。だからこそ裂夜は固執した、自分が〈狂剣〉に引導を渡すことを。千歳も裂夜のように〈狂剣〉の正体を知っていたなら、同じことをしていただろう。他の誰にもやらせるわけにはいけない、これは家族のことなのだから、同じ血を継ぐ者がやらねばならない。でも、そんな〈狂剣〉の事実を知る者は少ない方がいい。他の家族にすら知られたくない。裂夜も同じように、だから千歳には隠していたかったのだ。
「幾度となく剣を交えた相手だった。気づかぬわけもない。あれほど見覚えのある太刀筋だ。死人だったからと忘れていただけのこと……」
そして、あまりにあり得ない妄想だっただけに、考慮しなかっただけのことだ。しかし、那殊の力を考えれば、あり得ないことはない。千歳も、実際に甦りを体験している。例え、殺されたとして――殺される前の時間に巻き戻されることがあれば、それは死んでいないのだ。
「お前の云っていることは真実なのだろうな。それなら正体を俺に教えないのも、判る。那殊がどういう意図で〈狂剣〉を作りだしたのか、それは判らないが」
『単なる罪滅ぼしのつもりだったのじゃよ』
那殊が自嘲気味にいった。
『一族郎党皆殺しにして、魔が差して目の前の死体の時間を戻した、単なる気の迷い。しかもそれが巧くいかず、肉体は若返り、精神が壊れたのだから、どうしようもない。その結果、お前の父は〈鬼獣〉やギルトに過剰反応して殺害をして回るようになったのじゃよ』
「そうか」
『実に不快だろうて。弄んだ結果がこの末路じゃ』
「いや――実はそれほどでもない。ひとつ確認できたことがあるしな」
『それは……』
「親父は裂夜を愛していたのだろう。ならいいさ。あれは父親だったよ」
おおよそ、良い思い出のある父親ではなかった。それでも、家族を弄ばれるというのは、自覚してみると吐き気がするほどに不愉快だ。那殊に悪意がなかったにしても。害する意志がなくとも、行為は劣悪で、ならば擁護する気はない。が、あのまま別れていてはけして気づけぬことがあり、それを知ることができた。
あの父親は家族を愛していた。〈輝駆槌〉の攻撃から裂夜を庇って、再び命を落とした。自我を失って尚意志でもっておこなった。ならそれでいい。それだけがわかれば今はいい。
「その〈鬼神〉に乗っている奴とはいずれ決着でもつけるだろうがな」
『望む所』
闘気に溢れた返答を受けて、千歳はギルトの方へ向き直る。相手はこちらの隙をつくでもなく、律儀にそこに漂っていた。
「どういう意図があったかは知らんが、俺の敵はお前ということに変わらん。とっとと再開しようか。狂った機械にいつまでも居座られると邪魔なんだ」
『それは構わないが――』
ギルトが動く。
『君じゃあ僕には敵わない』
動いたと思った時、既に〈天斬〉はギルトによって斬りつけられていた。左腕が闇のカナタに消えていく。
コクピットごと胴を薙ぎ払われなかったのは、とっさの反射が敵の斬撃の軌道と奇跡的に噛み合った僥倖故。
そして千歳は距離をゼロにして問答無用に自身の殺戮圏内に敵をいれて斬りつける相手と何度もやりあっていた、だからこその奇跡。
「今のは、〈狂剣〉の――」
「いや、違う。今のは……重力で距離を圧縮した!?」
「んな無茶な――」
そして、いきなりレーダーからギルトの姿が消失する。光学カメラにも捉えられない。唐突に、霞のようにギルトは消えてしまった。だが、違う。いる、確実に奴はここに。
千歳が動物的勘で〈天斬〉を飛ばせた。背中への斬撃は装甲を数枚切り裂くだけにとどまった。それでも軽傷とは言い難いが、斬り捨てられなかっただけマシだ。
「今のは、重力で光を呑み込んであらゆる情報から自身を隠蔽している!」
光を呑み込むのなら視界に移り込むこともなく、こちらのあらゆるレーダー類で捉えることは不可能だった。
宇宙空間、あらゆる方向から飛んでくる斬撃に〈天斬〉は切り裂かれた。輪廻核の再生能力、とてもではないが追いつかない速度でなます斬りにされていく。
千歳は〈天斬〉の腰部ビーム砲をデタラメな照準で発砲した。いくつもの輝線は宇宙という闇の中に消えていく――。
「そこか!?」
〈天斬〉は砲撃がわずかにねじ曲がった箇所があることを視認し、頭上からの斬撃を光子刀で受け止めた。
射撃で敵の軌道を制限し、予測して迎え撃つ。紙一重でそれを成し、死線をくぐり抜ける。相手の能力上、とても成功するとは思えなかったが、むしろ千歳としてはこのギルトだからこそ出来たと思う。敵の行動パターン、既に脳裏に刻んでいる。
「勝てないとはこういうことか。大口を叩いた割りには随分と陰湿なやり方じゃないか」
『君だけは自分の手で殺したくてね!』
ガッ、と機体に衝撃が走った。掴まれた。そのまま勢い良くギルトに押し出される。〈天斬〉の背後には、煌々と輝く太陽があった。そのまま陽の中へと〈天斬〉とギルトは突入した。
光学カメラが真っ赤に染まる。灼熱の海の中に〈天斬〉とギルトはいた。
灼熱が機体表面を焼き焦がし、機体の異常加熱を機械が警告する。慣性制御か、はたまた他のシステムがおこなっているのかは知らないが、熱伝導を抑制しておりコクピットが数千、数万という温度になることはなかった。それでも、機内の温度は急速に上昇していく。千歳の額に玉の汗が浮かんで流れた。
「レムリア、〈天斬〉は耐えられるか?」
「機体自体は太陽の中心でだって活動できる。でも、私たちはそこまで丈夫じゃない」
「より正確にいうと、俺が、か」
レムリアはギルトの血を引いている。その耐久能力は人間の比ではないだろう。彼女ならば、高温の中での戦闘も耐えられる。だが千歳はただの人間だ。これ以上機内温度が上昇し続ければ乾涸らびた死体になるのは必至だった。
千歳は光学カメラ――光量が制限されているのか、太陽の中でも目が潰れることはなかった――で前方を見る。空間の歪みからギルトが現れる。重力を操るギルト――いや、もしかすると重力ではなく、この世界の法則総てを司っているのかもしれない。ならばこれは重力異常ではなく、ただそう見えて、そうだと無理矢理認識しているだけに過ぎないのか。世界の忌むべき掃除屋が、こちらと同じルールに則って行動する必要などない。
――だとしても関係のないことだ。
斃さねばならないという事実になんら変わりはないのだから。
「戦えるならいい。俺が死ぬより先に奴の息の根を止めてやる」
俺だけは殺すなどと。そういうことをいった真意は知らないが、むしろ都合がいい。こちらを殺しに来るというなら、遠慮無く叩きのめせる。
ギルトが手にした刃を振るえば同数の重力刃が疾る。同時に三閃、顎、胸、胴。いずれを狙った斬撃はどれもが必殺。捨て駒などひとつもない。どれもが敵を攪乱する囮であり、同時にいずれも見逃しようのない必殺。よって総ての斬撃への優先度は同列一位。
ならばそれらを須く叩き落とすまで。
光子刀天津風を手放し、両掌部にエネルギーを集中。右手を上に、左手を下方から。三種の斬撃を力尽くで押しつぶす。
溶岩を切り裂き迫る神速の重力刃を視覚に捉えた訳ではない。ただ来る、だから迎え撃つ。視覚は最早意味を成さず、ここに至るまで鍛え続けた感覚に全神経を委ねて敵と相対した。
ギルトが白刃を構える。第二撃。
撃たせぬ、と無手で太陽を駆けた。灼熱の濁流をかき分け紅く光る〈天斬〉は、瞬く間に敵へと肉薄する。
右手首からせり出した光子刀時津風を抜刀し、ギルトの刃を受け止める。それを横へ受け流し――しかしそれを相手が力の矛先を変え、刃で首を狩りに来る――スラスターを噴かせ、間一髪回避し、灼熱に焼かれ爆散したスラスターに千歳は舌打ちをし、不安定な体勢で打ち込む――。
剣戟の応酬。
幾重にも幾重にも刃を打ち合わせ、その間にもタイムリミットは刻一刻と近づいていた。千歳の、〈天斬〉と繋がった視界が不自然に歪む。ギルトが重力でも操作したのかと疑ったが、違った。機内の体温が上昇して感覚が狂っているのだ。ディスプレイの警告はコクピット内の温度が八〇度を超えていることを告げていた。八一、八二、八三、カウントダウンのように温度は上昇していく。冗談ではなく、茹でた蛸のような情けない姿を曝すのも時間の問題だ。
太陽からの離脱はできそうもない。背中を見せれば即座に斬られる、そもそも距離を縮められる。レムリアの云っていたように重力で空間をねじ曲げて空間をショートカットしてしまうことができるなら、逃れようとする〈天斬〉を対象にしてその力を使えば、永久に脱出はできない。
この灼熱の牢獄から逃れるためには、目の前の敵を斃すしか方法はないのだ。
刃が閃く。互いの腕を切り落とす。即座に再生。切る、再生する。斬って斬って、切る。再生して再生して、また戻る。
「とっととくたばれ」
『さっさとくたばれ』
どちらがなにを云ったか判らなかった。どうでもいいことだ。
鏡写しのような剣戟は無限の再生に支えられて、永劫と切り結ぶ。
ギルトの声がコクピットに響く。
『お前を殺さないと苛立ちが収まらないんだよ!』
「知るか、くたばれ!」
どこかで聞いた声だった。関係のないことだ。
千歳は殺意と決意を持って刃を振るう。疲労と熱気を感じるほど高尚な神経はとうに麻痺した。
必死の形相でギルトと渡りあう千歳を、レムリアは見ていた。この、最早戦いらしい戦いとは云えぬ、意地と意地がぶつかりだした戦いを、もっとも近くで観戦していた。これは規模の大きすぎる、世界を股にかけた、ただの喧嘩だったのだ。
「そうか。そうだったんだ。〈天斬〉があっさりと千歳を許容したのは――助けたのは――」
なにも〈天斬〉のパイロットは千歳が最初ではなかった。ただ、誰も扱えずにすぐ降ろされていた。それを、陵 千歳がようやく乗りこなしたのである。機体に意志があるように選んだ。事実〈天斬〉には意志がある。輪廻核には意志があり、心臓であり脳髄である。機械に意志があるならば、自分を操る者を選ぶ権利は、ある。故にこの戦いは偶然ではなく、道理に基づいた必然。
千歳は怒りを込めてギルトを睨む。〈狂剣〉を殺そうとした裂夜と同じだった。身内の恥は他の誰にも渡さず、自分たちの手で拭わねばならぬ。
「だからここで消え失せろよ――」
『お前なぞに殺されて堪るか――』
「陵 千歳――――!」
『陵 千歳――――!』
ギルトの刀が砕け散った。しかしギルトが石突きで〈天斬〉の掌ごと〈天斬〉の光子刀時津風の柄を砕いた。手は即座に再生するが、もうその中に時津風の姿はない。灼熱に呑まれて太陽という星のどこかへと呑み込まれていった。
残されたのは拳。充分すぎる凶器。
〈天斬〉とギルトの拳がお互いの顔を打ち抜くのは同時だ。
互いの一撃は首をへし折る。すぐさま再生し、憤怒を込めて相手を睨む。
どうしてかは知らない。興味もない。だが千歳は確信した。目の前のギルトは陵 千歳だと。自分ではないが陵 千歳だ。
千歳の視界におぼろげな黒髪の男の姿が写る。自分より若い。それは数年前の千歳の顔。この顔は鏡の中以外で見たことがあった。昔にあったことがある。那殊と一緒にいた頃、目の前のこいつよりもさらに千歳が若かった頃に、会っている。
それはこのギルトだったのだと、直感で理解する。外見が老いていない、なんて些細なことだ。
平行世界。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。これはどこか、別の世界であり得た自分。それが目の前に悪夢の形として現れている。
千歳はギルトに向けて叫んだ。
「お前はどうしてそこにいる!」
ギルトが叫ぶ。
『ならどうしてお前はそこにいる!』
「お前を消し去るためだ!」
『俺もだ。俺も許せない。お前が生きていることが許せない。だから世界ごと消えて無くなれ!』
いつの間にか一人称が変わっている。猫かぶりが剥がれた。このギルトはおそらく自分が陵 千歳であることを認めたくなかった。だから別の人格を演じていた。そういうことなのだろう。
機内温度の上昇はとどまる事を知らない。九〇度を突破している。一〇〇度を超えるのもそう遠くはない。千歳は道理で操縦桿を握る手の調子がおかしいわけだと納得した。一〇〇度近くまで熱した物体を握り締めていれば、手が火傷するに決まっている。ただ、痛みはない。ぴりぴりとした痺れだけが神経を刺激していた。溢れたアドレナリンで、それは痛みと身体は認識できなかった。
ギルトの右手に重力反応。超重力の掌底を、〈天斬〉の右手に収束させた零距離掌部砲で迎え撃つ。
膨大なエネルギーの激突は周囲の灼熱を何百キロメートルにもおよび消し飛ばす。神によりかち割られた海のように、太陽にできる業火のない空白地帯。その中心には片腕を肩から失った巨人がふたりいる。
ぶつかり合う衝撃で千歳の頭から流れた汗は既に点ではなく面。頭からバケツの水を被ったように汗で顔を濡らし、口に入り込む。塩辛い汗を嚥下するが、呼吸すら痛いほどに水に飢えた喉にとっては気休めにもならなかった。機内の温度は一一〇度を超えていた。
津波のように押し寄せる溶岩がギルトと〈天斬〉を打ち据える。その勢いでふたりは太陽のより奥底へと落ちていく。四〇〇〇〇〇〇度、五〇〇〇〇〇〇度、数えるのも億劫になる数字の群れ。その中にあって〈天斬〉とギルトは揺るがない。右腕の再生をまたずして左拳を相手に叩き込む。〈天斬〉は暴発するのも構わずに至近距離からギルトに向けて腰部ビーム砲を発砲する。お互いに満身創痍の中、それを気にしないと千歳と千歳は罵りあう。
「なにが許せないだ。多くの世界を壊して渡り歩いてきた奴がよくもぬけぬけと!」
『俺はただ狂ったプログラムを利用してやっただけだ。結果的にギルトの統括システムとして利用されていることも知ったことか』
「人を殺し回る機械に乗ってるだけで無関係だとでもいうつもりか」
『憎いんだよ!』ギルトの拳が〈天斬〉の頭部をこそぎとる。『特にお前が憎いんだ。那殊に救われたお前が。ここに来るまでの道程など知ったことか!』
隻眼となった〈天斬〉のカメラが鈍く光り、ギルトを睨み付ける。
「那殊が、どうした!」
『知らないのさ、お前は。那殊のお陰でどれだけ自分の運命が変革させられたか。家族を殺されたことがどれだけ救いになったことか、恨む対象がいるだけでどれだけ救われたか!』
ギルトの拳が重みを増した。〈天斬〉の腹部を貫いた拳が背骨に当たる骨格を掴み、引きずり出す。灼熱が流れ込み、〈天斬〉が体内から熔解させられていく。ギギギ、と反響する金属音は〈天斬〉の悲鳴のようだった。
その言葉は千歳の逆鱗に触れた。〈天斬〉がギルトの左肩を掴み、引きちぎった。
「家族が死んで救われた? 殺されて救われた? 巫山戯たことを抜かすな!」
『救われたさ! 那殊が殺してくれなかったら、家の連中はあの時襲ってきた奴らに殺されていたんだから』
千歳はかつて陵家の裏山で遭遇した特殊部隊の人間と思われる集団のことを思い出す。そういえば、あれはいったいなんだのだろう――。
『あの部隊の奴らは他の国の軍隊だよ。神国の弱体化がしたくて陵の家を襲ったってわけだ。なんとも馬鹿らしいだろう。あんな家がひとつ滅んだところで国が衰退するわけなんてあるわけないのに、この国は信仰が強いからって象徴的なものを潰しにかかったのさ』
〈天斬〉とギルトの腕が、身体が、再生される。すぐさまに放った〈天斬〉の拳はギルトに届かない。重力によりねじ曲げられた法則により、目の前にいながら〈天斬〉とギルトの間の距離は無限に膨張を続けて、この拳は届かないと改変される。ギルトが〈天斬〉の拳の着弾点から逃れ、重力異常が解除される。相手の拳は〈天斬〉の胸を穿った。
『その結果が戦争だ。〈鬼獣〉もいない世界は人同士の戦争、そしてギルトに喰われて幕を下ろした――なんてくだらない世界だ』
ギルトの言葉は怒りよりも笑みが強かった。憤れない。滑稽だったのだろう。その顛末があまりに喜劇で愚かだったものだから、怒りを表すよりも嘲笑が濃くでてしまうのだ。こんな馬鹿げたことで自分の大切なものがかき乱されたと。
『俺の時は裂夜も雷華も残らなかったぞ。あの時家にいたからな。お前の世界でふたりが無事だったのも那殊のお陰だ。以前ふたりが那殊と会っていたから、女の子らしく外見を気にして遅くまで外にいたから、だから外にいて無事だったんだ』
「だが、それでも――」
殺されて救われただなんて、思いたくない。
『那殊に家族を殺されて哀しかっただろうさ。だがお前が憎しみも恨みも向ける相手は那殊だ。人じゃない。彼女は自分が必要悪になることでお前を救ったのさ。数多の平行世界を巡った那殊には、お前が破滅する幾つかの未来を見ていたから、そう決断してな。
――だからこそ俺はお前も許せない』
殴り、蹴り、殴り、殴り、蹴る。いったい幾度〈天斬〉の拳は砕け、消し飛び、そして戻ってきたのか。〈天斬〉の機内温度は一六〇度を超えていた。千歳の視界はかすみ、自分の打っている拳がギルトに命中していることが不思議だった。頭がからっぽになり、血すら蒸発し始めているような悪寒がする。
『俺はあらゆる陵 千歳の可能性を赦さない。もっとも忌むべきは救われているのに、その価値を理解できていないお前だ』
喉が引きつり、千歳は言葉が出せなかった。否定と意志による言葉を返さなくてはいけないのに、そのための力が千歳には欠けていた。
答えられない千歳の変わりに、レムリアがギルトに答えていた。
「それで、ここまでのことを? ギルトでありながら陵 千歳であるということは、ギルトに吸収されたということだろうけど――そんな状態で、こんなことを?」
『ああ、そうさ。ギルトに喰われた俺は、そのギルトを乗っ取った。ギルトの捕食は食物連鎖のためや肉体の維持のためでなく、対象の情報の獲得のための行為だ。その中で俺は待った。お前の父のように自我がギルトを塗り替え、自分のものとできるまで』
――執念だ。
地上で猛威を振るっている幾万のギルトに自我があるなどと、言葉を操るなどと、そんな種がいたとは報告されていない。そして、千歳の背後にいるレムリアから漂うのは驚愕の気配だ。通常、あり得ないのだ。レムリアの父のように、このギルトのように、自我が目覚めること自体がイレギュラーなのだ。海に溶けた珈琲だけを掬いとるような、そんな奇跡。それを憎悪でもって成し遂げた。しかも、今やギルトの中枢を掌握している。それがこのギルト、陵 千歳の正体。
『ギルトは全世界の消滅と共に消え失せる。自殺の手助けをしているようなものだ。くだらないと思うか、俺の憎悪』
「――いいや、そうは思わない」
かすれた声で千歳はギルトの言葉に応えた。声帯を震わせるだけで、喉がチーズのように裂けてしまいそうな激痛がはしった。
「それは世界を滅ぼすに値する怒りだ」
陵 千歳にとって、世界を喰らうにあまりある憎悪だろう。
――もし。
もし千歳の経験など不幸でないというのならば。それ以上の不幸が世界にあり、境遇にある人間がいて、この程度で世界殺しなどという愚行に走るとは、などと断言する者がいるならば。それはどうしようもない愚か者か、祝福すべき幸せ者なのだろう。
不幸に比較は必要ない。憎悪に順位はない。何故なら、他人の不幸を味わうことは生涯あり得ない。それを比較して格付けすることがどうしてできようか。知ることもできず、比較する意味もないのなら、それらは総て自身の中でのみ完結するべきだ。
陵 千歳にとって、家族が人の策謀に巻き込まれ殺されるというのは、想像できる最大の憎悪の対象だった。他人の不幸と、他人の価値観が介在する余地はない。
ギルトを喰い破り、絶望的な確立の中で自我を萌芽させ、ギルトを掌握した。それほどのことを成し遂げさせるに値する憎悪を胸に灯らせるほどの。
「なら、俺の返答も判るだろう」
骨格を形成、肉となる機器類形成、外装を形成。再生していく〈天斬〉の目で、千歳はギルトをまっすぐに射貫いた。
「同時に、俺の背中にあるものは命を賭けて守るに値するものだ――!」
喉が裂けて鉄の味が千歳の口の中に広がった。溢れる紅い血液を飲み干し、ギルトを〈天斬〉の拳で殴り飛ばした。
『上等――!』
〈天斬〉とギルトは無限と殴り合う。
しかし中のパイロットの生命は無限ではない。ギルトの千歳は、違うだろう。だが、〈天斬〉の千歳の体力は有限だ。事実、既に限界が近づいている。機内温度は二〇〇度。今までこのギルトと渡り合えてきたこと自体が不思議な位だった。
千歳は残された時間は短いと感じていた。それまでにギルトを斃さねばお終いだ。
相手がギルトならば輪廻核を壊せばいい。問題は、このギルトには輪廻核の反応がなかったということである。仮に輪廻核という心臓部がないにも関わらず、無限に再生を続けるとするならば、殺す手段がない。お手上げだ。よって、打開策があるものとして千歳は考える。そうでなければ戦う意味がない。
輪廻核がないというなら、一瞬で肉体すべてを消滅させてみるのはどうか。そう考えたが、太陽の中で平然としているのだから、中心部まで誘い込んでも無理だ。そもそも、輪廻核を持つ〈天斬〉からの攻撃でしか、事実上このギルトにはダメージを与えられない。
千歳の視界が明滅する。絶望的に水分が足りなかった。
「千歳」
女性の声だ。千歳は自分を呼ぶ声がレムリアのものであると気づくのに、いくらかの時間を要した。ギルトと殴り合っているにしても、あまりに長い時間だった。この熱気に、意識が混濁していた。もう、機内の温度がどれほどまで高まったか、数字を読み取ることはできず、ディスプレイと思わしきものの輪郭を認識することしかできなかった。
「なんだ」
機体を襲う衝撃に舌を噛まないように気をつけながら、千歳は彼女の声に応えた。
「ひとつ、忘れないで欲しいことがある」
千歳の声が小鳥の鳴き声のようにかすれたものであるのに対して、レムリアの声はいつもと同じではっきりしていた。いや、いつもよりも力強く千歳の胃に落ちる。千歳が弱っているから強く聞こえるというわけでもないようだった。
「雷華と、裂夜と、あの那殊とかいう女も。それから神国の、千歳の知ってる人たち。全員のことを忘れないで欲しい」
その言葉で、千歳のかすれている視界にいくつものくっきりとした幻影が浮かび上がる。思い出だ。思い出の中にいる人たちの顔がよく見える。その中には死んだ母の姿、父の姿もある。自分が生きていた中で会ってきた様々な人たちの姿だ。
忘れないだろう。この記憶の中で、そしてこれからも現実で生き続けてもらいたいと願う人々の顔を生涯忘れないだろう。
生涯忘れない。ここで終わったら、その生涯忘れないという誓いもちんけなものになってしまう。それだけは、嫌だ。
「……ああ、忘れないさ。お前のことも」
足りない人を、レムリアの言葉に千歳は付け足した。
「当然すぎて忘れてた」
「やれやれ」
苦笑する。たわいもない会話で、身体に幾ばくかの力が戻っていた。気合で負けたら何もかもお終いだ。気をしっかりともって、おぼろげな視界でギルトに挑みかからねばならない。
「これだけ覚えていれば、きっと大丈夫。あのギルトみたいに、変わってしまうことはないと思うから」
きっとギルトの千歳と、ここにいる千歳を別つものがあるとすれば、きっとその点なのだろう。その部分において、このふたりの千歳をまったくの別人たらしめている。
そうだ。これさえ肝に銘じておけば、変わってしまうことなどない。
「――変わる」
ぼそりと千歳は呟いた。
「ギルトに変わる、か」
――そうだ。
「奴に輪廻核がないわけじゃない。ただそのサイズが問題なだけだったんだ」
〈天斬〉に送られてきた数年前の自分の姿。あれはイメージでもなんでもなく、事実存在する映像が流れ込まれてきていた。そして千歳は、かつてギルトの千歳と出会っている。生身の、人間サイズのもうひとりの千歳も今この世界に実在するのだ。だから、目の前の白い巨人は正確にはギルトではない。人でいうところの〈GA〉だ。
なら、パイロットが――輪廻核を持った、ギルトになってしまった千歳が乗り込んでいるはずだ。
「レムリア、奴の輪廻核を探し当ててくれ。ただしサイズは、あの巨体から類推できるものじゃない。もし仮に、人間サイズのギルトがいた場合の輪廻核のサイズ――それを目標に」
この〈天斬〉に搭載されている輪廻核を探知するセンサーは、いわば地球を監視する人工衛星と同じだ。精密で、その気になれば隅々まで相手を探知することができる。だが、使うのは人間だ。監視できても、監視する対象をターゲットしていなければ、広大な土地を探す羽目になる。
あの白き巨人は今の〈天斬〉と同等のサイズ。その輪廻核が、もし人間の体内に入るほど小さいものであるのならば、探すべき目標を見失っている時に探知するのは難しいはずである。
わかった、とレムリアは短く答える。三〇〇度近い機内温度の中でも、レムリアの動きは機敏だった。頼もしい相棒を持ったと、千歳は誇らしくなる。
同時に、千歳の身体の限界がもう目と鼻の先にまで迫っていた。
涙すら涸れ果て、目も満足に開けなかった。〈天斬〉の光学カメラの情報は操縦桿を通して脳裏に叩き込まれているとはいえ、それすらおぼろげだ。なにがどうなっているのか認識するのすら、もう千歳には至難の業だった。
おおざっぱに目測をつけて腰部のビーム砲を放つが、ギルトは機敏な動きで太陽の中を飛んで躱した。瞬間、ギルトが重力で距離をねじ曲げ〈天斬〉の懐に入り込む。至近距離からのブラックホール・ディザスターを掌部砲で迎え撃つ。――間に合わない。
銃爪を引くスピードが遅れ、押し切られた。ギルトの掌部が〈天斬〉の右腕を呑み込み、上半身事消し飛ばそうと迫る。
その腕を〈天斬〉の左手が掴んだ。掌部砲が唸り、ギルトの腕の肘から先が吹き飛んだ。
ギルトの腕はまだもう一本残っている。太陽の溶岩を呑み込みながら渦巻くブラックホールがギルトの残された掌に浮かび上がっていく。
――撃たせるものか。
先は外した腰部ビーム砲の銃口をギルトに向けて撃った。
下半身を吹き飛ばされたギルトは掌部のブラックホールの形成に失敗する。霧散霧消と消えていく暗黒に一瞥くれる余裕すらなく、千歳は縋るような思いでレムリアに訊ねた。
「見つからないか?」
「待って、もう少し。もう少しで……」
鼻につく臭いがする。千歳は自身の手の痺れが悪化していることに、今更ながら気づく。それ以前に、意識してみても感覚が不確かだ。手がついているのに、手首から先になにもないような違和感がある。そうか、と臭いの正体に気づいた。肉の焼ける臭いだ。
レムリアは、大丈夫だろうか――そんな心配すらギルトの猛攻によって遮られる。
ギルトの攻撃をどれも紙一重で捌き、流し、〈天斬〉は耐え抜く。〈天斬〉を操る千歳の身体は軽くなっていた。水が抜けたからだろうか。不思議と不調は感じない。ただ、これが消えかけた蝋燭の最後の輝きだということは千歳自身もよく理解していた。
「……見つけた」
レムリアが、そう呟いた。
「左胸、人でいう心臓の位置。――ある。小さなな輪廻核の反応がそこにある」
「いるんだな、そこに……奴が」
ついに、見つけた。
「大きさは一〇センチ程度。それを砕くことができれば、斃せる。けど……」
それは目をつぶって針の穴に糸を通すよりも難しかった。単純に全高が二〇キロメートルを超える巨人、その面積も規模も通常のギルトとは桁違いだ。その中で、たった一〇センチの大きさの球を狙って砕かねばならない。しかも、目に見えることはない。おおまかな位置こそレーダーで探知できたが、目に見えぬもの破壊しなければならないのは途方もない労力を必要とした。
そして、千歳の視界が黒く染まっていく。ついに視神経にまで障害が及んだ。千歳はもうほとんどものを見ることが叶わなくなっていた。これでは目隠ししているも同然だった。
超巨大な相手の極小の点を目の見えぬ状態で貫かねばならぬ。それがこの戦いに唯一残された勝機。
――だが、それでもやるしかない。
閉ざされていく視界。まともに見ていられるのは、残り八秒と、千歳は当たりをつける。
充分だと嘯いた。
「やってやるさ。それで勝利だ」
ぐっ、と〈天斬〉が右拳を握り締め、腰の辺りまで引いて、構えた。
〈天斬〉のその動きに、なにかしようとしているのか感じ取ったのか、ギルトの動きが鈍る。迂闊に近寄ろうとはせず、距離を置いた。その手に集まるのは黒星の禍々しい、光すら喰らい尽くす暗黒。
残り五秒。
暗黒は〈天斬〉を消し飛ばすだけの威力を孕んでいる。見逃すわけにはいかないと、〈天斬〉はギルトに向かって疾走する。颶風となって太陽の灼熱をかき分けて、ギルトへと迫る。
だが黒星の生成は早かった。〈天斬〉の接近を前にして、暗黒の煌めきは形を成す。太陽を呑み込みながら、ギルトの姿すら見えなくなるほどの重力の歪みが〈天斬〉の眼前に現れた。
引き絞っていた拳を、〈天斬〉は前方のブラックホールに叩きつけた。光を呑み込み、黒い空白としか認知できぬそれに真っ向から殴りかかった拳は、五指を開いて掌部砲を最大出力で撃った。
〈天斬〉の右腕が崩壊していく。その壊れていく端から再生を始める。破壊されても再生し、掌部砲はブラックホールに食らい付く。
残り三秒。
輪廻核の再生スピードが崩壊速度についていけなくなる。〈天斬〉の右腕はブラックホールに呑み込まれていき、しかし、ギルトの生み出したブラックホールも〈天斬〉の発するあまりのエネルギー量に耐えきれなかった。〈天斬〉の右腕とブラックホールはほぼ同時に消し飛ぶ。
ブラックホールがあった場所を突き抜け、〈天斬〉はギルトへと飛ぶ。残るは左手。手を開き、掌部砲の構え。
千歳は最大の集中をもって、ギルトにその腕を突き出した。
だが、ギルトの動きは未だに衰えていなかった。〈天斬〉の突きは虚しく空を切り、ギルトは一気に〈天斬〉の懐に潜り込む。
ギルトの手の中には重力塊。
残り一秒。
ギルトの重力塊が、〈天斬〉の腹部をこそぎとった。太陽の火の渦へと呑み込まれて消えていく〈天斬〉の下半身。左腕は今から引いて戻していては間に合わない。
閉ざされる視界。もう間に合わない――。
千歳の目が光を失うよりも、ギルトのトドメは早い。引いて戻した貫手の向かう先は〈天斬〉のコクピット。狙いを定めて、打たれ――。
――ギルトの腕が〈天斬〉の胸を貫いた。
「――――獲ったぞ」
声は陵 千歳のものだ。確信した勝利の雄叫びは、力強かった。
〈天斬〉の――〈狂剣〉から受け継いだ刀がギルトの左胸に突き立っていた。
そこにいた〈天斬〉は、千歳の慣れ親しんだ蒼き機体だった。全長二〇メートル。先程までの巨大な〈天斬〉と、そしてこのギルトとくらべればなんと小さきことか。だが、その小さき者が、確かにギルトの――陵 千歳の輪廻核を貫いていた。
巨人〈天斬〉のコクピット、それはかつての〈天斬〉と寸分違わぬほどにしっくりと千歳の身体に馴染んでいた。それもそのはずだ。同じものなのだから。
ギルトの貫いた巨人〈天斬〉の胸部、コクピットのあった部位には何もない。従来の〈天斬〉を緊急時用に組み込んでいたのだ。
『離脱と同時に……か。抜かったな……』
輪廻核を光子剣で貫かれ、身体の大半を焼き切られたギルトの千歳が呻いた。
『お前にだけは、負けたくなかったんだが』
「奇遇だな。俺もだ」
『まったく、どこで差がついたのだか』
「簡単なことだ。お前はひとりで、俺は運良く人に恵まれていた。たったそれだけの、時の運だ」
千歳は、このギルトのようなことをしようとは微塵も思わない。だけど、もし同じ境遇にいてしまったならば、このような凶行に走ってしまったかもしれないとは思う。同情でもなく、事実としてそう認識する。ただ、自分がそうはならなかったのは、色々な人たちが回りにいてくれたからだ。実力だとか、人生だとか、年月だとか、ふたりを分けたのはそんな大層なものではなく、ただそれだけのこと。
『ああ、本当に妬ましいな――くそ――』
死の間際、ギルトは最後に吐き捨てる。
『精々、報いるんだな。どうせお前にできることなんてそのくらいだ――』
ギルトの巨体が、力を失って太陽の彼方へと消えていく。灼熱にて燃え消えゆく姿を見送り、千歳は聞こえる訳もないのに、答えた。
「わかっているさ」
――そんなこと――。
言葉は最後まで続かず。
灼熱の業火に炙られて、千歳の意識が黒に染まった。