52:闘争はかく語りき
蜂の巣があったとする。
無数の生物が身を寄せ合い、息を潜めた巣に異物が紛れ込めばどうなるのだろうかと、幼き子供であれば一度は夢想するだろう。自分の行動の結果がどのような危機を招いてしまうかは考慮にいれず、好奇心に突き動かされて蜂の巣を路傍で拾った木の枝で突くのだ。
例え人の子が非力であるとしても、無力ではなく、蜂たちよりもずっと大きな身体も持っているのだから、それは巣に住まうものたちにとって命を脅かす災厄である。子供の襲来に蜂は巣から溢れ出て、身を守るための鋭利な針と強靱な顎で子供の柔肌をボロ雑巾のように切り裂くだろう。単体では小柄な蟲であるとしても、だからこそ群体となって加減をすることもなく必死に敵を撃退する。そうして子供は判断が愚かであったと理解することができる。恐怖でもって脳裏と身体に刻みつけられる。無垢で白い子供は学習することができるのである。
だが、それが蟻の巣であった場合はどうだろうか。土に根を張る蟻の群れ。子供は公園の水道設備にある蛇口を捻って水をバケツに汲んで、そこに流し込む。するとどうだろうか。溺れて手足を振って藻掻く蟻が浮かび上がってくるではないか。溺死していく蟻、無力にも命尽きていく蟻、その様子に子供は嫌悪感を浮かべることもなく、小さな肉体で痺れるような甘い快感を甘受する。
――ああ、自分が全部殺したのだ。
倫理観も行動の是非も善悪も、そういった価値観のない真っ白な子供といった生物は、自分の意志ひとつで死んでいく生命の群れを見るのが面白くて仕方ない。抵抗もできず息絶えていく様は、頬が紅潮するカタルシスを与えてくれるのだ。
つまるところ、致命的なまでにスペックの違う弱者を迫害するのは人にとって喉を鳴らして笑いたくなるほどの愉快で歓喜な快楽行動なのだ。
そうした意味で人間とは蟻であり、ギルトこそが人間と呼ぶべきだった。少なくとも、この屍山血河ではそうした意味だ。
硝子に爪を立てたようなギルトの甲高い雄叫びは、真っ白な自身の肉を走り抜ける快楽によるものだった。阿鼻叫喚の悲鳴をあげるのは、今となっては墓標としか云えない倒壊していくビル群を走り抜けていく人々だ。
へし折れた高層ビル群はまだひとつひとつが〈防人〉や〈切人〉などの〈GA〉よりも巨大であったが、それでもギルトの胸辺りの高さしかなかった。それだけギルトの巨体は一方的に、そして圧倒的だった。
一体のギルトは、眼下で走り回る人間に口――としか形容できない器官で孤月を描く。倒壊するビルの下敷きになって紅い染みになる人や火災で火だるまになって炭化した黒い死体をまるで玩具のように思っている様子だった。
ギルトは不定形の自分の身体から生やした一対の腕でビルを破壊するのをやめて、これまた人を模して生やした足で地面を蹴って飛び出した。積み木遊びを止めたギルトが地面に勢い良く寝そべると、蟲の卵をぷちぷちと潰すように下敷きになった人の身体が弾けていった。身体を転がすだけで、必死に逃げ惑う人が抵抗虚しく真っ赤な離乳食のペーストになっていく。ジタバタと暴れて、必死に、命を賭けて、それこそ生涯でもっとも力をひねり出しているのに、どんな努力も、男女すら関係なく、ギルトの白い肉の下ですり潰される。理不尽としか云いようがない。が、それを与える側は楽しくてしょうがない。己が発した罵詈雑言が人を傷つけることを倫理観ではタブーと考えても、想像するだけで楽しいというのだから、物理的に、直接的に手を下して何かが苦しむ様を観察するのは快感を覚えぬわけがないのだ。それが自分に似ていたり、知識のある存在相手なら尚更だ。
もっとも、ギルトの場合は似ているのではなく、似せているの方が正しいのだろうが。
こうして、鑞国首都モックバは襲来したギルトの軍団によって蹂躙されていた。
最新鋭技術の粋を集めて建築された、美しい曲線で構成されていた高層ビルも既に見る影もなく、修復と補強を繰り返されてきた歴史的なバロック様式の修道院もただの廃墟と化して、煉獄から漏れ出した炎にちろちろと熱烈な愛撫を受けて溶け、果てる。
長年〈鬼獣〉の進行にすら耐えた堅牢なる首都モックバが灰燼へと変貌させられていく。ギルトの侵攻は止まらない。
ギルトが震った腕がビルを薙ぎ払い、中程から折れて落ちていく。瓦礫にまた多くの逃げ遅れた民衆が犠牲になった。
ただ、幸か不幸か。生き残ってしまう者もいる。その時被害を奇跡的に免れていたのは子供だった。建物から離れていたお陰と、よほど運がよかったのか。幸はいうまでもなく、ならば不幸は自分の家族の死に様を見せつけれてしまったことだ。
落ちたビルから逃れても、子供の両親は飛来する瓦礫を避けられるほどには幸運ではなかった。いや、子供の背中を押して、自分たちの命運を総て我が子に委ねたのである。しかしその行動によって、子供はこの地獄絵図の中に残される結果になった。両親のそれは疑いようもない好意であり、讃えられるべき英断であったが、この場の子供には絶望的な状況で繋いでいた手を離された不幸でしかない。ましてや、振り向いたら瓦礫の合間から両親の血まみれの腕が付きだしているのだからそれに拍車がかかる。
ギルトから逃げるのも忘れて、その子供は親を助けようと体重を乗せて腕を引く。ようやく尻餅をつきながら引きずりだしたものには、肘から先が存在しておらず、涙を流すこともできずに放心した。
アスファルトを踏みならして、ギルトは足下の子供にも気づかずに前進しようと足を振り上げ、銃弾で眼球を釣瓶打ちにされて仰け反った。
「こちらクリーガー・フュンフ、Y7にてGILTと接敵!」
《クリーガー・アイン、確認している。直ちに援護に向かう。無事にとは云わん、死ぬなよ》
「了解!」
空から落ちた深紅の流星がギルトの眉間――と思われる部位――を蹴り抜いた。
鑞国の機士、〈クラスナヤ〉が飛行の勢いのままに突撃したのだ。目を穴だらけにされて体液を涙のように噴出するギルトにその一撃を躱すだけの余裕はなく、体勢を崩して、地に転がった車や街灯を押しつぶしながら斃れ伏した。
未だに戦場で最新鋭機と肩を並べて戦っていても見劣りしない、マイナーチェンジを繰り返しながら前線で活躍し続ける傑作機、〈クラスナヤ〉。長年に渡る鑞国人の知得と経験から削り出された無駄のないフォルムは、機体スペックとはまた別のところでパイロットから万感の信頼を寄せられるに相応しい。
複雑な面構成していない、頑強な深紅の装甲から伸びるマニピュレーターで掴んだアサルトライフルを〈クラスナヤ〉は至近距離からギルトの肉体に撃ち込む。銃口からマズルフラッシュをカメラのフラッシュのように絶え間なく瞬かせながらの銃撃は、ギルトの頭部であろう部位を跡形もなく細切れにする――が。
先程まで口や目があった場所から類推すると、臀部に相当する位置に切れ目が走り、顔にあるべきはずの器官がずらりと並んだ。
殺しても死なない。まるで悪夢でも見ているのではないかと思うが、これが夢ならどれだけよかったことか。
「くっそぉおおおおお」
ギルトの弱点はわかっている。身体の中心部にある輪廻核と呼称されている心臓部だ。それを破壊すれば、どれだけ肉が残っていようが朽ちる。人が脳天に小指の先ほどの鉛玉をぶち込まれれば死ぬように。
ギルトの厄介なところは、輪廻核が健在である限り、半永久的に再生を続けることだ。質量保存の法則だの、エネルギー保存の法則だの、まるで関係ない。
〈クラスナヤ〉のパイロットは〈GA〉とリンクしている視覚情報に輪廻核破壊のために情報を投影する。目の前のギルトに不自然な青色のマーカーが現れる。そのマーカーは輪廻核があると推測される場所に表示されているのだ。〈GA〉のコンピュータが導き出した情報を頼りに、〈クラスナヤ〉はアサルトライフルの照準をそちらに変えて銃爪を引いた。
怒濤の勢いで発射される弾雨は〈GA〉の装甲以上の強靱さを持つギルトの肉を吹き飛ばす、が、かちんと無情な音を立ててアサルトライフルは弾をはき出すのを止めた。
後もう少しで輪廻核がむき出しになるかもしれないのに、弾切れとなったことにパイロットは舌打ちをする。弾倉の交換を敵と密着した状態でやるのは自殺行為も良いところだ。〈クラスナヤ〉に迷いなく銃器を投げ捨てさせると、太腿に収納していたEVナイフの柄をせり出させて、抜刀した。
それでギルトの傷に追い打ちをかける。肉を切り、〈クラスナヤ〉の頭部が返り血で更に紅く染められる。雄叫びをあげながら、パイロットはEVナイフで敵を切り開き、ついに輪廻核を曝すことに成功した。
「くたばれハンバーグ野郎……っ!?」
輪廻核にEVナイフを叩きつけてやろうとするあまり、真横から文字通り生えてきた腕に〈クラスナヤ〉は易々と捕まってしまった。さっきまでなかったからといって、今もないとは限らない。正攻法が通用しないランダム性のある謎の生体がギルトなのだ。理解はしても、本質的に納得して対処するのは容易ではなかった。ギルトの手に〈クラスナヤ〉の腕を掴まれると、まるで鉛筆を人が握り締めているようなばかばかしさであった。ギルトが少し力を入れただけで、EVナイフを握っていた〈クラスナヤ〉の腕が肩から引きちぎられた。
肩から硬化オイルを血液のように噴き出させた〈クラスナヤ〉は腰部のスラスターユニットをギルトに向かって噴かして距離をとる。その時には既に肩から溢れたオイルは外気に触れて硬化していた。まるで止血をするためにできるかさぶただ。
「やられちまった、これじゃあ……!」
《いいや上出来だ。任せろ》
〈クラスナヤ〉に追い打ちをかけようとしていたギルトの上空から、〈クラスナヤ・ヴォルク〉が向きだしの輪廻核の上部に着地し、アサルトライフルを密着した状態で叩き込んだ。いくらギルトといえども、この距離で銃弾の雨を数秒間に渡り輪廻核へ叩き込まれれば、紅玉は砕け散り、その活動を止めた。
現れた〈クラスナヤ・ヴォルク〉に、〈クラスナヤ〉のパイロットは安堵と歓喜の声を上げる。
「隊長、助かりました!」
《お前も無事でなくとも生きていたようで何よりだ。こちらは今ので最後か。……ここから北西の方角が一番近い戦場だな。俺は他の部隊の援護にまわる。お前は一度後方に下がれ》
「はい。しかし、自分も同行させてください。このまま、誰も護れないなんて、そんなのあんまりだ。
正義漢ぶるつもりはないですがね、今日この場にいたっては頭にきますよ」
〈クラスナヤ〉の頭を振れば、そこには逃げ遅れた死体死体死体。シェルターに逃げ込むのが遅れた、定員オーバーに達して移動を余儀なくされた人々の屍の山。〈鬼獣〉との戦闘、職業軍人をやる限り死体とは見慣れた存在だ。昨日一緒に飲み明かした友人が次の日戦死、なんてことも珍しくない。それでも、無数の民間人が骸を曝しているというのは、誰しも堪える。その有様だけではなく、民衆を護るといった役割を与えられているはずの軍人であるにもかかわらず、むざむざと死なせてしまったことが、酷くショックだった。
《阿呆が、上官命令だ。忘れるな、犬死には赦さん。それと、だ。お前は護れた奴はいるだろう。その子を安全な場所まで送り届けろ》
「え……」
あれだけの戦闘でありながら、生存者がいた。〈クラスナヤ・ヴォルク〉の示した地点に〈クラスナヤ〉の光学センサを向けると、子供が地べたに尻餅をついていた。まだ見た目では男か女かも判別できないほどに幼い子供だ。
「……了解。民間人の避難と後方による支援任務に移行します」
すぐに冷静さを取り戻した〈クラスナヤ〉のパイロットは首肯すると、子供の近くに機体の膝をつかせた。それを一瞥して、クリーガー・アインの駆る〈クラスナヤ・ヴォルク〉は新たな戦場へと飛び去っていく――。
道中、クリーガー・アインは雲をも貫く閃光が地上より放たれたのを見る。その光学兵器を放ったのは一〇〇メートルはある機械の巨人だ。
巨人、といっても、そのシルエットは爬虫類を想起させた。いや、とクリーガー・アインは首を振る。あれはそんな生やさしい物ではない。いうなれば、神域の獣。幻想の結晶。最強の生物。
――ドラゴン。
人型の深紅の竜は、輪廻核だけを砕かない。ただ、正面から圧倒的な火力でもってギルトごと吹き飛ばした。再生などできようとも、他の有象無象と変わらぬと、幻想の化身は吐息で敵の存在そのものを駆逐する。
クリーガー・アインは尊敬と畏怖を持って、その竜の名を洩らした。
「おお、我らが龍神〈ズメヤ〉――」
鑞国の〈機神〉は、自身の住処を荒らされ怒り、その咆哮は大気を震撼させた。
人類は〈鬼獣〉によって種の存続を脅かされていた。
それでも、鬼人との共存を実現した国があった。〈鬼獣〉への対策を打ち出し、最低限の安全を確保している国々もある。
正体不明の生命体に脅かされていながら、技術の発展と長年の闘争、それによる人間同士での争いの減少。人は閉塞された現実という退廃的世界に慣れ、小康状態に陥っていた。
〈鬼獣〉との命のやりとりを日常として目を逸らし、首の皮一枚で安定を得ていた人間は、ある日を境に別の獣との戦いを余儀なくされた。
GIant Lamentable Tactical target――GILT――。
世界各地に現れる奴らによって、人は水際の攻防を余儀なくされているのだった。