47:Fall down
空に蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。何処にあるか、どうしてなのか判らない。
ぱりんと、
ただ空が硝子細工のように割れたのだと理解するしかなかった。
夕暮れの空に白の絵の具を落としたような空白があった。夕暮れの光を受けても純白を保つそれは、不自然に合成された映像と同じ現実味のなさがあった。
空白――否、それは白い塊だった。白濁の塊が重力に引かれて、雫のように地面へ落ちていく。
空が砕けるなどという非常識が原因だったのか。誰もその砕けた場所がどこで、どれだけ離れているのか、その距離感を理解はできていなかった。だから、争う〈鬼神〉たちから数キロメートルと離れぬ場所に白の塊が落ちた時に、はじめてその位置を識ることができた。
その塊がいったいどれほどの質量を持っていたのか。地面へと塊が激突すると、高度な姿勢制御能力を持つ〈鬼神〉さえも膝をつくほどの衝撃が基地を襲った。遅れて襲いくる轟音。巨人さえ怯む衝撃に、無論人が立っていることなどできるわけもない。
地面が割れんばかりの揺れに、千歳たちは地面に叩きつけられた。頭が勢い良くコンクリートに叩きつけられ、額が割れて血が流れる。脳を揺さぶられて、千歳の目の前が真っ白になった。
千歳は手をついて、身体を起こす。肉体の節々に鈍い痛みがあるものの、奥歯を噛んで退けた。痛みよりも倒壊する建物に巻き込まれないことの方が重要だった。
しかし、焦点の合わない目では周りの人間を抱えて逃げるなど到底できるわけもない。千歳の背筋を冷たいものが伝うが、一向に瓦礫が身体を押しつぶす瞬間は訪れなかった。
千歳が眉根を寄せて、目に力を込める。額から流れる血が危うく目に入り込みそうになるが、それを拭っていると、次第に目が焦点を結んだ。
正常になった目が見たのは、千歳たちを中心として円を描くように落下している瓦礫だった。
「これは……」
自分の周りに斃れている雷華とレムリアの様子を確認しながら、千歳は声を洩らした。雷華の意識は虚ろな様子であったが、怪我はたいしたものではなさそうだった。レムリアの方に至っては心配する必要はまったくない。かすり傷もしておらず、むしろもう立ち上がってすらいた。むしろ身を案じられるのは千歳の方である。
どうして無事なのかと疑問を抱いていた千歳は、レムリアがじっと見つめている者のことを思い出した。レムリアの視線の先に、震動さえも柳の枝のように受け流してしまった優美な少女がいた。
可憐な花模様をあしらった鮮やかな着物を纏っている少女、那殊は、扇で口元を隠して、憮然としていた。千歳たちから目を逸らして、ぼうっと所在なさげな彼女に、千歳は自分の身に降りかかった奇跡の正体を把握する。
「もしかして、これはお前がやったのか、那殊」
「自衛をしたら偶然そちらの瓦礫も吹き飛んでしまったまでのこと。助けたわけではない」
さすがにそれが真っ赤な嘘であると千歳は悩むまでもなかった。偶々、でこうも綺麗な形を描いて瓦礫が転がっているわけがない。故意でなければできぬことだ。
なんと言えばいいか数瞬迷った挙げ句、千歳は素直に頭を下げた。
「礼を言っておく。助かった」
「偶然であると言ったばかりじゃろうが、阿呆め」
今となっては頭を下げる相手としては抵抗があるものの、こうして雷華やレムリアも助けてくれたことに違いはない。そこで千歳が礼を言うものだから、那殊は益々居心地の悪そうな顔になった。
「しかし……なんだ、あれは」
数キロ離れた位置に落下した白い塊の方へと顔を向け、訝しむ。
眼を細めるまでもなく、巨体は視認することができた。大きさは重機士よりも尚大きい。全高は五十、六十、いや、おおよそ八十メートル程度だろうか。身体の広さも重機士を横に三体並べたほどの大きさである。
空の亀裂は、見上げると既にない。天空に穿たれた虚無など始めからありはしなかったとでもいうのか、不吉な夕暮れの紅で空は充ち満ちていた。
当初と違い、沈み往く陽に照らされて血の色に染め上げられた白き塊を、那殊は目を細めて冷ややかに見つめる。その目から窺える感情は、嫌悪、憤怒、憎悪。
千歳と違い、那殊は悪意を裡に孕む程度には、あの不気味な塊の存在を脳裏に刻んでいるのだ。
「那殊……知って、いるのか」
新種の〈鬼獣〉かとも千歳は考えた。だがそれならば那殊がこんな顔をするわけがない。あのいつも盤上の駒を眺めるといった余裕が、目の前の那殊からは感じられなくなっていた。あの塊は、那殊を持ってして感情を表に出さねばならぬほどの、なんらかの意味を持った存在であるのだ。
千歳の問いに、那殊の扇がわずかに降りた。扇の面から覗いた那殊の口元には、何かを嘲笑うような薄い三日月が浮かんでいた。
「あれは――罪じゃよ」
「罪……?」
「そうだとも。人の業が行き着く場所まで行き着いた成れの果て。理想の果ての残りカス。残ったものは子供のように無垢な白で、自分に色を取り込みたくて食欲だけが旺盛な不格好な童よ」
「なにをいっているんだ」
「お主の問い掛けに答えてやったまでのこと。もっとあれのことを知りたいなら、横の娘に訊くがよい。様子から察するに、そやつもあれのことについては多かれ少なかれ見識があるようじゃしな」
那殊の言葉は、ずっと千歳の隣で無言のまま白い塊を見つめていたレムリアに向けられていた。
「レムリア……」
千歳の呼びかけに金色の髪を垂らした女性は答えなかった。
それとも、答えられなかったのだろうか。レムリアは、絶望的な表情で白い塊を見つめていた。
『あれはなんだ、女狐』
〈夜叉姫〉の顔が那殊を見下ろして、その存在を問いただす。裂夜もあの物体についての知識は持ち合わせていないのか、困惑している声音だった。
だが、相対していた者だけは違った。
〈狂剣〉はもう〈夜叉姫〉に対して注意を払っていなかった。今ならば、容易く切り伏せることができるのは間違いない。でも、その突然起こった不気味な戦意喪失に、〈夜叉姫〉――裂夜は切り込むことができなかった。
正確には、〈狂剣〉は戦意を喪失などしていない。不気味と、悪寒を裂夜に感じさせた一番の要因はその矛先と〈狂剣〉の狂気だ。
――ぐっ、と。〈狂剣〉が震えた。
――おおおおおオオオオオ――ッ
弾ける。
〈狂剣〉が背後に仰け反り、吼えた。
割れた硝子が飛び散るほどの質量を伴った怒声は、耳を聾さんばかりの大音声。刃金の意志を持つ裂夜ですら、一瞬怯んでしまうほどにその声に込められていたのは狂気。
それとも、怒りか。
〈狂剣〉が身体を前のめりに、陸上選手のようにたわませて――跳躍する。
バネで打ち出されたような瞬発力で〈狂剣〉の痩躯があかね色の空に躍り出た。風を切る〈狂剣〉の姿が唐突に消失。
そして、白い塊の頭上に転移で現れた。
〈狂剣〉の両手は刀の柄を強く握り締め、腕の可動域限界まで上段に引き絞っている。それは眼下の物体を両断せんとする烈火のごとき意志により。
そこで、初めて白い塊が変化を見せた。
腕が生えたのだ。
巨体の右側面と左側面から一対、大樹のような隆々とした腕が肘を曲げてばんっと地に手をついた。重機士の巨体を易々と遮るほどに大きな腕が地面を叩き、その膂力で白い塊を宙へとはじき飛ばした。
意表を突かれた〈狂剣〉が剣を振り下ろすのも間に合わず、白い塊の体当たりによって吹き飛ばされた。
――オオオオオッ
だがそこはさすが国を揺るがすシリアルキラー。眼下に叩きつけられる直前に短距離転移を展開し勢いを相殺、体勢を立て直して着地する。直前まで自身を支配していた法則を無視する一連の動作は物理法則に支配された世界において理不尽な動作を可能としている。
慣性に囚われた白い塊も、四肢をついて着地を決めた。
そう、四肢だ。
腕に続き、空中で肉を突き破って生まれた一対の足をも使って地面に降りたのだ。
しかし、その手も足も人のそれを模していた。その手足で四肢をつく、白い、肉の塊。不気味としか形容のしようのない醜悪な見た目だった。粘土に手と足をつければ、こんな姿になるのかもしれない。
一足先に身体の自由を取り戻していた〈狂剣〉は白い塊へと疾駆する。接近に気づいた白い塊が片腕でなぎ払うが、動作は見た目通りの緩慢さ。〈狂剣〉は膝を折ってやり過ごすと、頭上で風を切っている腕の肘めがけて刀を切り上げた。
斬ッ、と肘に滑り込んだ刀身は、自身の持ち主よりも巨大な腕を切り落とした。
肘から先がなくなり、白い塊が赤い血液を噴出する。その巨体に、突然大きな口が生まれた。おかしなまでに白い歯をむき出しにして、白い塊は硝子を擦りあわせたような悲鳴をあげた。
遠く離れている千歳にもその悲鳴は届き、耳の奥が刺された痛みを発する。
敵が怯んだ隙に、〈狂剣〉は狂ったように刀を何度も何度も振るった。その剣速、手さばき、総てが先程まで〈夜叉姫〉と戦ったよりも勢いが増さっている。
無心になって、ただ敵を解体してやろうという一箇の目標を完遂する最短の斬撃手段。
刀が肉を引き裂く度に赤い血が〈狂剣〉と、白い塊を濡らす。塊は既に白ではなく、己の流した血で真っ赤に染まっていたが。
斬る、斬る、斬る――それでも、白い塊は死ぬことはなかった。血が流れ尽きても白い塊は動いていた。
白い塊に一対の眼球が生まれる。まぶたを開き、憤怒の籠もった目で〈狂剣〉を睨み付けた。
〈狂剣〉につけられた傷の断面が細かく泡立つ。生理的嫌悪感を覚えさせるおぞましい傷口が、無数の蟲が蠢くように膨張し――生えた。
失われた腕が生え替わる。傷口が癒着する。その瞬間的治癒は完全な結合を成さず、形は破綻していた。だが、それでも、白い塊は、また当初の健全さを取り戻した。
〈狂剣〉が動揺したことは想像に難くなかった。その隙をつかれ、白い巨腕に掴まれると、地面に叩きつけられる。さっきの意趣返しのつもりか、何度も何度も玩具のように叩きつけられた。
「なんだ……なんだあれは」
あまりにおぞましかった。あまりに醜かった。醜悪としか形容のできないその肉の塊に、千歳の口の中に酸っぱい味が広がった。喉元までせり上がってきた吐き気を飲み下し、千歳は呆然と声を上げた。
「あんな、不格好な生物を、俺は知らない」
〈鬼獣〉のようなある種の統一感もない。生物を模しているわけでもない。破綻していた。あんな生き物が在っていいわけがない。そもそもあれが生物なのかすら理解が及ばない。あんな無秩序な肉の塊は人の知識にある生命の系統樹には記されていない、記されてはいけない未知なる悪魔だ。恐るべきコズミックホラーの世界から抜け出してきたような狂気の産物であった。
「先程申したであろうに。罪であると。あれはギルトであると」
「ギルト?」
「便宜上あやつらに名が必要であるならば、この名ほど相応しいものもあるまい」
那殊が抑揚のない声で応えた。白い塊――ギルトの一挙動を見る度に、その表情は不愉快だと歪んだ。
〈狂剣〉の覇気とギルトの挙動に怯み、ここまで傍観を保っていた〈夜叉姫〉が、ギルトの凶行をきっかけに、ついに動いた。
『いい加減……その煩い鳴き声をやめろ――!』
〈夜叉姫〉が腕を振るうと、腕の軌跡をなぞって、陽炎のような歪みが生じる。その歪みが中心へと収束し――放たれる。
歪曲された空間が元の姿へと戻ろうとした瞬間に生まれた衝撃波が、不可視の刃となって遠く離れたギルトの腕を豆腐でも裂くように切り落とした。
腕と一緒に〈狂剣〉を取り落としてギルトが吼える。その隙に、〈夜叉姫〉は訪れた夜の元で駆けた。夜叉の名を冠する姫は水を得た魚。月下の許に舞う幻想はギルトへの距離を瞬く間に踏破した。
シッ、と呼気を洩らし、〈夜叉姫〉の太刀が月光を反射しながら閃いた。残った片方の腕を落とし、返す刀で両目を断絶する。喉の位置は把握できず、悲鳴をあげる口を切り裂いた。三度剣を振るうのに要した時間は瞬き未満。脳からの指令をダイレクトに反映する超常の戦闘能力を持った〈鬼神〉による人外の三刀だった。
「獲った……っ」
見ていた千歳もそう確信するほどに部位を正確に切り裂いた。
それでも――。
『なんだとっ!』
再生して、血で真っ赤に塗れたギルトの双眸が正面から〈夜叉姫〉の端正な顔を捉えた。
薫り立つほどに優艶で女性的な〈夜叉姫〉の肢体を見て、ギルトが裂けた口で下卑た笑みを浮かべた。
女性でなくとも鳥肌の立つ表情に、裂夜は言いしれぬ危機感を覚えた。その直感は正しい。〈夜叉姫〉がギルトから距離を離したと同時に、ギルトの身体から無数の触手が生えたのだ。
『な――っ』
身体の内側から剣山で刺されたのかと思うほどにびっしりと密集して棒状のものがギルトから生えたかと思うと、それが伸縮して無数の触手となり〈夜叉姫〉へと襲いかかる。
『こんな無粋なものに淑女が捕まって堪るものか!』
雨のように迫る触手を前に裂夜の動きは精密だった。
太刀を払って触手を切り裂き、自身を追尾してくる触手を身体を逸らし、つま先を軸にして舞うように躱す。〈狂剣〉との戦いで見せたのと同じ動きだ。舞い、踊り、その動きに敵を引き込み、自分のリズムに乗せて、敵の攻撃を誘導する。そうと知らずにつけ込もうとする敵は裂夜の術中に嵌ってしまうのだ。悪女に誑かされる男のように、その動きは掌の上。なにをどうするか敵の無意識下に指示しているのだから、その悉くは裂夜に届くことはあり得ない。
着物の裾を揺らして円を描きながら、またも空中に歪みを展開。そこから放たれる空間の断層による不可視多重斬撃が触手を切り落とす。
いくらやっても、ギルトでは〈夜叉姫〉に指一本触れることはない。泉に映る月という名の幻想に手が触れることのないように、〈夜叉姫〉と裂夜が幻想で有り続ける限り触れることは叶わない。
そして、ギルトは〈夜叉姫〉に気を獲られていて、〈狂剣〉の接近に斬られるまで気づくことができなかった。
――ウォオオオオオッ
横合いから斬りつけられて、またギルトの肉の身体に斬痕が刻まれる。だが、なます斬りにされたとしても、ギルトの肉体は創造の肉塊。斬っても斬っても損傷を与えることはできない。
そのことを戦って理解しているはずの〈狂剣〉は、所詮狂った剣である。例え自分の攻撃により痛痒を与えることはできても、根本的なところで通用はしていないのだと判っていても、息の根が止まるまで斬り続けるしかない。
そうした斬撃がギルトの怒りに油を注いだ。触手で〈夜叉姫〉を執拗に追い回しながらも、ギルトの目はぎょろりと〈狂剣〉の黒影を凝視した。
ギルトの片腕が再びその巨腕を取り戻す。血肉から生えた真白き腕が角張った五指を広げ、蚊を潰そうと〈狂剣〉へ突き出される。
それを短距離転移で前動作の余韻に関係なく回避する〈狂剣〉だったが――突き出された手はそのまま〈狂剣〉の着地点へと進んでいた。
――ッ!
〈狂剣〉の得物は接近戦用、さらに転移は短距離限定、例え逃れられても自身の間合いから離れすぎはしない――そういう情報から、ギルトが〈狂剣〉の動きを先読みしたのだ。
疲労故〈狂剣〉が転移に頼っていたのが仇になった。巨大な手によって〈狂剣〉の身体が押し潰される。
装甲と身体を圧壊させながら、横臥させられた〈狂剣〉が苦痛に悶えた。
『なっ、馬鹿……っ!』
何故か、〈狂剣〉を殺そうと戦っていたはずの裂夜が〈狂剣〉の斃れた姿に動揺した。それがここにきて、ギルト相手に裂夜が見せた初めての失態だった。
雨の中を傘も差さずに濡れぬように歩く。それがここまで裂夜のやってきた神業的機動。そこに不純物が埃ひとつでも介在すれば――精緻な神は一瞬にして瓦解する。
破壊と再生を繰り返しながら〈夜叉姫〉を追っていた無数の触手がついに〈夜叉姫〉を捕捉した。細くなまめかしい腰に触手が絡みつけば、そこからは怒濤と触手が〈夜叉姫〉に食らい付いた。ここにきて幻想から現実へと堕落した〈夜叉姫〉は、肉感的な魅力ある腕と足も無数の肉の鞭によって絡め取られ、拘束される。
『しまった!』
〈夜叉姫〉は、蜘蛛の巣に捉えられた哀れな美しき蝶だ。
そして、捕食者がすることは――ひとつ。
はっとして、裂夜が、〈夜叉姫〉が正面を見た。
眼前は大口を開けたギルトの顔で満たされていた。
『 !』
悲鳴を上げる間もなく、血塗れの歯をむき出しにしたギルトの口に〈夜叉姫〉は呑み込まれた。