45:Brun separation
自分の目の前で、砲身から打ち出されたような勢いで車が飛び出していった。変化し狂い奇形化した感染者たちを蹴散らした車は、もう視界にはない。惚れ惚れするような速度だと、感染者をけしかけた当人は笑った。
そうしていると、車に轢かれて腕などの身体の部位が欠損した感染者が、その人間の許へと這いずり、近寄る。懇願しているのか、それとも誰が主かも判らずに襲いかかろうとしているのか――。
それは関係なかった。役に立たなかった感染者は、その自分たちを作った者に生ゴミのように踏みつぶされた。
*
時間が刻一刻と過ぎていく。空に登っている陽は、見上げて確認する度に西の方角へと降りていた。
寺院から飛び出してどれほどの時間が経過しただろう。感染者の集団を撒き、あとはスピード勝負となって高速道路を飛ばし、時には針の穴を縫うような走行で街を駆け抜けた。それでも、ここから基地へはそれなりの距離があった。
後方へと消えていくクラクションの音をBGMに、千歳は焦燥を掻き立てる。
「正確な時間がわかればまだ安心なんだがな……!」
未来視には時間までは含まれていない。未来の風景を見ているのだから、近くに時計でもなければ時刻の確認などできるわけがないのだ。だから、陽の落ち具合で判断するしかない。しかもそのイメージはあくまで千里が見ただけのものであり、千歳たちにはどんな光景だったかはわからないのだから、寺院にいた時から数時間経ったほど、という酷く曖昧模糊とした時間しかわからないのだ。これで不安にならぬわけがない。コンパスだけ持たされて樹海に放り込まれたようである。
「文句いっても仕方ないでしょ。もうすぐ着くわよ!」
皇ヶ院――雷華の専属の運転手は幸いにも優秀だった。数年前の千歳の知っていた男性から変化はなかったが、彼のドライビングテクニックはF1ドライバーもかくやである。ただでさえ腕の良かった者が、散々雷華に無理難題を押しつけられた結果なのだろう。ここまで常に千歳たちはジェットコースターに乗っている気分でやってきていた。
「見えた。もうすぐ」
レムリアが硝子越しに見ている先には基地の風景がある。車が交差点を曲がってアクセルを踏み込む。速度がまだまだ上がり続ける。馬力も一般車とは比べものにならない。
ここから先は直線、軍事基地に用のある者しか進むことのない道である。あとは心置きなく全速力で飛ばすのみだ。
距離が近づいていくにつれて、千歳とレムリアの顔が険しくなる。それは基地から立ち上る煙に気がついたからだった。土煙ではなく、黒煙である。煙の量から、火災の規模は小さいと予測された。その程度の小火ならば、すぐに消火されるだろうが――このタイミングでこんなものがあがっているとなると、嫌な予感しかしなかった。
「もう始まってる、のか」
「そうみたい」
ふたりの会話を聞いて運転手はさらに速度をあげ、勢いで全員の背中が座席に押しつけられる。基地はぐんぐんとその姿を大きくしていった。
正面ゲートをぶち抜いて、皇ヶ院の車は神国基地内に飛び込んだ。衝撃に揺れる車内で、雷華はうんざりした様子で呻く。
「なんで最近は自分たちの城に帰ってくるのにここまで必死にならなきゃいけないのかしら!」
「知らん!」
のんびりと帰宅したいというのは満場一致の願いだった。
このまま目的地の第三四号館付近まで走る、はずだったが、今の神国の基地は復旧作業中で、どこもかしこも瓦礫や重機、〈GA〉、資材などで道が塞がっており、車で突っ切るのは難しい。ここからは徒歩の方がより迅速に行動できる。
慌ただしく、緊迫した様子で軍人たちが集まってくる。いきなりゲートを突破してきた車があれば驚くのも無理はない。それが皇ヶ院の車とあっては、さらに対応に困る。敵対象なのか、どうなのか、判断できぬのだ。
千歳は基地の様子に戦場の臭いを感じ取る。この慌ただしさはなにもこの車が突っ込んできたから生まれたというわけでもなさそうだった。
「ここからは走る。レムリア、ついてきてくれ。雷華はこの場に――」
「なにしてんのよ、早く行くわよ!」
とどまれ、と千歳がいうより先に雷華は車を飛び出していた。第三四号館にスムーズに案内できるのは確かに雷華だけとはいえ千歳たちも場所は大まかには知っているし、この場に待機してもらっていたいのが心情だったが、そんな千歳の考えをつゆ知らず、雷華はばたばたと走っていく。
「まったく、あいつはっ」
「お転婆娘」
各々感想を口にして、千歳とレムリアのふたりもすぐに雷華の後を追った。
ふたりの足はすぐに雷華に追いつく。ここで帰れと問答する時間をとるのも今は憚られた。埃と煤の混じった空気で肺の中を汚しながら、転がる瓦礫の間を縫って三人は第三四号館前へとたどり着く――。
直後、人の首が宙を舞った。
男の軍人の首だった。
咄嗟に千歳は雷華の視界を自分の背で隠す。肺に溜まった酸素で血をごぽごぽと噴き出しながら、糸の切れた人形のように斃れる兵士。綺麗に一刀の許で両断された首は地面で鞠のように跳ねた。
返り血で汚れる少女を千歳は知っている。最悪の事態だった。愕然とした。足から力が抜けそうだった。ここまで、急いだのに、結局千歳は間に合うことができなかったのだ。
千歳は、彼女の名前を慟哭するように叫んだ。
「裂夜――ッ!」
千歳の呼び声に意表を突かれたのか、振り返った裂夜は目を瞠っていた。幽霊でも見たような、予想外の存在に驚いている表情。が、それも舌打ちと共に消え失せ、代わりに千歳の身体を敵意と殺意で貫いた。
「思ったよりも帰りが早いではないですか。真逆、わたしの邪魔でもしに来たのですか」
「……それ以外になにをしようとしていると思う」
押し殺した声で応えて、千歳は辺りを見回す。斬られた軍人は今のひとりだけではなかった。他にも、見える範囲で四人の兵士が命を奪うのに的確過ぎる、芸術的とさえいえる斬撃の許に切り伏せられていた。何人か発砲したようであったが、裂夜が返り血以外で汚れていないことを鑑みるに、その悉くは彼女に対しては無力であったようだった。
その実力が陵、否、神国、否、世界でも五指には入らんとする戦闘能力の持ち主であることの証明である。人類が生んだ奇跡ともいえるほど、裂夜という少女の力は常軌を逸していた。おそらく、その気になれば――〈GA〉すらも斬る。
千歳の言葉を聞いて、裂夜は嘲笑を浮かべた。つまらない冗談をいった者を蔑む目だ。
「戯けたことを抜かすと思えば、よもやそんな下らぬことでしたか。まさか人殺しに人殺しを責められるとは考えもしなかった」
「裂夜ちゃん! なにいってんのよ、アンタは! どんなことやらかそうとしてるのか判らないけど、今は剣を収めなさい」
「それは無理な相談です、雷華姉様。わたしにはやらなければならないことがある。まだここにはやり残したことがあります」
「裂夜ちゃん!」
あくまで淡々と、冷静に、機械のような受け答えの裂夜に反して、雷華は悲鳴のような声だった。交渉事や荒事には慣れた雷華であっても、この状況で感情を落ち着けて会話をしろというのが無理な話である。裂夜は、子供の頃から一緒にいたかけがえのない、本当の姉妹のように育った仲なのだ。その少女が目の前で手を汚したとあって、悲しみを抑えることがどうしてできよう。
取り乱す雷華の肩をレムリアが掴む。裂夜と唯一明確な接点のないレムリアだけは、この状況の中であっても平静を保っていた。彼女ならば、もし仮に裂夜と知り合いであったとしても対応は変わらなかったのだろうが。
「雷華、落ち着いて。あの様子だと、何を言っても無駄。信仰に狂った教徒のような雰囲気だし」
「どういってもらっても構いませんが。……つくづく気に入らない女性ですね、貴女は。その顔を見ていると理由もなく頭が熱くなってしまう」
「それは奇遇。私も同意見だけど。ふたりの知り合いじゃなかったら眉間に銃弾を撃ち込みたいくらいには」
どこまで本気かわからないレムリアの言葉に裂夜は不快そうに鼻を鳴らす。
「……まあいい。とにかく、わたしの邪魔はしないでもらいたい」
「裂夜、お前は、まだここで誰かを斬るつもりか」
「まだここには斬らねばならない者がいる。――こいつだ!」
いって、裂夜は瓦礫の陰から飛び出してきたフードを被った人間――狂剣と剣を交えた。
刃金と刃金が甲高い音を立て、火花を散らす。
死角からの強襲、それを裂夜は見るまでもなく察知していた。
「ここでこいつの命を断つ!」
狂剣の刀を外側に流すと、裂夜は容赦なく踏み込んで一閃する。常人ならば刃の軌跡すら見えず、何をされたか認識するより早くこの世から消失するほどの剣速。この剣に相対した者ならば、千歳が振るう剣の速度を一〇とし、裂夜の剣は一〇〇と評するだろう。それほどまでに天賦の才。刃の申し子、刃姫。
だが、その閃光の斬撃を受ける狂剣もまた人外。流されたと思った剣は既に狂剣の手元にあり、裂夜の刃を迎撃する。
交差。――そして斬撃の応酬。
斬って突いて薙いで刺して別って貫く。一合一合が練達の達人たちが一生に一度出せるか出せないかといった極地のものだった。過去数百年の剣豪の戦いのダイジェストを見せられているような、そんな圧倒的な、息も詰まる攻防だった。
あれを止めようとすれば、横やりをいれようとすれば、間違いなく死ぬ。回転するミキサーの中に手を突っ込むようなものだ。刃の嵐に手は瞬く間に解体される。
状況は、裂夜の優勢であった。裂夜の勢いが八とするなら、狂剣は二。あの神国中を席巻したシリアルキラーが、こうも一方的な戦いを強いられていた。それを成したのは疑う余地もなく裂夜の技量によるものだ。
千歳は頭がクラクラとした。何故狂剣がこの場にいるのかといった疑問よりも、あまりにも生きている世界が違い過ぎる光景に目を奪われた。おそらく、千歳の全盛期と今の裂夜が戦っても勝つことは夢のまた夢だ。百回やれば百回負ける。千回やれば千回負ける。ゼロはいくらかけてもゼロであり、よって千歳が裂夜に勝てる可能性はあり得ない。
――それでも。
千歳はこの戦いを止めなくてはならない。だって、目の前で妹が戦い、また手を汚そうとしているのならば、せめてこれだけは止めなくてはいけない。もし狂剣という害悪を殺さなければいけないというなら、その時は千歳が手を下す。
だから、止めなければと。ただそれだけの使命感に突き動かされて、千歳が足を踏み出そうとした時、それを止められた。
「やめておけ。死にに行くようなものじゃぞ」
「――――――――――――――――――――」
自分の動きを止めた声の持ち主に、千歳は全身の血液が凍り付くのを確かに感じた。
温暖な気候にいたはずなのに、いきなり極寒の地に投げ出されたように、身体が寒さに震えた。いや、その震えは寒さによるものだけではない。突然そんな状況に陥ったが故の恐怖によるものもあった。歯を食いしばっていなかったら、がちがちと無様に歯を鳴らしていたことだろう。
声。確かに千歳は声を聞いた。幻聴ではない。三年ぶりに聞く、あの声は今確かに鼓膜を震わせた。
それを、千歳の原初の本能が何度も否定した。生存本能が否定した。彼女がここにいたら、だって、自分の命など、ただの塵芥でしかなく――だから――ここに――いるわけが――。
「それとも、死にたいのかの。それならば、妾に申せばよいものを。殺してやるぞ、何度でもの。輪廻する死というものを体感させてやれるのぞ」
二度目の声は明確で明瞭で、陽が東から昇って西に沈むことのように疑いようもない。
千歳は、その、着物姿の少女の姿を認めて、死人のようにうめき声をあげた。
「那、殊――」