40:そうして賽は投げられた
母の死因は老衰に似た衰弱死だった。
裂夜を産んでからというもの母は日に日に弱っていた。医者による診察と投薬も受けていたし、いつも屋敷で安静にしていた。自宅療養といえば聞こえは良いが、入院しても快復する見込みがないからそうしていたに過ぎない。それでも、裂夜を産んでから十数年、母は健康とはいえない状態ながら、生きながらえていた。
動くにしても屋敷の庭を散歩するくらいしかできなかったが、いつも笑っていた。弱々しい笑みであったが、意志を感じさせる笑顔は、人を安心させた。だから、理屈もなく思っていた。
ああ、まだ大丈夫だと。
それが、ある日突然のことだった。朝がきて、起き上がろうとした時、母は気づいた。そうすることができないことに。人の手を借りて、ようやく手洗いに行くことができた。それくらい弱りだした。数日が過ぎると、今度は食べ物が喉を通らなくなった。呑み込もうとすると、嘔吐き、なんとか呑み込んでも胃が受け付けずにはき出してしまう。体力が急速に落ちていった。その日から水と点滴だけで栄養を補給するようになった。
病弱であったが、柔らかかった肌は細く枯れ木のような有様になっていき、たった数週間で母は十か二十も年をとったのかと錯覚してしまうほどだった。
そうやって生きながらえるのも、長くは持たなかった。ついに体力の限界がきたのである。心肺が停止し、二度と息を吹き返すことはなかった。
葬式は屋敷とは別で住んでいた親族たちも呼び、しめやかに行われた。曇天の空模様が世界に蓋ができたみたいに窮屈だった。
いつも静寂であっても時の流れは外と切り離されてゆったりと流れているように感じられて、落ち着く陵の屋敷も、今は喪服の人々で溢れ、空気が鉛のように重くのしかかった。
黒で統一された人々の集団は、母を連れ去ろうとする蠢く死神の群体のようで、不気味で、気持ちが悪かった。一様に声を潜めて会話をする、似たような姿の親族たち。表情は暗かった。それでも、それは母の死を悼んでのものではない。若くして陵家の妻が亡くなったことに関しての心配事によるものだった。
そんなに人の死を喚起させる服装をして、日の目を避けるように会話しているくせに、その話はなんたる矛盾か。
気持ちが悪かった。
千歳は親族が全員帰るまで、母の遺体が安置された棺桶がおかれた部屋の隅で蹲っていた。得体の知れないものでも見るような目で、母の別れを告げに来た人たちは見てきたが、そんなこと気にならなかった。云いたいことがあるとすれば、その気持ち悪い姿を母の前にもってこないでくれということだけだった。
いったいどれほどそうしていただろうか。千歳が膝に埋めていた顔をあげると、外は真っ暗になっていた。曇天といっても、これほど黒い色に染まるということは、つまりもう夜になった証だった。開いた襖の外に広がる闇が、じわじわと部屋の中に入ってくるような気がして、千歳は母の遺体が眠る棺桶の方へとすり寄った。
列になっていた親族たちも今はいない。ほとんどは帰路についたのだろう。遠くから離れた場所からやってきた者もいる。最初からこの屋敷に住んでいた者を除くと、寝ずの番をするつもりの親族が数人残っているだけだ。親族たちの声が、遠くの部屋から聞こえてくる。内容はわからない。かすれ聞こえる声は、この国の言葉とは違ってきこえて、悪魔のささやきじみていた。なにもかもが母を奪い去った諸悪の根源に見えて、千歳は震えた。こんなに怯えたことは今までなかった。気温とは違う寒さが突き刺さって、凍え死んでしまいそうだった。母を迎えに来た死神に目でもつけられたのだろうか。生きる気力と呼べるものが抜けていくのを感じていた。
この家にあって、唯一人の味方だったのだ。産まれを祝福されず、陰口を囁かれ、そんな中で千歳が捻くれはしたものの折れずに立ち上がっていたのは、すべてこの母の存在があってこそだ。今の千歳は孤独だった。慣れているはずの屋敷が、見知らぬ場所に思えて、恐ろしくなった。自分は知らない場所で母犬と死別した子犬だった。何をすればいいのか、どうすればいいのか、まったく思いつかなかった。
かたりと襖が音を立てて、千歳は肩をびくりと動かした。ついに目に見える形で死の御使いがやってきたのかと思ったのだ。無論そんなわけはなく、襖に触れていたのは妹の裂夜だった。
「兄さん……今朝からなにも口にしていません。それでは、身体をこわしてしまいます」
このまま千歳まで死んでしまうのではないかと不安そうな表情で、裂夜は兄の身体を案じる。そんな言葉に自嘲が千歳の口元に浮かんだ。裂夜は気丈である。すぐに折れてしまいそうに見えて、こんなにもしっかりしている。自分は、どうだ。普段はあんなにも声高なくせに、いざとなればこのていたらくである。簡単に折れてしまった。そして、立ち上がる気力が沸いてこなかった。
「それも、いいかもしれないな」
「兄さん……っ」
「お前は立派だな、裂夜。泣きもしないで。それとも、母さんと血が繋がってないからかな」
「――っ」
裂夜の表情が固まった。息を呑んで硬直する裂夜に、千歳は自己嫌悪で嘔吐してしまいそうだった。ああ、こんなことを云いたいわけではなかったのに。どうして、この悲しみを誰かにぶつけてしまうのか。本当に、最悪だった。このまま母の後を追って死んでしまえれば、いったいどれほど楽になることができるだろうか。裂夜に怒りのまま殺されてしまえればよかった。きっと裂夜なら、息の根を容易に止めてくれるに違いない。
「……ごめん、こんなこと云いたいわけじゃなかったんだ」
――なにを思っているんだ、俺は。
裂夜も悲しくないわけがない。だって、あの子の目は充血して真っ赤になっていて、その周りは、赤く腫れていた。さっきまでずっと泣いていたことの証明ではないか。泣いて、泣いて、ようやく涙が涸れて、そうして兄の様子を見に来たのだ。それなのに、何故、あんな言葉をなげかけてしまうのだ。
裂夜が産まれたことが母の衰弱の原因であったとしても、産まれることに罪はない。産まれる者に罪はない。ならどうして裂夜を責めることができる。みっともない八つ当たりだ。
ぐっ、と自身の両肩を掴む手に力を込めて、目を伏せる千歳に、裂夜は首を振った。
「いいんです。大丈夫です。わたしとお母さんに血が繋がってないのは、本当だから……」
「裂夜は……裂夜は家族なんだ、俺の妹で、母さんの子供なんだ。それは間違ってない。絶対違わない。だから、ごめん」
譫言みたいにごめん、ごめん、と千歳は繰り返す。それ以外に謝罪のしようがなかった。もし腹を切ればそうなるというなら、喜んでこの場で腹を切っただろう。
裂夜はしばしその場で迷ってから、足音もたてずに千歳の側までくると、隣に座り込む。肩と肩が触れる距離だった。
「そんなに、謝らないでください。余計に、かなしくなっちゃいます。お母さんは大事な人だったけど……兄さんも、わたしの、大切な……家族ですから。だから、そんな顔されたら、困ります」
謝ることで千歳は楽になれても、裂夜を困らせてしまう。そのことに気づいて、口をつぐんだ。でも、なにも言葉を止めたのはそれだけではなかった。彼女の言葉をきいて、千歳は当たり前のことに思い至った。
千歳にとって裂夜は大切な妹だ。誤解していたことが長いことあっても、今では母と同じ血の繋がった大事な家族である。そして裂夜にとっても母はこの屋敷の中で、頼りになる味方であった。
これから先、裂夜はこの屋敷で今まで以上に微妙な立場で過ごすことになる。しかも、母という味方もない。それはこんなに幼い子にとって、どれほどの重みになるだろうか。
守らないと。その使命感が胸の内に生まれた。守らないといけない。妹を守らないと。それは兄として当然のことだ。母がいなくなった代わりに、これから自分たちはお互いのことを支えて生きていかなければいけない。そのためには、腐っているわけにはいかない。強くなって、強くなって、裂夜を、守らないと――。
――お前は強くあらねばならない。
そんな声がどこからか聞こえてきた。そんなわけはない。今周りには、千歳と裂夜しかいないのだ。そうだ、いるとすればそれは記憶の中である。
記憶の中にしかいないのだ。
「裂夜……あいつは来たか」
「お父さんのこと、ですか?」
千歳が頷くと、裂夜は悲しそうな表情で頭を横に振った。
「いいえ、来ていません。数日前に屋敷を空けたっきりです」
「そうか」
母の死が伝わっていないわけがない。なにより、父が屋敷にいた頃から母の容体は悪化していた。死期が近づいていたことに、あの父が気づかぬわけがない。
なのに、屋敷にいつまで経っても帰ってこない。夜が更けてもだ。そのことに、千歳は血が煮えたぎるほどの怒りを覚えた。さっきまでの無気力さが嘘のようだった。冷えた油に火をつけたような勢いで、千歳の身体が熱くなる。
「母さんの葬式に、顔もださないのか」
「兄、さん?」
感情のこもっていない千歳の声に、裂夜が怯えた。得体の知れない気配を感じ取ったようだった。
千歳の中でかちりとパズルのピースがはまったような気がした。自身の行きるための目標と手段がさだまった。
父を超える。そして完膚無きまで思い知らさせる。己の愚かさとどれほどの人を悲しませたのかを。身をもって教えてやらなければいけない。あの無自覚なる岩の巨人に刻みつけてやる。
そのためには、この屋敷ではダメだ。千歳の才覚は間違いなくあの男に劣っている。なら、同じ方法で鍛えていても絶対に届かない。那殊の言葉を脳内で反芻する。凡人が天才を超えようとするならば、同じ土壌で争おうと思ってはならない。
「なあ裂夜。雷華はいるよな」
「あ、はい。います。今は、多分、あちらの居間にいると……」
「そうか」
それだけ聞くと、千歳はゆらりと立ち上がった。その動作が、先程まで千歳が恐れていた悪鬼羅刹のものであると、本人はまったく気がついていなかった。
「ありがとう。行ってくる」
困惑している裂夜を部屋に置いて、千歳は雷華のところに向かった。自分の求めるものを得るためには、きっと彼女の協力がいる。その協力を得るために、千歳は雷華の許へと急いだ。
ああ、それと。あとで那殊に伝えておこう。自分の選択した結果を。
翌日、千歳の意志を聞いた那殊は、信じられぬ、と瞠目した。美しい顔に苦悶の色が浮かんだ。自分の半身を引きはがされようとしている、そんな痛みに耐える顔だった。
「お主、それは真か。つまり、妾から離れるということだぞ、それは」
「ああ。今まで鍛錬に付き合ってもらって感謝してる。いきなりこれなくなるなんて云うのは悪いと思う。だけど、決めたことだ。手続きも済ませた。後戻りはできない」
「何故そのようなことを勝手に決めるのだ! そんなにあの男に目にものを見せたいなら、妾がいくらでも協力してやるわ!」
「でも、親父も那殊と戦って鍛えていた頃があったはずだ。……それだとダメなんだ。超えられない。同じじゃ、届かない。那殊には悪いと思うが、那殊と一緒にいても俺は奴を超えられない」
「――――ッ!」
那殊の顔に、憤懣と羞恥、そして絶望が浮かんだ。懐いていた犬に手を噛まれたと、そんな恐怖もにじませた。完成されていた少女が、千歳の言葉ひとつでぐらぐらとその存在を揺さぶられていた。
「だから俺はここを離れて士官学校に行く。そこで軍隊の力を学んで、〈GA〉の操縦技術も学ぶ。死にものぐるいで。ひとりきりで」
ここにいては、きっと周りに頼ってしまう。甘えてしまう。それでは、力から遠ざかる。なら、ひとり見知らぬ地で、一心不乱に鍛錬に励む。それが千歳の出した結論だった。卓越した技術の要求される陵の技だけではない、身体を痛めつけて得られる凡人のための戦闘技術を手に入れる。それは天才にも挑める戦闘能力だ。間違いなく、凡人である千歳の力をつけてくれる。
父の言葉にひとつだけ同意する。お前は力を得なければならない。その通りだ。千歳は妹を守るためにも力がいる。自分のことを認めさせて、周囲を黙らせるには力がいる。
戸惑いながらも徐々に冷静さを取り戻しつつある那殊は、もう千歳の決断を取りやめさせることができないのだと悟った。
「つまり、妾はもう用済みか」
「そんなことはいっていない。ただ、手段を変えるだけだ」
「それはもう用がないといっているようものじゃ。もう妾はお主に手を貸すことができぬし、貸すことをお主が許してくれぬのだからな」
那殊は寂しそうに笑った。千歳は身勝手な物言いに、怒りに任せて殴られる――悪ければ、殺されると思っていた。感情のままに振る舞うのが、これまで付き合ってきて知った那殊の性格だと感じていたからである。だから、もしここで殺させるのならば、それまでだと諦観していた。それほどのリスクを孕んでいても、自分は那殊に伝えておかないという使命感に駆られたまでのことである。
「たまには帰ってくるのだろう」
「それだと、意味がない。ずっと、あちらで――」
「揺るさん。たまには顔を出せ。でなければ、妾がこの地にお主を縛り付けてやる」
「……善処する」
「ならばよい。して、出立はいつだ」
「そろそろ、今の学校の卒業式だ。それが終われば、すぐにあちらへと立つ。環境に早く慣れるためにな」
「そうか。では、もうここにはこぬな」
「いや、家を出る前には寄るさ――」
「妾がここには来るなというのだ」
「何故だ」
「気恥ずかしいからじゃよ」
そういうと、那殊が千歳の後頭部に手を回して引き寄せて、自分の唇で相手のそれを奪った。千歳は突然のことに反応ができなかった。ただ、自分の唇に、那殊の柔らかい唇が触れているのだけはわかった。目の前の那殊から漂う甘い蜜の香りに鼻腔をくすぐられる。頭がくらくらとした。今は考えることもできず、千歳は彼女の感触に心奪われていた。
いつの間にか、千歳は肩を那殊に押されて、地面に仰向けになって倒れていた。
那殊が唇を千歳から離すと吐息が漏れて、細くひいた唾液の糸が揺れた。名残惜しさに、唇がじんじんと疼いた。
千歳の頭上で、和服をはだけて白い肩を露わにした那殊が笑う。いつものからかう笑みではない。蠱惑的な、誘うような笑みだった。幼い顔立ちが、今は女の顔になっていた。
初めて見る那殊の肌に、千歳の胸が高鳴る。動揺と期待に揺れる千歳の瞳を見て、那殊は悪魔のように耳元で囁く。耳に熱い息がかかって、千歳の背筋がびくりとわずかにはねた。
「忘れるな。お主は妾のものだ」脳裏から離れぬように、ねっとりと言い聞かせる。「離れてしまっても忘れるな」悪魔の制約だ。破れば身は破滅し、許より忘れることなどできない。「その身に刻みつけるがよい。それが、妾から離れるための条件じゃ――」
また、那殊の唇が近づいてくる――。
母の死から一週間と少しが経った。千歳は義務教育を終えた。
卒業を表す証書を受け取ってから、千歳は母が自分の卒業する時を楽しみにしていたことを思い出した。制服で卒業証書を受け取る姿を母に見せて喜ばせてあげることができなかったことに、千歳は悲しさで胸がいっぱいになった。それでも涙は流さない。流れなくなったのかもしれない。後ろを振り返っている暇はないのだ。今は、前を向いてがむしゃらに進むしかない。顧みている余裕があるなら、それも成長のために利用しなければ、いつまで経っても前を走る者には追いつけないのだ。
それからすぐに千歳は屋敷をたった。父は黙して、なにも云わなかった。息子が屋敷を出て、陵の伝統から離れることに興味を抱いていないのかもしれない。構わなかった。いつまでもそうして止まっていればいいのだ。
裂夜は、落ち着きがなかった。千歳のことが心配なのか、自分のこれからが不安なのか、それともその両方か。しばらくひとりにしてしまうのはかわいそうだったが、千歳はたまには帰ってくるといって頭を撫でた。
雷華は、空港で千歳が搭乗口を抜けるその時まで一緒にいた。今回士官学校を紹介してもらい、しかも特別に入学を許可してもらったのも、雷華――皇ヶ院財団の力添えのお陰だった。千歳が急遽受けた身体検査を最高の成績で突破したという事情もあるが、そもそも彼女が協力してくれなかったら、その試験も受けることができなかった。そうなれば、既に受かっていた学舎に進み、今まで通り陵の家で過ごすことを余儀なくされていただろう。こんな無理を聞いてくれた雷華と、皇ヶ院の人間には感謝してもしきれない。一生頭をあげられないだろうし、これほどのことをしてもらったのだから、千歳は頭をあげる気もなかった。
空港は、千歳と同じ旅行者で賑わっていた。白い清潔感のある空港内のは、見渡す限りキャリーバッグなどをひいている人たちで音が絶えない。
その中、ふたりは搭乗のためのゲートまでやってくると、雷華が立ち止まって、千歳を見上げた。
「ここまでね、わたしがいられるのは」
「そうだな。ここまでありがとう。何から何まで、お膳立てしてくれて。雷華のお陰だ」
「いいわよ、そんなこと。それに、あんな必死な形相で頼み込まれたら、断るなんてできないじゃない」
鬼気迫る勢いといった方がよかったかもしれない。葬式の晩、千歳が雷華に士官学校へ行く手筈をつけてくれといった時は。今となっては、反省している面もある。
アナウンスが空港に流れる。もう搭乗時刻だった。
千歳と同じ便に乗るであろう人たちが、搭乗口へと消えていくのを見て、雷華に別れを告げる。
「それじゃあ、いってくる。元気でな」
「そっちこそ、ひとりでがんばりなさいよね。許嫁にのたれ死なれたら困るんだから」
「ああ、わかった、肝に銘じておく」
軽く、髪型を乱さない程度に、梳くように雷華の頭を撫でると、千歳は貨物室に預けた荷物とは別に、少量の手荷物を肩にかけて、搭乗口へと姿を消した。
一ヶ月が経った。那殊はひとりで孤独に耐えた。気怠げに肘掛けに寄りかかって、誰もやってこないとわかっているはずなのに、ずっと同じ場所を見つめていた。まったく、こんなにも妾の感心を得られるとは、なんとも幸運な者であろうか。感謝してほしいくらいだ。ここまで妾に構って貰えるなど、何事にも勝る栄光である。かしづかれたもいいほどだ。仕方ない。その説教をしてやるためにも、今しばらく待つとしよう。
三ヶ月が経った。数百年とここで過ごしてきたのだから、この程度の時間は、瞬きのようなもので、あっという間に過去になっていた。今までは、だ。おかしい。もう三年は経っている気がする。千歳はまだやってこない。誰もやってこない。口を開いた記憶が思い出せない。
六ヶ月が経過した。もう千歳と別れてから半年が経つ。まだ半年しか経っていないなんて、信じられない。それもこれも、彼奴のせいなのだ。生半可に希望など見せつけるものだから、こんな世界にいることが我慢できなくなってしまった。ひとりでいることになんら苦痛も感じていなかったのに、それが日常だと思って我慢するという意識すら抱かなかったのに、今はひとりでいるのが堪らなく切ない。千歳はまだ帰ってこない。
七ヶ月――。
八ヶ月――。
九ヶ月――。
十ヶ月――。
十一――。
一年――。
――。
――――。
――――――。
はやく 妾を ここから 助けて 。
月日は流れる。休むこともなく日は昇っては沈み、月は昇ってはまた沈む。
そうして四年が過ぎていた。
たまには家に帰省できるかと思っていたが、想像以上に士官学校での生活は厳しかった。千歳の入学した場所が、特別厳しかったというのもあるが、〈GA〉に関する授業に手こずった。陵の家でも、〈GA〉を使った鍛錬は、ある。たとえば、千歳の父は〈GA〉の操縦技術も生半可なものではない。〈GA〉での白兵戦闘を含めて、剣術指南役だ。
ただ、千歳は生身での鍛錬ばかりに偏っていたこと、軍隊との訓練内容の違いが大きく妨げとなった。
なにより、士官学校で学ぶ内容は全員一律ながらも、閉鎖された環境で研鑽を積んでいた千歳には興味深いものだった。周りの人間が帰省していく中、千歳は士官学校に残った退役軍曹などから様々な技術を学んだ。学校内の広い敷地を遠慮なくつかえる長期休暇は、千歳にとっては鍛錬の絶好の機会だった。
それでも千歳の実力は、上の中といったところで、士官学校には未来ある才気に漲った生徒たちが沢山いた。そんな彼らと競い合うことが、千歳にとっては楽しかった。強くなることは生まれた時からの義務であり、周囲からの抑圧をはねのけるために、生きるために必要なことだと思っていた。まさか、力をつけることがこんなに楽しく感じるようになるなんて、千歳にとっては予想外だった。
父へ報復してやるために力をつけようとする意志が揺るいだわけでも、臆したわけでもなかった。
気がつけば、千歳が士官学校在籍中に訪れる最後の長期休暇期間がやってきた。この休暇があけてしばらくすると、千歳は正式に軍での階級を手にすることができる。
最後の最後まで、千歳は訓練をおこなおうとしたのだが、ほぼ総ての履修内容をこなしていたことと、周囲からいい加減帰れ、とおしかりを受けたので、千歳は渋々手荷物を纏めて、実家に帰省した。
そして飛行機で空港にたどり着くと、以前は皇ヶ院の車で送ってもらった道を、千歳はバスに乗って進んでいた。空港から街の方へと向かうまで、のんびりと窓の外に流れる風景を眺めていた。都会じみた町並みも、ある場所を境に田園が広がる田舎道になる。この辺りもだんだんと自然がなくなってきたが、千歳たちの街は昔から山に囲まれていたり、自然によって外界と隔てられていたような立地のため、今でもこうして緑は残っている。そのことに、千歳は少しだけほっとした。四年も離れていたから、もっと様変わりしてしまったのではないかと心配をしたものだが、ちゃんと面影は残っている。むしろ、街よりも千歳の方が変わってしまったかもしれない。成長期の四年間は、青年期の四年間とは訳が違う。身長も随分と伸びたし、体格は比較にならない。当時から死にものぐるいで鍛錬をこなしていたが、さらに四年もの間しごかれた身体は逞しく、もう少年ではなく青年のそれだ。
こうして窓越しに風景をぼんやりと眺めていると、士官学校での生活が夢であったかのようにすら思う。まだ、地元の学校を卒業した翌日なのではないかと、そんな郷愁に胸が満たされた。乗り気ではなかった帰省も、実際に帰ってきてみると、悪いこともない。この四年間、振り返ることなく前のめりに進んできたが、思い出を大切にすると云うことも人間には大事なことであるらしい。
待たせてしまった人たちもいる。裂夜と雷華とは、電話や電子メールなどで連絡は取り合っていたが、手紙すら送れない相手がこの場所にはいた。
四年、四年だ。数百年の時を過ごしてきた少女にとっては、瞬きのようなものだっただろう。それとも、孤独な四年は、やはり辛いものなのだろうか。想像できない。ただ、千歳は那殊に会っておきたかった。罪悪感がある。帰ってくるといって、結局戻ってきたのは卒業を間近にした時になってだ。きっと怒る。殴られる。殺されるかもしれない。でも、もしまた昔のように稽古に付き合ってくれるというのなら、自分がどれくらい強くなれたか図れて、それはそれで楽しみだ。
この四年の間に様々な経験をして、少年時代の記憶は風化していた。でも、屋敷で過ごしたこと、那殊のことは、薄らいでも消えることはなかった。最後に那殊の顔を見たのが、あんなことをされた時であったから、羞恥とセットになって時折脳裏に浮かんでくるというのも理由ではあったが、なによりかけがえのない思い出の数々であり、ここまで千歳を形成してきたものであり、千歳を士官学校に駆り立てた理由が存在する記憶である。四年程度で忘れはしない。
バスに揺られていると、やがて自分が降りるバス停がアナウンスされたので、ベルを押して、その駅で降りた。屋敷まで向かう道すがら、和菓子を買った。お祭りに連れて行った時、那殊は色んなものを食べていたから、お土産に丁度良い。いかにも和菓子が好きそうな見た目をしているし、と偏見での選別だった。裂夜や雷華――雷火は今いるかわからないが――と、母の仏壇に供える分も一緒に選ぶと、千歳は少し遠回りをして裏山の方から先に立ち寄った。
裏山を登るのは四年ぶりだったが、身体が道を覚えていた。雨や嵐などで道がすこし変わってしまったところはあっても、大まかな道のりに変化はない。千歳は久しぶりの木としめった土の香りで胸をいっぱいにしながら、すいすいと山道を登っていく。
千歳がいなくなった間は誰も掃除をしていないのか、祠を見つけた時は土で汚れていた。あとで掃除でもしておこう。
さて、四年ぶりの再開だ。千歳は深呼吸をして、緊張をはき出すと、右手で祠に触れた。
すると、千歳の身体は、またあの空洞の世界へと案内される。
「…………」
はずだった。
「あれ……?」
なにも起こらない。身体と周囲にはなんら変化はない。それは当然なのだが、この場にいたっては異常だ。
慌てて両手で祠に触れる。身体ごと近づいてみる。まさか那殊のいる祠とは別に似たようなものがあって間違ってしまったのかとも疑った。が、確かにこれは見慣れた祠だ。千歳が見間違えるわけもない。
「那殊……おい、那殊」
名前を呼んでみる。しばらく待ってみる。
……なにもない。呼びかけに答える声はいつまで経っても帰ってこない。焦燥が千歳の胸を内側から引っ掻いた。
ひどく動揺した。ここまで気が動転したのは、初めてのことだった。
まさか、那殊は少年時代に千歳が見ていた幻想だったとでもいうのか。でも、現実的に考えればそうだ。こんな祠から、あの那殊を縛り付ける岩戸に迎えるのはおかしい。
混乱して、千歳は頭を抱えた。不安という魔物に心臓をわしづかみにされて、千歳は軽い立ちくらみすら覚えていた。
「俺が四年も帰ってこなかったから、へそでも曲げているのか……? なあ、悪かったよ。お土産も買ってきたんだ。だから、いるなら返事をしてくれ。那殊」
藁にもすがる思いで、千歳はまた呼びかける。
変化は、相変わらず起こらない。
愕然として、千歳はその場にしばらく立ち尽くしていた。枯葉が立てる音に反応してみたりもするが、そこには小動物がいるだけだった。何度も祠に触れてみても、相変わらず風景が変わることもない。
その失意から意志を取り戻すまで、いったいどれくらいの時間がかかっただろうか。日が大分高くなっている。こちらには朝到着したはずだから、一時間以上はこうしていたのだ。
千歳はふらふらと祠から離れると、屋敷の方へと山を降りだした。時折、背後を見る。でも、そこには汚れた祠が山肌から顔を覗かせているだけだった。
玄関の方へと回り込んで、千歳は屋敷の敷居をまたいだ。千歳が玄関の戸をがらがらと音を立てて開けると、奥の方から小走りに廊下を駆けてくる足音が聞こえてきた。
現れたのは、髪を頭のうしろで束ねた、背の高い少女だった。着物越しでもわかるほどに身体の発育もよく、初見では街の広告で見かけるモデルのようである。足運びや姿勢も綺麗で隙がない。本人に目立とうとする意志がないからか、派手な色に隠されてしまいそうであるが、花のような彩りではなく、青々と茂った草原のような、嫌みのない美しさだ。
はて、としばし千歳は黙考する。こんな親族はかつていただろうか。そもそも、年の頃からして、学生であろう。千歳がいた頃は、まだ子供だ。この屋敷に子供の親族はいなかったはずだから、四年間の間にこちらへやってきたのだろうか。
などと考えていると、千歳が口を開くよりも先に、少女の方が頭をさげた。
「四年ぶりですね。おかえりなさい、兄さん」
にこりと少女が微笑む。その表情に、千歳は裂夜の面影を見た。なにより、千歳を兄と呼ぶのはこの世にひとりしかいない。
千歳は裂夜の変わりように、唖然とした。いや、確かに、裂夜が成長した姿としては、まったくおかしくない。で、あるが、少し綺麗になりすぎではないだろうか。
すっかり忘れていたが、当時の裂夜はまだ義務教育を三年残している年齢で、今の裂夜は義務教育を終えている。その四年の間には、第二次性徴も訪れるし、もっとも子供の身体が変化する時期である。だから、その成長期の間をすっかり見逃した千歳には、裂夜の成長には意表を突かれた。
「ずいぶんと、まあ……美人になったな、裂夜」
あまりにびっくりしてしまったから、千歳はつい率直な感想を述べてしまった。千歳の言葉に、裂夜はまたくすりと笑った。
「まあ、おかしな兄さん。いきなりそんなことを云うだなんて、どんな心境の変化です?」
「その、あんまりに変わっててびっくりしたから」
「四年ですよ。変わるに決まってるじゃないですか。兄さんも充分変わってますよ。久しぶりにあった妹をたらし込もうとするくらいには軽薄になりました」
「だから、それは……っ」
「冗談です。おかえりなさい、兄さん」
……随分と、したたかに成長したものである。やはり、四年という歳月は大きい。裂夜を見て千歳は改めてそう認識した。
四年もの間、ほったらかしにしてしまったから裂夜がどうなってしまったか心配であったが、手紙から感じた印象通り、元気そうでなによりだった。こんなにしっかり育ったのだから、千歳としても安心だ。少なくとも、こんなに簡単に手玉にとられる兄よりも、よほどしっかりしている。
「えー、今日は雷華もいるのか?」
話を逸らすために千歳がそう訊ねると、裂夜はええ、といって頷いた。
「居間で待ってますよ。今はお昼寝をしてらっしゃいますが。最近、お疲れの様子なので。朝までは起きていたのですけど……兄さんが予想より遅く帰ってこられたので」
「……ちょっと、寄り道をな」
そういってお土産を手渡す。那殊の分は別に分けて手荷物の中にいれてある。
裏山に行っていたとはいえず、お土産を選ぶので遅れたというように振る舞った。
千歳から和菓子を受け取ると、裂夜の顔がほころぶ。
「兄さんも気を利かせられるようになって。よい傾向ですね。雷華姉さんと一緒にいただきましょう。そうですね、時間も時間ですから、お昼の後に」
「お前は少し毒を持ちすぎたんじゃないか」
「兄さんが構ってくれなかったので、その仕返しです。この程度ではすみませんので、覚悟しておいてくださいね」
本当に、頼もしい限りだ。千歳は裂夜の言葉に苦笑した。
陵の屋敷にある畳敷きの居間にある黒檀のテーブルを千歳、雷華、裂夜の三人が囲っていた。テーブルの上には裂夜が今朝から仕込みをしていた料理が並んでおり、見るものの食欲を誘う。士官学校の時は、もっぱら食堂で日替わり定食を食べていた千歳としては、このようなメニューが食卓にならんでいるということだけで、こちらに帰ってきた甲斐があるというものである。やはり、食は大事だ。
「それで、アンタはどれくらいこっちに残るわけ?」
久しぶりに三人揃って居間で裂夜の作ったお昼ご飯に舌鼓を打っていると、雷華がそんなことを聞いてきた。
千歳は口に入れたご飯を喉を鳴らして呑み込むと、おおざっぱな予定で答える。
「休みいっぱいはこちらにいる予定だな。早く帰ったところで、なにかすることがあるわけでもないし」
それにしても、こうして三人でいると、雷華までこの屋敷に住んでいるようである。それなりに家の距離は離れているはずだが、よくこちらに泊まることもあるし、実質同居人といえるかもしれない。皇ヶ院の家の方針で、雷華は実にフットワークの軽い生活を送っていた。皇ヶ院財団の現在のトップである皇ヶ院雷禪曰く、社会見学期間だそうだ。雷華が財団の運営に噛むようになれば、自然と私事に割ける時間はなくなっていくから、若いうちに遊んでおけ、との意味合いもあるのだろう。今日も千歳が帰ってくる頃には昼寝をしてしまっていたようだし、徐々に仕事に関わることが生まれてきたようだ。
裂夜も四年の間で随分と成長したが、雷華もまた四年前と比べると大きくなっている。裂夜のように劇的な変化ではなかったし、彼女特有の勝ち気な猫みたいな空気は一切変わっていなかったので、一目見て雷華だとは判別できたけれど。
「それはよかったわ。四年も放り出していた許嫁に対してたっぷり埋め合わせをしてもらわないといけないしね」
「いつまで言い続けるんだ、それ」
「そういえばもう婚約できる年齢よね、わたしたち」
「わかった、構ってやるから今は飯を食うことに専念しろ。せっかく美味い飯なんだから」
「兄さんったら、そんな風に褒めてもなにもでませんよ。ところで夕飯は兄さんの好きだった肉じゃがにしますね」
「裂夜ちゃん、出てる出てる。あからさまになにか出てる」
士官学校時代も人と一緒にご飯を食べることはよくあったが、こうして昔なじみの三人で食べるのでは、やはり賑わいが違う。千歳は懐かしさに眼を細めて、裂夜の作った秋刀魚の塩焼きを口に運ぶ。塩味が聞いていて実に良い味だった。
千歳は茶碗の中身が空っぽになったので、おかわりでもよそいに行こうかと思った矢先、縁側をひとりの男が通りかかった。
四年経っても、その男だけ変化がなかった。目尻に皺ができて老いを見せ始めているのが変化といえば変化だ。巨漢。岩のようながたいで、この四年間も鍛え続けた千歳よりも、単純な威圧感だけならば勝る風格である。そこまでの肉体を持つ者は、この屋敷には父以外にはあり得なかった。
千歳と父の目があう。お互いになにも言葉を交わさなかった。賑やかだった食卓に静謐の帳が落ちた。不穏な空気に、誰もが口を重たくした。
ただ目があっただけで、言い争いをおこしたわけでもない。一触即発の殺伐とした空気があるわけでもない。ただ、このふたりは水と油で、いつ、どんな風にして弾けるかはわからなかった。単純な殴り合いになるわけではなさそうな雰囲気であるだけに、誰も不用意に手出しはできないのだ。
一分はその静けさは保たれたかと思ったが、実際には一〇秒にも満たないわずかな間だけのことであった。
雷華が、この重い空気を払拭しようと、努めて自然に笑顔を作って、父に軽く頭をさげる。
「いつもお邪魔しています、御当主様」
雷華の笑顔がとっさの作り笑顔だとわかっているのかそうでないのか、父は小さく頷いて「気にすることはない」と答えると、そのまま顔色ひとつ変えずに、裂夜に声をかけた。
「昼餉か」
「はい。父さんもお食べになりますか?」
「今はいい。あとでいただこう」
「そう、ですか。わかりました。お皿にもりつけておきますね」
訊ねてはみたものの、裂夜は父がここで遠慮したことに内心胸をなで下ろしていた。普段は一緒に食卓を囲んでいるが、千歳がいるこの状況で食事を共にしようものならば、おそろしく気まずい昼食になってしまう。
ここへは食事の香りにつられてやってきたのか、父はそれだけ裂夜と話すと、千歳を一瞥するだけで何も云おうとはせずに、縁側を進んでいこうとする。
その背中を千歳が引き留めた。
「親父」
そういわれれば、父は足をとめる。無視しているわけではなかった。
千歳の一言で、場が緊迫する。裂夜と雷華は次に千歳がなにをいうのか静観した。
「俺は忘れないぞ。母さんの葬儀の日に帰ってこなかったアンタのことをな」
「いいたいことはそれだけか」
「ああ、それだけだ。引き留めて悪かったな。どこへなりともいってしまえ」
四年ぶりに再開した親子の会話は、本当にそれだけで終わった。
父が縁側を歩いてここから遠ざかっていく足音が聞こえる。それが聞こえなくなると、ふたりはほっと息をついた。もう千歳は何事もなかったかのようにご飯のおかわりをよそうと、食事を再開させていた。
千歳とその父。この親子の仲にできた溝は、四年経っても埋まることはなかった。
久しぶりの陵家での休暇は、こうして過ぎていった。
千歳と父がニアミスした時こそ気まずい空気が流れはするものの、それ以外においては実に平和だった。今更親族の声など気になるほど柔な精神構造をしていなかったし、本当に久しぶりの羽根休めであった。雷華と裂夜との生活も当時に戻ったようで、彼女らの変化に戸惑いながらではあるが、この生活は悪くなかった。士官学校を卒業すると、こちらの方面への基地に配属する予定であるし、毎日とはいかずとも、頻繁にこっちへ戻ってくることもできるだろう。まだ卒業をしていないのに、千歳はそんな生活に思いを馳せた。それはなんと素晴らしい日々だろう。
ひとつ心残りがあるとすれば、那殊と未だに再開できていないことだった。
あれから何度も裏山に足を運んだが、一向に変化はない。祠は沈黙を保ったままだ。もしかして、千歳の右手につけられた傷、その起動キーには使用期限があるのではないだろうか、とも考えたが、あの父にそれを問いただすのは憚られたし、余計な詮索をされるのも癪だったので、それだけはしなかった。それに、那殊は自分から外に出られるようになっているはずだ。祠は千歳が剥がしたお札が張り直された形跡もなかった――一応接着剤でつけてはいるが、効果はもうない――し、那殊が自分から出てくることがないのも、不審だ。ひとりであそこから出るなと云った記憶があり、それに那殊は自分が外に出られると云うことに面食らっていたから、自分から出ることはないかも知れないが、千歳を無視することがあるのか。彼女なら祠の外にいる千歳の気配にすら気づけそうである。へそでも曲げられたかと思ったが、それにしたってずっと出てこないのはおかしい。
それから、以前那殊と見て回った街の至る所に足を運んだ。いるわけがないとわかっていたが、じっとしていることはできなかった。やはり、見つけることはなかったのだが。
休暇を半分ほど終えた時のこと。千歳が、もう那殊と巡り会うことは一生ないのではないかと嫌な予感を覚えだしていた時のこと。
日課となった裏山の散策中に、不穏な気配を感じた。
時刻は夜の八時ほど。日が沈んでから千歳が裏山に登ったのには特に理由はなく、さっきまで雷華と裂夜のふたりで外出をしていたせいで、今日は登ってくることができなかっただけのことだった。
その雷華と裂夜は、まだ二人仲良く街の方で遊んでいる。千歳だけ先に無理をいって帰ってきたのだ。なんだか、この日課だけは欠かすことができなかった。
千歳の庭である裏山、今では月明かりだけで登るのも容易い。そんな中での接近遭遇だった。
最初こそ、那殊か、それか裂夜か雷華につけられたのかと思った。が、すぐにその考えを改めた。気配は、複数あった。息を潜めて、闇に潜伏し、相手に気取られぬように、群体が単体のような統率した動きを見せている。
獣か。否、この裏山に群れで動き狩猟をする動物が住み着いているなどということはない。それはここのところ散策しているのだから、今も変わっていないことは把握済みだ。
ならば、こんな息のあった動きをできる集団は、千歳の知る限りひとつしかない。
軍隊である。
千歳はこちらが気づいたと思わさないように、裏山を登る足は止めず、目だけを動かして周囲を観察した。気配、一〇人前後。班三つ、分隊ひとつほどの人員である。千歳の移動にあわせて、その集団も動いている。この枯葉が落ちた山の中、足音も立てずに追随してくるとは、相当な練度だ。訓練を受けた者たちであることは確定した。そして、これほどの訓練を受けられるのも、また軍隊でしかない。〈鬼獣〉を信奉する集団が、天皇と関わりの深いこの家に襲撃でもかけに来たのかとも疑ったが、烏合の衆にできる動きでは到底なかったので、早々に除外した。
さて、どうする。と千歳は努めて冷静になりながら思案した。何故かはわからないが、陵の屋敷に用がある連中で、たまたま裏山にやってきてしまった千歳を包囲しているようだ。このまま見逃してくれるとは到底思えない。とはいえ、こちらは丸腰。抵抗がどこまで通用するかは不明である。
おそらく、陵の屋敷に向かおうとしている部隊は他にもいるだろう。山の方から屋敷へ進入する手筈であるはずだ。玄関の方は、さすがに人に気づかれてしまう。
千歳はごくりと熱い生唾を呑み込む。後頭部がちりちりと痛んだ。狙われている。今、銃器で確実に照準を合わせられている。
このままでは、屋敷の人間にこの者たちは襲いかかるだろう。あそこは裂夜たちの居場所だ。彼女たちは守ると決めた。それは断じて許せない。
ならば、やるしかない――。
道の途中にあった木の根に千歳は足を引っかける。無論わざとである。敵の気を逸らせつつ、前のめりになった千歳は地面に倒れ込む直前で足を前について飛び出した。
ここに来て、敵は千歳に存在を気取られたと理解した。
千歳の背後で発砲音。近くにあった木の樹皮が短機関銃の銃弾で抉れ飛ぶ。ここは千歳の庭だ。立地など、当の昔に把握済み。ここは最高のホームグラウンド。多少のことでは当たってなどやれない。
正確に位置を掴んでいたひとりに千歳は一息で肉薄する。昆虫のような赤いレンズの暗視ゴーグルをつけた男の姿が眼前に広がる。マスクのせいで表情は窺えないが動揺しているのだけは手に取るように判った。
男は千歳に短機関銃の銃口を向けて発砲。千歳は相手の腕を押さえて外に逸らすと、ぐっと踏み込んで相手の顎に掌底を叩き込んだ。
ゴッ、という打撃音。脳震盪を起こして男の身体から力が抜ける。漆黒の防護スーツを着ている相手に殴るのは無謀、なら鍛えようがなく、なおかつ保護が甘い部位に攻撃を集中させるしかない。
気絶させた男のすぐ隣には同じ班の人間であろう男がおり、既に銃口を千歳に向けている。奇襲じみた動きに即座に対応、動揺からは立ち直っている。戦場を経験している兵士――。
マズルフラッシュが瞬く。タイプライターを叩く音をあげて、毎秒数百発の弾丸が千歳に発射された。
それを気絶させた男の身体で受け止める。盾にした男の腹を蹴飛ばして、銃を撃つ男に激突させた。相手が姿勢を崩した隙をついて、敵が腰につけたサバイバルナイフを奪い取るとそれを腋にできたアーマーの隙間から突き刺す。ずぷりと相手の肋骨の隙間から肺へと進入した生々しい感触が手に広がった。刺したのは左腋。これ以上動けば心臓を傷つける。これで男は動けない。ナイフを引き抜くようなことはせずに、千歳は戦闘行動をおこなえなくなった男ふたりを放り出す。気絶させた男の腰から、またナイフを拝借して逆手に構えると木々の間を疾駆した。
闇夜の至る所から星のような瞬きを発して短機関銃のマズルフラッシュが散見される。雨のように弾丸が千歳に降り注いだ。それらを木々に身を隠しながら疾走することで回避する。
頬をちりっ、と弾丸が擦過して、焼ける痛みが頬に走る。えぐれた頬から血が流れるのも構わず、千歳は新たな敵に襲いかかる。三人の男が自分たちに向かってくる千歳を発見し、発砲。四人の間に障害物はない。よって、蜂の巣にすることに成功する。
ただ、この三人は千歳の戦闘能力を見誤っていた。千歳の才能は凡人である。だが陵の家に生まれ、那殊という化け物にしごかれ続け、そして士官学校で鬼のように鍛え続けた男の身体能力が、凡人であるわけなどなかった。
急に三人の暗視ゴーグルから、千歳の姿がかき消えた。熱源を見失い、三人がわずかに困惑する。もしこれが裸眼であったなら、すぐにどこへいったか気づけた。狭まった視界が三人の行動の正否を別った。
千歳は密集している木を蹴って、頭上へと飛翔していたのだ。
だんっ、と千歳は三人の頭上の木を蹴る。その音に気づいて三人が頭上を振り返った時には、落下した千歳がひとりの男の鎖骨にナイフの刃を突き立てていた所だった。落下のエネルギーを利用して深々と刺さったナイフによって、男の戦闘能力は奪われる。
残ったふたりが銃口を千歳に向けるが、発砲できない。あまりに距離が近すぎて、この位置では味方へ誤射してしまう!
その躊躇を利用した。千歳は拾った短機関銃の銃口を手近な男の胸に押し当てると、片手で銃爪を引いた。
ダダダッ、と弾丸が男の左胸を叩く。防護アーマーは優秀で、この距離でも撃ち抜くことはない。しかし、弾丸の衝撃までは緩和できなかった。屈強な男といえど、この距離で掃射されれば尋常でない苦痛を伴う。肋骨が折れ、さらに心臓に瞬発的な衝撃が叩きつけられたせいで、マスクから血が噴き出す。
残りひとり。
残ったひとりは既に千歳のこめかみを銃口で狙っている。あとは銃爪を引けば、果実のように吹き飛ぶ。だが、男は銃爪を引けない。千歳がたった今倒れようとしている男から奪ったナイフが手首に突き刺さって、腱が切れてしまっていたからだ。即座に顎へ掌底を叩き込み、この男も気絶させる。
半数の敵を無力化に成功。
今の千歳は猟犬だ。
陵の次期当主を侮った者たちを駆るただ一匹の猟犬だ――。
千歳は倒れた男たちから素早くナイフとスタングレネードを入手すると飛び出す。銃弾がさっきまで千歳の真横にあった木の幹をこそぎとった。
数の理を、最初敵は過信しすぎた。ただそれも当然だ。たったひとりが訓練された自分たちをここまで追い立てるとは思うまい。それでも、取り乱した様子がないあたり、敵は一流。想定外の状況への対応が慣れている。
が、最初のツケは今になっても響く。こんな暗闇で銃を撃っては、自分がどこにいるか相手に教えているようなものだ。
千歳はスタングレネードのピンを歯で引き抜くと、敵がいる方向へとぶん投げた。なにを投擲されたか相手もすぐにわかっただろう。気づいた男が声を上げて警告を発する。
「スタングレネードだッ!」
でも遅い。
千歳が耳と目を塞いで木に隠れると、スタングレネードが炸裂した。
一瞬で朝になったような真っ白な光が暗闇を照らし出し、覚悟していなければ嘔吐しそうなほどの音による衝撃。くると判っていた千歳ですら、足下が不確かになった。
だが三秒もかからずに立ち直ると、千歳は転がりでるようにして木から飛び出して走り出す。敵が立ち直るにはまだ数秒かかる。しかも敵は暗視ゴーグルを装備していた。閃光による目の被害は千歳とは比較にならない。一気に距離を詰めると、悶えている男三人に容赦なく掌底とナイフを叩き込む。身動きが鈍くなった相手の無力化にかかる時間は息する間すらいらない。
そこで銃撃が飛んでくる。スタングレネードを早期に察知した相手がいたのだ。残りはふたり。そのふたりからの銃撃だ。
左腕に激痛。上腕に被弾した。舌打ちをして、千歳は木を背中に隠れる。顔をだそうものなら、即座に発砲される。牽制のために射撃しながら、ふたりがじりじりと近づいてくる。隠れていても、敵のアクティブセンサーではどこにいようが簡単に見つかってしまう。
被弾した箇所を右手で触れて傷の具合を確認しながら、千歳は激痛に顔をしかめる。弾丸は貫通していない。腕の中にとどまっている。いっそ貫通してくれた方が助かった。これでは内部に運動エネルギーが残ってしまい、傷が広がる。痛みも無視できない。
現在千歳の手の中には、さきほど片付けた三人のうちひとりから奪ったナイフが一振りのみ。ここまで現地調達の武器で善戦してきたが、そろそろ限界だ。おそらく、あのどちらかは分隊長。もう片方はその補佐にあたる者だろう。射撃の腕と慎重さが他の男とは違う。
懐に入らなければ千歳の攻撃手段は使えないが、それを許してくれる相手だろうか。木を飛び移って仕掛けるなどという曲芸は、一度が限度だ。二度も見せれば、空中で全身を貫かれて無惨な姿を晒すことになる。
なら、チャンスは相手が今よりも近づいて、敵が銃爪を引くよりも早く千歳が接敵できる位置まできた時――。
かしゃかしゃと枯葉を踏む音と、装備がこすれて音を立てている。しまった、と千歳は思う。足音は近づいてこない。ふたつの足音は千歳との距離を保ちながら、徐々に左右に離れつつある。このままでは十字砲火を浴びて終わりだ。射撃武器を保有していないとわかっている相手にむざむざ近寄ってくる者はいない。
絶体絶命。
賭けにでて、片方の相手に接近して無力化するしかない。千歳が撃たれて息絶えるか、相手に達するのが早いかの勝負だ。
あまりに分は悪いが、この程度、やってのけねば陵の名が廃る――。
「ぎゃあ」
悲鳴がした。情けない男の悲鳴だった。どこかで、ぐしゃりと何かがひしゃげる音がした。続いて、もうひとつの悲鳴と銃声。またあの歪な肉と骨の砕ける音が千歳の耳に届いた。
……なにがおこった?
罠かもしれない。息を潜め、相手の出方をうかがう。辛抱強く待つ。なにも動く様子はない。夜の山にまた静寂が訪れていた。さっきまで暴れていた集団がまるで幻であるとでもいうようにだ。
さすがにおかしいと千歳が思い始めた時、静寂を切り裂くものがあった。
「いつまでそうして隠れておるのじゃ。いい加減出てきたらどうだ」
「え――――」
懐かしい、声がした。
じれている様子の彼女は、挑戦的なことを投げかける。
「それとも、このまま妾と鍛錬と行くか。良いぞ、森の中での戦闘を想定した者は立地的に今までやったことがなかったからの。お主がその気であるなら、付き合ってやらぬこともないぞ。久しぶりにの」
「那殊……!」
千歳が警戒心を投げ捨てて木から身を投げ出すと、その少女の姿はすぐに見つかった。
外出用の単衣に身を包んだ、艶やかな美しさを持つ少女。今では千歳よりも年下の外見となってしまっていたが、その変化のなさは見間違えるわけもない。月明かりに照らされて、悪魔的な美しさで千歳を圧倒する、幻想の君。
四年ぶりの再開だった。
「お前、どうして、いったいどこに……」
狐にばかされた気持ちの千歳がふらふらと那殊に歩み寄ると、那殊は途端に不機嫌になって鼻を傲岸不遜に鳴らした。
「それはこちらの台詞じゃ。四年も帰ってこぬでなにをやっておった。そのせいで、妾もあの岩戸から抜け出してしまったわ。我慢ならずにな」
「なっ、お前……ずっと探してたんだぞ、俺は! お前が昔見ていた夢だったんじゃないかと疑って、不安だったんだ」
「それは妾とて同じこと。四年も忘れられた女の気持ちがわかるか、千歳よ」
うっ、と千歳は口ごもる。確かに、たまには帰るといっておきながら、結局最後まで戻ってくることがなかった千歳は、それに反論する言葉は持ち合わせていない。待たせる側には想像もつかないほど、那殊は不安だったはずだ。千歳が数週間の間、那殊を探していただけだったが、那殊はそれとは比較にならない時間、千歳を待っていたのである。
すっかり那殊を見下ろせるくらい大きくなってしまった千歳は、そんな四年の成長など忘れて、遠き日のように情けない表情で、那殊に頭をさげた。
「それは、ごめん。返す言葉もない」
「当然であろう。もしこれで何かいってこようものなら、妾はお主をくびり殺しておったわ。
しかし……よく帰ってきたのぅ。千歳。妾はうれしいよ。おかえり、凡人よ」
「その言い方はやめてくれ。俺だって成長したんだぞ」
「その有様でいわれてものぅ」
くすくすと那殊に傷を見て笑われたものだから、千歳は恥ずかしくて傷口を手でおさえて隠した。が、触れたことで激痛が走って歯を食いしばった。
すると那殊が細い手をさしのべて、千歳の腕に触れた。
「どれ、貸してみよ。弾を取り除いて血を止めてやることくらいならできるぞ。完治はさすがに今からでは間に合わぬがな」
「あ、ああ。頼む。……万能だな、相変わらず」
那殊が手を千歳の傷口にかざすと、潰れた弾丸が引きずり出される。その感覚と痛みに千歳は耐える。このまま残っているよりはマシだ。
「伊達に時の操作などおこなえはせぬよ」
「そうか、お前はそんなことができたのか」
「我々にある得意分野、妾は時の操作に特化しておった。……なんじゃ、そんなこともしらずにいたのだな」
やがて、傷口がふさがる。あくまで血がでなくなっただけだが、これでも大分違う。左手を軽く握って感触を確かめると、那殊に感謝した。
「助かる。初耳だよ、それは。そんなことなら、昔もやってくれればよかっただろう」
「気づかぬうちに多少はやっておったさ。でなければ、お主はあんなにほいほいと妾のところにはこれぬであったろうよ。まあ、面白くて放置していた時もあったがな」
「今も捻くれ具合は直ってないようで、ある意味安心だ」
こういう言葉に肩を竦めて流すことができる程度には、千歳も成長していた。この扱いがなにより、懐かしくて涙がでるほどうれしかったというのが大きな理由ではあった。
いつまでもこうして再会を喜んでいられる場合でもないので、千歳は気を取り直して、那殊に今どんな事態なのかを訊ねた。
「なあ、那殊。なにがどうなっているか、お前ならわかるか?」
「お主は妾を万能な生き物と思っておるのか。知らぬよ、そんなことは。ただならぬ空気を感じてやってきたまでのこと。
妾にわかることは、そうじゃな。今ここで斃れておる者たちの中に、この国の血が混じった者はひとりたりともおらぬということかな。それと、先程の騒ぎを聞きつけて、彼奴らと同じ姿の連中がここに集まってきておる。おそらく、山に潜んでおる連中全員じゃ」
「この山以外に潜んでいる奴がいるかは、わかるか?」
「ふむ……」
と那殊が周囲に首を巡らせる。屋敷の方を見て、目を懲らす。
「少なくとも、屋敷の方へ向かっておる者は見あたらぬな。そちらに待機している者もいないようじゃ」
「つまり、神国人が一切いない集団が、陵の家に襲撃をかけている。そして奴らは全員俺たちを排除しようとして集まってきてる、か」
おそらく、他国の特殊部隊が神国の中枢に関わる存在を抹殺しようとして送り込んできたのだろう。装備から所属部隊がわかるかと思ったが、意図的に隠しているらしい。どれも整備はされているが、横流し品や紛争地帯で入手したもののようである。統一性もなく、専門家でもない千歳には判別ができない。そして、この手合いはけして口を割ることはないだろう。
最悪な事態だ。このことを知らせるにも、この場を切り抜ける必要がある。
「やるしかない、か。こいつらが何者かはこの際考えずに、まずはこっちにくる連中を叩く。……那殊、人数はどれくらいだ?」
「ざっと五〇人といったところかの」
「多いな……」
手負いの千歳で果たして相手になるだろうか。しかも、人数が多いとなれば、それだけ攻撃の手が多いということで、今度は八人も斃すこともできずに死ぬかもしれない。というより、その可能性の方が濃密だ。
敵のことで頭を悩ませている千歳に反して、那殊は冷静だった。むしろ、なにをそんなに深刻な顔をしているのかわからないといった様子である。
「どうしたのだ、千歳。そんなに厳しい顔をして」
「どうしたって、当たり前だろう。五〇人を俺たちだけで相手にしないといけないんだぞ」
「なんじゃ、そんなことを気にしておったのか」
「そんなことって、お前なあ……」
那殊の言葉に眉を寄せる千歳だったが、彼女はこともなげにいってみせた。
「蟻がたったの五〇匹ではないか。その程度、ものの数ではなかろう?」
本当に千歳の言葉理解できていないようだった。那殊は、五〇人という数字に、なんら感情を抱いていなかった。
そうしていると、周囲に気配が集まってくる。こんなところでぼうっとしていたせいで、対策も練れていない。ただ、千歳には不安がなくなっていた。今は漠然と、もうなにもかも終わったのだということがわかった。
一流の兵士が五〇人。
それらは那殊によって総て血祭りにあげられた。
四年前。那殊は木の蔦を操っていた。那殊は時を操るといった。式神、鬼人はその常人離れした脳機能でもって物理法則を手中にする。一説には、体内の膨大すぎるプログレス因子を媒介して、脳が作り出した幻想を出力し、物理法則を操るのだという。那殊はその中でも、時を操ることをも最も得意とするというのだ。その力を応用して、木々の伸縮、制御を自在にこなした。それにより、疑似的に木を操っているように見えたのだ。
そして、彼女の能力の支配権は、少なくとも視界内全域ではある。
――よって。この場にいる五〇人は、彼女のテリトリーにむざむざと入り込んだ哀れな蟲でしかなく。
争いというものも起こらずに、あれほどの練度を持った兵士たちは虐殺された。
戦場から逃げようとした最後のひとりが、木の蔦によって胸を貫かれて、地面に放り出された。堅牢な防護アーマーなど関係ない。圧倒的で理不尽な暴力は、彼らの蹂躙したのだ。
時間にして三分かかったか、そうでないか。辺りにはむせかえるほどの血の臭いと、人の死体で溢れていた。
千歳は写真で見たことがある。これは人間同士の戦争でできあがった戦場によく似ていた。敗北した兵士たちの、死体の山だ。
「……なあ、那殊」
「ん? なんじゃ、千歳。この程度、褒めてもらうまでのことでもないぞ。降りかかる火の粉を放ったまでじゃ」
「なんで殺した」
人を殺したことによる良心の呵責を一切感じていない那殊に、千歳は呆然と死体を眺めながら訊ねた。目の前にある死体は、どれも木々に弄ばれて死んでいた。それに、那殊が本気なら、もっと楽に、効率よく、殲滅できたはずだ。なのに、これは、楽しんで殺したようにしか見えなかった。
千歳は誰にもトドメは刺していなかった。致命傷は与えても、殺さなかった。聞き出せることがあるかもしれない。人の証言は必要だ。そんな打算からであったが、なにより殺すことに抵抗があった。
なのに、千歳が生かしていた人すら、那殊は余さず息の根を断っていた。もうこの裏山で動ける者は千歳と那殊しかいない。
「おかしなことをいうのだな、千歳は。敵だから殺す、それ以外に理由など必要なかろう」
「だけど、なにもこんな殺し方をする必要はなかった。お前ならもっと楽にやれただろ、違うか!」
思わず声を荒げた。千歳の罵声に那殊は怒ることはしない。代わりに、笑った。返り血を浴びて笑む姿は、地獄の使いのように恐ろしく、また美しかった。
「ああ、やれたとも。だが、それではダメじゃ」
「何故だ」
「だって、つまらないではないか。殺す相手には悲鳴を上げて無様にのたうち回ってもらわないと――困るであろう」
頭がくらくらした。それは那殊の本心からの言葉であると、千歳にはわかってしまったからだ。
那殊が歪んでいることは知っていた。多少捻くれて、困った奴であったが、それでも、悪い者ではないと思っていた。一緒にいると楽しかったし、愛おしいと思った。
なのに、これは、なんだ。この有様と、その楽しげな笑みはなんだ。
これが、千歳の知っていたあの那殊なのだろうか――?
「千歳、お主はとんでもない勘違いをしておるようじゃな。以前もいったであろう。妾が何故、あんな場所に閉じ込められておったか。こういうことじゃよ。だから封印された。お主が解き放ってくれたのだがな」
ああ、その通りだ。那殊があんな場所に閉じ込められていることが堪らなく嫌で、千歳はついあそこから連れ出したしまったのだ。でもあの時お祭りを回る中で見せてくれた笑顔も、けして嘘ではなかったはずだ。だけど、この笑みも本物。人殺しを楽しむ那殊の姿もまた、嘘偽りがない。
「なんだ、その顔は。そそるではないか。苦悶で歪む表情、それを見るためだけに、こやつらを殺した甲斐があるというものじゃ。
――ああ、愛おしいなあ。愚かなる千歳よ。妾がそんなに優しいなどと思っておったのだから。妾が愛を注ぐのはお主だけだというのに」
那殊の指先が千歳の頬を撫でる。冷えた夜だというのに那殊の指先は何故だか温かい。血の温度が千歳の冷えた頬に伝わっていく。那殊に浸食されていく。
「なんで、初めて会った時、俺のことは殺さなかったんだ……」
「そんなことをすれば、二度と陵から人がこぬではないか。それは退屈じゃ。もし今までの間に殺しておったら、お主にも逢えなかったしのぅ。本当に、これまで生きてきた甲斐があったというものだ。愛しき愚かな者、安心するがよい。妾はお主だけは大事に扱ってやろう。いっていただろう、お主の血も肉も髪の一本まで妾のものじゃ」
那殊は?出遭ってしまった?頃からなにも変わっていなかった。ただ千歳はずっと気づくことがなかった。この老獪な少女が胸に秘める狂気に。幼き千歳は気づくことができなかったのだ。
「ほら、だって、妾はお主の身体をこんな風にできる」
直後、ぐしゅりと音をたてて、那殊の手刀が千歳の左胸を貫き、中からドクドクと脈打つ千歳の心臓を引きずり出した。
千歳の口から血が溢れる。銃弾で撃たれたのとは比べものにならない激痛と、間近に迫った死の気配に、千歳は目を見開いて那殊を見た。立っていることもできずに、那殊に身体を預ける形になってしまう。千歳を抱き留めた那殊は、舌先で自分の掌の中にある心臓をぺろりと舐めた。
「次は、ほら、こんな風に」
いって、那殊はぐしゃりと千歳の心臓を握り潰した。喉が裂けるほどの絶叫が千歳の口から洩れた。急速に意識が薄れ、死――。
「でも、死ぬことは妾が許さぬ」
――ぬことはなかった。
千歳の心臓は左胸に収まり、傷ひとつなくなっていた。痛みも嘘みたいになくなり、身体に力が戻る。なにをされたのか、千歳はすぐにはわからなかった。しばらくして、那殊の力によるものだということが判った。那殊は時を操る。巻き戻したのだ。那殊に心臓を引きずりだされる前の状態にまで、千歳の身体を。
興奮した那殊が熱い息を吐きながら、千歳の耳元で囁いた。
「ほぅら、お主の生き死にすら、妾の手中じゃ。これで妾の所有物でないというのなら、いったい他のなんなのだね」
「――やめ、ろ」
千歳は那殊から身体を引きはがすと、恐ろしいものを見る目で彼女を見た。初めて見た時から、那殊に畏怖を覚えていた。だが、存在そのものに名状しがたき恐怖を抱いたことは一度たりともなかった。
「やめてくれ、那殊。いったいどうしたんだ。昔みたいに笑ってくれよ……。そんな怖い笑い方なんでしないでくれ。俺が悪かったなら謝るから、頼むから……」
「妾は今も昔も変わらぬよ。強いて変わってしまったところがあるとするなら、それは間違いもなく千歳、お主のせいじゃな」
「俺の――」
「これほど人に執着したことは、ここ数百年初めてのことだった。ここまで妾を夢中にさせておいて、お主は四年も妾をひとりにした。……それはとてもとても寂しかった。寂しかったのだよ、千歳。妾は胸が渇いて渇いて仕方がないのだ。なにをしても満たされぬ。それも総てお主のせいじゃ」
「俺の――俺のせい――」
呪詛のようにその言葉は千歳に刷り込まれた。譫言のように言葉を繰り返す。これはすべて千歳の、自分のせいだと。
「だから、お主で妾を満たしてくれぬか。千歳。お主が堪らなく欲しいのだよ」
美貌の少女が、かつてから恋い焦がれた少女がそういって近づいてくる。美しい。人外の美しさだ。千歳は頭がおかしくなりそうだった。ふらふらと、向かってくる那殊から千歳は遠ざかると、彼女は不思議そうな目で千歳を見た。
「どうしたのじゃ、何故逃げる」
「できない……無理だ。俺は、お前のことが好きだけど、それはお前じゃなくて……」
「なにを寝ぼけたことを。妾は妾以外の何者でもないではないか」
それはその通りだ。自分がおかしなことをいっている自覚が千歳にもあった。身勝手な思い込みを言葉にしているのだと理解していた。でも、自分が好きになった人外の少女はこんな者ではなかったはずだ。そのはずだったではないか。
駄々をこねる子供のように首を振って、千歳は那殊から遠ざかる。その様子に、那殊は表情を曇らせた。このままでは埒があかないとわかったのである。
「なにがそこまでお主を縛り付ける。あれか、お主の背後にあるあの屋敷が邪魔をするのか」
那殊の言葉に千歳の背中が粟立った。今彼女は、なにを考えたのか。わかってしまった。だから、そのあまりのおぞましさに身体が震えた。
「妾は孤独であったのに、お主にはあのようなものがある。せっかく殺されるはずだった、屋敷の人間をこうして妾が救ってやったのに、お主は礼もいってくれぬ。それは、つまり、あそこにいる者はお主にとって邪魔であると。
――つまりはそういうことであるな」
那殊の不穏な言葉。そしてなにをしでかそうとするのか、予想がついてしまった。そして、千歳は自分では止められないことがわかっていた。彼女は止まらないし、止められない。何故なら、彼女は人知を超えた怪物なのだから――。
「良い機会じゃ。あの哀れな男も殺してしまおう。皆殺しである。お主を縛る鎖を、すべて取り払ってやろう」
「冗談、だろ。なあ。やめろ。それはやめろ。わかったよ、お前のいうことを聞くから、だから……っ」
「その反応、図星かの? まあ、どちらにしろ、関係のないことなのじゃよ。
妾は、お主にかかわる総てを壊して、殺したい。ただそれだけのことなのだよ」
無駄だった。もう総てが絶望的なまでに手遅れだった。
なにが、どこで、間違ってしまったのか。わからない。千歳にはわからなかった。でも、ボタンを掛け違えたように、どこかでなにかが破綻した。そもそも、人外の少女と関わって、恋をしたことが、そもそもの過ちだったのか。今となってはわからない。
「それに、あの哀れなる男を――お主の父は前から息の根を止めてやりたいと思っておったのだ。自分の子供も愛したが故に、あのような邪な方法で娘を作り、そしてその娘すら愛してしまって身動きができなくなった、あの哀れな男をな」
「それは、いったい……どういう、こと――」
「お主は知る必要はない。何故なら、最早関係のなくなることなのだから」
那殊が腕を振ると、彼女の身体が浮き上がる。ばっ、と視界が布に覆われたかと思うと、那殊は単衣から十二単に纏う着物を変えていた。まるで戦装束に着替えるように、那殊はその荘厳な服を身に纏う。月光を受けて煌めく姿は、なんと幻想的な、悪魔だ。
こうして、虐殺は始まった。
すべては、千歳の悪夢として、いつまでも思い起こされる、陰惨な記憶だった。
今から遡ること三年。
それがすべてのことの始まり。
そうして、賽は投げられた。