3:一時休息、わずかな
「それじゃあ、陵くんとはここでお別れですね」
千歳が正式に転属を言い渡された翌日、人工島K━3〈オキサリス〉の空港ロビーで桜姫が眉尻を下げ、寂しげにつぶやいた。
辺りには旅客機を待つ、あるいは乗り込もうとする人々のざわめきに満たされていて、千歳もこれから搭乗口に向かう所だった。
「なにも見送りにまで来てもらう必要はなかったんですが……」
「そんな寂しいことはいわない。あ、それとも迷惑でした?」
「いえ、自分はいいのですけど……その、ゲラート大尉が」
遠慮がちに桜姫の背後にある長椅子、正確にはその上で横になってうんうんと唸っているゲラートを指差す。軍服姿の大男が空港のロビーでダウンしている姿は人目を引くのか、先程からちらちらと旅行客と思しき人達が遠巻きに視線だけ向けていた。
桜姫はゲラートの醜態に呆れを含んだ苦笑いを浮かべた。
「……二日酔いです、昨日呑みすぎたんですね。お酒強くないのに、あんなに呑むからこうなるんです」
「い、祝いの席で酒を呑まん奴があるか……うぇ」
吐き気を必死にこらえているゲラートを見て、なにもここまでして来てくれなくともいいものを、と千歳は思う。見送りはいないと思っていたから、こうして別れを惜しんでくれるのはとても嬉しいのだが、まずは他人のことより自分の体調に気を配ってもらいたい。
それにゲラートが二日酔いになったのも昨日、模擬戦の後にバーの片隅で行った三人だけのささやかなパーティーのせいである。千歳はその後に領主と対面する予定だったので水しか呑まなかったが、ゲラートは一升瓶をそれこそ水でも口にするように煽っていたものだから、こうも見事に二日酔いとなってしまっていた。
昨日のパーティーだけで充分過ぎるほど千歳はありがたかったので、わざわざ身体に鞭打ってまで来なくてもよかったのだけど。べつに、今生の別れというわけでもない。会う機会こそ職業柄見つけづらいが、電子メールや電話によるやりとりくらいなら軍に検閲されてしまうができないこともない。
それとも、ゲラートが酒を必要以上に摂取し、嘔吐をこらえながら空港に訪れたのはほかに理由があるのか。
昨日のような一件で溜まるストレスの発散、および忘却――。
ない、わけはないだろう。ゲラートがあそこまで酒を口にするのはめったにない。
しかし、これだけなわけではないだろう。気を紛らわせたいならほかにやりようがある。ゲラートがここにきてくれたのは彼の善意であるのは疑う余地がなかった。
スピーカーからの女性の声がロビーに響き、千歳の飛行機への搭乗時間が迫っていることを告げた。
「それじゃあ、自分はこれで。今までお世話になりました」
「おう……本国の軍でも元気にやれよ」
「くれぐれも健康には気をつけて、無理はしないようにね」
謝辞をのべると、荷物をすべて受付で預けてしまった千歳は両手になにも持たずに搭乗口へと歩き出した。
やがて人の波に紛れてその姿が見えなくなると、桜姫は斃れているゲラートの隣に腰掛けた。
「もう、いっちゃいましたよ」
「……みたいだな。相変わらず淡白な奴だ。もう少し別れを惜しむ素振りくらい見せてもいいだろうに」
ゲラートの声はもう震えておらず、二日酔いに苦しんでいたのが嘘のようだった。実際、まだゲラートの顔色は悪いし酒に弱いのも本当だ。だが、弱いことを自覚し対策として薬を服用しておけば症状はある程度緩和できるものだ。
つまり、ゲラートは体調こそ万全でないものの吐き気を必死にこらえなければならないほど酷い状態ではなかったのである。
「見せて欲しかったんですか?」
「バカいえ。そんなわけあるか」
「貴方は相変わらず隠し事が苦手ですね。すぐ態度に出る」
くすりと笑って桜姫はゲラートのくすんだ髪の毛に触れた。手入れを怠っているので傷んだ頭髪は、これの持ち主がいかに暇を持たないかがわかる。そんな人間がわざわざひとりの少尉のため見送りに来るなど、なかなかあるものではない。少なくとも、どうでもいい相手にはそうしない。
ゲラートは柄にもなく照れたようで、顔を桜姫から背け、
「そうなるのはお前にだけだよ」
今度は桜姫が照れる番だった。
不意打ちなその言葉に桜姫はその名の通り頬を桜色にして、顔を正面に向けて誤魔化すように上擦った声をあげる。
「み、陵くんは大丈夫でしょうかね! あの子、しっかりしてるけど対人関係は苦手ですし!」
仕返しが成功してほくそ笑むゲラートは、あえて桜姫の話題に乗っかってやる。上半身を起こして、行き交う人々の合間から窓越しに滑走路に待機する飛行機を見る。確かあの便に千歳が乗るはずだ。
「さて……どうなるかね」
*
旅客機に乗り込むと、千歳はチケットに記された番号を探して狭い廊下を進む。自分以外にも乗客が前や後ろにいるものだから、移動するだけでも一苦労だった。しかもチケットに印刷された座席番号、その先頭であるアルファベットからして千歳の座席は最後部。移動の苦労もとびきりだった。それでも後ろが近づけば近づくほど乗客は減り、やがて行く手を遮る者がいなくなるとすんなり席にたどり着けた。
予想通り、千歳の席は最後部、その窓際にあった。手荷物はないので、すぐに自分の席についた。あまり良いものとはいえない弾力の座席に深く腰掛けながら、千歳は疲労を吐き出すように息を吐く。体力があり訓練で身体を鍛え上げた軍人といえども疲れないわけではない。それに、千歳は人混みが苦手なのである。
一息ついて余裕ができた千歳は機内に目を向けてみると、頭上の荷物入れにバックなど押し込んでいる人が何人もいた。珍しくもない光景。だが、毛布をかぶって寝ている者もいくらかいた。
おそらく、彼らは千歳より先の空港で乗り込んだのだろう。
千歳自身、旅客機に乗ったのが片手で数えられる程度、しかも短距離飛行のみしかないのでまだ実感はできていないが、この乗り物は複数の人工島と神国を結ぶ唯一の乗り物なのである。
人工島は浮遊しているために航空機でしか外部との接触がとれない。それは社会的に致命的だった。故に国々などを結ぶ旅客機という乗り物が重要視されるようになった。荷物の搭載量を大幅に水増しし、人を運ぶだけでなく輸送機のような使い方もできるようにしたのだ。科学がいくら発達しようと、人工島の外で作られた物は輸送しないと手に入らない。
旅客機は人工島や神国、他の外国とも接点をもたらすための重要な存在だ。人工島間だけで荷物と人を運ぶだけの機体もあれば、他国と人工島を行き来し荷物と人間を輸送する機体もある。いまや旅客機は人を運ぶものではなく、荷物を輸送して人も運べるものとまでいわれる始末だ。
千歳も昔この仕組みを聞いた時は、輸送専用機など物資運搬を一手に任せられるものを複数用意すればいいのに、とこの仕組みに対して懐疑的だった。が、人工島を地上の先進国と同じ環境にするためにはそれらの輸送機だけでは足りないようで、旅客機も駆り出されるようになったらしい。輸送手段が空輸しかなければそれも当然かもしれない。旅客機で人と一緒にまとめて運搬すれば燃料の節約にもなる。
旅客機が人工島を旅立てば他の島でそこ宛の積み荷を下ろし、次に行くべき島宛の荷物などを貨物室に詰め込む。さらに乗客も同じように降りるか、もしくは目的地に着くまで乗ったままでいる。乗客によって乗り込む島も降りる島も違う、席は指定式で、今の旅客機のあり方は深夜バスなどに似ていた。
そのため、最初の島から乗り込んで終点の島まで向かう乗客は長時間座席に縛り付けられることになってしまう。
「まあ、俺の場合はすぐだけどな」
他の島を経由して〈オキサリス〉にやってきたこの旅客機が次に向かうのは終点であり千歳の目的地である本土――神国。所要時間は二時間と少々。目を瞑っていればあっという間だろう。
ふと窓の外に目を向けると広い滑走路が目に入る。人工島は敷地に限界があるため、広い土地を必要とする飛行場は〈オキサリス〉ではここひとつしかない。そのためか、貨物車や人間が働き蟻のように滑走路を慌ただしく動き回っていた。
特に離陸まですることもなく、フォークリフトで貨物室に詰め込まれる巨大なコンテナをぼうっと眺めていると、突然真横から声がかかった。
「横、いい?」
女性の声だった。目を窓から外してそちらを向くと、まず金色の髪の毛が視界に入る。平均以上はある胸の辺りまで伸びた癖の少ない綺麗な髪の毛。桜姫がシャンプーのCMにそのまま出てもおかしくないほど綺麗な髪の毛をしていたが、この女性もそれに勝るとも劣らないものをもっていた。
年の頃は、あまり千歳と変わらない。女子大生の旅行者だろうか。それにしては連れの人間が見当たらない。単身で旅行するような年にも見えないが、あまり詮索するのも失礼だろう。
琥珀色の瞳で様子を窺ってくる女性に、千歳は軽く頷いた。
「ああ、どうぞ」
女性がスカートを抑えながら千歳の隣の席に座ると、ハンドバックを膝の上に置いた。それを見届けて、千歳は再び窓の外に視線を戻した。
荷物の搭載を終えたのか、フォークリフトや作業員が旅客機から離れていく。それから少しすると、千歳を乗せた飛行機は滑走路を進み出した。シートベルトを締める。
もう離陸は目前だった。
やがて、身体を座席に押し付けるGと共に飛行機は〈オキサリス〉の空港から飛び立った。
浮遊する人工島の環境を地上と同じよう管理する不可視の壁を突破し、飛行機が上空で安定飛行に入るのには数分もかからない。人工島は浮遊しているから地上よりも離陸地点が遙かに高くなっているためである。
後方に消えていった〈オキサリス〉に後ろ髪を引かれるように、しばらく窓の外を眺めていた。三年近く暮らした場所だ、別れが惜しくないといえば嘘になる。名残惜しい気分で窓の外に広がる景色を見ていた。
しょうがない、と千歳は誤魔化す。これは上から直々に言い渡された任務なのだ。軍という機械を動かす歯車である軍人でいる限りそれに拒否権はないし、千歳も拒否しようとは思わない。
いや、思ってはならないと言い聞かせた。
陵千歳という人間は突出した『我』を持ってはならない。そんな資格はとうの昔に剥奪された。だから自分は目立たない、あくまで劇の脇役のように生きるべきだ。劇の彩りではなく、彩を引き立たせるための構成部品。
そう決めた。決めたはずだ。
このままじゃいつまで経っても未練で気分が悪い、と千歳は瞼を閉じる。眠れば、考える暇もなく目的地につく。そうすれば、思考にふけって気分を悪くすることもない。それに眠れば、気分もいくらか晴れるだろう。
意識を闇の中に埋没させようと、息をひそめ――
銃声で眠気が木っ端微塵に砕かれた。
驚いて目を開くと、乗客がみなざわついていた。なんだなんだと辺りを見回すもの、誰かの悪戯かと顔をしかめるもの。
そして、前方の通路から姿を現したバラクラバ帽をかぶり短機関銃を手にする者と、拳銃を手にする者。
ふたりの姿を見て、乗客の誰かが絶望的な様子でつぶやいた。
ハイジャックだ、と。