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ガンメタル・グリード  作者: 刹那
37/60

36:悪魔と出遭った日

 父がいつでもいっていたことがある。

 

 ――「お前は強く在らねばならない」


 まばゆい日差しが、窓から差し込んでいた。その陽光をきらりと反射する床板は、日々手入れを怠っていない証拠に硝子のように綺麗だった。

 息を吸うと、肺に清涼な空気が満ちる。遙か昔に建造されていた実際の道場とは材質も違うはずなのに、この場所はいつも神がおわすのではないかというほど、外界とは逸脱した空気を内包していた。

 そんな剣道場の中で、正座して向かい合いながら、父はいつでもそのようなことを息子に言い聞かせていた。

 強くあれと。それは義務であると。絶対の命題であると。言い聞かせていた。骨の髄まで染み渡り、けして忘れぬように。

 呪詛のように、それとも教典を全身に書き写すように。そのたった一言を、息子は身体に刻みつけられていた。

 父が特別非人道的だったわけではない。いや、むしろ、ここまで高潔で厳格で、揺るがない山のような男を、その息子は見たことがなかった。おそらく、自らの死を目前にしても、まったく動じないのだろう。それほどまでの鋼の精神を持つ、武人だった。

 だから自分にはそのような生き方をするしかないのだと、子供ながらに思わざるを得なかった。自由な道などなかった。それがこの家に生まれた者の使命であり、あとは機械的に強さを渇望するしかない。

 ただ、問題があったとすれば。息子がおちこぼれだったということ。それしか道がないのに、その道を満足に歩めないということ。

 一族の恥というレッテルを貼られて、生まれた時から親類に蔑まれ続けた。

 それが、陵 千歳という男の人生だった。


「お前は強く在らねばならない。それがこの墓守御三家、天皇剣術指南役の陵家に生まれた者の使命だ」

「……ああ」

 年齢にして、まだ中等部か、その一つ下か、といった時のこと。陵 千歳は、いつものように無愛想な返事をした。

 まだまだ遊び盛りの少年といった年頃のはずであるが、千歳の顔には、無邪気な表情は一切見られない。きつく結ばれた口と、鬱屈として澱んだ瞳は、まるで死地にいるのではないかと思わせるほどであった。体格も、とても少年のものとは思えない。成人男性と遜色がない、いや、膂力は常人では及ぶべくはないだろう。この年齢にして、人として完成しているように見えた。

 そうでなければ、こうしてこの場にいられなかった。そういった方が正しいが。

「して、用はそれだけか」

 千歳は血の繋がった父に対するものとは思えないほど他人行儀に対応する。反抗期、というかわいさも感じない。冷たく、淡々と、見ず知らずの人間と話しているような様子だった。

 情がないのだ。生まれてこの方、この親子は同じようなやりとりしかしてこなかった。だから千歳にとって、血のつながりなど書類上に書いてある文字列と変わらず、世間が自分たちを制定し処理するための文句でしかなかった。

 なにより、この父のせいで母は苦しんでいるのだ。たとえ高潔、厳格、周りから立派と褒め称えられようとも、千歳にとっては忌むべき、同じ顔をした他人だ。そこに友好的な感情が生まれるわけもない。敵と、そういってしまってもいいのかもしれなかった。

 つまりはふたりの関係というのは、いつもこのようなものだった。

 実の息子の態度に、父も気を止めない。顔を横に振って、父は着ていた和服の懐に手を入れた。

「本題だ。手を出せ」

 千歳は怪訝そうに、父の顔を見る。短く刈り込んだ髪が、まるで岩に生える苔のように見えるほど、硬い父の表情からは、なんの思惑があるか読み取ることはできない。それは路傍の石ころを拾って、これはどこから流れ着いたのかと思案するようなものである。精々、殴ったら拳が痛みそうだと、そんな剣呑な感想を抱くだけだった。

 なので、観念して千歳は右手を父の方に出す。

 父はその腕をとると、懐から取り出した短刀で、千歳の手の甲を切りつけた。

「……っ!」

 じくりと痛みが広がって、千歳は慌てて手を振り払った。幸い、掴む力は強くなく、簡単に解けた。

「いきなりなにを!」

 腰を浮かして千歳は父を睨み付けると、相手はちょうどどこからか取り出した和紙で短刀に付着した血を拭っているところだった。

「答えろ!」

「屋敷の裏山中腹にある祠に行け。お前に新しい鍛錬を命ずる」

 それ以上は待っても何も言葉は返ってこなかった。短刀を懐にしまうと、父は無言で立ち上がる。

「……意味がわからない」

「行けばわかる。

 それと、皇ヶ院の娘が来ているようだ。行く前に顔くらいは見せておけ」

「アンタたちが勝手に決めた許嫁だろう。そんな冗談に付き合う気はない」

「会っておけ。死ぬ前にな」

「なに……?」

 父は多弁ではない。必要だと思われることだけを告げると、後は制止の声も聞かずに剣道場から出て行った。下駄のからんころんという音が遠ざかっていくのを聞きながら、千歳は悪態をつく。

「くそ……」

 自分の言葉が、相手になんの痛痒も与えていないということが悔しく、口の中に苦い味が広がった。岩を素手で殴ったような気分である。痛んだのは結局自分の自尊心だけ。こんなやりとりをする度に、胸が焦燥で苦しくなる。そうだ、千歳はいつかあの父の場所に到達しなければならない。敵を蹴落とさなければならない。なのに、認めたくないが、それは空に手を伸ばしているのと同じくらい途方もないことだった。できなければ、自分に張り付いたレッテルは死後、子々孫々にまで語り継がれてしまうというのにだ。

 ぐっ、と父に傷つけられた手を握る。ぬるりとした血の感触がして、

「……?」

 して、それだけだった。痛みは返ってこなかった。

 不思議に思って手の甲を見ると、そこにあった傷口がもうふさがっていた。縦に切り傷の跡があるので、傷があったことは確かなはずなのに、ものの数分で完全にふさがっている。握っても痛みを感じないほどに。

 思ったよりも傷口は浅かったのだろうか? と千歳は眉を寄せるが、結局正答にはたどり着けず、ハンカチで血を拭うと、剣道場をあとにした。


 千歳の住んでいる屋敷は、歴史ある由緒ある建造物だ。何百年と前から、改装と補強工事をおこないながらも、今の今まで存続してきた。見た目は木材でできた大昔のお屋敷であるが、それはメッキのようなもので、中身は意外と最先端の技術が用いられている。でなければ、自然災害などでとうの昔に消失していただろう。木の香りも触感もするし、丈夫とあれば、何の問題もない。

 山奥にある街、その坂道を登っていった一番上にある家がここだ。この田舎において、陵の家は敬われていた。過去に武将として、数々の戦で活躍した、や、政府の官僚であった、など、色々な話が今に至るまで残っているというのもあるが、今でも国と密接な関係をもっている――と思われているからである。それは事実であるが、その実、どうして国がこの屋敷の人間と関係を持っているのか。そのことを知るものはいない。

「墓守御三家……」

 ぼそりと千歳は、父に聞かされた言葉を吐き出して、仏頂面になる。

 墓守御三家とは、陵家、石塔家、墳墓家という、三つの家を示す言葉である。知っている者は、国にいる者でも権力を持った者だけであるが、この御三家は古より国を影ながら守ってきた存在だ。懐刀といっていい。石塔家は代々不可思議な力を持つ娘が生まれ、墳墓家は常に最新鋭装備と最先端の戦闘技術を会得し外敵を排除することを目的とし、そして陵家は天皇への剣術指南役だ。

 天皇は国を象徴する機神を動かせる唯一の存在であり、その天皇に技術を指南するという陵家は、国の命運の一端を握り締めているといっていい。

 それ故に求められるのは絶対的な戦闘能力。そして、陵家はあらゆる場面において国を守護するという使命もある。あらゆる戦場、戦局、不利な状態、崖に追い詰められて敵に包囲されたような絶体絶命の時でも、切り抜ける機転と強さがいる。

 他にも必要なものはあるだろう。だが何はなくとも強さがなくては始まらない。そう、千歳は幼少時から今まで叩き込まれてきた。

 緑生い茂る庭に面した縁側を歩いていると、親類とすれ違う。その時、

「おちこぼれ……」

 そんな声が聞こえた。千歳が鬼のような形相で睨み付けると、親類の女性は口元を和服の裾で隠すと、そそくさと角に消えていった。

 おちこぼれ。それだ。それが千歳の心に暗い影を落としていた。

 陵家は厳選された血筋の許に生まれる、高潔なる一族だ。その役割がら、血を選別され生まれてくる子供は、みな天才的といっていい能力を保有している。

 だが千歳は、凡庸だった。身体能力だけではなく、ある明確な数字がでてしまうものまで。〈GA〉を操縦するために必要であり、保有量によって人体の強度さを測定する指針となるプログレス因子。陵家は今までこの因子保有量が八十を下回ったことがなかった。が、千歳の場合七十前半。今までとは比べものにならない。天皇に剣術指南するということは、機神を使った戦闘技術も教えるということである。なのに、当の教導側の人間が慣性制御の係数を高められないとあっては、どこまでできるか疑問である。

 しかも身体能力にまで直接影響している。千歳は鷹が鳶を生んだようなもので、親類一同から嘲笑されていた。生まれた時から。

「……ああっ、くそっ」

 手近な場所にあった柱に拳を叩きつける。痺れるような拳の痛みはふつふつと煮える怒りに上書きされて気にならない。

 本当に、どうしようもなく、イライラする。

 すぐそこに広がる、手入れの行き届いた庭など眼中に入らない。千歳にとって、世界中が敵のようなものだ。自分の生き方を制定され、自分もそれを受け入れた。だというのに、生まれた時から周囲は千歳をゴミのような目で見る。

 陵家の理念など、千歳にはどうでもよいものであった。ただ、それでも身体を痛みつけてその指針に従うのは、それしか自分を表現する術と生きる手段が見つからないという、執念によるものだった。

 いつか折れることが判りきっている飾りなき抜き身の日本刀。それが、少年時代の陵 千歳という者だった。

「……兄さん」

 そんな千歳に声をかける少女がいた。風が吹けば消えそうな声量であったにもかかわらず、芯の通った声は確かに千歳の耳に届いた。千歳の身を案じる、不安げな声だった。

 だがその声の主に千歳が抱いた感情は吐き気すら催すほどの嫌悪。

 千歳が背後に振り返ると、千歳より、三歳は下だろうか。そのくらいの少女が、千歳のことを見上げていた。花弁の柄をあしらった和服を着て、きゅっとその裾を気丈に握り締めたまま、泣きそうな目で見てくる少女――妹の陵 裂夜に、千歳は辛辣な言葉をかける。

「なんだ、俺に用か。無闇に話しかけるなよ。変な噂が立つぞ。母違いの妹が次期当主の座を狙ってるってな」

「…………!」

 びくりと身体を震わせて、裂夜はうつむくと、長い黒髪に顔が隠れてしまった。等身大の日本人形のような愛らしい少女は、しかし、千歳にとっては忌むべき存在なのだ。

 自分がおちこぼれで、周囲に蔑まれ、そして道が一本道だったとしても、それはまだよかった。問題は、違う母親から生まれた妹の方が千歳より優秀だったということである。それも、陵家過去類を見ない逸材であったという。

 正当な血筋が、そうでない者よりも圧倒的に劣っている。劣等感がとどまることなく強くなる。

「わたしは、そんなつもりじゃ……」

「なら話しかけるなよ。俺だって奴らが口にする暇つぶしの話の種になるのはごめんなんだ」

「……ごめんなさい」

「だから話しかけるなって。反吐が出る」

「ちょっと。その言い方はひどいんじゃない!」

 千歳が吐き捨てた言葉に抗議する声が、すぐそこからあがった。いつの間にか裂夜の後ろで腕を組んでふんぞり返っている少女が、千歳をむすっとした表情で見ていた。彼女も千歳より年下の女の子である。髪をツーサイドアップにしている少女を見て、千歳は溜息をつく。会うつもりはなかったが、会ってしまった。

「雷華か」

「なーにが、雷華か、よ。かっこつけっちゃってさ。ばっかみたいに」

「やかましい。年上になんて口の利き方するんだ」

「なによ。アンタだってまだ子供じゃない。どんな口の利き方したってわたしの勝手でしょ! だいたい許嫁なんだからそんなこと気にしてんじゃないわよ!」

「……ああ、はいはい。わかったよ、もう。それでいいよ。ったく……」

 どうにも調子が狂う。千歳はまともに相手にするのが面倒で、早々に言い合いを切り上げた。

 雷華は千歳から裂夜をかばうように立って、両手を腰に当てると、口をへの字にする。

「それで、あやまんなさいよ!」

「なにをだ」

「裂夜ちゃんへの態度について」

「……なんでだ」

「ひどいでしょーが!」

「お前には関係ないだろう」

「ある。妻だから」

「なんじゃそりゃ」

 そんな風に子供らしく押し問答を繰り返していたのだが、そのうち裂夜の方が遠慮がちに雷華の服の裾を掴んで喧嘩を止めた。

「あの……雷華姉さん、いいんです。そんなにしなくて」

「え、でも裂夜ちゃん、こういうのはびしっといわないと!」

「わ、わたし、お母さんの様子見てきます」

 ぺこりと頭をさげると、裂夜は千歳の横を通り過ぎて、走っていってしまった。裂夜が見えなくなると、また千歳は吐き捨てる。

「……ふん、その母さんがああなったのは誰のせいだと思ってるんだか」

 裂夜を産んだのも、千歳の母だ。しかし、遺伝子は千歳の母のものではない。簡単にいえば、千歳の母は代理出産をしたのだ。自分の夫と別の女との間にできた子供を。

 千歳が父と妹を嫌う最大の理由がそれであった。隙のない豪傑といった父が唯一見せた汚点であり、また、妹を出産したせいですっかり母が病弱になってしまったことへの、子供ながらの恨みであり。

「いったいどっちが忌み子なのやら」

 すぱこんっ。千歳の頭が叩かれた。

 すぱこんっすぱこんっ。何度も千歳の頭が叩かれた。

「おい」

 ジト目で千歳は雷華を見る。またすぱこんっすぱこんと丸めた雑誌で叩かれた。

「ばか、あほ、まぬけ!」

「人をそう何度も叩くんじゃない!」

 そのうち千歳と雷華は屋敷を駆け回ることになり、一時屋敷を騒然とさせながらも、年相応の子供らしく大人たちをひっかきまわしたのだった。


     *


 千歳が父に言われたことを思い出したのは、日が沈み出した時のことだった。

 皇ヶ院の家からの迎えで雷華が陵家から離れることで、千歳との嵐のような大騒ぎは終わった。最後の方は、当初の口論とは変わって、お互いの罵りあいになったり、とっくみあいで喧嘩をしたり――無論千歳は手を抜いたが――、ほとんどじゃれているようなものだった。

 雷華とは、千歳の父と雷華の父が決めた許嫁である。いつ、どうして決まったのか。それは千歳も知らない。ただ気づいた時にはそういう関係になっていた。由緒正しき国家の中核に食い込む家系の息子と、一代にして巨大財団を形成した家の娘。父親同士が友人であったということもあり、この婚約は周囲からの反発などは比較的少ない。千歳を蔑む親類からも、おちこぼれが陵家にする唯一の貢献であるとまでいわれている。一代で財を成した皇ヶ院を、成り上がりの庶民と軽視する声があるのも事実だが。

 ただ、千歳としては勝手に結婚相手を定められているというのは――不愉快だ。

 千歳はこのような原始的な家風を持つ家に生まれはしたものの、この世界だけしか知らぬというわけではない。平日には街の学校にも通わされているし、メディアの発達した世の中だ。世界の風潮などの知識が遅れているわけがない。千歳の性格自体は、環境の性で歪んでいる面もあるが、基本的には現代の子供となんら変わらない。だから、許嫁というシステムに対して不快感を抱くのは当然といえた。

 当人たちの意思を確認せず、勝手にそんな約束を交わした父を、千歳はますます許せない。なにもかも勝手に、濁流のように話を推し進める。千歳自身が流される小石になったようで、無力感と理不尽さには、フラストレーションを溜まらせた。

 なによりも雷華だ。彼女の意志はどうなる。自分よりも年下で、まだまだ人生始まったばかりだというのに。皇ヶ院という家柄で、ただでさえ自由が拘束されているというのに、そこまで勝手に決めつけられて良いはずがない。

 許嫁という取り決め自体に怒りはあるが、千歳は雷華というあのやんちゃで騒がしい娘を嫌いではなかった。だから彼女まで、陵の面倒事に巻き込むというのは、憤懣やるかたない。

 そうして、縁側で柱にもたれかかっていると夕暮れ時となり、陽が山にかかった頃、その色で思い出す。

 真っ赤な夕日が血の色に似ていたものだから、つい千歳は自分の手の甲に目を落とした。

「そういえば……」

 父に言われていた。山の中腹に迎えと。すっかり忘れてしまっていたが。

 掌を夕日にかざすと、朱と黒のコントラストで、傷だらけで皮が固くなった手がまるで己のものとは思えぬような異様な雰囲気を帯びる。不吉な灯りだ。精神が揺さぶられる。朝でも夜でもない、この不安定な時間が千歳は昔から苦手だった。雷華は綺麗だというが、千歳は夕方になると胸が疼いた。千歳にとって、夕日は戦時下において鳴っている警報だ。それだけ落ち着かない。

 かざした掌を握り締める。やはり切られた痛みはない。でも夕日を見ていると、焼き石を握り締めているような熱さがあった。

「……なんだっていうんだ」

 落ち着かない。家にいても落ち着かないというのなら、言いつけ通りに向かってみるのもいいかもしれない。あの父の言いなりになるのは癪であったが、これも陵家の何らかのおこないの一環であったとしたら、また親類たちの陰口に燃料を注ぐことになってしまう。それは、気に入らない。

 千歳は庭にある下駄を履こうとして、山道にこれはきつかろうと思い直し、部屋から運動靴を持ってきて、それに足を入れた。玄関までいけばシューズはあるのだが、裏山に行くには遠回りである。あまり使っていない運動靴といっても、それが土で汚れるのは嫌であったが、それでも早く山に行きたいという欲求が強かった。何故だかはわからない。山へ向かう決心をすると、磁石に引き寄せられるかのごとく、意識がそちらに向いて仕方なかった。

 和服から着替えやすい洋服に着替えるのも億劫で、千歳は庭から裏山の方へと砂利道を歩き出した。


「ふあ……」

 時同じくして、庭を覗ける場所にある一室で、裂夜が昼寝から目を覚ましたところだった。でも、ここは裂夜の部屋ではなかった。

 布団の柔らかさと人肌のぬくもり。髪を撫でる女性の優しい手の感触に、裂夜は目を開いた。

「あら、裂夜さん。起こしてしまったかしら?」

「あ……お母さん」

 どうやら、床に伏せっている母の様子を見に来て、そのまま眠ってしまっていたようだ。裂夜が身を起こすと、母は半身を起こして、膝にある娘の頭を愛おしそうに撫でているところだった。

 かあ、と裂夜の柔らかい頬が外に広がる夕日と同じ色に染まる。

「ご、ごめんなさい。寝てしまって……」

「いいのよ、娘のかわいい寝顔が見られたのだから。あまり、一緒にいられないものね。ごめんね」

「い、いえ、……娘と呼んでくれるだけで、わたしは幸せです」

 頭を引っ込め恐縮して縮こまる裂夜に、母は弱々しく苦笑すると、そっと胸に抱き寄せた。

「いいのよ。貴女は私がお腹を痛めて産んだ子だもの。間違いなく、私の娘です。だから、どうかそんな悲しいことをいわないでくださいね?」

「……はい」

 花のような笑顔をこぼすと、裂夜はうれしそうに母に抱擁を返した。母が代理出産しただけで、母と直接の血のつながりはないが、それでも実の娘と同じように愛情を注いでくれる母が大好きだった。不当な血で産まれたというのに、強すぎる力を持ったせいで、微妙な立ち位置にいる裂夜が心を許せるのは、雷華と、この母だけであった。

 本当は、血の繋がった父と兄とも仲良くしたいのであるが、父はあのような鉄面皮で、なにを考えているかわからず、さらにはとても厳しい。裂夜も、小さな女の子だというのに、千歳と変わらぬ修練に打ち込まされている。死の危険を感じたことなど日常茶飯事だ。それでも身体に傷一つ見あたらないというのが、裂夜の最強といわれる由縁であるのだが。

 そのせいで父はとても苦手だった。嫌いではない。好いている。でも近づけない。とてもとても悲しいことに。

 だから兄とは、と幼いながら考えたわけだったが、こちらは父より始末が悪かった。

 父は、近づこうとするのを拒否はしない。ただ、兄は違う。一歩でも側に寄ろうものなら、鬼のように怒る。怖い。自分より身体も大きいし、それにこの年齢だと年上はそれだけで怖い。なので、話しかける度に泣いてしまう。

 仲良くしたいだけなのに、どうしてうまくいかないのだろう。そのことが裂夜の悩みの種であった。

 それであってもまだ兄と関わろうとするのは、母の言葉があるからだ。

「お母さん……なんで、兄さんはわたしにあんなに冷たいのでしょう。仲良くしたいのに、いつも怒られてしまいます」

 いつものようにそう弱音を吐くと、母は遠くを見る目になって、息子のことを脳裏に浮かべながら、娘に言い聞かせた。

「千歳はね、おびえているのよ」

「わたしは、そんなに怖いのでしょうか」

「違うわ。裂夜が怖いのでも、自分の地位が脅かされるのが怖いわけでもないの。あの子は、不器用だから。妹への接し方がわからないだけなのよ。傷つけてしまわないか、心配なのよ」

「よくわかりません」

「きっと判る時がくるわ。

 だって、たったふたりだけの兄妹なんだもの。愛していないわけないじゃない」

 そうだといい。いつかあの兄と仲良くしていられる時がくればいい。そんな夢を裂夜は抱いた。

 じゃりっ、と小石を踏む音がして、裂夜は庭の方へと目を向けた。

「あ……」

「どうかした?」

「兄さんが、今、外に。裏山の方へ行ってしまわれました」

「……そう」

「お母さん?」

 母の声音が急に暗くなって、裂夜は不安になって顔をあげた。優しげに微笑んでいた母の顔に、暗い影が落ちていた。子供ながらに良からぬことが起きる予感がして、きゅっと母の服の裾を握った。

「お母さん……?」

「なんでもないわ。そう、なんでもないの。私はただ、あの子の無事を祈るしかないのだから……」

 母が庭を見たのにつられて、裂夜もまたそちらに目を向ける。

 兄の姿はもう見えない。夕焼けに染まる山に呑み込まれてしまった。

 見慣れた裏山が得体の知れない化け物に見えて、裂夜は静かに息を呑んだ。


 この裏山は、今よりもずっと幼い時から、千歳の遊び場だった。家から近いのと、庭からすぐ入れることもあり、千歳にとっては庭の延長線上である。なので、裏山の標高がたいしたものでないということもあるが、山道を登り、父が指定した中腹まで向かうのには、さしたる苦労はなかった。夕日が沈む前に、千歳は中腹までたどり着く。

「ここか……」

 山に半ば埋まるような形の祠を千歳は見つけた。このようなものがあるのは知っていたが、今まで特に気にとめていなかったものだ。

 社の中には紙垂がたれていて、お札のようなものも貼り付けられている。汚れてはいるが、山中にある祠としては立派なもので、鳥居まであった。木も上質なものが使われているようで、地蔵を祭るにしては他と比べると装飾が過多である。この地域の産土神(うぶのかみ)でも祭っているのだろうか。千歳にも心当たりはないので、そうだとしても随分と風化してしまった伝承の神様に違いない。

「ここにきて、なんだというんだ……?」

 辺りを見回して見るが、他にはめぼしいものは見あたらない。あるとしても木と土と、樹木にこびりつく苔と菌糸類くらいだ。

 新たな鍛錬、といっていたが、ここでなにをしろというのか、皆目見当が付かない。もしや、ここまでくる道のりが鍛錬の一環だったのか。千歳は息ひとつ切らしていないが、もしそうならとんだ拍子抜けだ。

 日が完全に暮れてしまうと、慣れた道のりといっても山道は危険になるだろうが、この調子なら陽が落ちる前には山を下りられるだろう。

 結局、父の真意を測りかねた千歳は、大きく嘆息した。もういい、ならもう帰ってやろう。なんらかの意図が父にあったのだとしても、あのように説明を怠るのが悪い。鍛錬など知ったことか。

 とっとと山から下りようと決めた千歳は、その前に祠をもう一度見た。何度見ても、立派で、綺麗な祠だ。つい、もったいない、と思ってしまう。

「ちゃんと手入れすれば、もっと綺麗になるだろうに……」

 手を伸ばして、祠にかかっている土を払った。

 その時伸ばした手が父に傷つけられた手であり。

 祠に触れた瞬間、誰かが千歳の胸の内で笑った。

「なら、お主がその役目を買ってくれるかの」

「――?」

「その資格があるかは試すがな」

 女の子の声だった。誰だ、と千歳が声をあげるよりも早く、目の前が真っ暗になった。

 いきなり夜になったと錯覚した。が、それは違った。夜よりも暗い漆黒に包み込まれたのだ。

 これは――

「なにを呆けておる。その年にして耄碌したか」

 背後から声がした。そう認識した時には、目の前にあるのは闇ではなく、ごつごつとした岩壁に変わっていた。

 千歳はすぐに天を仰いで上を確認し、地を見下ろして地面を確かめる。ここはどこかの洞窟のようで、天井も岩でふさがっている。高さは一〇メートルほどだろうか。窮屈さは感じない高さだ。地面は平坦なしっかりとした土で出来ている。学校のグラウンドのようだ。山にある柔らかい土と変わって歩きやすい。

 こんな場所、あの山にあっただろうか。

「なにをしておる。こっちを向かぬか、戯けめ」

 ざわっ、と千歳の背中が粟立った。身震いするほどの悪寒で身体の熱が奪われて、千歳はとっさに横へと全身ごと飛び出した。背後でなにかが擦過する音。

 手から地面についてくるりと回転して体勢を立て直すと、先程まで自分がいた所を振り返る。

「……槍!?」

 一目見ただけだと、そう錯覚してしまった。でもよく見てみると、それは槍と言うほど大層なものではなかった。

「いや、木の枝?」

 随分と逞しく、鋭利な木材が地面に刺さっていたものだから、槍と見間違えただけで、それは大樹の枝だった。樹齢が何百年になるものであるかは、さすがに判別できなかった。

「なんじゃ、てっきり串刺しにでもなると思ったが。おちこぼれといっても、ほどほどにはできるということか。陵の者の仕込みは相変わらず見事なものよなあ。いつ見ても惚れ惚れするわ」

「……俺をおちこぼれなどとほざく奴は、誰だ」

 今度こそ、その言葉がでた。怒りで眉を寄せて、千歳は声の主の方へと向いた。

 そこに人はおらず、和服をきた西洋人形が祭られていた。

 ……いや、違う。それは人形ではない。人形のように美しいが、それは確かに生きていた。ただ人間とは認めたくなかった。こんな人間がいていいはずがないと思った。

 それは――彼女は、捻くれた、まだ年も幼い千歳を持ってしても、けなすことができぬほどに美しかった。この世界よりも、ずっと完成された完璧な美貌は、そこまで行くと狂気の類である。感嘆ではなく、恐ろしさを抱かせるほどの魔性を、彼女は持っていたのだ。

 年は千歳よりもひとつかふたつ上くらいに見える。あくまで外見上は。ただ、見た目と中身が一致していないという確信が千歳にはあった。

 十二単を纏った少女は気怠げに肘掛けにしな垂れかかっている。それだけの布の量でありながらも、少女は服に着られているといった印象はまったく抱かなかった。華やかな生地も、あくまで少女をきわだたせるための小道具にすぎない。鮮やかな彩色、中でも菫色が目立っている着物は、また少女の妖しさをいっそう引き立てる。

 簪で編まれた頭髪は、絹の糸のよう――それさえも使い古された陳腐な表現であり、言語化することで逆にこの神秘さを人の矮小な価値観の中に貶めているようにさえ感じられる。

 しっとりと濡れた髪が一房、簪から抜け落ちて少女のふっくらとした頬にかかる。なにか、それだけで見ている者を背徳的な気分にさせる。精巧な人形がわずかに乱れる瞬間を見てしまったという禁忌を犯した罪人になったと、そう錯覚させられる。だが、美しさは破綻していない。艶美なる魅力は、人間的綻びでもって現実味を帯び、むしろ見る者の胸をかきむしる。

 千歳も彼女から目を離すことが出来ないでいた。すっ、と著名な書家が筆にひいたような眉と、覗いていると吸い込まれそうになる眼。そこから鼻を通って、瑞々しい唇へと、目が落ちていく。魅了されて堕ちていく。

 雷華と裂夜も、一般的観点からいうと、かわいいといえる。文句なしだ。そんな彼女たちを知っている千歳でさえ、身体が動かなくなるほどにこの少女は超常的だった。

 怒濤のように脳内に叩きつけられる、容姿の情報に、頭がくらくらした。砂糖のように甘い言葉の数々が延々と脳内を駆け巡る。ただ見ているだけで、甘い香りが鼻をついていると感じるほどに、その少女は人間離れした美しさを持っていた。

 これは、危険だ。千歳の意識の一角が警鐘を鳴らした。

 吐きそうになるほどの甘さ。目眩がするほどの美の形容。胸やけがしてくるほどの魔性なる容姿。

 こんな姿の者が人であるわけがない。悪鬼の類か、人を惑わす悪霊か。人が持つ不完全さを持ち合わせない、完成した生命を目の当たりにして、千歳の身体は身構えていた。

 拳を握り締めて、足を前に出し、身体をずらして正面から見える面積を減らすように構える。先天的生存本能と後天的判断能力が同じ言葉を吐き出す。

 あの少女は陵 千歳が出遭ってきたなによりも危険だ。おそらく、己の父よりも。

 あらゆる状況で生存し切り抜ける戦闘術を身につける、の方針の許で鍛えられた千歳は、自分の身体がその教えで考えると下策と罵られるものだとはわかっていた。何故なら、〈GA〉に素手で挑むのは無謀でしかない。つまり今千歳がやろうとしていることは、そういうことだ。本当に生き残るべきなら、逃げ出すのが最善なのである。

 ただ、肝心の逃げ場所が見つからない。闇に包まれたと思ったら、今の状況になったわけだが、まわりを見ても出口らしきものはない。天井まで一〇メートル、広さは一〇〇メートルほどの密閉された空間だ。呼吸が苦しくないから、酸素はある。完全な閉鎖状態というわけではないはずなのに、不思議なことに道は見あたらない。あるいは、あの少女の背後に立つ屏風の裏に道が続いているのだろうか。

 わからない。だけど何もしなければ、おそらく自分は死ぬのだと思った。知らず足が震えていた。死の危険に瀕した経験自体はいくらでもあった。でも、こうして、化け物と相対した時、抑えきれぬ恐怖が身体を掴んで離さなかった。

 それでも、身体を極限まで痛め付けてまで身につけてきた経験が、千歳の武器なのは間違いない。それを頼りに、全身全霊をかけて、あの少女に勝つ。

 掴めば折れそうな首の少女のなにを恐れているのかと、笑いそうになる。

「ほう、やるか。潔い。その胆力だけは褒めてやろうぞ。ただ、勇気と蛮勇をはき違えたとあっては、妾も捨て置けぬ。

 ……身の程をわきまえられなかった己の愚かさを嘆きながら、逝くがいい」


 時間にして六〇秒。

 ごしゃりと、岩壁に叩きつけられて、自分の全身の骨が砕ける音を千歳は聞いた。

 少女は一歩も動いていないのに、千歳は地面を突き破って出てきた木の蔦たちに打ちのめされた。そのことに呆然として、少女の嗜虐的な笑みを見ながら――千歳は意識を手放した。


 この日の晩、千歳は山の麓で意識を失っているところを発見されることになる。

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