2:手招く影
広大な格納庫の一角にあるハンガー、そこに〈切人〉は直立不動で固定された。まだ立っているように見えるが固定は完全で、実際は〈切人〉の足になんら負荷もかかっていない状態だ。
胸部のコクピットがあくびをするように上下に開くと、〈切人〉の胸元の位置にあるキャットウォークにヘルメットを脇に抱えた千歳が降りたった。
額に浮かんだ汗を拭って階段を下ってから機体を見上げれば、胸部と腹部の間に横一閃と塗料が付着しているのがわかる。あれが、〈切人〉を戦闘不能に陥らせた一太刀。
見事なものだ、と千歳は思う。人間でいえば鳩尾にあたる部分へ迷いなく延びている。そこはGAの動力部がある部分で、敵機を戦闘不能にするならコクピットと同じくらい有効な箇所だ。中途半端な胴体ではなく、そこを的確に破壊している。これは負けを認めることしかできない。
「よう、お疲れさん」
ちょうど通路から別区画の格納庫に〈岩砕神〉を納めてきたゲラートと桜姫が現れた。千歳は上官に対して敬礼をしようとして、ゲラートの団扇のように大きい手で止められた。
「いい、楽にしてろ。まったく、お前は少々真面目過ぎるな」
「陵くんの礼儀正しさは貴方にも見習って欲しいんですけどね」
桜姫が常と変わらぬ笑顔でゲラートに告げた。言葉の内容とは裏腹に棘はなく、軽い冗談なのだということが端から見てもわかる。
ゲラート大尉、正確には櫻真・ゲラートも困った風に肩をすくめただけでそれ以上直接的な反応はしなかった。神国人と鑞国人の血が流れているゲラートは、神国人特有の年齢不詳な顔つきに鑞国人の特徴である金髪と碧眼を併せ持っている。しかし金髪は煤けており、およそ綺麗という言葉とは無縁だった。
それに比べ、桜姫は浮き世離れするほどの美しさと気品があった。ゲラートの胸ほどの高さにある頭からはすらりと流水を連想させる長髪が延びており、CGで加工されている映像なのではないかと疑いたくなるほど傷みがない。
桜姫は宝石のような深い色合いの瞳を細めて万人を安堵させる聖母の笑みを浮かべた。
「陵くん、お疲れ様でした。後一歩だけ足りませんでしたね」
「はい、最後に勝ち星を上げたかったのですが……。〈岩砕神〉と桜姫さんには及びませんでした」
「……おいこら。オレには勝ってたみたいな言い方だな」
「少なくとも、ゲラート大尉だけでは〈岩砕神〉は動きませんし」
「前言撤回だ。お前には上官に対する口の効き方を教えてやる!」
常人よりも大柄で熊を連想させるゲラートが千歳につかみかかり、すかさずヘッドロックをかける。頭蓋骨が軋むと、さすがに千歳も肝を冷やした。
「あ、ちょっと、大尉! 冗談ですからストッ――痛たたたたたっ」
「ええい、生意気な口をたたくからだ。甘んじて受けんか!」
ジタバタと抵抗する千歳を押さえつけて、ゲラートは鍛え上げられた筋肉質な腕で締め上げた。桜姫はその様子を苦笑混じりに見つめていて――突然、表情を引き締めた。
「櫻真!」
「…………っ」
桜姫の言葉よりも早くゲラート、そして千歳は異常を察知していた。
ひとつの格納庫に何十人と配備されている整備員の証であるオイルで汚れた作業着を着た男、そのひとりが三人の近くにいた。年は二十歳の半ばほどで、ゲラートと同じく他民族の血が流れているのか帽子から漏れた髪の色は金だった。
身体的特徴に異常はない。ただ、その足取りがアルコールを摂取しているように覚束なかった。
そして――
「ki ki ki ――――!」
形が崩れた。
どろりと顔の皮膚が溶け落ち、下からは新たな顔が現れた。それは紅一色の――千歳が三年前に遭遇した人型の〈鬼獣〉と同じ醜悪なものであった。
腕の筋肉が隆起し、衣服を引き裂いた。人の面影をかなぐり捨てた鬼は、腕を振りかぶってゲラートに飛びかかる。
「チッ、こんな所にまで……!」
ゲラートは千歳を横に突き飛ばすが、自分の回避運動は間に合わない。鋭い鬼の爪がゲラートの喉笛を掻き切らんとした瞬間、鬼の身体が横合いからの衝撃に吹き飛ばされた。
「Giゥ!?」
四肢を地に突き踏みとどまった鬼の先には、離れた場所で掌を眼前に翳した桜姫がいた。
彼女から危険を察知したのか、鬼の目標が切り替わり桜姫に向かって地面を舐めるような姿勢で疾走した。その爆発的な瞬間速度は獲物を捉えた豹のごときもので、人間の対応速度を超越している。
しかし走り出しのたと同時に目の前に桜姫の姿が現れた時には、驚きに目を見開いた。
「遅いですよ」
桜姫の爪先が鬼の顎に突き刺さり、衝撃で身体が宙に浮き上がる。がら空きの懐が桜姫の目前に姿を現し、間髪入れずに掌底をくわえた。
爆音、としか表現のできないほどの空気の振動。
桜姫の一撃は文字通り鬼の胸板を抉った。
鬼の胸部が吹き飛び、血肉を撒き散らし、砕けた肋骨を曝して斃れた。血を吹いて痙攣する異形を圧倒的力で下した桜姫はわずかに付着した返り血を慣れた様子でハンカチを使って拭き取りながら死体を見下ろす。その表情は無慈悲な攻撃とは裏腹に痛ましげだった。
「こんな所にまで"バグ"が潜り込んでいたなんて……」
「ああ……くそったれめ、前回の出撃の時に付着した返り血で感染しやがったのか?」
ゲラートは苛立って舌打ちすると死体に近づき、鬼の首からぶら下がるドッグタグに刻まれた文字を読んだ。騒ぎを聞きつけてやってきた整備員にゲラートは感情を押し殺して命令する。
「バグ……いや、感染者だ。片付けておけ。……丁重にな」
ゲラートと桜姫が静かに死体から離れると、整備員達が鬼に駆け寄ってドッグタグの名前を確認して涙を流した。
仲間達と一緒に涙を流す彼らを見て、ゲラートは桜姫と千歳にだけ聞こえるように口を開く。いや、意図せずその音量になったのだ。爆発しそうな怒りを押し殺したがためのうなり声。
「宗・アドルフ……オレの機体の整備担当者だった。同郷の人間だ」
千歳は発言を控え、桜姫は表情を曇らせて身を引いた。
バグというものの酷さを、千歳は改めて痛感する。
バグとはスラングであり、あの鬼のようになってしまった人間は基本的に感染者と呼ばれた。バグとは本来、肉体と精神を汚染する細菌を指している。世界中に出現する巨大生物〈鬼獣〉、これらによりもたらされる被害を抑え、防衛と先んじて撃破するためにGAは軍に配備されている。
そもそも、GAが開発されるに至った理由が〈鬼獣〉の存在にある。既存の兵器では有効的な戦術がとれず、それまでのものと違う新たな兵器の製造が急務とされた。誰がGAを考案したのかは当時の慌ただしい情勢下故に定かではないが、とにかく〈鬼獣〉をキッカケとして現在の兵器の主流である人型兵器は産まれ落ちた。
そして、巨大で大量の群をなす〈鬼獣〉、これによる災害は単純な破壊行動のみに限定されず、二次災害こそが被害は少なくとも人間の精神に多大なダメージを与えてくる。
奴らの血液、体内にはある細菌が繁殖している。それは生物の体内でしか生存できない寄生虫のようなものだった。空気に触れてしまえば死滅するその細菌は空気感染をすることなどはめったにない。だがもし彼らの返り血に誤って接触してしまえば、次々とあのような怪物に変容してしまう。感染してから数日の潜伏期間の後、その細菌は急速に人体の遺伝子構造を書き換えて肉体を小型の〈鬼獣〉へと変化させてしまうのだ。しかも、潜伏期間を終えて活動する寸前になって、この細菌はようやく体内から検出されるようになる。だから検査は意味をなさない。細菌に効果のある薬品は作られているし、〈鬼獣〉に関わって血に触れた可能性のあるものは投薬の義務もあるが、もし呑むのを忘れてしまえば――
それは死に至る病といって差し支えなかった。
しかもこれにより身内をなくせば、誰でも精神にダメージを負ってしまう。埋葬すら変容した身体のまま行わねばならないのだ。悲しみのあまり後追い自殺をする親族すらいる。不幸中の幸いなのは、人間を変容させれば細菌も一緒に死滅して伝染しないことだけだ。
故に〈鬼獣〉は憎まれ、疎まれ、駆除される。せねばならない。
今日に限ってこんな出来事に遭うなど、どうやら自分はどこにも逃れなれないのだな、と千歳は胸の内でつぶやいた。死ぬまで、追いかけられる。死も、間違いなく奴らによりもたらされる。そのことに対する覚悟/諦観はずっと前に済ませていた。
「……おい、桜姫もお前も黙るんじゃない。せっかく門出を祝う日なんだ。湿気た空気じゃ縁起がわるいだろ」ゲラートがいきなり千歳と桜姫の背中をたたいて、押しながら歩き出す。「ついて来い、酒でも呑むぞ」
でも、と桜姫が口にしようとするのをゲラートが先回りして押しとどめる。
「お前は違う。そうだろう?」
「……ええ。ありがとう、櫻真」
ゲラートは笑いながら、気にするなといった。本来一番辛いはずなのに気丈に振る舞う彼の姿に、だらしなくても人に慕われる理由を千歳は垣間見た。事実、千歳もこの人に好意を持っている。あまり人と関わりを持とうとしない自分のような人間とも親しくして、今日もわざわざ模擬戦などしてくれる上官など彼が初めてだった。
同時にこの人の心労はかなりのものだろうとも感じた。彼も慕われるばかりでなく、仲間を喪った人間からの理不尽な非難を受けているのだから。
いや、そこは桜姫が受け止めているのだろう。ゲラートの肉体的精神的負担は、彼女がフォローする。たとえば、先程のバグを楽々と斃したように。
――バグ関連で非難を受けるのは、大尉より桜姫さんの方が多いだろうな。
死刑執行をするのは桜姫で、しかも彼女は――。
そこから先を意識するのは侮辱か、と千歳は思考を切り捨てた。
*
やはりひとつの"島"を守る人間の仕事場はそれなりに豪奢なものなのだな、というのがそこに訪れた陵千歳の感想だった。
少なくとも、軍人である期間が長かった千歳にとっては充分に豪華な内装に思えた。
千歳の履いている実用性だけを考慮に入れた無骨な軍靴が踏みしめている暖色の敷物も軍服姿の人間とは釣り合わない。来客用のソファや木材の芳香すら漂うテーブル、それらすべての存在の中で千歳は異端であり、まるで合成写真のように浮き上がっていた。
部屋にただひとつ執務用として使われているであろうデスクも安物のスチール製ではなく、こちらも高級な木材を使用しているのが端から見てもわかる。それはつまり、その机の向かい側で椅子に腰掛けていくつかの書類に目を通している男の身分の高さを証明していた。
ゲラートと年の頃はそう変わらないのだろうが、こちらは髭の剃り残しや衣服の乱れなどもないため幾分若々しく見えた。
彼の隣には秘書の男性が立っていて、こちらも清潔なスーツに袖を通した眼鏡の男性で歳は大体二十後半のいかにもやり手といった風貌をしている。
男は千歳のデータが記載されているのだろう書類を秘書から受け取り、一瞥する。
「陵千歳少尉、」背筋を伸ばしている千歳を見て男が口を開いた。「貴君のこれまでの働き、大儀だった。対〈鬼獣〉戦においての活躍は私も聞き及んでいる」
「わざわざ労いのお言葉、感謝の極みです。しかし自分は領主様にお褒めに預かるほどの戦果を挙げてはおりません」
男の言葉に千歳は恐縮して首を振った。
事実、千歳の戦果はこの軍のGA部隊の中でも突出しているわけではない。撃破数や出撃数ではゲラートに遠く及ばないし、千歳は贔屓目でも中の上といったところだ。所属する軍の最高権力者直々の言葉をもらうほどではない。
領主、それは千歳の母国である神国で局地的に最高の権力を持つものの役職である。極東に位置する島国である神国は、増えすぎた人口の解決策として自国の土地以外に人口調整のため人工島を無数に作っており、その各島の最高権力者が領主と呼ばれているのだ。人工島は各領主が王となり管理しており、それらは既に小さな国々と化している。分類上はあくまでも神国とされているが、島独自の法律や政治などは神国自体と独立していた。軍も各島が個別に保有しており、場所によっては本国の軍隊も介入が難しい。
同じ国の土地であったはずが何故このように面倒なことになったのか。それは過去に人工島の人間が決起したためなど理由はあるのだが、現状にその昔話は関係ない。千歳も生まれた時から人工島がこのような状態にあるため別段意識したこともない。重要なのは目の前の男は領主という千歳が所属する軍の頂点であり、今いる島の最高権力者でもあるということだ。
「単純な戦果なら、な」と言葉に含みをもたせて目を細めた領主は話を切り替える。「それで以前から伝えておいた通り、貴君は本日をもって我が人工島、K━3〈オキサリス〉の軍から除隊扱いとなり、本国の軍に入隊してもらう。形式上の措置で、実際は転属となんら違いはないのだがな。……今まで任務ご苦労だった」
領主の言葉に敬礼をして千歳は執務室を後にした。
分厚い扉が音もなく閉まると、領主――イヴァン・春日は肩を落としながら溜息をひとつ吐き、眉間を抑えた。
「これで、あの"財団"の要求には無事応えられたか……。ご当主様の機嫌を損なうような事態は避けられたな。しかし、優秀なパイロットを〈鬼獣〉以外に奪われるとは……」
「陵少尉の損失と"財団"からの軍備用資金援助を天秤にかければ、後者の方に傾きます。これ以外の選択はないかと」
秘書の男は表情ひとつ変えずにイヴァンの行動を肯定する。
自分の右腕である男の言葉にイヴァンは疲労を滲ませた声で「わかっている」と返した。
秘書と家族以外の相手には見せない激務による過労をさらけ出しながら、イヴァンは内心で頷く。自分の決断は間違っていない。尉官ひとりと"財団"による資金の援助、交換条件としては破格である。しかも援助は今までも、そしてこれからも続いていくことだ。ここで"財団"の要求を呑まないわけにはいかない。それに長年、直接的な見返りを求めていなかった"財団"による要求を断るわけにもいかなかった。
もし、条件がこの人工島最高戦力であるゲラート大尉だったなら躊躇しただろうが、陵少尉は機士に乗っているありふれた少尉だ。
少なくとも現時点では。
「あのゲラートが目をかけていた……それに、この実戦戦績。もし重機士をもう一機建造できる余力がこの島にあったなら、彼がパイロットになっていた可能性がある。実が熟す前に刈り取られるとは、悔しいな」
陵千歳の戦績。それ自体は可もなく不可もない。被弾も人並みにしているし、それを帳消しにするくらいの〈鬼獣〉を駆逐したわけではない。
ただ、彼の周りでは被害がいつも少なかっただけだ。
例えば、ほとんど市街地といっていい場所で戦っても建物などの損傷が他に比べてほとんどない。あっても、その建物で人がそのまま生活するのに不自由はないレベルだ。別に戦闘に巻き込まれて壊れなかった建物がないわけではない。ただ明らかに少なかった。
例えば、味方機の被害が少ない。
戦闘では、撃破数は飛び抜けていないのに〈鬼獣〉を駆逐する手際が非常に淀みなく迅速であったりする。
普通なら注目されないことだ。イヴァンもゲラートに報告書を渡されるまで気づかなかった。これは隠れた才能、とでもいうのだろうか。
イヴァンもかつて――まだ領主などと呼ばれてなどいなかった時代、実家が〈鬼獣〉との戦闘で潰されたのを覚えている。幸い家族は外出していて無事だったが、当時は壊れた実家を眺めて途方にくれたものだった。もし戦闘による被害を極端に減らせる人間がいれば、それは市民の苦労をなくすことに繋がる。為政者のような者としては、被害救済に使われる血税を削減できるという打算もあった。
「ですが、実が熟すとは限りません。それにこの戦績は確かに特筆すべきものですが、重機士に乗せるならば撃破数などを鑑みればマクミラン中尉の方が遥かに適任です」
「……仮定の話だ。こんな話をするなんて、どうやら疲れがたまっているらしい」
だが、まだイヴァンには処理せねばならない案件がいくつもある。千歳のことも、"財団"のことも、ひとつの人工島を取り仕切る――小国の王といってもいいイヴァンにとってはそれらのひとつに変わりない。
軍備強化、出現する〈鬼獣〉の対策、感染者の多数出現。それらに対する決定を下さねばならない。
まずは先程届いた基地内の感染者のことを処理せねばならなかった。