23:鬼動再開
「――――――――――――」
男が路地裏で目をさました。
黒く汚れているパーカーを着て、フードを深くかぶっていた。まだ男性というより、少年といった方がいいかもしれない身体付きだった。
その体躯は、幾つものゴミ袋に埋もれていた。汚い、日の光さえ差し込まない暗い路地裏に積み上げられた、ゴミ袋の山だ。
彼はそこに死体かなにかのように紛れていた。いや、本当に先程までは死んでいるようなものだった。だがその死体は、突然まぶたを開いたのだ。
リビングデッド。そんな言葉が思い浮かぶ光景だった。
だんっ、と彼は土気色の手を壁についた。そこに力を込めて緩やかな動きで身体をおこすと、煤汚れた壁に手形がついた。
人体としての機能を再開した身体で、彼は虚空を見つめる。
遠く、遠く、見えもしないものを感じるように。
端から見ると、それはただ立ちほうけているようにしか見えなかっただろう。ただ、当の本人は必要なものを確認できていたようだった。死んでいた目に、わずかながら意志の光が揺らめいた。
ただ明るくはない。路地裏の闇の中にあって、闇を喰らってさらに暗い、感情。
殺意。敵意。憎悪。
よく見ると、彼の服の汚れは、固まった人の血液だった。染みつき、固まった血は、もはや紅ではなく真っ黒になっている。
宙を見つめていた彼は、おもむろにゴミ袋の中に血に汚れた腕を突き出した。大量のゴミ袋の合間を探り、やがて、見つける。それを掴んで、勢いよく腕を引き抜いた。
腕にあわせて、ゴミ袋が真っ二つになって内容物を地面にまき散らした。
ゴミ袋の山から出てきたものは、闇の中にあってもなお煌めく白刃だった。
曇りひとつない刀身は、自然と見る者がいたならば感嘆を漏らさせ、刀身の湾曲は芸術的。人の目を奪うそれのことを、人は刀と呼ぶ。
神国特有の技術で鍛え上げられた、最高級の刃物。
刃渡りは二尺を超える。その刃が自分の手の中にあるのを確認して、幽鬼は歩き出す。
刀は抜き身。殺意も抜き身。男は独り闇を往く。
他者には目的すら悟らせず、無言で進む剣の鬼。
彼のことを形容する言葉は、ただひとつ。
――狂剣。
*
地上二十階にあるホテルからの眺めというものは、実に壮観なものだった。
ガラス張りの壁から展望できる地上は、すべて広大なミニチュアのようで、そこを行き交う車や人々は、まるで蟲かなにかのようでさえあった。
蟲、しつこく地べたを這い回る。
こんな、視界の果てが霞そうになるほどの美しい光景を前に、こんな醜い感想しか浮かばない自分自身に、千歳は誰にも気づかれないように小さく溜息をついた。
どうにも、自分はこういう形容を考えるのに向かないらしい。もっとも、柄でもないのは分かっていたのだが。もっと綺麗な表現がでてくればいいものを。
ただ、相変わらず、そんな気分でもなかった。
気分転換に見た景色も、胸に溜まった泥のような感情を禊ぐことはできず、千歳は室内に視線を戻した。
神国首都にある、ホテルのひとつがここだ。神国内でも上位に入る高級ホテルのひとつである。
その最上階である、二十階の一室に、千歳とその他大勢は訪れていた。
この部屋の内装は、やはり千歳などの軍属の人間には縁遠いものだった。ビロード、嫌みにならない程度に豪奢なベッド、装飾が施された革張りのソファが複数人用設置されている。千歳の右手側には、いかにも値打ち物のような絵画が掛けられている。母が娘を抱いている絵だ。素人目でも、なんとなく評価される理由のわかる気がする、目をひく絵だった。だいぶん古い物であろうに、修復跡や劣化を感じさせないのは、プロの技術というものか。こういうところにも、お金がかかっているものだ、と見る物に感じさせる。
一言でいうならば、非の打ち所がない。そもそも、つけようなどと思わせる気を失わせる迫力があって、千歳はなにもいえないのだが。
「ここ、成金趣味みたいであまり好きじゃないのよね」
ソファに腰かけた雷華は、そういってから紅茶のカップに口をつけた。
どうやら、千歳のような人間と違って、雷華のようにこれが日常の者からすると、これでも不満をつける余地があるらしい。生きている世界が違うのではないだろうか、などと、今更ながら実感する。どうにもここにいるのが不釣り合いに思えて、千歳はすぐにでも帰りだしたくなる。
「……ふん、金持ちの考えることはわからないな」
と、鼻を鳴らしたのは、街で鉢合わせした、あの真二だ。落ち着かないのか、千歳と同じようにソファに座りもしないで立ったままの彼は不遜にも、一大財閥の後継者に向けて口をきいてみせる。野犬のようだ、と見る者によっては表するような態度だった。
それでも、雷華はそんな口の利き方にも眉ひとつ動かさない。紅茶を置いて、目さえ向けない。
「あら、ごめんなさい。お金の使い道は困ってるような人間で」
「んだよ、その金持ちは偉いみたいな発言は」
「偉いんじゃない? それは成果の結果なんだし。わたしをそこらの七光りと一緒にしてほしくないわ」
ちっ、と舌打ちして、真二はそれ以上いうのをやめた。真二の背後の壁に寄りかかっているジャックが思わず失笑した。
どうにも雷華の口は達者だ。そうでなければ、彼女はここまで巧く立ち回って生きてはこれなかったのだから。それはこの場にいる人間の中では一枚も二枚も上手だろう。
「……お菓子がおいしくて生きるのがうれしい」
ぼそりと口にしたレムリアは、雷華の横でもぐもぐと洋菓子を頬張っていた。ホテル側に注文したものだ。それは、複数人でもすべて食べようとすれば胸やけすらおこしそうな、それこそ残すことが前提というほどの量であったのだが、どうやらその大半は彼女の胃の中に収まってしまいそうだった。千歳はレムリアの前に積まれた空のお皿を見て、静かに目をそらした。今も口にモンブラン――千歳が映像でしか見たことのないような、飾っているだけでも絵になる美しい見た目だ――を運んでいるのだから、ちょっと信じがたいものがある。
軍事費のために物価があがっている今、こんな贅沢はできるうちにしていた方がいいのだろうが、どうにも甘いものが苦手な千歳は見ているだけでお腹いっぱいだった。
そして、ベッドの上に千歳は目を向けた。
そこには見知らぬ少女がふたりいた。
「ねえ、イリスちゃん。ふかふかだね!」
「うん、アリスちゃん。気持ちいいね!」
枕を抱きしめ、顔を向かい合わせて笑っているのは、ゴシックロリータを身に纏った漆黒の少女たちだった。
名前は――そう、アリスとイリス。イヤリングの位置で判別できるようなのだが、ぱっと身では、鏡で映したように似ているふたりだった。初見で判別できる人間などそうはいないだろう。家族でも、もしかしたら間違えてしまうのではないだろうか、というほどにふたりは似ていた。おそらく、一卵性の双子なのだろう。
「すごいねー、良いにおいだね」
「マシュマロみたいで素敵だね」
お互いに額をあわせて、鈴を転がすようにふたりは笑っている。ヘッドドレスが揺れた。服装のせいで、本当にふたりは意志をもって稼働するドールのようにしか見えなかった。
あの騒ぎの後、どうにも人の注目をひいてしまった。それに、まだ近くに主義者たちがいて、また厄介なことに巻き込まれないとも限らない。そういうこともあってか、千歳たちはこのホテルの一室に避難していた。
もっとも、一室というより、ここ二十階は雷華が貸し切っているので、この階層全体が自由だった。そして、ここに連れてきたのも他ならない雷華だ。徒歩でいける範囲にある、自分の息のかかった施設ということで、その場の全員をここに移動させたのである。臆面なくそんなことをやってのける辺り、雷華の器がうかがい知れる。それくらい剛胆でなければ、やっていけないということなのかもしれないが。
「それで、」と雷華が一息ついてからアリスとイリスに訊ねた。「ふたりはどうしてあんなことになってたわけ?」
んー、とふたりは首はかしげてから、訥々と話し出した。
「えーっとね、煩かったの。それでね、わたしたちになにかいってきたの」
「うんうん。きじゅーがすごい、とか。そんなことばっかりいわれたよね」
「それで、うるさーいっていったんだよ」
「そうしたら、なんか怒られちゃったの」
「ああ、なるほど。ああいうのなら、まず怒り出すわよねえ……ご愁傷様」
双子に同情をにじませながら、納得した。
それにしても、命知らずなことをしたものだ。神国だけでなく、他の国にもそういう思想は充分に根付いているから、見るのが初めてというわけでもないだろう。子供故に、忌憚がなさすぎるというのか。
「ま、今度から気をつけなさいね。相手にしてたら時間がもったいないんだから」
ふたりは、「はーい!」と元気よく返事をして、くすくすと笑い合った。
「ああ、なんだろう……すごくかわいい。抱きしめたい」
じゃれてくる猫を見るような、そんなそわそわした表情になる雷華の気持ちも、千歳としてはわからないでもない。それだけふたりは人形じみているし、その無邪気さは素直に好感がもてる。
「ぶーっ、わたしたちぬいぐるみさんじゃないよ?」
「でも、その枕もぬいぐるみさんではないわよ?」
「あ、そうだったね」
「なら問題ないよね」
と、たわいもない話もしている中、千歳は完全に蚊帳の外におかれている最後のひとりへと意識を向けた。
「………………」
完全に無言で、その巨体は在った。
部屋の隅、でも双子から極端に距離をとらない位置で、黙して動かない。コートを外せば、この部屋のオブジェクトだったりするのではないかと、そんな幻想さえ抱かせるほどに、巨体は動いていなかった。石像のようである。とても人間とは思えない。背負っている楽器ケースすら、床に置こうともしていなかった。
千歳と同じように、雷華もそちらへ向く。今だ一言も口をきいていない巨体へ。ただこちらはアリスとイリスに向けるものより、辛辣なものだった。
「それで、貴方ね。名前は……」
「デュラハンだよ」口ごもった雷華にアリスが助け船を出した。彼女に小さく微笑んで、雷華は改めてデュラハンと言う名の巨体に語りかけた。
「貴方、ずっと黙っているけれど、その身なりからしてふたりの保護者かなにかでしょう? すこしはふたりを止めようとか、助けようとか、思わなかったの?」
そう雷華がいうと、さっきまで上機嫌だったアリスとイリスがむっとした。
「違う、デュラハンは保護者なんかじゃないよ」
「そうだよ、おかあさんたちなんていないもん」
そうして、突然ふたりがあからさまに機嫌を損ねた。
子供特有の、癇癪。その琴線に触れてしまったのだ。
枕が裂けそうになるまで、力強く握り締めるふたり。
すねてしまった様子のアリスとイリスに、雷華はわずかにだけ困惑しながらも、すぐに言葉の意味を悟って眉尻を下げた。
「ああ、ごめんなさい。軽率なことをいって」
「別に……」
「いい……」
「ほ、本当にごめんなさいね? でも、するとこの人は……」
「ただの付き添いだよ、それだけだもん」
「デュラハンはそういうものなの。ね?」
イリスに同意を求められた時、初めて、デュラハンが動いた。フードで隠れた頭が、上下に動いた。コートの裾が揺れる、それが初めての人間らしい動作だった。
「ん……?」
千歳は、その時、なにか不思議な音を聞いた気がした。
なにか、人体が動くには必要のない、金属質な駆動音――。
デュラハンを見る。巨体はもう動かない。結局、あの一挙動だけだった。そして、あの音も聞こえない。
空耳だろうか。そう断じてしまうのはどうにも気持ちが悪いが、もう確かめる術はない。わざわざ、ここでコートを脱いでみてくれ、などという気にもなれなかった。
「でも……」
雷華はまだ、気になる様子だった。確かにこれほど興味をひかれるものはない。何者なのか、気になってしまうのも仕方がない。少女たちとも、失礼ながら不釣り合いな見た目である。さながら現代の美女と野獣。
その追求を止めたのは、意外なところからのものだった。
「やめておけよ、そんなに他人を詮索するもんじゃねえだろ」
真二だった。乱暴に、しかし少女たち三人を擁護するような形で、その会話に割り込んだ。
そう一言で、真二は会話をばっさりと切った。迷いのない屹然とした口調だった。それに、控えていたジャックが弁解する。
「すまないな、こいつはこういう奴なんだ。悪気があるわけじゃないんだが、こう、空気が読めなくてな。迷惑をかけてしまってすまない」
「ああ? なんだよ、そりゃ! だいたいなんでお前が俺のことで謝ってるンだよ」
「お前があんまりに対人コミニュケーションが出来てないからに決まっているだろう。誤解されるぞ、それだと。ホント、申し訳ない」
「いえ……いいわ。確かに人のことを追求しすぎるのはよくないことだったし。ごめんなさい、気をつけるわ」
今度は雷華も潔く引き下がった。こうまでいわれても追求するようなことでもなかったことだ。本人たちも拒否しているのなら、行きずりで出会った少女たちから、無理矢理に聞き出す必要もない。
ったく、と声を漏らして、真二は自身の栗色の髪を掻いた。
「お前らもお前らで、あまり他人に誤解させるようなことして面倒ごとに巻き込まれてんじゃねーぞ。ただでさえそんな格好して間違われるんだからよ」
「……む?」とレムリアが洋菓子をむさぼり食う手を止めた。「なんだろう、今変なこと聞いた気がした」
「あ、なんだよ。金髪女」
「人を身体的特徴で呼ぶな栗毛チビ」
「ンだと!? 名前しらねえから仕方ねえだろうが!」
「そんなことより、今の見た目のせいで間違われるって、なに?」
本当にどうでもよさげに、感情をうかがわせにくい目で真二に答えを促した。
真二は不満は山のようにあるようだったが、千歳のようなのと違って、マイペースにぐいぐい自分のリズムで話しを進めるレムリアのような相手は苦手なようだった。ここでしつこく反論するのは早々に諦めて、真二は億劫そうに説明した。
「なにって、そこの……イリスか。お前は男だろ?」
「へ……?」
その台詞はいったい誰の口から出たものだったか。それとも、その間抜けな声は、巨体以外のすべての人が口にしたものかもしれなかった。
「そんな格好してるから女に間違われちまうんだよ。気をつけろよ。なんでそんな格好してるのかは知らねえけどな」
皆を驚かせた当の本人は、こともなげにいってのけたのだった。