22:代償の傷み
空虚だった。
心に穴が開いてしまった。治癒しかけていたカサブタを無理矢理剥がしたかのように、その穴はじくじくと痛む。それに意識がいって、他の何事も手が着かない。
陵 千歳の心情は、まさしくそういう状態だった。
久しぶりに目撃する街の賑やかさ。千歳の隣を通り抜けていく子供たち。それも既に遠い。
こうなってしまっては、これらの光景も既に手の届かない彼方だ。スクリーンに映ったもののように現実感がない。千歳の手が届くところにないものになってしまった。薄い壁、異物感。それを作っているのは他ならない千歳自身だが、それがわかっているからといって、この所在ない感覚がなくなるわけではなかった。見知らぬ地に放りだされたように居心地が悪い。
だから雷華とレムリアの会話も、上の空で千歳は聞いていた。
「……で、だから、あそこは最近になってできたデパートで、街最大級の――って、聞いてんの、千歳?」
「ああ、聞いてる」
千歳の口は当人の意志に反して、無意識に当たり障りのない返答をする。が、そんな対応をずっと続けていれば、どんな人間でも嘘だと気がつけた。
「ダメだ、これはまったく聞いてない」
そうして、雷華がうんざりと額に手を当てて嘆息した。
人が行き交い、綺麗な深緑の樹が彩りとして埋められている歩道で、雷華は半眼になって千歳を見上げた。
「いったい誰のために説明してやってると思ってんのよ、アンタは」
「すまない」
「雷華雷華、多分それも聞こえてない」
反射的に千歳が返事を返すと、レムリアも雷華にいう。彼女も千歳の態度に辟易していた。
千歳が感情の起伏に乏しいというのはふたりの共通見解であるが、それは付き合いが悪いとか、そういうものではない。どちらかというと千歳は人に真摯な対応をするし、自ら場の空気を悪くするようなことはしない。はずだ。不器用と無愛想は別物である。
だから雷華は不思議だった。
「アンタ、さっきまでは結構楽しそうだったじゃない。いったいどうしたっていうのよ。なんかあったわけ?」
ようやく千歳は人間らしい反応をした。気まずげに顔をしかめる。
「……いや。なにもない」
「嘘をつくのが下手ね、アンタ」
「それとも隠しきれないようなことなの?」
追求されて、千歳はたじろぐ。
千歳も、自分の行動がふたりに迷惑をかけているのは重々承知していた。
――だが。
思い出す。先程人の往来で見た人影。見間違えるはずがない。あのような目立つ姿を幻視するわけがない。あれは間違いなく、そこにいた。千歳の脳細胞が壊死してでもない限り、あれは絶対である。
仮にあれが幻だと仮定しても、彼女のことを強く思い出してしまった。そうしてしまっては千歳は平静ではいられなかった。それほどまでに彼女の存在は千歳の中で重要であった。場合によっては、雷華よりも、その存在は重い。
――『ここから救ってくれるのか?』
そんな声が聞こえた。これはただの幻聴だ。わかってる。今は彼女の姿を見ていない。だからそれは過去の記憶の再生にすぎない。
ノイズが走る。雑音混じりの声。それが千歳の心をかきむしった。
ぐっ、と喉元までなにかがせり上がってきた。それは罪悪感の塊。
ひどく、気持ちが悪い。
どこからか、お前はここにいてはいけないのだ。という声が千歳を責めてきた。無論、そんな弾劾は当人にしか聞こえていない。妄想の産物なのだから当然だ。それでも、この幻聴は心情を言葉として表したものである。無視するには、千歳にとって、あまりに重い。
「……関係ない。ふたりは休日を楽しめばいい。俺に構うことはない」
「んなもん、無理に決まってるでしょうが! そんな陰鬱な空気を発してる人間の前ではしゃげっていうわけ?」
「陵千歳、私は貴方が雷華を連れ出したと記憶しているのだけど。そんな態度でいいと思ってるの?」
疎ましい。
わかっている。千歳も自分がどうかしてしまっているのがわかっている。だからだ。千歳はだから離れてほしかった。もしこんな状態の自分がふたりに迷惑をかけてしまったら、あとで後悔する。
疎ましいのはふたりではない。千歳自身が、とても邪魔だった。
――所詮。
所詮、自分が他人を幸福にしようなどと思ったのが間違いなのさ。
そんな自嘲。気持ちが悪い。体調は万全であるのに、視界がぐらついた。
辺りが騒がしくなる。今までのような雑然としたものではなく、ひとつの事柄に対しての共通した騒ぎだ。
余裕がなくとも、千歳もそれには気がつけた。周囲の空気や気配に気を配るのは、幼い頃から身体に彫刻が如く刷り込まれた行動だ。たとえ病に伏していても、千歳はおこなっているだろう。
ふと千歳は思い至る。女性ふたりと喧嘩をしているように周囲には見えただろう。もしかすると、人の関心を引いてしまったのかもしれない。
「……なにかしら、あれ」
が、どうやら観衆の注目は千歳たちではなかったようだった。
雷華の視線につられて、千歳とレムリアも揃って顔を向ける。
そこには、不思議な光景があった。
最初に印象に残るのは、黒いドレス。千歳の頭の中に、雷華が普段着ているような深紅のドレスが思い浮かんだ。ただ、趣はやや異なる。
今見たものは、豪奢でこそないが、派手だった。フリルがあしらわれた、墨のように黒いドレス。一見すると喪服じみた印象すらある、素直に綺麗とは言い難いものだ。
「えーと、ああいうのはなんていうだったっけ」
「ゴシックロリータ、かな。うん。そうだ、ゴスロリ」
レムリアが自分の答えに納得して頷く。そこにあったのは、世間一般にはそう呼称される、ファッション形態のそれだった。
それを着た、かわいらしい女の子がふたりいた。カラスの羽根のように艶やかな黒髪の、人形じみた少女たちだった。もしアンティークショップにふたりがいたとしたら、精巧に作られたドールと誤解してしまっていたかもしれない。
コウモリのような日傘を差した瓜二つの容姿をしたふたりは、立ち止まっていた。より正確にいうのなら、そうさせられていた。男女の集団に――
その集団が掲げていたプラカードに、みな一様に嫌な顔をした。
人混みの中で誰かがつぶやいた。
「鬼獣至上主義者……」
そこには、その事実を示す言葉の羅列があった。
まるで呪詛のように、〈鬼獣〉を褒め称えるような文句が連ねられている。びっしりと敷き詰められた言葉の群れは、不快というよりおぞましい。
雷華が千歳とレムリアにだけ聞こえるように声を絞って、口にする。
「最近、多いのよ。この辺り。特に基地が近いじゃない? だからね、こうして集まってデモをしてたりするの。大通りとかでね」
「それはまた……迷惑なものだな」
軍人として対鬼獣戦などしていると、嫌でもこの手の連中とは関わり合いになってしまう。特に戦場で直接鬼獣を掃討している軍人への彼らの対応が酷いもので、個人を特定されようものならノイローゼになるほどの抗議が襲ってくるのだ。
人工島は、死がより身近だった。そのため、この手の主義を持つ人間は本当に極々少数派だった。だから、この類の人種と千歳はあまり関わり合いがなかったのだが、どうやらより安全な陛下のお膝元であると、そのことを忘れてあのような行動に走ってしまう者は多いようだった。
それは、一般人が農牧をしている人間に屠殺をするなというのと同じ、関係ない立場だからこその理不尽な要求である。
「嫌なものを思い出した。最悪」
レムリアがぼそりと愚痴をこぼした。それは旅客機ジャックの事件のことを思い出してしまったのだろう。千歳も釣られてあの時のことを脳裏に浮かべる。
あれも過激な一派の起こしたもののひとつだ。確か、アブラムがかくまっていたとか、あの事件は仕組んでいたといっていたような気がするが、そうでなくとも彼らは自分たちの主義を主張するためならば、自発的にあれくらいはやってみせる。そんな宗教団体だからこそ、皆から疎んじられているのだ。
少女と鬼獣至上主義者たちが、なにか言い合っている。レムリアが、あっ、と声をあげた。
「もしかして、あの娘たち、目をつけられてる?」
「あの様子だとそうね。まったく、なんで誰も助けに入らないのかしら。意気地がないにもほどがあるってもんよね」
このままではいけないとは思っていても、なかなか助けにはいるなどできるものではない。今回は相手も悪い。自分の損得を考えてしまうのも当然といえよう。
それよりも、千歳は気になっていることがあった。
少女たちのうしろに控える、巨大な影。
身長にすると2メートルはあるだろうか。全身を覆い隠すほどのコートを羽織り、一切肌も顔も見せぬ、性別すら判別できない大きな影。しかも巨大な楽器ケース状のものを背負っている。
鏡に映したように同じ容姿のゴスロリ服の少女たちも大概だが、あの大きな人もまた尋常ではない。充分に目立っている。ただ、この場においては無言で不動の姿に注意をするものはほとんどいなかった。全員が少女たちの口論の行く先に注目している。
ただ、千歳は、あの大きな人間が一番この場において特異な存在であるように思えてならなかった。そこにいるのに、まるで生気を感じない――。
と、雷華が千歳の背中を叩いた。
「そんなわけだから、千歳。いってきなさい」
「なに……?」
突然思考を呼び戻されて、雷華の言葉を理解するのに千歳は幾ばくかの時間を要した。
「だから、」と雷華が言い直す。「助けてきなさいといってるのよ」
「いいたいことはわかるが……」
「なによ。あんな小さい女の子たちを放っておけっていうの? そんなに薄情な奴だったのね、わたし知らなかった」
それをいわれると、千歳としても弱い。確かにこの状況を見過ごすわけにはいかない。誰もが思うことだ。
だが、そんな正義感だけの行動を自分がしてもいいものだろうか。なにか検討違いなことをしてしまうのではないか。このままでも、誰かがなんとかしてくれるのではないか。なら、自分が口を出すようなことではないのではないか。ぐるぐるぐるぐると、脳内でそんな言い訳が巡る。
「別に顔なんて覚えられないわよ。なにかあったらわたしの方でフォローするから安心しなさい。軍の仕事の邪魔になるようなことにはさせないわよ」
そういう心配をしているわけではないのだが、そうまでいわれて日和るわけにもいかない。
「……わかった。ふたりはここでじっとしてろ」
千歳は足を彼らの方へと向け、歩を進めようとして、
鬼獣至上主義者のひとりが、盛大に殴り飛ばされた。
殴られたのは、中年の男性だった。頬を思い切り殴られ、地面に転がった。あまりに綺麗にはいってしまって、斃れた人物は泡を吹いて意識を失っていた。
ざわざわと観衆が騒がしくなる。そんな中でも聞こえるほど大きな声で、鬼獣至上主義者たちも騒ぎ出した。
「おい、お前――」
二の句をつなげずに、その人物もまた殴られた。
千歳に先んじて助けにはいったのは、年の近い栗毛の男だ。背はどちらかといえば小柄に分類される、しかし筋肉のついた引き締まった筋肉の男性。その顔に千歳は覚えがあった。
「あいつは、廊下であった奴か」
名前は、確か真二と呼ばれていたか。どうやら勤務中でないらしい、私服姿の彼は、物怖じせずに鬼獣至上主義者と少女たちの間に割り込んでいた。
「テメエら、よってたかってガキにちょっかい出すとか、性根が腐ってんじゃねえか。おい!」
「なんだと? 元を正せばそいつらがこちらに文句をいってきたんだぞ!」
鬼獣至上主義者の人間がそう反論したが、すぐにからかうような少女の声がした。
「わたしたちなにもしてないよ」
「うん、ただ煩いっていったの」
「なんだ、正論いわれてキレてちゃ世話ないな」
「――――――っ!」
鬼獣至上主義者たちの中に、剣呑な雰囲気が流れ出す。過激派で知られる彼らだ。殺傷沙汰になってもおかしくない。
彼らのうちひとりが、乱暴に鞄に腕を突っ込んだ。それを引き抜こうとする。
が、音もなく忍び寄った千歳が、無言で腕を押さえた。手首を掴んでいる力は、腕がまったく動かせないほどに強固。
忌々しそうに新たな乱入者に男が向き直り、もう片方の腕で拳を作るが、そこにふらりと屈強な黒人男性が現れた。
「それくらいにしておいたらどうだい。その手を出したら、もう後には引けなくなっちまうぞ」
「貴様……っ」
ドレッドヘアの黒人――それは、神都の基地にて真二と一緒にいた兵士だった。名はジャック、ジャック・モルダー=ブラウン少尉。
険悪な場の空気を感じさせない気安さで、ジャックはそう忠告した。
腕を掴まれた人間は千歳とジャックを睨みつけるが、やがて自分たちに分が悪すぎると判断したのだろう、おとなしく腕から力を抜いた。
舌打ちをして、千歳や真二、ジャックと少女たちを睨み付けた。
「……覚えていろ」
「おいおい、そいつは三流の悪役の台詞だぜ」
と、真二がちゃかすと、相手の顔が怒りに歪んだ。
「……くっ」
ぎりっ、と音がするほど強く歯をかみしめて、鬼獣至上主義者たちは斃れている仲間に肩を貸して、遠巻きに見ていた観衆を割りながら去っていた。
去りゆく姿を見送って、千歳は肩にわずかにこもっていた力を抜いた。
「……やれやれ」
もし彼らがもっと場の流れなどに流されやすい人間たちだったなら、ここで退くなどしなかっただろう。狂信的な人間たちを相手に血を見ることなくことを済ませられたことは僥倖だった。そのことに千歳は安堵した。
だが、千歳にとって本当に困ったことになるのはこれからだった。
やあ、と千歳に向けて軽く手を挙げているジャックの隣には、威嚇するような表情の男がひとり。
「……で、なんでテメエまでここにいるんだよ」
ぎろりと真二に睨まれ、千歳は肩を竦めたのだった。