18:ファクトライン
――頭上で月が輝いていた。その日の月は不吉に無情に笑っていた。
身を裂くような冷気になにも感じないのは心に余裕がないことと、体温が極めて低くなっていたことが関係しているのだろう。血の気が引き、外気が暖かいとすら感じる。
それほどまでに、入り口の門扉を押し開いた人間は追い詰められていた。
人の身体よりも何倍も大きい木製の門、その門の周辺に広がる塀は、この屋敷がただの一般人の所有物ではないことを証明している。ある程度の権力を持った一族の住まいである屋敷だ。
そこに入ることに人間、そのひとりの少年は躊躇しない。そこは彼の家であり、帰るべき場所であり、故になんら後ろめたさを感じずに転がり込める。
そのはずだ。そうでなければならない。なのに少年の顔は蒼白で、屈強な鍛えられた体系とは裏腹に、表情は死人のように生気がない。そのアンバランスさが尋常ならざる事態が起こっていることを予感させた。
少年の胸中は焦燥で満ち満ちていた。今にもあふれて零れそうなほどに、その恐怖は身体を縛り付けていた。
開けた視界、そこには広大な敷地が見え、少年の足下から石畳が玄関先へと続いている。石庭もあり、道場への渡り廊下、木々と池が和の空気を醸し出している。どれをとっても立派な、歴史のある厳格な住まいだ。
何坪あるかわからないその屋敷に、家族以外にも寝泊まりしている人間が何人もいることを少年は知っている。
時は亥の刻。まだ寝静まるには早い時間帯。だがその屋敷は静謐だった。それは静かな、落ち着いている空気というわけではない。完全なる静寂。人の気配のない類の、それは完全なる沈黙だった。
当然だ。騒がすべき住民たちがいなければ音などたつわけがないのだ。
石灯籠にもたれかかって血を流す男性に少年は見覚えがあった。使用人の人間だ。
池に浮かぶ初老の女性には見覚えがある。自分の祖母だ。
道場に続く渡り廊下に上半身だけで転がっているのは少年の父に剣を教わっていた壮年の男性だ。下半身は見あたらない。
どれかに駆け寄ろうとか、泣き出そうとか、叫んでしまおうとか、そういう行動を少年はとらなかった。とれなかった、というべきか。
それは生存に支障をきたす。その一点の事実により身体はその行動をしなかった。本能に刻まれたそれよりもさらに深い、『生存する』という絶対的なものが縛り付けた。幼少時から身体に経験として叩き込まれたものは、このような異常な状況でも有効だった。
否、異常事態であるからこそ少年の経験は生かされた。そのように、少年は生きてきた。
それは少年の家系では、非情と罵られるものではなく、最善だと讃えられるものだ。
斃れる彼らが事切れていることは遠目でも確認できた。それで視線を外して少年は駆けだした。
石畳を蹴り、走る。土足で屋敷に上がり込む。廊下に血が溜まっている。人が斃れている。それが誰かを認識して、また走る。執着はしない。親戚の死体を見ても、心はそれ以上の動揺を少年に許してくれなかった。でも以前、心臓はばくばくと鼓動を刻む。精神が悲鳴をあげていた。経験は肉体に刻まれても、精神的にはこんな事態への備えはなかった。ただ身体は思考とは別のところで動いていた。
母屋から道場へと向かう。母屋の散策もせずに道場へと向かったのは、嫌な予感がしたからだ。いや、予感というよりも答えを脳内がはじき出したとでもいうべきか。
廊下には、先ほど外から見えた上半身だけの男性の死体。それを一足で乗り越える。少年は内心で無礼をわびた。謝罪は行動にはできない。
廊下の血の跡は道場へと続いている。
中に誰かいる。この男性が渡り廊下にいる時点で、中にいる人物は限られる。そして、この現象を引き起こしたモノを知っている少年は、その犯人がこの中にいることも予想できていた。
乾いていない血に足を取られぬように気をつけながら道場に踏む込む。
雑巾がけがされ、磨き上げられた板張りの床。常なら素足で上がり込むそこに土足で上がり込むこどへの不快感は、道場内に広がる光景により押し流された。
窓から差し込む月明かりを反射する床に、赤い血液が流れていた。
少年は無言で壁にかかった木刀を手に取る。武器の獲得。これでなんとかなるとは思わない。ただ最大効率を得るのみ。
道場には死体がひとつあった。仰向けになって斃れている和装の人物は、父だった。犯人が殺したいであろう重要人物のひとりであった。
父の前に、これもまた和装のモノがいた。矮躯に十二単をまとった、それは昨今滅多にお目にかからない服装の――少女だった。それも第二次性徴もまだ訪れていないほどの、だ。
分厚く重い、上質な布が幾重にも折り重なった和服を着た少女が、その上に串で編み込まれた頭髪を滑らせながら振り返る。美しい、年相応ではない妖艶な見惚れる造形の顔立ちには、紅い血化粧が施されていた。
鮮血に濡れた少女はそれ自体が背徳的な絵画のようで、初見であれば状況を忘れて見入っていただろう。
そして、死ぬ。外に転がる人々のように。
宝石という表現が陳腐と思えるほどの瞳が少年に向く。それは人を虜にする蠱惑的な視線だ。これを喩えられるものはなく、どちらかといえば、彼女の瞳に似ている、と喩えられる側の存在だ。
少年はそれに圧されながらも、木刀を青眼に構える姿は乱れない。刃のように研ぎ澄まされた、天性のものではない鍛え抜かれたがための鋭利さを持っていた。
少年は駆けた。
自分の父の首を持った少女に向けて――。
*
「――――――――――――――――――」
陵 千歳がまぶたを弾かれたような勢いで開いた。
最初に視界に入ったのは、質素な飾り気のない天井。シミもなく、色もなく、生活感のない無機質なもの。
肩で息をしている、そのことに気がついた千歳は、額に浮かんだ脂汗を腕を持ち上げて裾で拭う。
服は既に滝のような汗で濡れていた。
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Face-to-face.
人工島〈オキサリス〉襲撃事件から早一月。
ひとつの島を壊滅状態にまで追い込んだ騒動から、もうそれだけの時間が経過していた。
大量の難民が他の島に移住、または神国に移り住んでいた。〈オキサリス〉自体は運行を続けているが、もうそこには最低限の軍関係者しか残っていない。島の運行自体に問題はないが、復旧までの間、市民はそこにいない。寂れた廃墟と変わらない。もしかしたら、このまま廃棄されてしまう可能性もあるだろう。〈鬼獣〉の大量出現、まき散らされた死病の感染源。たとえ安全が保証されても、かつてのような活気を取り戻すかは疑問である。これが土地なら、まだ違うのだろう。だが、〈オキサリス〉は作り物、新しいものを建造したいという人間がいても不思議ではない。そもそもそちらの意見の方が活発であるかもしれないのだ。
あくまでも、廃棄説は妄想の域を出ていない。
それでも、陵 千歳にとっては先の暗い陰鬱な可能性であることに変わりなかった。
格納庫で〈天斬〉を見上げる千歳の横顔には、暗いものが指していた。
一月もの時間が経っていても、あの時のことを思い出して千歳は気を滅入らせる。もっと上手くできたのではないか、そういつも自分に向けて罵倒している。
それは最初のうちは反省にもなるだろう。しかしここまで来たらただ悪戯に自己の精神を痛めつけるだけだ。むしろ千歳としては、それを己が罪を断罪するかのように考えてやっているのだ。行きすぎた己への暴力。
それを助長するのは、目の前の巨人も原因だった。
準重機士級GA 〈LGGA-01 天斬〉。
蒼天の濃縮したような、鋼鉄の翼人。二十メートル、下手な建造物よりも長身の機体――得体の知れない、人類だけで魔に立ち向かうための剣。
いや、得体の知れないと不信感を抱いているのは、千歳ひとりか。この施設内においては。
これは人類の手しか触れていない、純真なる子供であり、むしろ式神の力を借りて稼働するブラックボックスを搭載した重機士よりも信用に足るものであるのだ。試作機故に不安定な稼働であっても、それは人間の思考と手の届く範疇である。それは表面上安定して動いていても介入しようのないものよりも心情面では安心できるはずだ。
一番の懸念になるであろう、〈オキサリス〉での怪しい挙動にも正当なる理由があったのだから。
千歳は一月前に、同乗者のレムリア・オルブライト少尉にいわれた時のことを思い出す。今と同じく、〈天斬〉を見つめていた頃――。
「――あれは、どういうことだ」
〈オキサリス〉から神国へ帰還し、輸送機から格納庫へと移送されていく〈天斬〉を眺めながら、千歳が開口一番でレムリアに言い放った言葉がそれだった。
ここまで黙っていたのは、言い出すタイミングが見つからなかったためであった。そして、千歳自身でもあの行動の意味を咀嚼していたからに他ならない。
結果、千歳は直接レムリアへと訊ねた。
ずっと千歳が気にしていたこととは、〈天斬〉の不可解な挙動のことに他ならない。
動力炉が停止して戦闘不能になっていたにも関わらず、戦闘中の突然の再起動。さらには高周波振動ナイフを素手で受け止め、へし折った挙げ句、〈防人〉を破壊する戦闘能力。いくら〈防人〉が準機士といえども、真っ向から拳だけで一瞬にして粉砕するなどGAの戦闘能力としては異常だ。少なくとも人類純正の機体でこんなことができた例など千歳は知らない。
なによりも、一度停止した動力が息を吹き返し、何倍もの出力を叩き出した事実も不可解である。
なにもかもが異質であり、それは千歳としては見過ごせないものだ。〈天斬〉のテストパイロットである千歳は、これからもこのGAに乗り続けなければいけない。
試作機のテスト用人員という名目だ、命が危険に晒されることくらいは予測済みであるし、軍人となった時から死は覚悟の上だ。だが、その機体に搭乗員の知らない機構があるとなれば別だ。不確かなものに乗せられ、分けもわからず死ぬのだけはごめんである。
不信感を隠しもしない千歳にレムリアはいい顔はせず、柳眉を寄せる。が、躊躇することなく返答を返した。
「どういうこともなにも、なにもおかしなことなどないけど」
「おかしくないだって? あれが、か」
「あれって、どれのこと?」
「とぼけるなよ。突然の再起動のこと、EVナイフを素手でへし折って〈防人〉を粉砕したこと、それらすべてだ。あんな仕様、俺は知らない」
あんなことが人類純正の機体にできるのか。それが千歳の疑問であった。そしてそれは人類純正の機体でなければ可能であることの裏返しである。それは、千歳にとって好ましくない答えを連想させた。
実は、レムリアは式神で〈天斬〉は重機士ではないのか――と。
だがレムリアの回答は記憶の中の台本を読むように、つまり急ごしらえの言い訳でなく、事前に知っていた知識を披露するよどみなさで動いた。
「再起動は予備バッテリーを作動させただけ。緊急用にコンデンサーに電力を蓄えていたの。二度目の停止はこのコンデンサーが想定外の負荷に耐えられずにショートしただけ。
その負荷っていうのが、貴方のやった掌部零距離ビーム砲ってやつを使ったから」
「それは……」
「使ったのはEVナイフを受け止める時。正確には高出力ビームで溶断したのね。それでそのままの勢いで〈防人〉を破壊、機能を停止させたわけ。……他に訊きたいことは?」
「なら、勝手に動作したのは何故だ?」
「私が動かしただけの話。複座の方にもパイロット機能は付属している。緊急用だけれど、短時間の操縦に支障はないの。……納得した?」
やれやれと、レムリアは覚えの悪い教え子に勉強をきかせる教師のように頭を振ったのだった。
そのときのレムリアの説明には、他に追求すべき部分が見あたらなかった。〈天斬〉はマシンパワーで遥に勝っているのだから、素人の乗った機体を撃破できるのは至極当然のことであるし、なんら不自然な点はない。予備バッテリーの話も嘘をついている様子はない。それにレムリアが嘘をついたとて、他の人間に訊けばわかる話だった。全員がグルでなければ、だが、その可能性は考えてにくかった。仮にそうだったとしても、そうなれば結局千歳には知ることはかなわぬのである。あり得ない、と思っていた方が精神の健康にもいいし、なにより現実的である。
結局あれは千歳ひとりの勘違いであったのだ。
整備員はいつも通り動き回っているのは変わらない。〈天斬〉の整備ハッチを開き内部の点検をしているもの、作務衣を汗とオイルで変色させながら関節部の整備をしているもの、彼らの働きになんら変化は感じなかった。いや、変化している部分もあるにはあるが、それは〈天斬〉の帰還時の修理とアサルトライフルの再設計など、千歳が起こした結果に対してのものである。
それらの責任者にも、変化は――
「いや、あるにはあったな」
と、千歳がため息をついて〈天斬〉から視線を外し、自分へと近づいてくる変化の主たちへと顔を向けた。
裾を油で汚し、本来なら純白であるだろう白衣をまだら模様へと変化させている眼鏡の男性。ひょろりとした長身痩躯の男は、床へ無造作に投げ出されたケーブル類に引っかかりもせずに、ご機嫌はステップを刻みながら千歳の方へとやってくる。
それとその後ろにいつものように追いすがるのは、こちらは汚れひとつない――というより汚したらうん十万と容易く請求が来そうな――深紅のドレスを着た令嬢だった。この機械油と鉄の立ちこめる、無骨で殺伐として雑然とする空間にはおよそ似つかわしくない姿である。その少女は今、白衣の男性とは対照的に肩を怒らせてなにごとか怒鳴っていた。その手には書類の束が握られている。
千歳は人知れず溜息を吐いた。それは最近の変化へのうんざりとした感情を込めていた。
やってくるふたりを歩人は知っている。特に少女の方はとてもよく知っているといっていい。
白衣の男性、オーバル・オレニコフ。〈天斬〉の開発責任者であり、かの機体にもっとも深く関わっている、つかみ所のない男である。
深紅の少女、皇ヶ院 雷華。神国だけでなく世界有数の資産家であり、巨大財団皇ヶ院財団を実質取り仕切り辣腕をふるっている、見目麗しきお嬢様だった。
この場においてのツートップ、それほどの権力者がふたり。特に雷華に至っては彼女よりも立場が上の人間の方を探すのが難しいほどで、その彼らが揃って千歳の元へと訪れていた。
もっとも、千歳のところへ来たくて来たのはオーバルだけであったが。
フレンドリーに手を挙げて、眼鏡のレンズの向こうの眼をオーバルは細める。
「やあ、陵くん。陵 千歳くん。ぐっもーにんえぶりわん」
「はあ、おはようございます」
その言葉は貴方の出身地の言葉であったかなー、などと無駄なことを考えながらも千歳は会釈をしたのだが、その間にもお構いなしに続けれているものがあった。
「ちょっと、オーバル!」
皇ヶ院 雷華の言葉であった。彼女は書類をオーバルに叩きつけながら、猫の目のような目をさらにきつくしてオーバルをにらんだ。
「これどういうことよ! あっきらかに予算オーヴァーじゃないの! 桁がひとつ増えそうじゃない。わたしは自分でいうのもなんだけど潤沢な資金をそちらに都合してるはずでしょう!?」
「あー、そうそうごめんごめん。足りなかった」
「ふざけんなこの陰険眼鏡ェー!」
烈火のごとく怒る雷華。感情を隠すこと自体は、生まれ育った環境からして得意であるのだが、どうにもそういう部分を通り越しているらしい。
ああも怒るのも仕方ない、と千歳は思う。この間雷華の持っている書類に目を通させてもらったのだが、危うく卒倒してしまいそうになるほどの数字がそこには並べられていた。思い出したくもない。千歳が百人いても生涯であれだけの金額をそろえることなど不可能であろう。下手をすると小国くらいは滅ぶ。それくらいのゼロの数だった。
しかもそれでも、まだ予定の範囲内の資金である。それをさらに上回る勢いで軍資金を使っていくのだから、このオーバルという人間の金遣いの荒さには恐怖どころか感嘆さえ覚える。
「それにしたって、これは異常でしょう……。だいたいこの火器の注文数はなによ。〈天斬〉ってそういう機体じゃなかったでしょう? これ、戦艦ひとつに搭載されてる火力と同等じゃないの。基本コンセプトの白兵戦はどこにいったのよ」
「それは、ほら、ここにあるじゃないか。マッスルベアリングの素材に、それ用の大型アクチュエーターに、あと特注の超巨大研磨機……」
「これだけなら予算内に収まるじゃない、ぎりぎり。この火器はなんだって訊いてるのよ」
「えっ、趣味」
「息の根を断ってやる」
「お、落ち着け雷華」と本気で殴りかかろうと拳を握った雷華を羽交い締めにして押しとどめる。
「雷華、どーどーどー」
「わたしは馬か! ああっ、もう」
拳を解いた雷華を千歳は離す。まだ苛立ちは収まっていないようであったが、今すぐにオーバルに殴りかかるということはなさそうだった。
特徴的なツーテールを頭と一緒に振って、感情を切り替えて溜飲をなんとか下したらしい。オーバルの奇行は今に始まったわけではないのだから、そのひとつひとつに気を張っていては身体が持たない。主に胃が、だが。
当の本人であるオーバルは全く反省の色はなく、喉を鳴らして笑い、愉快げな様子だった。
「いやあ、仕方がないじゃあないか。インスピレーションとかが、こう、爆発しちゃってね。特に今回はそこの陵 千歳くんのお陰で次の改善点と強化策を思いついたんだ。これがやらずにはいられないよ」
「でも火器は趣味なんでしょう?」
「うん」
「……………………」
「抑えろ、雷華」
背中からなにか黒いオーラのようなものを無言でにじませる雷華に、さすがの千歳も一歩引きながらも制止させた。
昔はこんなに殺意的なものを見せなかったのだけど、時は無情なり。こうも簡単に人を変えてしまうものか。と千歳は少しだけ嘆いた。単にオーバルが人を食ったような態度をするから、というのも充分考えれるが。いや、九分九厘これが原因ではないのだろうか。
ふう、とオーバルはあきれたように肩をすかす。
「やれやれ、そんな様子でいるのは精神衛生上よろしくないよ」
「だ、誰のせいだこの……っ」
「それなら千歳くんとどこかに遊びにでもいけばいいんじゃないかい? レムリアに訊いているよー、前回は出撃のせいでつぶれてしまったんだろう? どうせ、今の千歳くんはいてもいなくても同じようなものだしね。
今、〈天斬〉は改修中で動かすことが出来ないから」
「オーバル……アンタまさか、千歳にわたしとの時間を作るために、こんな改造を……」
「ははは。そう思ってもらったら御の字なだけの趣味」
「ねえ、千歳。こいつ消していいよね?」
「やめておけ」
漫才を見せられているようで、千歳はもう止める気すらなくなっていた。
ただまあ、前回の埋め合わせ的な意味では、オーバルの提案は好ましかった。確かにここで〈天斬〉を見上げて物思いにふけっていてもなにもならないし、ただ整備の人間の邪魔をするだけだ。それなら、遅れてしまったが雷華と一日を過ごすのも悪くはない。
「ああ。開発主任のやっていることはどうあれ、いっていることには一理ある。雷華、時間があるなら一緒に外へ出ないか?」
「へっ?」
思いがけない言葉に雷華が間抜けな声を出した。この手のことを、基本的にストイックな千歳の方から切り出すのは珍しいので、少し信じられないものでも見るような顔になった。千歳を見上げて、同意しかけ――とめた。
「ああ、でもなあ。いや、いける、かな。そんなに仕事ないだろうし、今日は。任せられる人間もいるし……。でもまだ残ってるかなあ」
「なんだ、雷華に時間がないなら無理にとはいわない。また次の機会でもいいだろう」
「ダメ、それじゃあ今度は何ヶ月後になることやら。機は逃さないようにしないと」
むー、と顎に手を当ててかわいらしくうめいた後、「よしっ」と頷いた。
「うん、行こう。こっちもなんとかなる。あ、でもただ……。千歳、この書類を基地の方にいる司令官殿に渡してきてくれないかしら。これは軍の方でも負担しているものだから、あっちにも渡しておかなきゃいけないの」
「ああ、それくらいならおやすいご用だ」
そう頷いて、千歳は雷華から分厚い書類を受け取ると懐にしまうと、早速基地の方に向かうことにした。
千歳の所属する部隊は、ここ帝都に構えられている基地内に存在する。といっても、同じ敷地内にあるというだけで施設はすべて独立しているし、雷華やオーバルなどの代表者は別だろうが、千歳のようなパイロットはこちらに足を踏み入れる機会はあまりない。
〈天斬〉を運用する神国軍特殊汎用装甲試験機動部隊は特殊である。その成り立ち方には、千歳も未だに居心地の悪さを拭うことはできていない。
だから、同じ国の人間であり、便宜上の所属が同一の人間からいらぬ敵意を向けられても、軍人としてやってきた千歳はそれを仕方ないと諦めていた。
まるでアウェイに足を踏み入れたような所在のない空気。
それを作り出しているもののひとつは、千歳自身に向けられた敵意のこもった視線だった。
隠す気もない、いやそもそも隠す類ものではなく、当人にぶつけなければ気が済まないのだろう、敵意は無視するには少々圧力が強すぎた。殺意というものが感じない、純然たる敵意のみなのが不幸中の幸いだった。
千歳の進む通路の先、ふたりの男の二人組がいる。
ひとりはドレッドヘアの黒人だ。茶褐色の肌で、いかにも軍人という風体の屈強な身体付きをしている。背も千歳より頭ひとつは高いだろうか。百八十センチは優に超えている。身体はプロボクサーのように引き締まっており、軍人として全体的に恵まれている肉体だった。千歳とそう年齢が違うようには見えないが、出撃経験はなかなかに豊富らしく、顔つきは精悍で、立ち姿にもそつがない。
だがそんな偉丈夫の表情も、今は眉根が下げられてどこか間の抜けたものになっていた。呆れるような視線の先は、自分の傍らにいるもうひとりの青年に向いていた。
栗色の頭髪を外側にはねさせた青年だった。彼は通路の壁に腕を組んで寄りかかっている。神国の血が濃く現れているのか、もしかしたら千歳と同じ純神国人なのかもしれない。青年の顔の彫りは隣の黒人ほど深くない。黒人の軍人ほど身体が大きいわけではなかったが、身体もしっかりと鍛えられている。
千歳を睨んでいる問題の人間は、こちらの青年だった。
殴りかかってきそうな様子はない。その辺りは自重しているのだろう。だが刺すような視線は相変わらずで、千歳の頬に突き刺さった。
「……人工島にいただけの少尉がいきなり神国に帰ってきたうえ、テスト機のパイロットとは良いご身分だな」
仏頂面で栗色の髪の青年が千歳に言葉を投げた。そこに友好的な色など微塵もない。皮肉るようなものだけだった。
「…………」
千歳は青年と目を合わせる。自分と似た色彩の双眸がじっとこちらを見返してきた。
返答するよりも、黒人が青年を咎める方が早かった。
「おいおい、真二。やめておけよ」
「るっせぇ、黙ってろジャック」
「男の嫉妬は醜いだけだぞ」
「誰が嫉妬なんか……くそっ」
毒づいて、栗毛の青年は踵を返して足早にその場を立ち去っていった。
黒人の軍人がしょうがない、と肩をすくめて彼を見送ると、千歳に向き直った。
「いや、すまんな。あーっと、アンタは……」
「……千歳。陵 千歳だ」
「そうか、陵少尉。おれはジャック・モルダー=ブラウン少尉だ。ブラウンでもジャックでも好きなように呼んでくれ。
……真二、ああ、さっきここにいた軍人のことなんだが、あいつを悪いように思わんでくれ。あれもあれで、少しばかり気が立っていただけなんだ」
巨体に似合わず、申し訳なさそうな表情で、千歳にそう頼んできた。
千歳とて不快と思いはしたが、それはさほど強い感情ではなかった。同僚が頭を下げてくるのなら、容易く許してしまう程度の些細な問題だ。
「いや、いい。気にしていない。ここに来て、慣れているからな」
「そうかい。辛いね、少尉も。おれたちは任務内容も違うからな、いつそうなるかはわからないが、もしまた会ったらよろしく頼むよ」
口の端を軽くあげて陽気に笑むと、その軍人は手を挙げて別れを告げると、消えていった同僚を追っていった。
それを途中まで見送って、千歳は手の中にある資料に目を落とした。
軽く息をひとつ吐くと、視線を前に戻す。
早く、これを届けてしまおう。またトラブルに遭うのはごめんだった。
去年の七月頃に最後の更新をした記憶があるので、かなりのご無沙汰です。よろしくお願いします。