9:風を望むイカロス
〈天斬〉は戦場を駆け抜ける。
二足の鋼鉄の足が地を蹴り、疾走。柔軟な関節の素材により、本物の人間であるかのようなしなやかでアクティブな動き。
時速に換算して三〇〇キロ以上で障害物のない直線を走る。が、〈天斬〉は突如機動を変更した。踵をストッパーとしながらスラスターを同時に点火し、ほぼ直角に真横へ跳んだ。慣性モーメントをある程度支配下に置いたからこそできる無理矢理な動きは、〈天斬〉を間一髪で救った。先程まで〈天斬〉のいた空間を無数の弾丸が射抜き、地面を蜂の巣にする。反応が遅れていれば〈天斬〉は戦闘不能に陥っただろう。
パイロット――陵千歳は弾丸が放たれた先に〈天斬〉に保持させたアサルトライフルの銃口を向けた。八六ミリ口径のアサルトライフルは一般規格から外れた準重機士用の大口径銃器である。その威力は、機士では反動を抑えきれず満足に扱えないほどだ。
照準、同時に発砲。
目標、命中し沈黙。
「……次」
六発も集中して命中させればこの敵は撃破できる。事実、今もできた。
頭上から複座のレムリアが淡々と告げる。それに焦りも緊張もなく、パイロットを急かさない優秀な指示だった。
「四時の方向に敵機、五機出現」
今まで隠れていたらしい敵対象が障害物から飛び出す。それを千歳は目/センサで目視、ライフルを向けた。
タイプライターを撃つなどという軽快な音ではなく、和太鼓を叩くような銃声をあげてライフルは火を噴く。敵を薙ぎ斃し、〈天斬〉を狙う弾丸は高速機動により難なく回避する。それは機士級や準機士級を上回る巨駆を感じさせない俊敏な機動だった。
残り二体。そこで千歳の経験が危機を察知する。今千歳は目の前の敵に釘付けにされていた。いくら〈天斬〉が動き回っていたとしても、それは敵の弾丸を躱す最低限のものであり、第三者からしてみれば動きを予想することは不可能ではない。
それを悟った千歳は即座に〈天斬〉の回避運動に変化を加えた。自分の背部に意識を向け、そこに本来ならあるはずのないものを動かすよう力を入れる。すると〈天斬〉のメインブースターが稼働した。
急激な加速、それは千歳が想定した第三者には予想外の動きだった。
どこかに潜んでいたスナイパーが発砲した弾丸は、〈天斬〉にかすることすらできなかった。
その回避運動の際、残った敵の真横をとった千歳はアサルトライフルで射撃。全機無力化が完了する。
「発射位置逆探知、八時の方向」
千歳は空になった弾倉を排出、腰部ウェポンラックに収納されている次の弾倉を装填するまで一秒とかからない。
敵機の位置をカメラで捕捉、狙える距離。
銃口を敵がいる場所に向けて構えた。敵も狙撃銃を〈天斬〉に向けている。相手の次弾が早いか、こちらの攻撃が早いか。
――発射、
直撃したのは、はたして敵だけだった。狙撃してきた敵の弾丸は〈天斬〉のすぐそばの障害物に命中し、フルオートで撒き散らされたアサルトライフルの凶弾は敵を撃破する。
そうして、敵はいなくなった。
前方モニターには、MissionCompleteの字が浮かぶ。それを確認して、千歳は操縦桿から手を離した。
レムリアがモニターの文字を抹消し、通信機をオンにして報告する。
「動作テスト完了、これより帰投します」
ランダムに配置された障害物には模擬戦闘用のペイント弾が付着し、薄っぺらい人型のターゲットは実弾で穴だらけにされ斃れていた。
*
陵千歳がこの試作機の運用チームに所属してから、もう五日が経過していた。
主な任務は、機体の動作テストだ。〈天斬〉の限界を計測するため、様々な訓練に駆り出されている。二脚による移動速度、関節への負担、飛行実験、エトセトラ。試作段階の機体には、机上ではなく現実で運用し確かめなければならない項目が多々あった。今回の模擬戦闘もそれの一環である。
無茶な機動で機体のどこが最も負担を受け、そしてどれほど耐えられるのか。特注品のアサルトライフルの動作も確かめるため、標的は模擬弾でありながらこちらだけ実弾を使用していた。相手は固定砲台で、無論パイロットはいない。
こうやって〈天斬〉の性能実験をおこなっていると、いかにこの機体が未完成品であるか千歳は実感させられる。〈天斬〉で対人戦をしたことは、今更ながら酷く無謀に思えた。万が一戦闘中に誤作動でも起こされれば終わっていた。テスト中にも致命的な動作不良は起こしていないが、やはり安定感や信頼性は既存の兵器が遥かに上回っている。
格納庫で〈天斬〉から降りてヘルメットを外し、レムリアと千歳はオーバル・オレニコフに報告に向かった。同じ格納庫内の端末前に目的の人間はいた。
「やあ、君達。模擬戦闘の調子はどうだったかなあ?」
オーバルは〈天斬〉とその関連武装の設計、開発を一手に引き受けている開発主任だ。白衣を羽織った奇妙な形の彼は、こちらの業界では結構名が知られているらしい。〈天斬〉の基本構造や高出力の動力炉などを制作していることから、その優秀さがわかった。飄々として掴みどころのない彼は間違いなく天才に分類される変人なのである。
千歳はいつもと同じく模擬戦闘によって気づいた問題点を指摘していく。それがテストパイロットである千歳の任務だった。
「あのアサルトライフルですが、威力はあっても反動がキツいですね。慣性制御と機体のパワーで抑え込めますが、照準がそれでも少々ぶれやすいです。冷却機構も、機能改善をしてもらいたい。銃身に熱が籠もり易いので」
薬莢をオミットしたケースレス弾を使用したアサルトライフルは、籠もった熱により弾薬が爆発する可能性がある。そのため、冷却に時間をとられて連射にいささか難があった。
「はいわかった。ライフルには改善する余地がありそうだ。じゃあ次はレムリア、〈天斬〉の動力炉の調子だけど――」
次はレムリアの報告を訊き始めたオーバルから離れ、千歳はテーブルに置かれたクーラーボックスの中で氷に囲まれて冷やされたスポーツ飲料水を手に取った。ストローに口を付けて渇いた喉を潤す。冷えた液体が身体をクールダウンさせ、水分が浸透していく感じが心地よかった。
格納庫は〈天斬〉一機しかおらず、模擬戦闘以外の出撃がないため作業員の動きには余裕がある。しかし、オーバルがレムリアから話を訊き終われば、また騒がしくなるのだろう。機体の性能向上に尽力する彼らの姿には常々頭が下がる思いだ。
千歳が〈天斬〉で使用していたアサルトライフルが地上に降ろされ、数人の作業員が点検をしている。大きさの対比で、人間がまるで小人のようだった。弾倉を作業用機械で引き抜いているのを眺めていると、背後から肩を叩かれた。振り返ると、頬を人差し指で突かれる。
「……こんな古典的な悪戯に引っかかるとは思わなかった」
「俺は軍の敷地でこんな懐かしいことをされるとは思わなかったよ」
人差し指を突き出している彼女に、千歳は呆れを滲ませる。いつの間にかオーバルとの話を終わらせたレムリアが背後に立っていた。
えらく懐かしい行為をしたレムリアが手を離して、自分もスポーツ飲料水を手にする。彼女の後頭部ではGA搭乗のためポニーテールにした頭髪が金色の光を反射しながら扇状に広がり、尻尾というより翅かなにかのように揺れていた。
「調子はどう?」
「まずまず、かな。なんとか〈天斬〉にも慣れてきた」
最初の内はぎこちなかった〈天斬〉の操縦も、今ではスムーズになっている。一々オーバーリアクションだった動きもなんとか矯正できていた。五日前より動きは遥かに向上しているはずだ。
「そう。なら、いい」
「……どうかしたのか?」
基本的に淡々とした口調のレムリアであるが、発言にはいつも覇気がある。なので、今の彼女の様子をおかしく感じた。離れた所から話しかけられたように彼女の言葉から距離感を感じる。
気遣う千歳を、レムリアは琥珀色の目で見上げる。その目には千歳を探るような雰囲気があった。
ぽつり、とレムリアはつぶやく。
「貴方が何者なのか、気になってた」
「何者かって、俺は俺だぞ。まさか偽物だとでも?」
「その下手な誤魔化し方は間違いなく本物、わざわざ確認する必要はない。いいたいことはわかるでしょ」
「……なんのことだか」
千歳の対応にレムリアの反応は悪かった。顔をしかめて、彼女はいい連ねる。
「貴方の操縦技術には目を瞠るものがある。それはテストパイロットとして皇ヶ院に選抜されたのだから当然の実力ともいえるかもしれない。だからそれはいい。でも、〈天斬〉との高い順応能力だけは説明できない」
「五日もあったんだぞ? そりゃ、乗れるようにもなるさ」
「乗用車のドライバーがレーシングカーを乗りこなせるわけがない」
いつも乗っている乗用車の倍以上の速度が出るものに乗れば、当然操りきれるわけがない。ハンドルを切り損ない壁に激突するのが落ちだ。それなのに千歳はたった五日でものにし始めている。しかも、GAは操縦方法からして人間の身体の延長線上にあるといっても過言ではない。今までの機体とのスペック差による齟齬はそう簡単に拭えるものではなかった。機士に乗っていた人間が重機士を与えられても、それを乗りこなすには訓練を必要とする。五日以上の訓練は少なくとも必須であるといっていい。
「貴方は身につけようとしているのではなく……そう、まるで思い出そうとしているような……」
「そんな訳があるか」と千歳はレムリアの発言を遮って笑った。「俺は準機士と機士にしか乗ったことはない。経歴を調べてもらえばわかるだろう。ただの少尉が重機士のような貴重な機体を賜れるわけがない」
そういわれて、レムリアは口をつぐんだ。自分でもその言葉が有り得ないことだと理解しているのだろう。重機士の生産数はそれほどまでに稀少である。
それに、と千歳は駄目押しの一言を口にした。
「俺は重機士とか、それに式神と一緒に乗らなきゃいけないのが、あまり好きじゃないんだ」
そういうと、レムリアの持っていたスポーツドリンクを収めたボトルがひとつ、宙を舞った。千歳の目がそれを追いレムリアから逸らされる。
――そこへ彼女の右ストレートが飛んできた。
プロボクサーもかくやという大気を引き裂く拳は千歳の顔面に吸い込まれるように打ち出され、
それを千歳はギリギリで受け止めた。レムリアの拳を掴んで止めた手がピリピリと痺れていて、それが彼女のパンチの威力を物語っている。
「いきなりなにするんだ、危ないだろっ」
さすがに千歳も声を大きくした。こんなの受け損なっていたら、下手をすると骨くらい折れている。無事な様子の千歳にレムリアはあからさまに不満げな顔をした。
無言で腕を引き、地面に転げたスポーツドリンクを拾い上げると、飲み干して空になっていたらしいボトルをテーブルに置いた。
「今みたいのを簡単に受け止めるような人間が、ただの軍人とは思えないけど」
「あんなパンチができる女もただの軍人とは思えないんだが。それより殴った理由をいえ」
ふんっ、と鼻を鳴らしてレムリアは千歳に背を向ける。
「腹が立ったから。色々と。……私も人のこといえないけど」
「あ、おい!」
レムリアは振り返らずに、早足で格納庫から出ていってしまった。彼女に伸ばした千歳の手が行き場をなくして宙をさ迷った。
明らかに怒っていたレムリアに、千歳は短髪の頭を掻いた。やはり素性を偽るのはいけない。信用がなくなる。ましてやそんな人間に命を預けることになるレムリアの立場からすれば堪ったものではない。
陰鬱に息を吐いて、ストローを銜えて中身を嚥下する。
――雷華の方から、フォローを入れてもらうしかないな。
また人に頼らなければならないことを情けなく思いつつ、自分も何らかの言い訳を用意しておこうと思った。
「どうやら、彼女を怒らせてしまったようだねえ。怖いよー、レムリアを怒らせると」
いつの間にかやってきていたオーバルがにやにやとからかう笑みを浮かべていた。細長い手足を白衣で包んだ男の目は、眼鏡のレンズ越しに愉快そうに細められていた。
「見てたんですか」
「ああ、面白いものを見させてもらったよ」
悪びれずに首肯するオーバルに、千歳は腹を立てる気にもなれずに脱力した。
「どうせなら昔のことを話しちゃえばよかったんじゃないのぉ? 隠すことでもないだろう、三年前のこととかさ」
「――――――!」
その言葉に驚愕して目を見開いた。いつの間にかオーバルが身を屈めて千歳の表情を窺っていた。常に口元に張り付けた笑みのせいで、千歳はオーバルが得体の知れない化け物に見えた。心の中を覗き見てくる悪魔のようで。
「三年前の士官学校襲撃事件、唯一の生存者にして最後の卒業者――陵千歳くん。他にも、そうだなあ。陵家のこととか」
「……なんで知っているんです?」
三年前の事件の生存者名は皇ヶ院による圧力によって報道規制をしかれていたはずだし、陵家のことは一般人の耳に入ることはない。由緒ある名家という認識が精々のはずだ。なのに、この男は総てを知っている。
別に知られているからといって、オーバルをどうこうしようとは思わない。しかし、厳重な情報規制の中で千歳のことをピンポイントに調べ上げ、そして調べようと考えたオーバルのことは油断できなかった。
剣呑とした千歳の視線を受けてもオーバルはどこ吹く風だ。
「僕の師匠がそういうことに詳しくてね。いや興味深い。油圧式のアクチュエーターを使った旧式であの地獄を乗り切るなんてね。人工筋肉の関節と比べてずっと追従性は劣っているだろうに。それは高度な操縦技術と判断能力がないと不可能だ。それを可能とする君の能力には興味があるね」
いったい、どこまで知っているのか。
不気味。
限られた人しか知らぬことをこうも詳細に語れる技術者、そしてそれをオーバルに伝えた『師匠』こそ何者なのだと問いたい。
千歳は息を呑む。〈天斬〉も得体が知れないが、その開発主任であるオーバルも底が知れなかった。
水の中にいるような重い空気の中、千歳が言葉に詰まっていると、唐突にその雰囲気を壊すものがあった。
「あ、千歳ーっ」
皇ヶ院雷華の鈴を転がすような声で、硬化していた空気が取り払われた。千歳がそちらを向くと雷華は手を振るも、すぐに周囲の視線を気にしてかそれを引っ込めて咳払いをすると、ブーツをつかつかと鳴らしてやってきた。
「さっきレムリアが不機嫌そうに歩いていったけど……なんか変なことしたの?」
「してない……とはいえないけど」
原因は千歳自身のことであるだろうし間違いではないだろうが、その発言になにを想像したのか雷華は汚いものでも見るように一歩引いた。
「あ、あんたはいったい女になにを……」
「そういう誤解のしかたはやめろ!」
自分に非があっても、誤解で軽蔑されてはあんまりである。
騒がしいふたりを見てオーバルが喉を鳴らして笑った。
「どうやら僕は邪魔らしいから退散しようかな」
立ち去ろうとするオーバルを千歳は慌てて引き止めようとする。
「話はまだ終わって……」
「終わったよ、もうね。詳しく知りたいなら皇ヶ院のお嬢さんに訊くといい」
「お嬢さんは止めてよ」という雷華の台詞を背中に受けながら、オーバルは千歳達の下からさっさと退散する。上手く逃げられてしまった。
雷華が千歳を見上げて、オーバルにいわれた言葉の意味を訊ねた。
「で、どうしたのよ。私に訊けとかいってたけど」
「……俺の昔のことだよ」
それで雷華は理解したようで、納得がいったと頷いた。
「ああ、大方あの眼鏡が知ってたから驚いてるんでしょう? いっておくけど、私が話したわけじゃないわよ。オーバルの師匠がお父様の旧友なのよ。それに色々と優秀でね、そういう事件にも詳しいのよ」
「……なるほど」
「あんなのでも口は堅いし、言いふらすことはないから安心しなさい」
雷華は幼い頃から色々な経験を積んでいるため、年齢に似合わぬ様々な技能を修得していた。人と接する機会も多く、大富豪の娘となれば取り入ろうとする人間も数え切れぬほどにいる。おまけに人間不信であった彼女は、自然と人を見る目を磨き上げていた。そんな彼女の慧眼は信用に値する。謎を解明できて、千歳はひとまず安心する。オーバルが苦手なのは、変わらなそうであるが。
「それで、雷華もなにか用があったんじゃないのか?」
千歳が訊ねると、雷華の頬に朱色が混じった。目を逸らし気味にして、わずかに声を上擦らせる。
「え、えっとね。その、千歳、この後は暇でしょ?」
「一応、時間は空いているが……なんで知ってるんだよ」
「そりゃ、あんたのスケジュールくらい全部頭に入ってるわよ」
さらりと凄いこといっていないか、この娘は。
当然のように浮かぶであろう疑問は彼女の中には現れなかったのか、歯牙にもかけない。
「でさ、この後一緒に街の方にでかけない? 最近働き詰めじゃない」
「気持ちは嬉しいけど、俺は軍人で今もまだ勤務時間中なわけだが」
「あんたには出撃命令とか出ないから、することないわよ? 私達は軍の敷地を借りているだけたから、基地の組織とは別物だし。整備とかメンテナンスは試作機なこともあるから全部整備士がやっちゃうしね」
確かにこの5日間、模擬戦闘以外で千歳の手が必要になったことはない。他にやったことといえば、資材搬入を手伝ったりしたことくらいだ。
「とはいわれてもなあ……。だいたいお前の仕事はどうしたんだ?」
「すませたわよ、ちゃんとね」
「しかしだな……」
決めかねている千歳に、雷華はぽそりと洩らす。
「……こっちは苦労して時間作ってんだから、察してよね」
「ん、何かいったか?」
「別に! じゃあスポンサー命令よ、とっとと着いてきなさい」
「んな、無茶な……」
と千歳が呆れた。が、どうやら抵抗はさせてくれないようで、雷華に腕を掴まれる。多分、千歳が首を縦に振らないと離してくれないだろう。一度いいだしたら、なかなか曲げないのだ、この娘は。
ただ、千歳としてもこの申し出が嫌なわけではない。むしろ好ましい。最近休日もなかったことだし、息抜きをしたいという気持ちがないわけではない。
だが一応は勤務時間中に周りの働く人間を尻目に外出をするのははばかられた。かといって雷華の機嫌を損ねてしまうのも心苦しい。今まで構わなかったことに対する負い目もある。
千歳が判断を迷っていると、突然警報が慌ただしく鳴った。格納庫内ではなく、外の基地の方からだ。
「早速、出撃命令、みたいだな」
「そうみたい。なにがあったのかしら」
耳を澄ませると、スピーカーから音声がした。基地内の人間に命令を伝えている。
その内容を理解して、千歳の背筋が凍った。
『現在、人工島K━3〈オキサリス〉が〈鬼獣〉の大群に襲撃を受けている。GA部隊は大至急発進せよ! 繰り返す――』
オキサリスが、〈鬼獣〉に?
それ自体は、おかしいことではない。〈鬼獣〉は神出鬼没な人類の敵である。世界各地どこにでも現れる異形の化け物。天空に浮かぶ島であるオキサリスが襲われても、なんら不思議はなかった。いや、そんな場所にあのような化け物がどうやって出現するのかは疑問に思わなければならない事柄だが、とにかく出てくるものは仕方ない。
〈鬼獣〉は、千歳がいた時からオキサリスを度々襲撃していた。たがそれは、オキサリス有する軍で対処することができた。問題は、救援要請をしなければならぬほどの物量の〈鬼獣〉に襲われてしまっているということだ。人工島の保有する軍は、けして小さくはない。島の規模を考えれば妥当な戦力を持っているし、持っていなければ島には神国の部隊が駐留することになっている。
それを押すほどの、敵。
三年間を過ごしてきた人工島の危機を知り、千歳の胸が騒いだ。
千歳が生活していた場所だと雷華も知っているのか、表情から笑顔が消え、千歳の表情を窺う。
「……そんなに、心配?」
隠す意味もなく、千歳はおとなしく肯定した。いや、そもそもそんな余裕すら喪っていたのかもしれない。千歳の意識は完全に島のことに奪われていた。
今すぐ駆けつけたいという思いがこみ上げる。ついこの間までのように、ゲラートの部隊で指揮を受けながら共に戦いたかった。
「だけど、俺ひとりじゃどうにもならない」
自己否定。
もし自分が基地の部隊に〈防人〉や〈切人〉で同行させてもらったとして、どうなる。たかだか一機戦力が増えても、オキサリスの危機が去るわけがない。個人の力で大局を変えるなど、できようものか。できるとしても自分のような負け犬ではなく、将来英雄と呼ばれるような人間だけがなし得る行為だ。
オーバルの言葉が蘇る。士官学校唯一の生存者にして最後の卒業者。あらかじめ大量の〈鬼獣〉が現れるのを千歳は知っていた。なのに、助かった命は結局千歳ひとりだけだ。誰一人として助けることができなかった。そんな弱い人間が、英雄になれる素質を持つ人間であろうわけがない。行ったとしても、人は助けられず、救われるのは自分は戦ったという達成感を抱ける己だけだ。
結論として、陵千歳は騒がしく出撃準備を進める彼らを見送ることしかできなかった。傍観者に徹し、舞台の脇役になり、主役を応援する。けして主役を目指そうとしてはならない。資格なき者が卑しくその座を手に入れようとしても、他者を巻き沿いにして蹴落とされるだけなのだから。
――ああ、変わってない。三年前から自分は一歩も成長していない。
それも罪であるかのように。人の未来を奪った人間の罰であるかのように。誰かに励まされたとして、慰められたとして、叱咤されたとしても、変わっていなかった。
「……俺やレムリアに出撃命令はないんだろう? 俺は報告を待つだけだ。大丈夫、増援も向かってる。すぐに吉報が届くさ」
自分自身にいい聞かせるように、とはまさしくこのことだ。押し殺せない不安を、必死に無視している。それが、自分の最善であると信じて。
千歳は外に背を向ける。手にしたままだったボトルをテーブルに置こうとして、
「そうやって、また逃げる」
手を滑らせて地面に落とした。
かつん、と音を立ててボトルが転がった。コンクリートの床にストローから垂れた滴が涙の跡のような刻印を刻んだ。
――逃げる? 誰が? 俺か? そう、俺だ。紛れもなく、俺だ。しかし、これが最善ではないのか。こんな人間が関わって、事態が好転するわけないじゃないか。
脳内に渦巻く感情。気を抜けば、斃れてしまいそうなほどの目眩がやってきた。
「あんたが見たものをわたしだって見た。ショックはあんたの方が大きいことくらい、わたしにもわかる。だけど、そんな風に立ち止まっていてもあんたの問題はなにも解決しない!」
「ならどうすればいい!」それは怒りであり、答えを懇願する慟哭であった。「俺になにをしろというんだ! ちっぽけな個人に、なにも護れなかった俺に、お前に失望されるような俺に!」
「いつ誰が、失望したなんていったのよ」雷華は吊り目がちな自分の目で千歳を見つめていた。「あんたは今でもわたしのヒーローよ」
「そんな資格、俺にはない」
「決めるのはあんたじゃない、わたしなのよ。そうやって、いつまで殻に閉じこもってるの。懺悔のつもり? それこそ自己満足じゃない!」
ハンマーで頭を叩かれた心地だった。言い返せない。雷華の台詞が、千歳の真理に手をかける。
なにかいわなければならない。そう突き動かされて出たのは、千歳自身情けないとしか思えない言い訳だった。
「俺には、無理だ。もし、お前が思うヒーローみたいに飛び出しても、そんな力はないんだよ……」
「なら、あんたに翼をあげるわ。それこそ、ヒーローみたいに格好良いね」
雷華は格納庫にあるそれを指差した。
蒼い機体、巨駆、はちきれんばかりの力の塊。
――〈天斬〉。
「行ってきなさいよ。あんたの問題にケリがつくわけでも、簡単に解決できるわけでもないんでしょうよ。でもね、今抱えているもどかしさはなくなるわ。絶対ね」
〈天斬〉の双眸は、じっと千歳を見返していた。蒼の巨人は動かない。喋らない。だから、その目で意志を伝えていた。
――行かないのか? 陵千歳。
巨人は、解放される時を待ち望んでいた。
そうして、千歳はひとつの選択をする。自分の心を乗り越えるための、大事な一歩を踏み出すための、選択を。